« 大塚英志 著『更新期の文学』(春秋社刊・05.12.20) | トップページ | 橋爪大三郎 著『隣りのチャイナ―橋爪大三郎の中国論』(夏目書房刊・05.12.1) »

2006年4月25日 (火)

森 達也 著『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社刊・05.3.22)

 『A』、『A2』、『放送禁止歌』などの作品で知られる映像作家・森達也は、ここ数年、映像以外の場所でスリリングな発言を提示しつつ、旺盛な著作活動を見せてくれている。本書は、最近の著者の著作活動のなかでも、自身のもっとも本領の場所からのものだ。ドキュメンタリー論であり、ドキュメンタリー史論でもある本書は、映像論として、まぎれもなく本格的なものだといっていい。
 わたしが、森達也の映像作品に関心をもってきたのは、自分の表現性にいかなるけれん外連みも持ち込まないことにある。なにか、もってまわったいい方かもしれない。もう少し別様にいえば、わたしなどは、対象を捉えようとする(森の場合は撮る)時、どうしても、すでに手垢にまみれてしまったような固執した理念や観念(もっと直截にいえば主義・主張)で捌いてしまおうとする。うまくフォーカスしていればいいが、往々にしてずれた視点で、自己模倣と自己満足の場所に陥っているのだ。だが、森はけっしてわたし(あるいは、わたしたちといってもいいだろう)のような、視線を対象に向けない。最もいい例が、残念ながらペンディングとなってしまったようだが、天皇明仁のドキュメンタリーの企画にあらわれている。
 「誰を撮りたいですか?と訊ねられて最近では、『天皇陛下です』と答えることが多い。(略)数年前知り合いの雑誌記者に、『今の天皇陛下が国歌を歌わないことをどう思うか?』といきなり訊ねられた。(略)僕の記憶では、昭和天皇は歌っていたはずだ。もしかしたら国歌について、無邪気に歌いたくないというような複雑な思いを、今上天皇は抱いているのではないかと僕は推測した。ほぼ直感に近いけれど、戦争責任やアジアへの侵略行為について、現在の天皇は踏み込んだニュアンスで発言することが時おりある。その表情や物腰に、そんな雰囲気が仄かに滲む瞬間がある。
 左翼思想が滲むならば撮りたいというわけではない。もちろん戦争責任を明らかにしたいなどと考えているわけでもない。そんな直接話法はドキュメンタリーに馴染まない。理由はただひとつ、内面的な矛盾や葛藤が過剰であればあるほど、被写体としての魅力は増大するからだ。」(193~194P)
 この後、森も触れているのだが、確かに、日韓共催のサッカー・ワールドカップの折、明仁は、天皇家と朝鮮半島との関係に触れていた。歴史認識的にいえば、既に万世一系という時間の連続性は破綻しているのだから、衝撃的なことではないとしても、天皇みずからそれを認めることは、天皇制というシステムに大きな変容を与える発言であることは確かだ。だが、その際、「日本のメディアはこれを最小限にしか報道せず、(略)海外のメディアのほうが大きく報じた」と森も述べるように、メディアも含め論壇や歴史研究者からなんの反応もなかったことに、わたしですら意外な思いをもったものだ。さて、そのことを想起しながらも、森の視線が、わたしたちと違って屹立しているのは、こうだ。わたしのように、そのことを、すぐに天皇制というシステムなどという観念性に結びつけていくというプロセスをとらずに、あくまでも明仁の「内面的な矛盾や葛藤」に注目していくことにあるのだ。「直接話法はドキュメンタリーに馴染まない」という考えが、森の映像手法にあるからこそ、例えば、『A』において荒木の「内面的な矛盾や葛藤」を観ることで、わたしたちは、もうひとつのオウムという共同性がもつ深層を感知して、その映像に共感していくのだ。〝けれん外連み〟がないということは、そういうことをいうのであり、「ドキュメンタリーは監督という主体が呈示する現実へのメタファーなのだ」(227P)という信念によっているからこそ、ドキュメンタリーは「嘘」をつくのであって、事実の客観的な表現などという〈虚妄な〉位相と明確に分岐していくものだといっていい。
 たぶん、多くの人はニュース報道とドキュメンタリーというものの明確な差異を認識していないと思う。森は「ジャーナリズム(報道)とドキュメンタリー(表現)を、同一視する人は数多い。実は僕自身もかつてはそうだった。」(66P)と率直に述べている。ここで、括弧で括っているように、報道(主張や主観を排した、あるいは統制されたもの)と表現(制約や抑圧があっても、矜持を手放さないことがその領域に立ち止まらせる)とは、明確に違う場所性をもっているのだ。だから、客観(中立)表現か主観表現かということは、まったく転倒した問題だといっていい。森も本書のなかで、執拗に論述しているように、客観(中立)表現といものは、本来ありえないのだ。では、ドキュメンタリーと劇映画の違いはなにかとなりそうだ。
 本書の中で森は、くりかえし、「ドキュメンタリーとドラマとのあいだの差異」は「ないと言い続けて」(224P)いる。
 わたしも、もちろん、異論はない。
 原一男の『ゆきゆきて、神軍』や、森の『A』や『A2』が、わたしだけでなく、映画雑誌でその年の映画ベストテンに選出されるということを見ても、もはや誰もが(森には、そんなことはないといわれそうだが)その境界線はないものと思っているはずだ。
 最後に、わたしが森に対して感応する最大の論拠を示しておきたい。次のように率直に述べるからこそ、彼の発言に逐一注目せざるをえないのだ。
 「(略)かつて多くのメディア従事者は、己の無力さを嘆きながら、無駄な煩悶を続けていた。(略)『後ろめたさ』と『無駄な煩悶』というネガティブな要素が、実はとても重要なのだと僕は考える。」(100P)
 撮るべき対象に「内面的な矛盾や葛藤」を見ようとする森は、『放送禁止歌』の最後の場面のように、実は自らに、そのことを投影させていることを認識していればこそ、そう述べていくことができるのだ。

(『図書新聞』06.4.1号)

|

« 大塚英志 著『更新期の文学』(春秋社刊・05.12.20) | トップページ | 橋爪大三郎 著『隣りのチャイナ―橋爪大三郎の中国論』(夏目書房刊・05.12.1) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 森 達也 著『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社刊・05.3.22):

« 大塚英志 著『更新期の文学』(春秋社刊・05.12.20) | トップページ | 橋爪大三郎 著『隣りのチャイナ―橋爪大三郎の中国論』(夏目書房刊・05.12.1) »