« 松本利秋 著『国際テロファイル』(かや書房刊・03.9.9) | トップページ | 祖田浩一 著『不機嫌な作家たち』(青蛙房刊・04.2.21) »

2006年5月19日 (金)

ヴォルフガング・ヒルビル 著『私 Ich』(行路社刊・03.11.10)

 『私』と題されたドイツ人によるこの小説を、帯文から受けるイメージでスパイ小説かサスペンス小説のように見なしてしまうと、物語の隘路に入り込むことになる。訳者も明快に言い切るように、統一前の旧東ドイツの政治的闇を告発する小説と見なしてしまっても、本書の価値を遠くへ追いやってしまうだけだ。訳者の次のような叙述をまず念頭に置いて、本書の物語に入るべきかもしれない。
 「ドイツ語の『Ich』は、日本語では『私』ではなく、特別に『自我』という非日常的な哲学用語をあてなければ、理解できないという言語生活(思惟構造)上の問題があることを念のために説明しておかなくてはならない。」(446P)
 本書の概観を訳者の解説にしたがっていえば、九三年、ドイツで出版されたもので、『私』が初の邦訳出版のようだ。著者ヴォルフガング・ヒルビヒは、四一年、旧東ドイツの小工業都市モイゼルヴィッツに生まれる。「肉体労働の職場を転々としながらも作家を志し」、西ドイツの放送局に送った詩文をきっかけに七八年、第一詩集『不在』が出版されるも、西側ではほとんど注目されることはなかったようだが、「壁崩壊後の数年間のうちに前代未聞のスピードで有名作家の地位を得」たという。本書は、自伝小説ではないが、主人公が育った場所や母との葛藤(父親は、早くに戦死し、母の実家で育てられた)、なにやら詩の断片のようなものを書くことを志しているという設定にしているところは、自身を反映させているといえなくもない。
 さて、本書は変わった叙述と構成をとった小説だといっていい。やや不均衡な三章(あるいは三部)だてで、それぞれに「イベント」、「地下の思い出」(この部分が圧倒的な分量だ)、「究明」と題が付されている。そして、変わった叙述というのは、物語の人称が恣意的に変換され、時制が、順序だっていないということを意味している。これは、たぶんこの小説の表題であるとともに、主題としてみなしていい、〈私(自我)〉をめぐる物語性からくるものだ。
 「イベント」では、“私”という一人称で語られていく。
 「権力者たちは、おびやかされているように感じるときが、最高の気分なのである。だから側近の反乱や街頭の反乱の兆候がどこにも認められないときには、そういう兆候をつくりだすのである。」(4P)
 国家公安局の非公式協力者である「私」は、様々なテクストを朗読する会の「イベント・リーダー」の動向を探るよう命じられている。そしてなぜか、東ベルリンの地下通路を往還している生活が描写されていく。「この地下空間はひとりになれる最後の場所だ」という「私」の暗号名が、カンベルト。しばしば登場する「私」の上司は、著名な哲学者を想起させるフォイアーバッハ。なぜかフーコー好きという設定だ。フォイアーバッハにせきたてられるように、イベントに出入りする西ベルリンの若い女性の身辺を探ろうとするがうまくいかない。
 「この現実は何というシミュレーションであろう。私にはその脈絡が失われてしまってからどのくらいになるだろう。」(56P)
 そして、“私”は、非現実となってしまった過去をシミュレーションしていたと語り、“私”と述べながら、三人称としてW(おそらく本名のイニシャル)の過去の物語が語られていくのが「地下の思い出」である。Aという小都市の工場労働者だったWに、捏造されたスキャンダルをたてに「チーフ」が接近してきて、「活動世界」に引き入れようとする。Aからベルリンへ逃げてきたにもかかわらず、非公式協力者になってしまう。そしてC(暗号名のイニシャル)という人称として後半は叙述されていく。
 「究明」は、自制的には「イベント」に戻り、また一人称で語られていく。そして物語は急転する。イベント・リーダーが実は非公式協力者だったことが分り、“私”は、西ベルリンの女性にすべてを言おうとするが逮捕されてしまう。そしてA市に戻されたところで物語は閉じている。
 「この国家の驚くべきところ……謎めいたところは、たえずこの国家のなかで説かれていたこととは一切関係がなかった。(略)……謎は、この国家がつちかってきた憎悪である。(略)私たちは生の影であり、死であった……私たちは人間のダークサイドの化身、影の化身であった。私たちは分裂した憎悪であった。『私』とは憎悪なのである……」(425~427P)
 浮遊する「私」。連鎖されることなく切断される「私」。シミュレーションされる「私」。フーコーやボードリヤールが援用されるこの小説は、「私」を記述することによって可視できない迷路のような現在という世界を描こうとしたにちがいない。不在感という想念は、分断、連結したみずからの「国家」をも不在の場所と見なしていることからくるものだと、この小説を読み通して、わたしには思えてくる。

(『図書新聞』04.1.24号)

|

« 松本利秋 著『国際テロファイル』(かや書房刊・03.9.9) | トップページ | 祖田浩一 著『不機嫌な作家たち』(青蛙房刊・04.2.21) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/92515/1849321

この記事へのトラックバック一覧です: ヴォルフガング・ヒルビル 著『私 Ich』(行路社刊・03.11.10):

« 松本利秋 著『国際テロファイル』(かや書房刊・03.9.9) | トップページ | 祖田浩一 著『不機嫌な作家たち』(青蛙房刊・04.2.21) »