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2006年5月26日 (金)

大嶋 浩 著『痕跡の論理―写真はおのれを何と心得るか』(夏目書房刊・04.6.25)

 「写真」という領域が持っている位相は、例えば、映画(あるいは動画映像一般)、絵画といった視覚表現領域とは、多様な差異を有しているといっていい。それは、「写真」における多義な有用性から由来している。さらには、わたしたちが、フォトグラファー(写真家・撮影者)をどのように規定しているかということにも通底していく(他の分野に比べ、写真装置の手軽さによって、近似的な存在として認識することになる。この程度の写真だったら自分にもできるという錯覚を生み出すということだ)。絵画は、確かに画家という存在と、日曜画家や絵画教室に通いながら絵を描く人たちと歴然なテリトリーがある(必ずしも表現水位を意味するわけではない)。映画に関しても演出(監督)や撮影(カメラマンという言い方は最近されなくなった。そして撮影監督という言い方が主流になりつつある)を、素人(未経験者)が、誰にでも手軽にできるというわけではない。「写真」はというと、映像文化という領域に入るとはいえ、そこでは、いわゆるプロとアマの境界が極めて曖昧だ。そして、アマの裾野の広さをみれば、言葉の世界での「俳句」に似ている。「写真」がある意味「俳句」的ともいえる気がするし、「俳句」は、その描出する世界が、瞬時にイメージを喚起する時、「写真」的であるということがそんな共通性をもっているのかもしれない。なぜ、ここでこのように迂遠して述べるかといえば、「写真」に張り付いてしまっている、「事実」と信じている(あるいは信じたい)事柄を「記録」し、「記憶」するという意義・価値が、「写真の現在」を暗渠に陥らせているからだ。
 本書の著者は、「写真」が持ってしまったイメージを次のように述べる。
 「記録と記憶。前者が現実(対象)の複写とすれば、後者は感情(撮影者)の複写である。窓と鏡。いずれもその前提となっているのは、痕跡としてのイメージにほかならない。現実の被写体であれ、感情であれ、あらかじめあったものの再認と追認。」(3P)
 そして、この写真がもっている「痕跡としてのイメージ」あるいは、「痕跡の論理」を「解きほぐしてみること」が、本書の主旨だと著者はいう。
 確かに「写真」が美術(芸術)としての表現を獲得していった時、記録と記憶を対立するものとしてしか措定できず、結局、隘路に陥っていくことになると著者は「痕跡」というタームに託して語っていると思える。六〇年代末の中平卓馬たちの『プロヴォーク』運動が、その象徴であり、九〇年代の「“荒木経惟の子供たち”に代表されるような、極めて私的・感情的な写真」(175P)は、写真行為を「充填行為」にして「写真=記録という枠組み」のなかに終始させてしまっていると批判する。
 著者がここで展開する写真論は極めて〈理念的〉だ。消費と表現行為のただなかで、「写真の現在」は、「フィルム」から「デジタル」へ移行しつつある。そして旧来のフォトグラファーたちの多くが、まだ、その幻影としての表現性を「フィルム」写真に固執し、「デジタル」写真を表現性から遠く離れた方途だとして斥けていることに、本書の著者は明確に批判を提示する。ジル・ドゥルーズが全篇に渡って援用され、バルトやフーコーも鋭利な論旨のなか、引用されていく本書は、写真論であるとともに、デジタル論を機軸として、いま一度「現在」を捉え直してみたいという意思がうかがえる論述になっている。著者が「デジタル写真」を「現在」論として展開する時、テクストとしたのは、小林のりお、佐藤淳一、高橋明洋、丸田直美といったWeb上で「写真活動」をするフォトグラファーたちだ。
 「彼らは写真に対して、残す、痕跡、記録といった、これまでの写真の力と言われてきたものとは、まったく別の力を見出そうとしている。それこそが『消えるイメージ』の積極的な面であり、批評性でもある。」(120P)
 本書には、残念ながら引用されているフォトグラファーたちの写真作品は掲載されていない。わたしは、それぞれWebを検索して見てみたが、一見、無機質性を意識した対象の選択と私性を排除したアプローチは、作品評を忌避したものだ。著者がいうように、作品自体が、一つの批評性をもって「写真の現在」を問い詰めているといっていいのかもしれない。
 「ぼくが懐疑的なのが、芸術写真としての報道写真の類だ。とりわけ額装され、美術館やギャラリーに収まった報道写真。報道写真が“芸術の力”に依存したときに、腐敗が始まる。(略)“表現としての写真”が感じ方(感覚)に関わるものだとすれば、報道写真は、ぼくらの考え方(概念)に属するものではないか。だから、報道写真が言葉を忌避し、写真だけで何かを訴えようとするとき、最も危険な陥穽が待ち構えている。
 最もやっかいな存在が、広告写真だ。とりわけ現在の広告写真、“表現としての写真”と見分けがつかない。それでもやはりぼくは、そこで問題となる“力”に違いがあると思っている。」(208~209P)
 「写真を撮ること、それは美でも、記録でも、失われつつあるものへの慈しみでも、忘れられたものへの共感でもない。写真をいかなるものにも還元させないという意志がもたらす、何か別のもの。
 写真を撮ること、それは既成の美学、視覚に無数の水漏れを起こすことかもしれない。(略)水漏れの後には、何が残るのだろうか。“無”とでも言いたくなるが、ぼくはそれをとりあえず、“理念としての力”とでも呼んでおきたい。」(215~216P)
 こうして著者の論述を引用してみて分かることがある。「写真」を制度(システム)=物語から奪還して、「写真」自体として屹立させたいという、ほとんど倫理観のようなものを、「理念としての力」という著者の言葉なかに、わたしは感じないわけにはいかない。

(『図書新聞』04.9.4号)

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