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2006年5月 1日 (月)

『松田修著作集・全八巻』(右文書院刊・~03.5)

 松田修が、わたし(たち)に鮮烈な印象を与えたのは、思い起こせば七十年代初頭だった。『刺青・性・死』(松田は刺青を「しせい」と呼ぶ)という衝撃的な表題とモチーフを突きつけて暗渠の世界をわたし(たち)に開示してみせてくれた。そしてさらに、『陰の文化史』、『闇のユートピア』、といった著作を通して独自の確たる松田修の世界を展開していく。一方、小川徹が編集する「映画芸術」誌に、精力的に映画批評も発表し、松田の表現方位は多層に渡っていった。
 七十七年、わたしは、松田と近接の場にいた。松田は、「暗黒舞踏」論とでもいうべき「肉体の千年王国」(著作集・第六巻収載)と題した論稿を発表する。掲載されたのは、わたしが編集に関わっていた「無政府主義研究Ⅷ」という雑誌だ。
 冒頭まず、ジャン・ジュネの映画『愛の詩』がひかれる。独房で踊る若者の痙攣する様に松田の視線は向けられる。「踊り」を、「恍惚への肉体としての試行錯誤」、「逡巡するためらい傷」、「錯誤の傷たちによって深まってゆく致死の傷(真実の傷)」と見做す。そもそも傷や痛みという言葉は、松田の拘泥する位相だ。「痛み」だけが、「愛のたしかな憑り代」(『刺青・性・死』)だと捉えたり、「信仰も愛もみな苦痛を通じてのみ、確信できる」(座談「世捨て思想と現代」)と述べたりしている。この論稿が、発表する雑誌の特異性やモチーフの親近性によるためか、松田の思念が凝縮された一篇だったと、今にして思う。もう少しこの論稿を辿ってみる。
 「『火傷の痛み』としての土方のきり展いた世界」に、「もっとも前衛的なものが、すでにもっとも土着的であるという逆説」をみることができるとし、「一筋の白粉が、異形との親和をもたらすほどには、そり落とした髪と眉は、異形の世界へのパスポートでありうるだろう。政治的・思想的な面からではなく、土方たちは、その反市民・反近代を、フォルムの側から迫ってゆく」と述べ、次の様な結語へと至る。
 「はたして肉身が痙攣し、痙攣することによって肉身であるものならば、魂=霊も痙攣し、痙攣することによって、魂=霊であろう。またしてもねじれかえった指、背……精神と物質の暗黒がつづくかぎり、弧状列島を覆って痙攣は、波うち、どよめきつづけるだろう。」
 松田独特の表現と文体のリズムは、わたしたち(読者)を未明の場所へ誘って、いつしか異形、異端の群れこそが、弧状列島・日本の暗渠を撃つ共同性なのだと気づかせてくれるのだ。個という舞踏表現から国家・弧状列島へ至る道筋をつける思索を行為できるのは松田修であればこそだといえる。
 このように、松田が提示する思念は、常に体制的なもの、秩序的なものへの反措定を孕んでいる。異端、異形、被差別、無頼、畸型、不具といった様態へ、視線を向けていくことで、必然的にそうならざるをえないともいえる。だが、しかし、松田が向けていく視線の先はけっしてイデオロギー的場所ではない。松田の視線の方位は、濃密な愛と根源的な美の所在を求めているのだ。
 『刺青・性・死』に次の様な一節がある。
 「刺青、それは閉ざされた美である。暗黒のゆえに極彩の美である。秘めよ、秘められよ、開かれてはならない。それはいつの日にも俗物への、体制への、衝撃であらねばならない。(略)地下へもぐり、異界にひそみ、ある日、突如日常をやぶって花を開く。その一瞬を、われわれは回復せねばならない。」(著作集・第一巻)
 松田にとって刺青は、まさしく刺青そのものとして共感の位相であることは、確かだ。しかし、わたしたちは、松田の魅惑あふれる言説にふれることで、むしろ、様々な想念を沸き立たせるものとして、刺青をメタファーとして捉えることになるといってもいい。このことは、松田の著作の数々が、けっして偏狭な学究的なものではないことを意味している。そのことの証左として、座談・対談での発言をみるのが、わかりやすい。本著作集は、各巻に、座談・対談が収載されているのが、特色だが、松田の思念世界への入り口としても、格好のテクストだといえる。なかでも、第四巻収載の中上健次との対談「物語の定型ということ」は、言葉の往来が濃密な関係をつくりあげている。例えば、こんな往還だ。
 松田が言う。
 「言語の虚構性が、新しい文学のジャンルを拓く。言葉が定型を喚び起こし、喚び起こしつつ定型を裏切るーー。物語の定型を降霊しつつ、反物語である。」
 中上が言う。
 「やっぱり物語というのは僕はーー松田先生もそうだと思うんですけどーーある原形というのは、差別というんですか、あるいは差異といってもいいと思います。そこから出て来ると思うんです、物語という部分が……。(略)単純に言いまして、なぜ最近物語がつまんなくなったのかというと、差別に関していまの現代作家たちは非常に鈍過ぎる。要するにもっと差別心なり、あるいは被差別心なり、そういう意識なりを回復しなくちゃどうしようもないんじゃないか。」
 この往還を松田は、次の様に見事に締めくくっている。
 「そもそもーーこう言えば少し大袈裟ですか、言語の構造そのものが、差別(一般的な意味での)から来ているでしょう。差別なしには言語は存在しない。遡れば溯るほど、本質的になればなるほどにーー。」
 松田の視線は、絶えず言葉の概念を転倒させながら、根源性を切開しようとする。だから、歴史論においても、「逆転歴史観」(中込重明・解題)といわれる所以だ。
 このように、松田の思念世界はけっして過去的テクストに収斂されるものではない。わが列島国家は、依然、病理という暗渠を払拭できずにいるのだから。
 だからこそ、いま、あらためて松田修の多岐に渡る仕事のほぼ全体像を俯瞰できる著作集の刊行は、なんの衒いもなく思想的な事件だといってもいい。全八巻の構成のもと刊行が開始されたのは、昨年の九月だった。そして半年あまりで、全巻が刊行完結する。
 松田修の世界は、まだ未明の場所にある。

(『図書新聞』03.5.3号)

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