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2006年4月28日 (金)

つげ義春 著『つげ義春の温泉』(カタログハウス刊・03.2.10)

 単独の著作(文庫や漫画作品集の再刊本を除く)としては、九一年の『貧困旅行記』、『つげ義春資料集成』以来、十二年ぶりの刊行となる『つげ義春の温泉』(九四年の『全集別巻』からは、九年ぶりとなる)は、つげ義春氏の作品歴のなかでも、出色な著作だといっていい。この本の成立に関わった立場から、成立事情と、この著作がもつ意味を述べていこうと思う。
 企画の始まりは、出版元であるカタログハウスの社主斎藤駿氏の発案からだ。氏はかつて、『「沼」以後全集』と命名された企画を考えたことがある。わたしは、「ねじ式」よりもはるかに衝撃的で、わが国の劇画史のなかでも最重要作品だといっていい「沼」を基点として作品集を編み、そのことを書名に表わすという発想に、ほとんど感動をもって受けとめた。残念ながら、筑摩書房からの全集企画が進行していたため、この作品集は幻に終わったが、雑誌「通販生活」に旧作十一作品が、九四年春号から九六年春号まで全九回にわたって掲載され、後に『つげ義春アンコール劇場』(非売品)としてまとめられ、九八年に刊行されている。
 そして今回、斎藤氏が提案したのは、〈温泉〉というモチーフで漫画作品、エッセイ、イラスト、写真を一冊にまとめた作品集だ。『つげ義春の温泉』というモチーフを直接的に示す書名は、またしても、わたしを驚かせた。直接性をもった書名は、そのままつげ義春氏の世界を表わしていると思えたからである。さて、この企画が果たしてつげ氏に受け入れてもらえるかが、最も難渋な問題だった。
 つげ氏は、はじめ固辞された。その理由は、何度も再編集して本にするのは、読者に対して申し訳ないというものだった。熟考の末、未発表の文章と写真をなるべく多く収録するということで、どうにか承諾していただいたというのが、この本が成立した一端である。
 こうして、刊行にいたった本書には、いくつか特筆すべきことがある。第1部に配置された「温泉写真・イラスト篇」では、温泉写真のすべてとイラストの一部が、単行本未収録、未発表のものとなっている。第3部の「温泉エッセイ篇」では、四百字詰め計算で三十枚ほどの未発表エッセイ三本を掲載できた。そして、第2部「温泉漫画篇」は、六篇の漫画作品(「長八の宿」、「二岐渓谷」、「オンドル小屋」、「ゲンセンカン主人」、「懐かしいひと」、「会津の釣り宿」を収録。ただし「義男の青春」は除外した)それぞれに、つげ氏と長い伴走を続けてきた高野慎三氏の温泉地と作品成立をからめた卓抜な解説文が付されて本書がさらに厚みのあるものとなった。そして、これはいくらでも声高に述べておきたいことだが、西山温泉の少女のイラストを表紙カバーに配置して、本文レイアウトも含めて、「つげ義春の世界」を精緻に息づかせた気鋭のデザイナー、竹井賢氏の見事な造本を強調しておきたい。
 ここまでは、〈内〉からの視線だ。〈外〉からの視線を、本書に向けてみればどうなるだろうか。
 周知のように、つげ義春氏は大変寡作の作家である。漫画作品は、一九八七年に「COMICばく」誌に掲載された「別離」以降、新作は発表していない。それだけに、前年に発表された『無能の人』の一篇、「蒸発」は、つげ氏の観念的な想念が、直接性をもって表現された作品として重要な意味をもっているといっていい。かつて、わたしは、いわゆる「旅作品」といわれている作品群に対して「流離する物語」として捉えたことがある。〈流離〉ということは、孤絶感を内包した存在のありようを示す言葉といった意味合いを持たせたつもりだ。当然、作品「蒸発」を念頭においている。「蒸発」は、作品中の主人公、助川助三と作者つげ義春氏とが二重写しのように、読むものに思わせる。そして物語に挿入されている流浪の俳人井上井月のエピソードと古書店主山井の像も二重に描出されるという構造をこの作品はもっている。主人公、助川は二人の生き方に憧憬をもちながらも、最後に「井月も山井も大馬鹿ものだよ」と語らせている。
 かつて、つげ氏は、九州へ本当に「蒸発」したことがあった。何日かして東京へ戻り何事もなかったように仕事場に就いた(「蒸発旅日記」はその時のことがモチーフになっている)。何処かへ蒸発して流浪して生きていきたいと思い続けるつげ氏の想念は、生み出されていく作品(漫画・イラスト・写真・エッセイ)に当然のことながら反映されていると、わたしは思う。現実の生活が様ざまな足枷となって「蒸発」の実行は叶わないにしても、想念は霧散することはない。つげ氏にとって「蒸発」という想念は、自身の観念であり、宗教観や生きかた、存在のありように関わることなのだ。本書でいえば、約六十点にも及ぶ昭和四十年代から五十年代初めにかけての温泉場の写真の数々は作画のモチーフという考えを離れた、流離するつげ義春の視線で捉えた想念の結晶だといっていい気がする。
 本書の「あとがき」で六十点にも及ぶ未発表写真に関して次のように述べている。
 「作画にこだわらず、単に私が訪れた温泉の紹介として(一部にすぎないが)選んでみた。二、三十年前に写したものなので、現在このような景観を見ることはできないのではないだろうか。私の温泉離れも、みすぼらしい景観が少なくなったのが原因といえるかもしれない。」
 温泉地に「みすぼらしい景観」を求めるということは、そこを「蒸発の場所」としたいという想念からくるものだといっていい。
 かつて、つげ氏はつぎのような旅観を語っている。
 「旅の究極は蒸発して行方をくらますことだと思うんです。ふつうには旅の魅力は一時的に日常から遊離する解放感だと思うんですけど、蒸発はそれを持続させる行為、帰ってこない旅ですから、社会から脱けてしまうことですね。(略)仏教風にいえば自分から解放されるというのは解脱というんですかね、何ものにも拘束されない自在の境地。(略)旅に惹かれるというのは、その奥深い解放感をどこかで感じるからではないですかね。」(「伊那谷の鉱泉宿の辺りで、乞食になって消えていきたい。」『温泉四季vol・1』九一年八月、所収)
 巻頭に多数配置された温泉写真とイラストを見れば、つげ氏のこのような想念がいたるところに息づいているのがわかるはずだ。
 そのことが、本書『つげ義春の温泉』を、著作歴のなかでも出色なものにしている所以だと、わたしはいいたい。

(『図書新聞』03.2.15号)

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