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2006年5月 8日 (月)

和田春樹 著『日本・韓国・北朝鮮―東北アジアに生きる』(青丘文化社刊・03.1.20)

 著者の和田春樹は、かつてロシア・ナロードニキの先駆的な研究者だった。本書のプロフィールでは、あまりその形跡を窺い知ることはできない。同時期にナロードニキやアナーキズムを研究対象にしていた京大の勝田吉太郎が、その後、いわゆる右へ旋回していったことと、和田がソ連のペレストロイカを積極的に支持し、実践的には東アジアへシフトしていったこととは、そんなに違いがないと、正直思っていた。久しぶりに、和田の名前が、わたしの眼に飛び込んできたのは、あの拉致騒動の渦中だった。詳細を知っているわけではない。たぶん、現代コリア研究所の怪しげな一統と、拉致被害者家族から、北側の擁護者として一方的に批判されているのだろうと、推測している。あえていえば、拉致は確かに許されざる国家犯罪ではあるが、佐藤や西岡達、現代コリア研究所の面々と被害者家族達は、戦前のわが国の半島への侵略支配行為(強制連行も当然含む)をまったく捨象しているように見えて、わたしには彼らの声高の告発にまったく親近感を持つことができない。独裁権力者金正日を、全面否定できたとしても、戦前の半島への行為が無化されるわけではないのだ。だからといって、金丸の土下座外交ではないが、和田がいうような日本政府として正式に謝罪することで、北朝鮮が納得して開放的な外交をするとも思えない。
 わたしが、つねづね考えていることは、わが国と、東アジア(韓国・北朝鮮・大陸中国・台湾中国)との時空的な関係のありかたは、自虐史観でも駄目だし、戦前の国家行為を糊塗した先にあるわけでもない。植民地支配・侵略行為を率直に認め、国家・政府として戦後補償をしたうえで、戦後の政治的パラダイムの転換を認識したなかで互いに主体的にそして率直に主張すべき事はするという関係性を構築することだと思う。
 しかし、現実はそういうことにはなっていない。わが国政府の主体性のない戦後処理の対応の不充分さ、いつまでたっても戦前の政治的パラダイムのなかでしか日本を見ようとしない東アジアの国家たちというように、停滞した状況が続いているというしかない。大陸中国や韓国、北朝鮮が強大な軍事力をもちながら、わが国にことあれば軍国主義の復活だと批判するのは、矛盾と錯誤の国家論理だといっていい。
 和田が、日本は戦前の行為を謝罪すべきだと、本書で一貫して述べている。確かにそのことは、率直性に満ちた正論だと思う。だが、それは、こちら側(わが国)の内省の問題だとわたしなら思う。本書の大部分が韓国の新聞、雑誌に発表された一九八八年から二〇〇二年までの文章だが、そこで、村山謝罪発言(自衛隊を簡単に容認したように、自社政権というまったく錯誤の政権の首長がいったことは空語でしかないというのがわたしの考え方だ)を金科玉条のようにわが国の公的なものとして有効性を力説しているが、それは韓国の読者を困惑させるだけだと思う。わが国の政権執行者の言葉がいかに公的な意味を持たないできたかは、誰でも知っていることだ。日朝国交促進国民協会の訪朝団の団長が村山で、秘書長が和田という関係が、そういう連帯感をもった論述になるのかもしれないが、わたしには、承服できないことだと、あえていっておきたい。
 しかし、なるほど、和田は先駆的なロシア・ナロードニキの研究者だったなと思ったのは、「東北アジア共同の家」という提言においてだ。
 「(略)はっきりしていることは、日本からは政治的なリーダーシップも、新しい哲学も、ヴィジョンも発信されていないということである。日本は経済力を除けば、一個の巨大な空白である。このことが東北アジアにとっては致命的な問題である。
 東北アジアの現在の情勢の諸要素を考えると、最大の課題は北朝鮮の改革開放だということになる。東北アジアの将来は北朝鮮の転換にかかっているのである。(略)朝鮮が二つの体制をもちながら、開放協力の体制をつくれるならば、そのあり方は東北アジア全体の開放協力体制のモデルになるということができる。中国と台湾のよき関係にとって、そのモデルが役立つだろう。東北アジア共同の家をつくることに進むことができ、その中心に朝鮮半島がくることになるであろう。(略)
 当然ながら東北アジアの共同の家が生れるには新しい文明的メッセージが共有されなければならない。何より民族的遺産、文化の相互尊重の上に、ナショナリズムを越える原理を求めなければならない。」(114P~122P)
 「民族的遺産、文化」を〈相互尊重〉するということは、そのこと自体、ナショナリズムを越えなければできないことだ。アジアはある意味もっともナショナリズムが強い地域だといっていい。高度資本主義であっても半資本主義化した社会主義であっても、強度の宗教国家体制であっても、〈アジア性〉は、絶えずナショナルなものを温存しているのだ。「東北アジアの共同の家」という考え方が、アジアの未来の道筋をつけていけるのなら、〈戦前〉という時空は、超克されることになる。勿論、越えなければならない障壁は数多くあるが、それでも〈アジア性〉を開いていくことがこれからは、必要なのだ。

(『図書新聞』03.6.21号)

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