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2006年5月 5日 (金)

瀬戸内寂聴・鶴見俊輔・いいたもも 編著『NO WAR!―ザ・反戦メッセージ』(社会批評社刊・03.6.15)

 「反戦・平和運動」とはなにか。わたしは、誰でもが当たり前のように思うはずの「反戦・平和」という言葉に、長い間、釈然としない思いを抱いてきた。「反戦」と「平和」は、けっして並立されるものではないという考えを、わたしはもっている。「平和」や「幸福」といったことは、確かに人間の営みのなかで究極的な願望であり到達点かもしれない。しかし、同時にそれらの言葉のなかに含意する曖昧性を、見過ごしてはならないと、わたしなら思う。究極の願望や到達点を、自己目的化した時の、陥穽というものがある。「平和」であればいい、「幸福」であればいいと思うほど、そこへ至る方途を何処かへ置き去りにし、現実的困難さを回避するという状態を、生み出してしまうのだ。
 この間の、米英の独断的なイラクへの侵略戦争は、ブッシュジュニア、ブレアという国家の首長が、権力の行使を自己目的化した彼らなりの虚妄の「世界平和」を追求した結果だといっていい。もちろん、ブッシュジュニアの背後に戦争・石油利権屋がいることは自明のことだ。だから、米英のイラク侵略に対して「反戦」をいうのはいい。しかし、それは、同時に「反国家権力」という視座をもたなければ意味はない。ブッシュジュニアが権力を行使する現在のアメリカという国家とフセインが君臨するイラクという国家を同時に解体した先にしか、いわゆる「平和」というものの〝第一段階〟は訪れないと断言できる。だから、「平和」という状態がいかに至難なことなのかということを、認識すべきだというのが、わたしの考えだ。
 わたしが、ベトナム反戦運動以来の高揚する「反戦・平和運動」といわれる米英のイラク侵略戦争への抗議行動を、全面的に評価しようとは思わないのは、口あたりのいい「平和」という言葉に疑念があるからだ。
 本書は、四章立てで構成されている。「Part1」と「Part2」は、この間のイラク戦争に抗議する内外の様々なメッセージを紹介している。R・アルトマンの映画『ザ・プレイヤー』や『ショート・カッツ』で好演した俳優ティム・ロビンスやアカデミー賞で苛烈な受賞挨拶をしたマイケル=ムーアの発言は、それなりに説得力に満ちていると思ったが、それ以外の芸能人や著名人の、あるいはイラクの子どもたちの声といった多様な「反戦・平和」に関するメッセージは、それが芸能人や著名人ということで、影響力があることは認めても、わたしには重要な発言だと思うことはできなかったし、安直な平和への希求は、ブッシュジュニアやブレアと同じ虚妄性があると、あえて言っておきたい。むしろ、「Part3」の「高校生・自立する市民らのピース・アクション」の様々な報告の方に、わたしの関心は向けられたといってもいい。
 「(略)イラク攻撃を止めようといてもたってもいられなくて動いてみた。(略)そんな中で気になることがあった。『非暴力で行動しよう』という言葉を参加者から幾度となく聞いた。『平和を守ろう』『罪のない人を戦争で殺すな』というシュプレヒコールも聞いた。平和じゃないからデモに参加している、罪のある人だって戦争で殺してはいけない、そもそも罪とはなんなのか、そんな思いを抱かずにはいられなかった。
 非暴力でも合法的でないこともあるし、目の前の理不尽な暴力に対応しなければならないことだってあるかもしれない。(略)非暴力を貫くには、とても難しい技術がいるはずなのだ。それをすっとばして非暴力を安易に言えばどうなるのか。」(106~107P)
 ソメイヨシノが咲きつつある中で、吉祥寺の井の頭公園から米大使館までのピース・ウォークデモとでもいうべき反戦行動に参加した岩沼るるの報告だ。反戦プラカードをもって電車通勤するとか、ローソク集会で、反戦・平和を主張するというのは、それぞれの参加のしかただし、それ自体わたしにはなんの感慨もない。もちろんウォークデモもそうだ。しかし、岩沼が感じた、「非暴力」や「平和」を安易に主張することにたいしての疑念や戸惑いを、わたしたちは、真摯に受け止めなければならない。「Part4」で、いいだももが、ベトナム反戦運動とイラク反戦運動を混在させて自伝風に、悦に入って語るほどわたしたちの現在は、反権力闘争・反戦運動が真に高揚しているわけではないのだ。
 最後に、「反戦ネットワーク」のnoiz(本書では大文字で表記されているが小文字が正しいはずだ)と、本書の実質的な編者であの反戦自衛官の小西誠の文章にふれねばならない。
 9・11テロからアフガン空爆へいたるアメリカの覇権戦争を契機としてたちあがった「インターネット上の反戦プロジェクト」は、「特定の運動団体が運営するウェブサイトではな」く、「アフガン侵略戦争に反対する個人が自らの意志を表し、ともにその意志を連ねていくということを表現する」(139P)ものだ。わたしは、すでに何度かこのサイトを見ていたが、ウェブ上で運動の細やかな報告と精緻な情況分析をおこなっていることに驚いたものだった。かつては、〝紙の中の活字〟で表現されていたものが、このように開かれたかたちで(それがウェブサイトの特徴でもあるが)運動が表現されていくことに、深い感慨を覚えずにはいられなかった。
 「実際の運動体とは何ら関係も持たない特異な『意志の集合体』としては、いまだウェブ上の実験は続行中なのである。そして反戦ネットワークの未だ定かでない現在的意義はそこにあるのかもしれない。」(141P)
 noizはこのように述べる。個人の意志が、運動表現としての共同性を形づくっていくのには、ネットが重要な役割を果たしているのが、現在なのだということを、わたしはあらためて認識したといっていい。
 小西論文は、アメリカ軍の暗部を衝く。徴兵制廃止に伴い、入隊者に様々な特典を与えることになって、「米軍は主としてマイノリティと白人の低所得者層の兵士で構成されることになった。」(174P)という。イラク戦争での米軍兵士の戦死者のほとんどがマイノリティたちだったとし、「米軍が平均的なアメリカの『富裕層』を含めて構成されていたとしたら、ブッシュは今回のイラク戦争をかくも理不尽に強行しただろうか?」(175P)と小西は疑念を呈する。
 二人の際立った文章によって本書は極めてアクチュアリ性をもったものになったといっていい。

(『図書新聞』03.9.27号)

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