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2006年5月23日 (火)

遠矢徹彦 著『ぺちゃんこにプレスされた男の肖像』(審美社刊・04.3.18)

 七編の短篇を収めたこの小説集は、表題から受ける軽妙さや静謐さとは違い、硬質な文体とともに、湿気感漂う重く暗い情念をもつ登場人物たちを描出している。そして彼らはみな、かつて政治運動や組合運動を経験し、挫折し、職を追われ、そして職を転々とし、あるいは精神の病に囚われている像としてある。一編をのぞき、すべて「私」もしくは「わたし」の一人称記述で語られる文体は、さらにそのことを過剰にさせていく。任意に引いてみれば、わかる。
 「タミオがハルミと出会ったのは、あるひとつの時代が終わる頃だった。反体制グループの周辺にいたにすぎない無数の若い蛾たちが、不吉な明るさに魅せられて入りこんだその場所には出口がなかった。」(「水域」)
 「私の右隣に、いくらか禿げあがった額にばさっと長髪をたらした男が坐っていた。彼は片頬にみぞをつくってうす笑いを浮かべ、テーブルの上座に陣どっているひとかたまりの古参の労働活動家やアナキストたちが、おぼつかない足どりでテーブルの間を渡り歩き、仲間同士でしわがれた気炎をあげ、よろけるようにもたれあっている姿を黙って眺めまわしていた。」(「淵の見える場所」)
 「漂流物のようにあてどない職場遍歴のすえ、わたしは公共浄水場の派遣技術員の仕事を最後に、次の仕事を探す努力を放棄したのだった。つまり失業したわけである。独身のわたしには、それいがいに失うべきものは何もなかった。が、そのころから内部をしだいに深く蝕んでいく、うす気味の悪いどこまでもつづく湿地帯に似た徒労感が、鎖となって幾重にも巻きつきだし、ついにはわたしの存在そのものを締め上げていくように思えた。」(「ぺちゃんこにプレスされた男の肖像」)
 唯一、一人称記述の文体をとっていない「水域」は、タミオとハルミの関係に、ノボルが割ってはいり三人が破綻してしまう物語だ。「ガス銃に撃たれながら、街角を駆けぬけていたあの頃」(110P)を共通項とした三人が、関係性だけでは、慰藉されえない精神の空洞をもってしまったことを描出している。
 「淵の見える場所」は、古い友人の追悼集会に出て、久しぶりにかつての仲間たちと再会しながらも、ただ想念は沈潜するだけの私(芹沢)を描いている。芹沢は、妻子を捨てて、彫金家の燿子と一緒に奥多摩で隠遁生活のようにしている男だった。「ただでさえ、弱小なおれたちのグループなんだからな。優秀な活動家が二人も蒸発してしまったんじゃ、仲間に与えるダメージははかりしれんのだぜ」(180P)と仲間に冷やかされ揶揄されながら、燿子にまつわる醜聞を聞かされる芹沢はただただ酔いに任せる日々を送る以外、生きようがないように描かれる。
 ひとたび抱いた観念や想念、あるいは思想という過剰さは、生きること、あるいは生きていくことに、どう足枷となって締めつづけていくのだろうかと本書の小説群を読み終えて、わたしは思う。そしてすぐさま、かつてといっても、もう四十年近くになろうとする時間が経過しているが、高橋和巳の小説『憂鬱なる党派』を思い起こした。俗に、転向小説といわれた高橋和巳のこの小説は、本小説の人物たちと同じ様に、転向しきれないでいることの難渋さを物語として描出している。思想や観念が、生きることの足枷だとして、では、なんの拘りもなく生きていくことができないのは、たんなる不器用さに還元してしまうことができるのだろうか。
 「詩人の柩」は、拘りと不器用さが、実は純粋な想念に裏打ちされていることを描いて見せている。わたしが、集中、最も感応しえた力編だ。組合活動に頓挫しながらも、組合の機関紙に詩を書き続ける「私」。そして私が敬愛してやまない詩人の黒木哲夫。作者は、「凍土と化した民衆の夢の地層を、一匹の妄執のもぐらとなって掘り進んでいこうとする執拗で狂熱的な、それでいて彼の魂の中心にある明澄な意志の力が全編を貫いているような作風」(60P)をもった詩人として黒木を描写している。そしてこの詩人の妻、玲子。これらの人々をめぐる物語を描きながら、もうひとつの層を作者は提示する。それは、私が少年期に敬慕した梅園文子と黒木哲夫の関係性だ。このふたりの関係性を、詩人の柩、つまり詩人が机代わりに使っていたリンゴ箱に象徴させて、語って見せている。まるで、「執拗で狂熱的」であり、「それでいて明澄な意志の力」をもったような関係性が、詩人黒木と文子がもった「時間」だったのだ。ふたりはそれぞれに死を迎えたが、転向も挫折も昇華した生き方をしたといっていい。
 著者略歴に、「一九七四年、文芸誌『アンタレス』創刊、秋山清追悼号をもって休刊。」とあった。もちろん、わたしが知っているアナキスト詩人秋山清は、黒木哲夫像とはまったくイメージは異にしている。しかし、作者は、「詩人の柩」のモチーフとして、秋山清をどこかで意識しながら書いたであろうことは、想像に難くない。あるいは、わたしの、一方的な秋山清への思い入れが、そう感じさせているだけなのかもしれない。

(『図書新聞』04.6.19号)

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