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2006年5月27日 (土)

原田金一郎 著『周辺部としてのラテンアメリカを歩く―中米、カリブ、ペルー紀行30years』(大村書店刊・04.6.10)

 かつて、中南米は、第三世界といわれ、米ソ二大〈帝国〉の対立に象徴された東西冷戦構造に楔を打つべき「場所」として称揚されていた。七〇前後の世界的な新左翼運動のうねりの中で、ゲバラやフランツ・ファノンを思想的基軸にして第三世界革命論が提起され、それは、反スターリニズム潮流の中心理念のひとつとしてあった。これはもちろん、帝国主義(あるいは、前近代的資本主義)支配によって経済的に後進性へ押し込められていたことからの脱却を図ろうとした五九年のキューバ革命が、大きな契機としてあったことは確かだ。当然、第三世界革命論の方位は、中南米の次はアフリカやアジアの辺境地域、中近東といった場所へ移していくことでもあった。
 中南米地域は、1492年、コロンブスが、「バハマ諸島中のサン・サルバドル(San Salvador)島に到達することによって、カリブの近代史の幕が上げられた。カリブの歴史は征服と植民地化にはじまり、この地域はあたかも植民地主義と帝国主義の世界的ショーウインドウとなり、現在にいたってもその歴史は続いている」(本書134P)といっていい。アフリカから黒人を強制移住させ労働力として奴隷化し、先住民族を圧制・抹殺した結果、先住民人口が大幅に減少し、地域農業生産力が低下していく(166P)。後進性による貧困性ではなく、むしろ地域共同体の解体が別の意味での貧困性を招来しているのだ。そして、そこには、「中心的視座」から見れば、後進性の低所得者層で構成された国家群が形成されていくというアンビバレンツが発生することになる。
 だから、ラテンアメリカ経済研究家である著者は、わたし(たち)の既知の視線ではない、「中心的視座」をとらないあらたな、「周辺部ラテンアメリカという概念」を提起する。
 これは、「貧困に苦しみながらも先住民共同体や伝統的社会がいまだ息づいている」(11P)ことを重視し、「中心部の資本主義的発展の踏み台として、中心部の発展と反比例的に低開発と従属の深底に追い落とされ、世界史の闇の部分に閉ざされつづけた周辺部の側に視座を置くことにより、世界史性の再構築を試みる」(22P)という「周辺的視座」のことを意味している。
 著者がこのようにして、ラテンアメリカへ向ける視線は、「今世紀ラテンアメリカ最大の思想家の一人」であり、「ラテンアメリカ最初のマルクス主義者」(40P)と呼ばれるペルーのホセ・カルロス・マリアテギ(1894~1930)の主著『ペルーの現実解釈のための七つの試論』(1928)に出会ったからである。本書を構成する主要部分は、著者がマリアテギの思想的な軌跡を訪ねるペルーを中心としたラテンアメリカへの旅をめぐる文章群だ。単なる紀行文ではない、著者の「周辺部」への熱い視線が、ラテンアメリカ世界の奥深さ示してくれているといってもいい。七〇年にキューバを初めて訪問して以来、長く精力的に続く中南米への旅程はマリアテギの著書『ペルーの現実解釈のための七つの試論』の翻訳作業の資料検証のための訪問が主たる目的であった(八八年刊行)。
 著者によれば、「マリアテギの特異性は、〈周辺的視座〉によるマルクス主義の再生(普遍化)の試み」(22P)にあるとし、またその思想的視座は「コミンテルン派に代表されるような、当時のラテンアメリカに蔓延していたスターリニズムの呪縛には縁遠かった」(37P)し、「ヨーロッパ社会の底辺層であるプロレタリアートにあたるものとして、ペルー社会の最底辺層としての先住民層をとらえた」(38P)ことにこそ、その独創性はあるという。著者のラテンアメリカ周辺部への旅はこうしてペルーを中心に、ニカラグア、メキシコをめぐり、そしてペルーの首都リマから近距離の南東にあって元スラム街だったビジャ・エルサルバドルという「自主管理都市共同体(CUAVES)」へと行き着く。下からのある種、民主主義的な住民コミューンであるこの都市共同体の理念性のなかにマリアテギの影響を著者は見てとろうして、この周辺部紀行の到達点を明示している。
 「そもそも『貧しさ』がいつ生まれたかといえば、それは16世紀以降の世界資本主義の発展過程という近代過程によって生み出されたものである。それ以前は、中心=周辺の支配関係がなかったから、各地の経済は自立性を保っており、発展という豊かさがないから低開発という貧しさもなかった。(略)つまり、『貧しさ』とは相対的なものなのである。(略)近代化はわれわれの知る社会発展や文化などの多くのものを生み出してきた。しかし、裏面においてその同じ近代過程が、非ヨーロッパ世界において飢餓、疾病、文盲などからなる貧しさを生み出したのである。市場経済に代表されるこのようなシステムは、人類全体にとって完全なものではけっしてない。」(166P)
 この著者の深い真摯な結語に、わたしなりにもう少し何がしかの言葉を重ねるならば、資本主義も共産(社会)主義も、それが世界システムという相貌をもつとき、個別地域の原初の共同性を後進のもの、あるいは異貌のものとして排除し切り捨てていったことは、これまでの歴史が指し示してきたことだといっていい。発展もしくは段階を踏んでいくということは絶えず、その遺制性・古代性の残存を、人類の固有性・母型性として「史観を拡張」(吉本隆明『アフリカ的段階について』)してとらえることを熟考していくべきなのだ。
 著者のマリアテギの思想をめぐる旅、周辺部ラテンアメリカをめぐる旅について記された本書に収められている文章群は、こうしてグローバリニズムをあらたな「帝国」主義とみなす視点を提起しながら、わたしたちをもう一度、初源への思いを喚起する旅へ誘(いざな)うことになる。

(『図書新聞』04.9.18号)

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