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2006年5月 8日 (月)

中野徹三・藤井一行 編著『拉致・国家・人権―北朝鮮独裁体制を国際法廷の場へ』(大村書店刊・03.11.30)

 北朝鮮・金正日独裁政権が日本人拉致を認めてから、一年半近く経過した。五人の拉致被害者の帰国から何の進展のないまま、東アジアの政治情勢は、依然、泥濘のような状態が続いている。日本政府の無能さは、金政権の欺瞞性と五十歩百歩だ。だからといって、わたしは、被害者家族たちを支援している現代コリア研究所の佐藤、西岡や反共を標榜する政治家たちを容認はしない。日本政府(日本国家といってもいい)と北朝鮮という宗教国家は本質的に同じ病巣を持っているという視線がぬけているからだ。
 この間の、拉致論の多くは日本も核武装して北朝鮮と対峙すべきだという最強行論や徹底的な経済制裁を加えるべきだという対話回避論から、和田春樹・岩波「世界」グループのような戦前の日本の戦争行為、朝鮮人強制連行といったことがらを謝罪し、平和的対話のなかで日朝間の関係を構築すべきだという空虚な理想論まで、幅広くなされている。しかし、それらのすべてに国家論の空洞性があることを見逃してはならない。
 かつて、ロラン・バルトは大都市・東京の中心にある皇居を指して、「その中心は空虚である」(『表徴の帝国』訳・宗左近)といった。そして関川夏央は北朝鮮旅行記で、北朝鮮の有様を「退屈な迷宮」といった。
 〈空虚な中心〉、〈退屈な迷宮〉はそれぞれ、戦後の象徴天皇制と金王朝の実態を見事にいいあてている概念だ。そしてそれは、同時にわが国と北朝鮮の共通の国家の本質を示唆する言葉でもあるのだ。一方が繁栄、もうひとつの方は飢餓と貧困と表層的に見えても、実体は、「空虚」であり、「退屈」なのだ。拉致にからんだ北朝鮮論の陥穽のほとんどが、鏡として国家を見ることのできない空洞に陥っていることだ。
 金正日にとって高度消費社会のわが国はいつになっても帝国主義国家であり敵国なのだ。そしてわが国の多くの人びとは、北朝鮮を遅れた個人崇拝の独裁権力国家だと見なすというまったく交差することのない視線がかわされているうちは、関係性の構築はありえないといってもいい。わたしの考えは簡単明瞭だ。半島の問題は、北と南の二カ国間だけでやるべきなのだ。アメリカもロシアも中国も、ましてやわが国も介在すべきことではない。拉致に関しては、アメリカのバックアップを期待したり国際世論を背景にしてやるのではなく、わが国単独で矜持をもって交渉すべきことなのだ。そんな力量もないから、先進国首脳会議や六カ国協議の議題にのせようとしてうまくいかず、外務官僚の無能さだけが目立ってしまうことになるのだ。
 さてこうして私見を述べてしまえば、本書の主旨と私の考えが、どこで重なっていくのかと思われそうだ。だが、本書はこれまでの拉致論・北朝鮮論とは一線を画したものとなっていて、わたしに、多くのことを示唆してくれている。編者たちは、トロツキー研究会のメンバーで、「三五年来の反スターリン主義闘争の盟友」(「あとがき」)なのである。
 本書で編者の一人、藤井一行は次のようなトロツキーの言説を引いている。
 「私的所有が社会的所有になるためには、ちょうど青虫が蝶になるためにさなぎの段階を経なければならないのと同じように、不可避的に国家的段階を経なければならない。しかしさなぎは蝶ではない。無数のさなぎが蝶になれずに死んでしまう。国家的所有は、社会的な特権や差別が、したがってまた国家の必要性も消滅していくその度合に応じてのみ『全人民的』なものになっていく。言いかえれば、国家的所有は国家的であることをやめるにつれて社会主義的なものに転化していく。」(250P)
 レーニン以上にレーニン的な国家論だといってもよい。藤井は、この後、このように述べていく。
 「トロツキーの指摘はもちろん北朝鮮にもあてはまる。ただしソ連では、スターリンを首領とする党官僚体制が全体として特権層として存在していたのにたいし、北朝鮮では首領唯一体制になっている。九八年憲法では、『国家所有は、全人民の所有である』と規定されている。しかし、首領絶対主義のもと、『朕は国家なり』に等しい金正日体制のもとで、国家所有は、金日成・金正日所有となるほかない。」(251P)
 戦前のわが国が、天皇を絶対神としたある種の宗教国家だったように、北朝鮮もまた金親子を絶対神とする宗教国家であり、社会主義国家ではなく金王朝国家であるという認識のもと、通交を見定めるべきだと思う。よど号メンバーが何年ぶりかで姿を現したとき、見事なまでの主体思想のスポークスマンになったのを見て、わたしは、実際的に囚われの身であったとしてもマインド・コントロールの恐ろしさを痛感したものだ。宗教国家だから、内部からの崩壊は、まず期待できないとみるべきだ。国連の安保理事会が形骸化しているいま、中野徹三がいうようにICC(国際刑事裁判所)に、人権侵害(拉致も含む北朝鮮民衆への人権的圧制)ということで、金日正王権を提訴するという方法も、あるかもしれない。だが、わたしは北のマインド・コントロールを解くのは、同胞でもある南の人たちであるべきだと思っている。
 未来への通路は、半島を二つに分けた国家たちにゆだねるべきではない。

(『図書新聞』04.2.21号)

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