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2006年4月25日 (火)

大塚英志 著『更新期の文学』(春秋社刊・05.12.20)

 かつて大塚英志は、『物語消費論』(89年)や『「彼女たち」の連合赤軍』(96年)で、「団塊の世代」をテクストとしていたように思う。そこでは、「団塊の世代」がもたらす言語体系と親の世代にあたる「戦争世代」が語る言語体系との類似性を指摘し論断していたように、当然のことながら共感をもった視線ではなかった。にもかかわらず、永田洋子の〈少女性〉を見事に切開していく手捌きに驚きつつ、わたしも含めて、「団塊の世代」に大きな影響を与えた吉本隆明と対談集『だいだいでいいじゃないか』(2000年)を上梓した時は、不思議な感慨を抱いたものだった。そして、本書では、大塚は自分のことを「旧世代」と称してネット世代(あえて便宜的にそういっておく)にまつわる事象を解読すべきテクストとしている。わたしは、なにも世代論を導入してこの本に分け入っていこうとしたいのではない。むしろ、世代論に拘っているのは大塚の方ではないのかという思いが強くわたしにはある(大塚が自分より後の世代に視線を注ぐのは、仕事上のマーケティングと無縁ではないはずだ)。ここ数年の大塚の仕事を丹念に見ているわけではないが、少なくとも、『サブカルチャー反戦論』(2001年)以降、そして最近の〈憲法(九条)〉めぐる言説まで、いくらかその立ち位置の方位を微調整しているように思える。『憲法力』(2005年)で、「第九条とは文学の問題である」といいきる時、本書における「文学」の問題とそれはリンクしていく。そしてそのように「文学」に拘泥するのは、「厄介な『現在』」(114P)を意識しているからに他ならない。大塚は本書でも一貫して、「文学」(小説、批評も含む)を「ことば」の問題として捉えていく。そこでは、「『ことば』の変容が起きていることに何故、かくも『文学』を取り巻く人々は無頓着なのか」(7P)という思いがあり、「文学」が既成の枠組み(公共性)のなかで「私」を保証していくという“近代”から続いている虚構に疑念を持っているからだ。
 「ぼくが、ネット上のことばが『近代文学』のやり直しだ、と思えるのは、ネット上のランダムな呟きから『固有の私』が特権的に立ち上がっていく過程が再現されているからだが、そもそも『ことば』を介して、ある『共同体』や権力関係を形成していくことが人間の歴史だとした時、実は、ネット上には『中世』的な封建的な制度(略)や、近代的『ムラ』社会に近いあり方、『国民国家』的な共同性……と人類史そのものが高速でシミュレーション的に再現されているようにすら思える。ネット内の共同性について社会学的アプローチを試みた研究はあったとしてもいまは少数だと思うが、(略)だからむしろ、ネット的な現象を批評的にとらえていくとすれば、そこで必要なのは実は共時的、脱歴史的な情報論的思考ではなく、歴史的素養のように思える。」(112P)
 「文学」つまり、もっと拡張していえば、「ことば」がもつ“共通性(コミュニケーション・ツール)”が、安易に擬似的な共同性に回収されていく現実を、大塚は“厄介”だといっているのだ。ネット上での「ことばの共同性」が「ナショナルな言説」として浮かび上がってくることは、「『近代』が『大衆』に与えた不安定な『私』の最も容易な回収先は『国家』なのだという『近代の反復』がその基調にはある』」(124P)と捉えてみせる。
柳田國男や田山花袋を「近代」のメタファーとして援用しながら、いわば、「公」と「私」が連関する位相を解析していくのは、「九条」問題を「文学」や「ことば」における意義として主張し強調することと地続きであることを思えば、現在の大塚英志の到達点を、わたしは率直に容認したいと思っている。
 「他人同士が『社会』なり『国家』なり、何でもいいから共同性の中で生きていこうとした時、一つには、ほら、これが『国家』だから、ここに従えよと出来合いの『公』を示す方法がある。現在、主張される『公』や『公共』はそういう所与のものとして与えられる共同性だ。そして、上からの強い公でしばってほしいという感覚が始末に負えないほど今は肥大している。」(145P)
 だからこそ、「個から出発してビルドアップする共同性」(148P)を対峙させたいと大塚は考えるのだ。「文芸誌的文学」への言表は本書で最後にすると大塚は宣している。確かに「文芸誌的文学」が、必死に、ネット世代に擦り寄っていきながら、延命しようとしている様態は、わたしですら、醜悪感を覚える。
 かつて中上健次は「物語」を「制度」として捉えていた(「物語の系譜」)。「物語」を「文学」や「ことば」さらには「ネット」に置き換えてみれば、「厄介な『現在』」を見通すことができるのではないかと、本書を読み終えて、改めて、わたしは思いいたっている。

(『図書新聞』06.2.18号)

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