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2006年5月31日 (水)

中村雄二郎・木村 敏 監修『講座生命 2004 vol.7』(河合文化教育研究所刊・04.12.10)

 あらゆる学を横断させるかたちで、「生命論」を主題とした論稿集を一九九七年に発刊して、ほぼ二年ぶりの第七巻が、本書だ。
 とくに、哲学と精神病理学を交錯させて、臨床哲学という知の領域を開示しようという木村敏たちの試みは、本巻でもまた刺激に満ちた論稿を提出している。
 本書の構成は、前巻と同じだ。「河合臨床哲学シンポジウム」(今回が第三回、「交錯する自己―ブランケンブルク追悼記念」と題されて二〇〇三年六月二八日に開催された)の演題を基にした論稿を特集として前半部に配置し、後半部は、「メルロ=ポンティにおける現象学と精神分析の交錯」をめぐる加國尚志の「肉と渦動」、神経生理学者ベンジャミン・リベットについて考察した深尾憲二朗の「自己・意図・意識」、臓器移植をめぐる意欲的な思考を提示した林晶子の「投げ出されるからだ」、そして、今井弘道の「三木清の『世界主義の哲学』の思想史的意義」の諸論稿が収録されている。このなかで、わたしの関心が強く向いていったのは、今井の論稿だ。私事を述べれば、最近、京都学派たちの東條内閣への関わりを示す諸文献を読む機会があった。そこで、西田幾多郎の『日本文化の問題』(一九四〇)から、大東亜共栄圏的思想へと流れ込んでいくプロセスを確認して、ある了解性をもったといっていい。今井は、三木清のスタンスを西田や田辺との差異に求めているように思う。「情況」誌最新号の論稿でも、三木の「世界主義の哲学」に表徴されるような東亜共同体的思考を再評価すべきだという主意だったような気がする。
 本論稿での今井は、「帝国主義と国家主権の理念を否定する『東西文化の融合もしくは統一の理念』」(294P)とか、「三木の個々の国家を超えた『「東洋」の形成』という言葉に含意されている『形』が、従来の『国家』という『形』を否定するものである」(321P)と定義づけているが、わたしにはどうしても、三木の哲学構想力に裏付けされていく東亜共同体的思考は、国家性を逸脱する概念を内包しているようにはどうしても思えないのだ。視角を変えれば、反西欧観は、大アジア主義にそのまま収斂していく道筋しかないように思える。わたしなら、超国家的思考はむしろ権藤成卿や北一輝の方が遥かに深遠さをはらんでいると見たいのだが。
 特集は、「自己―視点の交錯の中で」。内海健、河本英夫、谷徹、木村敏らが執筆している。なかでも、特集に収められた木村敏の「一人称の精神病理学へ向けて」の論稿と、特集と後半部の諸論稿を連結しているかたちで収載されている木村敏・谷徹・斎藤慶典の鼎談「アクチュアリティとヴァーチュアリティの関係をめぐって」は、多くの刺激的な問題を内在していて、わたしは、おおいに啓発されたといっていい。
 木村の論稿は、これまでの批判を受けるかたちで提示したものだ。統合失調症の患者との対の医療の現場からの思索的発信が、その骨子となる。自らの立ち位置を、木村は次のように述べる。
 「現象学的精神病理学は、薬物その他の身体療法をあくまで副次的で暫定的な対症療法と位置づけて、患者の人間存在、自己存在そのものの病理を問題にしようとする。」(125P)
 さらに、鼎談者でもある斎藤慶典の批判に応答するようなかたちで、人間の意識・無意識の環界を説明していく。
 「自己の自己性をめぐる現象学的・精神病理学的な問題が発生するのは、この自他未分の非人称的な基底層と、自他がすでに分離し三人称化した表層とのあいだの『境界』、あるいは前者から後者への『移行』の過程においてである。(略)アクチュアリティはヴァーチュアリティからの『発生期の状態』としてしか成立しえない。」(131P)
 「非人称のヴァーチュアリティ、一人称のアクチュアリティ、それと三人称のリアリティ、この三者の関係は、一般の人においても決して単純ではない。そこには非常に込み入った基礎づけの循環関係が見られる。」(144P)
 さてここから、鼎談での問題点に触れねばならない。木村が、人間の意識・無意識の環界を、ある意味、循環関係として措定しようとしているのに対して、斎藤は、明確な境界性を設定した上での哲学的論議を遂行していくべきだと見なすことができるように思える。ここには、〈実践の学〉と〈知としての学〉との対峙・対立がある。斎藤の哲学的な原理論からいえば、木村の論旨は緩やかに感じられるのだろう。木村の対の患者たちも、健常者と思い込んでいるわたしたちにしても、結局おなじように意識・無意識の環界は、曖昧な領域が交錯し連関しているものだという了解を、木村論稿からは、窺い知ることができる。
 「統合失調症者の世界が自己との共軛的な『自覚』を妨げられているとすれば、その世界とは、事物的世界、道具的世界であるよりも、まずは人間の世界のことである。」(145P)
 〈実践する知〉が開示していく領域をこの言辞に象徴させても構わないだろう。

(『図書新聞』05.5.7号)

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