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2006年5月17日 (水)

武井昭夫 著『武井昭夫映画論集 戦後史のなかの映画』(スペース伽耶刊・03.9.20)

 わたしは、武井昭夫(てるお)という名を聞いて真っ先に思い浮かべることが、ふたつある。全学連初代委員長(四八年)だったことと、武井の最初の著作が、吉本隆明との共著・『文学者の戦争責任』(五六年、淡路書房刊)であったことだ(吉本にとっても、先行するのは二冊の私家版詩集だから、実質的な最初の著作といっていい)。
 七十年代に未来社から『武井昭夫批評集(文学編)』全三巻が出されて以降、わたしにとって武井の名は、「批評空間」第Ⅱ期第20号(九九年一月)のインタビューと本書の巻頭に配置されている、「戦時下の黒澤映画」(「映画芸術」第三九五号、二〇〇一年四月)で久しぶりに見ただけであった(武井は、「批評空間」のインタビューで六九年以降、雑誌「社会評論」、新聞「思想運動」を中心に活動してきたことを述べている)。
 本書は、『武井昭夫論集・全四巻』の最初の刊行として企図されたものだ。以下、学生運動論集、状況論集などが予告されている。
 さて、この映画論集は、『文学者の戦争責任』の著者らしく、「戦後五十年以上経た今でも、(略)日本映画の世界では、映画および映画人の戦争責任についてほとんど追及も追究もなされていない」(10P)という視線を一貫してとりつづけている。特に、黒澤明の戦時下の映画作品『一番美しく』(四四年)の作品性とこの作品に対する黒澤の姿勢を徹底的に批判している。わたしは未見だが、武井によれば、「戦争遂行に積極的に協力した」内容をもっているにもかかわらず、黒澤は、「小品ではあるが、わたしの一番かわいい作品である」としか述べていないことに疑義を呈する。そして、武井の強い視線はさらに黒澤の作家性そのものへの析出へと向かう。
 「ここには(註=『一番美しく』のこと)黒澤明という監督がすでに戦争中に確立した、すさまじいばかりの映画作りの方法と人の組織化というものが示されている。映画の作り方だけではなく、黒澤氏の人生観・人間観も強烈に打ち出されている。また、そこには非常にヒューマンで仲間には民主的で、優しさもあるが、じめじめうじうじした弱さを嫌い、正義感の強い自我を貫こうとする黒澤氏の姿勢がくっきりと出ている。そういう人間像を作ろうとする点で、黒澤監督は戦中も戦後もその姿勢は変わってない。(略)
 黒澤氏に決定的に欠けているのは国家観です。誤った国家観にしばられていると言ってもいい。(略)そのために国家のために働くという観念に従って、戦争中はまじめに戦争協力にひきこまれる。この観念を脱却できないから、反省もない。だから、戦後になっても権力というものとの本当の、そして直接的な対決が出来ない。」(22~23P)
 わたしは、『七人の侍』(五四年)はもとより、黒澤映画にほとんど感心したことがない。黒澤が描出する、まさしく武井がいうような「弱さを嫌い、正義感の強い自我」をもった造型の登場人物たちに、まったくじぶんの感性を仮託することが出来ないのだ。武井がここで述べている黒澤映画の析出は、まったくその通りだというしかない。
 ところで、本論集のⅠ章は「戦時下の黒澤映画」として『一番美しく』を、「敗戦直後の黒澤映画」として『わが青春に悔いなし』(四六年)を取り上げて検証しているわけだが、『わが青春に悔いなし』の方を、武井が評価していることにわたしは疑義を呈したい。黒澤を武井は国家観、権力観が欠落していると指摘しているように、この作品は戦時中から敗戦直後までの時間性を生きぬいている女性(原節子=滝川事件とゾルゲ事件をモチーフにしたこの映画は、滝川をモデルにした人物の娘で、尾崎秀実をモデルにした人物と恋愛関係になる女性を演じている)であるにもかかわらず、背後にある歴史性を表層的にしか描いていないと思った。例えば、原たち家族の生活は、まるで昭和三十年代の裕福な人たちといった雰囲気にしか見えないし(敗戦直後に撮った作品がそう見えるとしたら皮肉ではなく予見性をもっているということになるのか)、原が藤田進に再会する場面も、映像的なユニークさはあっても、戦時下の切迫感は伝わってこないのだ。だから後半からラストの場面に至る展開が、まったく感動とはかけ離れた黒澤のたんなる積み木細工的表現でしかないといっていい。Ⅱ章、Ⅲ章に収載している日本映画、外国映画の作品評は、作品の背後にある歴史性をいかにアクチュアリに作品化しているかという視点で多くの批評を割いている武井にあって、なぜ、『わが青春に悔いなし』は評価するのか(質問者との応答では、いくらか評価を修正しているが)、わたしには納得がいかなかったと、述べておきたい。
 さて、本書の巻末にⅤ章として「日本映画年表(一九三〇~二〇〇二年)」が、掲載されている。この年表に選択されている上映作品のリストは、非常に特色あるものになっている。七四頁にもわたる長大な年表は、その時々の出来事も記載されていて、資料的な重要さはもちろんのこと、年表作成者たちのひとつの表現だといっていいと思う。
 Ⅳ章の「現代日本映画を語る」は、八十年以降の作品への評価、ドキュメンタリー映画の分析、そして批評家の問題へと展開している。ひとつだけ取りあげていえば、主題性からあえて遠ざかって批評する蓮実重彦にたいする批判だ。
 「映画の世界で映像表現を抜きにして主題の展開はありえないし、反対に主題に結晶しない、あるいは主題に結びつかない表現というのは大した意味はない。〈表現〉と〈主題〉の両者は、まさに表裏一体であって切り離せないものでしょう。(略)一方を否定して一方を肯定する、あるいは一方のみを強調するというのではなくて、両者の関係、つまり、新しい主題の発見と新しい表現の創造とは、絶えざる緊張関係のなかで切り離しがたく結びついて続けられる、というのでなければならないのではないか。」(374P)
 この武井の批評眼がもっとも象徴的にわたしに切迫したのは、花田清輝を敢て批判しつつ展開した『灰とダイヤモンド』論だった。この力論の基底にあるものは、本書の骨子になるものだし、場所はポーランドであっても、本書の書名にも通底していく、〈戦後〉という問題を真摯に表現した〈映画〉への評価ということで、わたしには本書の重厚さを支えていると思った。

(『図書新聞』03.12.6号)

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