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2006年5月30日 (火)

日本カント協会 編『日本カント研究5 カントと責任論』(理想社刊・04.7.20)

 本書は、日本カント協会の機関誌・論集(年一回発行)である。二〇〇三年十一月に開催された同協会の第二八回学会におけるシンポジウム並びに一般研究発表の論議をもとにした論稿で構成されている。シンポジウムのテーマは、「カントと責任論」であり、これが本書の書名として採られている。シンポジウムの提題者、三人の論稿が、本書の巻頭に配置されている。蔵田伸雄「人間の尊厳を守る責任」、舟場保之「応答可能性としての責任とカント」、木阪貴行「一貫性要求と実質的価値」の諸論稿だ。以下、千葉清史「『純粋理性批判』第一版第四パラロギスムス論における検証主義的真理概念」他七論稿と、カントを論じた近著五冊の書評が掲載されている。
 ところで、カントといえば、わたし(たち)にとっては、埴谷雄高が一九三二年、二十二歳の時、獄中で『純粋理性批判』を読み大きな影響を受け、その後、書き始めることになった長編小説『死霊』の重要なモチーフとなった〈自同律の不快〉の想を、「先験的弁証論」から得たといわれていて、そのことが強い印象としてある。また、柄谷行人の著書『トランスクリティーク』は、副題が「カントとマルクス」であったことに意外な思いを抱くことになる。カントの「コペルニクス的転回」をモチーフにした、この近年の柄谷の仕事のなかでも最大の著書は当然、本書でも書評で取りあげている。また外へ向ければ、カント哲学を政治哲学として読み解いたハンナ・アレントを想起することができる。
 わたし(たち)は、埴谷、柄谷、アレントといった先行する思想家・文学者たちによってカント像を得たとしても、そこにはやはり、ある種の不分明な思考の位相とでもいうべきものを認知せざるをえない。それは、批判哲学といわれるカントの思想を、いま、どう見ることができるかということの不分明さでもあり、研究者たちが思考する位相と、わたし(たち)が抱えている混迷した思想の水位とどう関わっていくのかということが、可視できないからでもある。
 しかし、本書の蔵田伸雄「人間の尊厳を守る責任」、舟場保之「応答可能性としての責任とカント」のふたつの論稿は、“いま”とカント思想を連結させる試みであることに、わたしは強い関心をひかれたといっていい。
 蔵田の論稿は、カントの『判断力批判』、『道徳形而上学』から「尊厳」という概念を援用しながら、クローン技術の進展に対して価値論的にその有意味性を無化していこうとする試みである。
 「(略)『人間の尊厳』とは個々のヒト個体に内在する価値につきるわけではない。『人間の尊厳』とは『人類(Menschheit)全体に備わる価値』である。人間の尊厳という価値は、個の価値に尽きるものではなく、類の価値でもあると言ってよいだろう。」(13P)
 こう述べていく倉田の論旨は、「特定の人と同一の遺伝子構造を有する人を(略)作り出」すことを、「クローン規制法」で、「人の尊厳の保持」により禁止していることに着眼しつつも、そのことの内実を、カントの「人間の尊厳」を対置させて、さらに明解にしていこうというものである。
 舟場の論稿は、加藤典洋の『敗戦後論』、高橋哲哉の『戦後責任論』をテクストにして、日本の戦後の「責任」を、「他者からの呼びかけに応答する責任」という位相から析出すべき問題を提示していこうとする意欲的な試みである。舟場は、「応答可能性としての責任」というモチーフを設定することによって、カント倫理学から「自己自身に対する義務」という概念を援用して論述していく。
 「(略)カントが、人間の『自己自身に対する義務』の『最大の違反』とみなしている悪徳は、虚言(Luge)である。虚言が問題なのは、それによって他者に対して損害を生じるからでも、また自己自身に損害を招くことになるからでもない。カントが繰り返すのは、虚言は『自己自身の人格のうちにある人間性の尊厳を損なう』ということであり、それは『自己の人格性の放棄』(ebd.)を意味するということである。」(27P)
 舟場は慎重に、迂遠して加藤の論点、「自国の死者を先に弔う」という言述に対して、カントの倫理哲学概念を皮膜のようにかぶせながら、剥ぎとった時、カントと加藤の地平は異和をもつことになるといいたいようだ。わたしなら、「自己自身に対する義務」というものをもっと拡張して考えてみたい。そしてカントのこの極めて、潔い倫理性をもった概念を直截に援用してみたくなる。「他国の死者」も「自国の死者」も同義的・同時的に見做すべきだと。「虚言」とは、どちらかを先にするという繕いであって、「義務」とは、自己と他者との応答があることによってはじめて思考しうる自己があるのだというように。
 しかし、こうして本書の論稿に触れて感じることは、「哲学」の現在という水域は、ある意味、アクチュアルになっているということだ。例えば、知野ゆりの「醜いものと不快の感情」という論稿も、わたしにとっては「哲学」という領域を考えれば、出色な視点だと思う。
 このようにカントの思想が、“いま”あるということを、本書は示しているのだといってもいい。

(『図書新聞』04.11.13号)

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