2010年12月 3日 (金)

高本 茂 著『松下昇とキェルケゴール』                   (弓立社刊・10.9.3)

 松下昇という存在を、わたしが初めて知ったのは、六〇年代末頃、確か吉本隆明が主宰する雑誌「試行」のなかでだったと思う。括弧の中を空白にして、〈〉を多用した独特の文章が印象的であった。一度だけ松下を遠望したことがある。当然のことながら記憶は曖昧なので、高橋和巳の書誌を確かめてみると、69年5月29日という日付であることがわかった。東大全学助手共闘会議及び日大教員共闘委員会共催「全国教官討論集会」という、大学闘争(全共闘運動)に共鳴・共闘を表明した、いわゆる“造反教官”の講演集会の時であった。もちろん、わたしは、高橋和巳(この時の講演「大学闘争における文学―生涯にわたる阿修羅として」は、後に著書名となって、『生涯にわたる阿修羅として』に収められている)目当てで出掛けて行ったわけだが、松下の他に天沢退二郎や折原浩がいたと思うが、菅谷規矩雄(わたしは、八〇年代中頃、数回の邂逅を持っている)も参加していたかどうかは、覚えていない。わたしは、この時に、松下が神戸大学で苦闘していたことを認識したのか、「試行」誌上の文章で類推していたのかは、判然としないが、高橋の死を挟んで、やがて闘争の終局が訪れた後も、松下が、孤高の裁判闘争をしていたことを、伝え聞いていたのだが、積極的に発言群に注視することなく、時間は経過していった。松下の死も、なにによって知ったのかも、記憶は曖昧になっていたのだが、本書で、96年のことで、享年59であったことが、確認できた。正直にいえば、大学教師が、大学側を国家権力の代行として対抗していくことの意味に、疑念がないわけではない(著者には申し訳ないが、大学教師という有様にあまり共感できないからだ)。不当逮捕・不当解雇ということに対して闘うことを否定するものではないが、そもそも、ブルジョワ「法」に則って闘うことの矛盾に首肯できないこともある。著者は、松下の徹底的な「法」的闘争を、わたしのような偏見では捉えにくい位相にあることを提示しながら、見事に切開している。
 「松下氏は無罪を求めるどころか、より重い極刑を要求している。これは完全に〈確信犯〉の論理である。もちろん改悛の念などかけらもない。また、第1審の最終意見陳述において法廷の裁判官たちを最も凍りつかせたのは『有罪に確信と責任を持つなら罰金刑ではなく懲役刑を選択せよ、執行猶予は不要、実刑は恐れていない』(略)という発言であった。」
 これは、ブルジョワ法を解体しようとする、松下なりのひとつの方位といえなくもない。このことは、さらに苛烈な闘いの相に見ることができる。松下は法廷の場で、裁判官目がけて〈卵〉を投げつけるという行為をしている。このことをめぐって、著者はこう述べていく。
 「卵は何の喩であるのか。それは国家の幻想性を粉々に打ち砕く〈詩〉だった。法も国家も法廷も、人びとの幻想が生み出した産物にすぎない。場所や建物という物質的基盤や暴力装置を有しながらも、法廷の威信や裁判官の権威などの本質は、すべて張り子のトラにすぎなかったのである。(略)彼にとって卵とは国家にむかって書かれた一行の〈詩〉であった。」
 著者は、本書で、「19世紀半ばのデンマークで、国家と並ぶほどの威勢を持っていた『国教会』の堕落を果敢に攻撃し」、「孤立無援の闘いの中に果てた」哲学者キェルケゴールと「常に単独者とし闘って」いた松下昇を重ね合わせながら論及し、さらには著者と松下の通交も織り込みながら、六〇年代の反権力闘争をもう一度、照射する試みを行なっている。
 さて、ここからは、わたしが本書(著者)に向けて、最も、言及したいことだ。そうした試みの書は、あまたあるにもかかわらず、本書が、わたしに共振してくるのは、松下が著者や北川透(わたしもまた、著者と同じように、『〈像〉の不安』や『〈幻視〉への旅』に大きな影響を受けたが、後年、大学教授となって転進していったのは驚いた)、芹沢俊介(たぶんわたしは、著者以上に芹沢とは親近の関係だったことがあるから理解できるが、松下の芹沢への反応は過剰すぎると思うし、明らかに誤解を湛えている)といった人たちとの通交において軋轢を生んでしまうことの“哀しさ”である。著者は松下との往還をめぐって、後悔の思いを吐露しているが、著者の松下への対応は間違っていなかったと思う。なぜなら、例え、〈国家権力〉を撃つために、〈法〉制度や権力を支えるシステムに対抗して法廷闘争を領導していったとしても、共同幻想としての〈法〉を超克することはありえないのではないかと、わたしはやはり考えざるをえないからだ。おそらく、そうしたジレンマを一番よく理解していたのは、松下自身だったと思う。闘争のプロセスのなかで、退避したり、停止したりしながら、向こう岸へ少しずつ、歩を進めていくことは、ジレンマを相対化していくことの切実な方途となるはずだった。しかし、芹沢や、著者が決別する契機となった滝沢克己への過剰な反応も含めて、松下はただひたすら、対抗してくると思われるものは、すべて全否定するかのように、拙速に前進していくことのみを自らに課したであろうことを思えば、早すぎる死とともに、そこに松下の“哀しみ”の所在を、わたしは、見ないわけにはいかない。

(『図書新聞』10.12.11号)

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2010年11月27日 (土)

西野空男 編集・発行(編集・斎藤種魚、甲野酉)                         『漫画雑誌 月刊架空』(セミ書房刊・毎月発行)

 漫画家・西野空男(『幻燈』を中心に作品を発表、作品集に『幸福番外地』)が、独力で『漫画雑誌 架空』を刊行したのは、いまから四年前のことだった。創刊号が06年12月、第二号は08年4月に発行された。かつての『ガロ』を想起させる表紙デザインは、ひとつのオマージュと志しの証しだったといっていいと思う。第二号には、「平成二十四年九月十日次号発行編集/平成三十八年迄(数年ごと 全十二巻発行)」と記されてあった。しかし、西野はひとつの決断と決意を持って、『架空』の月刊化を企図した。本年の四月発行の四月号(通巻第三号)から、一年間限定で来年の三月号まで計十二冊発行することにしたのだ。題して、『月刊 架空』である。
 「私が『ガロ系』と呼ばれる表現に後戻り不可能なところまでのめり込んだのは、私自身が漫画を描き始めた2000年前後の時期だ。それ以前も漫画は描いていたのだが、自分が描きたい事がなんだかわかっておらず、2000年前後に、なんとなくわかってきて、それらしき漫画が描けるようになったのである。しかしそれを示す的確な言葉はなく、はっきりとした定義のない『ガロ系』という言葉に依存することにした。(広義では『ガロ系』、狭義では『つげ義春以後』と名のった。)その後、西野空男として、どうにかこうにか10年間、生き続けてきた事になるが利益の観点から見れば、未だ存在していないともいえる。しかし現在、私は私自身の犠牲において、少なくとも『ガロ系』へのファイデリティ(忠誠)を獲得したのだと確信している。つまり『ガロ系』が引きずる表現上の問題を、自分の問題として考え、表層的であれ『漫画雑誌 架空』として捉えていると思っている。」(西野空男「制作まで」―『月刊 架空』四月号)
 わたしは、西野のオマージュと志し、決断と決意に対して、無条件で共感を表明したい思いを有しながら、どこかで、留保したい感慨もまたあることに気付いてしまう。リアルタイムで『ガロ』に接していなかった西野のファイデリティ(忠誠)の心性が分からないではない。だが、ひとことで、『ガロ系』と断じてしまうことの危うさを思わざるをえないからだ。『ガロ』は、わたしが中学三年の時に創刊している。わたしが、『ガロ』を手に取るようになったのは、数年後、高校生の時だ。白土三平の「カムイ伝」が連載しているのを知ったからである。そして、その過程で、つげ義春、つげ忠男、林静一の作品と出会うことになる。やがて、つげ義春が作品を発表しなくなった時、わたしのなかで、『ガロ』は、遠い存在になっていったといえる。誤解を恐れずにいえば、『ガロ』は、一貫した編集方針があったわけではない。多くの編集者の出入りがあり、七十前後の時代情況や八十年代の消費社会の到来といったことにまったく影響を受けずに来たわけではないのだ。だから、わたしのなかでは、ひと括りに『ガロ系』と捉えることに、強い異和感がある。西野空男が、『ガロ系』というものを表現の根拠にしたいというのはいい。だが、本来、表現というものはどのような形容も必要ではない。西野空男の表現は、紛れもなく西野空男の表現でしかないのだから、『架空』は、現在の困難な漫画表現のなかで、鮮烈に屹立していけばいいし、屹立していけるはずだと、わたしはいいたい。
 既刊の十月号まで掲載された漫画作品の作家名を列記すれば以下のようになる。西野空男、斎藤種魚、甲野酉、うらたじゅん、おんちみどり、まどの一哉、キクチヒロノリ、手栗天狗郎、西間木隼人、野間真治、高木ひとし、山坂ヨサンセン、浅田拓、高橋学、三好吾一、屋我平勇、三本美治、香山哲、大西真人、鳥子悟、炭子部山貝十、小野原教子、藤田みゆき、斎藤潤一郎、川勝徳重、くるみみどり、砂糖ヒロタカ、ピーター・ラリー、花崎五郎、かなしきじゅんこ、黒川じょん、安倍慎一。他に、「月刊ガロ目次録」、ガロの編集者だった高野慎三へのインタヴュー「高野慎三を原ねる」、金ゐ国許「つげ義春をマップする」、拙稿「『情況』的場所へ」などの連載がある。九月号で月刊化六冊目となった。いよいよ折り返しだ。
※セミ書房=〒146-0085大田区久が原4丁目13-8青木コーポ101(Websiteは、http://www.geocities.jp/bbtu
geken/0wk00.html)

(『図書新聞』10.12.4号)

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2010年11月 6日 (土)

髙德 忍 著                                  『対立と対話――「いじめ」の問題から「対話」の教育へ』                (つげ書房新社刊・10.4.30)

 「いじめ」問題は、依然、現在においても、難題性を持ったものとして在り続けている。たんに、家族関係と教育現場だけの問題に収斂させるには、あまりにも、深層部分が拡張されてきてしまったからだ。しかし、発端は、学校であることには変わりはないが、その教育現場も、「校内暴力」といわれた時代から、内閉化、陰湿化していく「いじめ」が横行する時代のなかで、右往左往しながら浮遊し続け、変容してきたといえる。その変容の様を、長年、高等学校の教育現場に身を置いてきた著者は、「市場原理が導入され」たことによる後退として捉えている。
 「教育改革により学校教育は、完全なサービス業となり、学校の中に消費者中心の市場原理が導入されることで、生徒、保護者は、サービスを受ける側の『顧客』となった。学校での生徒の問題行動は、サービスを提供する側の教師だけの問題になって、生徒にとって不利益だと思われる、校則違反に伴う特別指導では、親の協力は得られなくなった。それどころか親は、塾や予備校と比較して、学校のサービスの質の悪さを批判するクレーマーと化した。その結果、小学校では『学級崩壊』、中学校では『校内暴力』、高校では『私語』や『授業崩壊』が問題になり、精神疾患での教師の休職が増加した。」
 これは、結局、「ゆとり教育」の導入の失態も含めて、「学級崩壊」や「校内暴力」といったことへの対策が、表層的なところでしかなされていないことの証左だと思う。つまり暴力行為と犯罪行為、あるいは、いじめと例えば恐喝といった犯罪行為との境界を、精査することなく、なるべく、極小な現象に押し込めようとした結果だと見做していいのではないか。
 本書の表題は「対立と対話」であるが、そもそものこの対称的な言葉(わたしは、対立と対話はけっして対立する関係の言葉ではなく、対称性を持ったものだと考えている)が発生するのは、関係性が表象される場ということになる。関係性のなかにあって、わたしたちが、なんの齟齬もなくスムーズに通交しうるかといえば、大人社会であっても、それは至難なこととなる。インターネット(パソコンや携帯)の急激な普及によって、子供同士の関係といえども、大きく変容してきているのは確かだ。まずは、携帯を持つことが関係性を取り結ぶことの前提であるとすれば、携帯を持つことを是としないわたしなどは、いち早く排除される側になってしまう。
 「学校の中でも、(略)『平等』が、『集団性』『同質性』として形式的に解釈され、それが中心的価値基準となり、『みんな仲良く』『みんなと同じように……』と、思いやりや協調性を重視した教育活動が行われていくと、そのことがかえって生徒一人ひとりに異質性(差異性)へのこだわりを持たせることになる。/私はそのことを、現在の学校教育の抱える問題として『平等のパラドックス』(略)と呼んでいる。『みんなと同じでないから……』『みんなと同じことができないから……』といった差別感や優越意識は、排他的で制裁的な感情を生じさせる。」
 「校内暴力」や「いじめ」の淵源を、ひとことでは、いい表わすことはできないとしても、著者のいう「平等のパラドックス」は、核心的な視線だと思う。関係性や共同性というものは、同等性や均一性を意味するわけではない。一人ひとりが違う、差異があるという個体性を汲みいれて、はじめて成立つのが、関係性や共同性というものである。差別意識や優越意識が排除する感性を醸成させていくのだとしたら、それは、そもそも関係性というものが転倒していることになる。そしていま、ますます、関係性は転倒したかたちで拡張しているといえる。
 学校などの直接的な場での「いじめ」から、パソコンや携帯上の、つまりIT上での「いじめ」が、現在では頻繁に起きていて、子供たちが自殺する契機にもなっている。ブログへの陰湿で中傷的な書き込み、いわゆる掲示板などでのいやがらせといったことは、拡大化する一方だといっていい。著者がいう「平等のパラドックス」は、いまやIT世界で現出しているといってもいいのだ。
 「『場の空気』を読むために『ノリ』『ぼかし表現』『フリ』などのやさしい関係が、集団への同調圧力として働いているために、その閉塞感が、現実の格差社会の中で『自分だけが何か損をしている』『仲間はずれされている』『悪口を言われている』『自分だけが負け組みである』などの、さまざまな被害妄想を生じさせる。(略)またそれが単なる妄想でなくても、思い込みから、妬み、嫉み、ひがみなどの感情を生じさせ、『ネットいじめ』に発展する。」
 「対立はするが対話が成立しない」関係性が、「いじめ」を増長させるとしても、だからといって「対立をさけ対話が成立しない」関係性というものも、「いじめ」やさまざまな問題を現出させうると著者はいう。「対立と対話」は、わたしならある種の往復運動のようなものであると考える。関係性を繋ぐ機縁として、「対立」から、「対話」への通交は、現在の子供たちをめぐるアポリアを切開する糸口になるはずだと、本書を読み終えて感じたことだ。

(『図書新聞』10.11.13号)


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2010年9月25日 (土)

遠矢徹彦「砂迷宮」                                ――『風の森 第12号』(10年4月10日発行)掲載

 遠矢徹彦が紡ぎ出す物語は、沈潜させた思考の母型が、時間と空間を横断しながら、作中人物に現出させていくという構造を持っている。わたしたちは、遠矢作品に接して、真っ先に、その沈潜した思考の深遠さに、感応するのは、もちろんのことだが、むしろ、作中人物たちが、その思考の波動を伝えていきながら、印象深い像型としてかたちづくられていくという物語性に、共感していくことになるのだ。そのような意味でいえば、『砂迷宮』は、遠矢作品のなかでも、最も、そのことを顕著に示している作品だといっていい。アルコール依存症のため、山陰地方の海岸沿いのサナトリウムで療養していた「私」は、退院の日を迎えた。砂丘を歩いていた「私」の眼前に、突然、「大胆なデザイン」の「夏服姿」の女が、現われる。その女とともに、唯一、開いていた海の家で休息し、「私」は、「アドリア海」を喚起させる、女の話を聞くことになる。「アドリア海」は、この物語の基軸となるメタファーである。そこに散りばめられたメタファーの粒子は、68年のパリ五月革命であり、「私」に纏わる「セクト間の殺人ゲーム」と「通称ノンと呼ばれた女の無意味な死」だ。やがて、「夏服姿」の女は忽然と消える。海の家の女店主は、初めから一人で入ってきて、同行の女性などいなかったと「私」に告げる。女店主に勧められるままに、出所祝いと称して、久し振りのアルコール(ビール)を口にし、迷宮のようなエロス的世界を、「私」は、彷徨うことになる。「夏服姿」の女も、海の家の女店主も、あるいは、海の家に棲みついたという「猫」も、すべて幻影のように思われてくる。いや、「猫」だけが実在していて、もしかしたら「夏服姿」の女も、海の家の女店主も演じ切っていたのかもしれない。秋成の怪異譚のようでもあるが、しかし、この作品は、明らかに別位相の物語として屹立しているといっていい。なぜなら、遠矢作品は、硬質な観念の重層性によって、思考の幻影が、絶えず彷徨しながらも、ある確信に至る場所へと降り立たせていくからだ。     

(『図書新聞』10.10.2号)

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2010年9月10日 (金)

ロナルド・マンク 著/櫻井公人・高嶋正晴・藤田悟 訳  『現代マルクス主義のフロンティア』(萌書房刊・10.3.31)

 どこか喉に棘が刺さったような気分というものがあるとすれば、マルクス主義あるいは、マルクス・レーニン主義といういい方に対してだ。コミュニズムや、ソーシャリズムといったいい方ならまだしも、個人名を冠した立場やシステムの総称ほど怪しげなものはない。僭称するだけなら、マルクス主義という概念はいくらでも広義なものとして見做すことができるからだ。とするならば、必然的にそこでは、レーニン主義もスターリン主義も、毛沢東主義、さらにはポルポト主義も包括されていくことになるといっていい。だから、わたしならマルクスの思想とマルクス主義の思想は、まったく別物として分岐して考えていくべきではないかと思う。
 イギリスの社会学者でもある著者は、本書の表題(原題)を『Mark@2000』(2000年刊)としている(本書の表題は訳者たちが付けたものだ)。著者によれば、「マルクスがパソコンに向かい、(略)最新ニュースを求めてネットサーフィンするといったイメージを喚起する」(本書・序)といった意味あいを持たせたということになるのだが、あながち、的外れではない気がする。そもそも十九世紀中葉におけるマルクスの思想言説は、極めてポストモダンなものであったはずだ。それを、エンゲルスやレーニンが安直な革命理論構築の手立てにしていったことによって、硬直した思念へと換えていき、1989年、ついに決定的な綻びを露出させてしまったということなる。著者は、「ソヴィエトによるマルクス思想の国家イデオロギー化がマルクス=エンゲルス研究所の活動とともに開始されたのは、偶然ではない。(略)マルクスは決して『史的唯物論』に言及したことはなく、ソヴィエト生まれの化け物である『弁証法的唯物論』についてもそうだ」と述べている。まさしく、「マルクス思想の国家イデオロギー化」ということこそが、レーニンからスターリンへと至る、著者のいい方に倣っていえばソヴィエト・マルクス主義の実態だといっていい。51年生まれである著者は、五月革命といわれた世界的な学生叛乱があった68年に象徴されるパラダイムの転換を称揚していく。いささか過大さを思わないではないが、「グラムシに示唆を得た『開かれた』マルクス主義が1968年の1つの帰結だった」とか、グラムシは「マルクス主義の機械論的傾向を打破した」という論述に、本書におけるマルクスの思想及びマルクス主義のあらたな方位を見定めていこうとする著者の思いが集約されている。
 確かに、「マルクスは社会主義が最も先進的な国々で隆盛することを期待したが、社会主義革命の大半は、相対的ないし絶対的な低開発の状況下で起きたという」パラドックスがあったとする著者の指摘は了解できる。ロシアがそもそもそうだったからだ。スターリンが先導して推進した重工業化路線によって欧米に対峙しうる大国へ変貌させようとした社会主義国家・ソヴィエトは、その時点でレーニンが想起した、やがて「開く」べき過渡期国家を強固なものへと「閉じて」いってしまったのだ。その結果、そのことをモデル型にして、「相対的ないし絶対的な低開発の状況下で起きた」社会主義革命の多くが国家権力奪取の手段となっていったことになる。
 にもかかわらず、いや、だからこそというべきか、著者は、あらたなるマルクス主義の方位、すなわち、「開かれた」マルクス主義を見通していこうと本書では試みている。グラムシを起点に、フーコーやジャック・デリダらの仕事を濾過しながら著者は、その道程を示そうとしているのだ。例えば、「フーコーは、『ミクロ』権力による規律のメカニズムに焦点を当てた『毛細血管』的な権力理論を展開した。それは国家主義的なマルクス主義研究の大半と調和しない」としながらも、そういうマルクス主義に対する批判的視線をあえて汲み入れながら、その先へと進もうとしているのだ。
 「脱構築は、批判的な視点をマルクス主義に与える。(略)デリダは、彼自身としては、今や、『マルクス主義における救世主と解放の約束に対して肯定的な思考』を容認している。(略)マルクス主義にとって、脱構築との批判的な分節=接合は、いくつかの利点を持つ。(略)マルクス主義を、なおも学ぶべきものが多くある様々なポスト構造主義のフィールドへと、また、変容の政治を生み出しうる新しい社会運動の政治へと導いて行く。」
 マルクスの思想を脱構築して、新たな思想の相貌を紡ぎ出そうとする社会学者の“苦闘”を眼前にして、わたしの喉の棘の痛みは、いつしか消えていた。

(『図書新聞』10.9.18号)


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2010年8月 6日 (金)

全国貸本組合連合会 発行                           『復刻版 全国貸本新聞 (全2巻)』(不二出版刊・10.7.1)

 貸本店あるいは貸本屋という業種を通した本の流通の始まりは、江戸期に遡る。しかし、出版というかたちが現在と全く違う様態であったことを考えれば、いわゆる小売店と大同小異であったはずだ。1914年に漱石の『こころ』を刊行した岩波書店を例にとれば、そもそもその前年に古書店としてスタートしその後、版元と販売を兼ねて新刊書籍の分野を開拓していったというように、戦前までは新刊書店、古書店、貸本店、出版社といったカテゴリー自体、現在ほど厳密なものではなかったのだ。いわゆるアジア・太平洋戦争(十五年戦争)終結後、わが国は戦後復興期を経て、出版活動が活発化していく。それとともに、本に対する受容は、当然拡大していった。しかし、食生活品に比して、本や雑誌がけっして安価だったわけでなく(あるいは、食生活品を優先させることによって本や雑誌への消費可能分を抑制せざるをえなかったといってもいい)、購買して読むよりは、いわゆるレンタルして読むというかたちの方が、必然的に選択されていく。かつて映画作品がパッケージ化され、VIDEOとして商品化された時、わたしは、大きな衝撃を受けながら、そうした時代が到来したことを感慨深く思ったものだった。だが、まだその頃は高価(確か価格は一万円は優に超えていた)であり、購買して所持するというのは、困難であった。いつしか、レンタルビデオ店なるものが、至るところに開店していく。時代情況や環境、活字と映像というように、まったく位相が違うこととはいえ、レンタルビデオ店が多くの消費者に受けられていくプロセスを、戦後の貸本店が全国的に拡がっていったことに類推させて考えていけば、戦後貸本店の活況を呈した様相は理解しやすいはずだ。
 わたしが、貸本(店・屋)の世界に強い関心を抱くのは、大きくわけて二つほどの事由ある。ひとつは、僅かな期間ではあったが、わたし自身の貸本体験によって、白土三平の『忍者武芸帳 影丸伝』(あえて注釈を加えるならば、当初は貸本流通本としてのみ刊行されたものだ)と出会ったことだ。十代前半期(中学生時)、リアルタイムで接した白土三平の世界は、わたしにどんな少年少女向け世界文学や日本文学の名作より大きな共感を与えてくれるものだった。大げさにいうつもりはないが、わたし自身の思考の核心に最初の方向性を示唆してくれたのは、『忍者武芸帳 影丸伝』であったということである。このことは、貸本(漫画)の表現水位を明示しうる重要な意味を持っていると強調しておきたい。もうひとつは、いささか過剰な言説になりかねないが、戦後構造の問題として貸本(店・屋)の存在を象徴化して考究できるからである。もっと別様にいえるかもしれない。それは、「戦後思想史的な存在として『戦後型貸本』」(梶井純「解説 戦後型貸本の潮流と『全国貸本新聞』」)をめぐって視線を持つことの切実さということになる。つまり、「戦後型貸本店の長かったとはいえない歴史は、じつはさまざまな局面で抑圧の対象となった弱者のそれであった。貸本店は新刊書店や古書専業店よりもはるかに下位の存在として、社会的蔑視の対象とされることもすくなくなかった。(略)敗戦後のある時期――占領が終わって『独立』したばかりの時代の民衆にとって手軽な娯楽機関としての役割を貸本店が担っていたことと無関係ではない」と梶井が述べていくように、戦後過程における生活者の〈像〉というものを、貸本業者ならびに貸本を「手軽な娯楽機関として」活用する民衆のなかに求めていくことができるはずだと、わたしなら思う。ネオ書房といったいまでいうチェーン展開していた貸本店もあったが、ほとんどは小規模で個人営業だった貸本業者のことを考えてみれば、市場経済的にも下位・弱者であったのは、確かであった。55年頃から始まった皮相な“悪書追放運動”は、最も弱い貸本店が主たるターゲットとなっていった。だからこそ、組合的な連合組織の結成は、急務だったといえる。こうして、全国で三万と称されていた貸本業者の連合組織の全国貸本組合連合会が、1957年8月に結成される。機関紙『全国貸本新聞』は、同年9月に、B5判・四頁の体裁で創刊される。本復刻版は、創刊第1号から73年1月発行の第123号までが収められている。梶井純の解説の他に、大竹正春「回想 貸本屋風情」、三宅秀典「『全国貸本新聞』から作ったマンガ年表」「『全国貸本新聞』から作った雑誌・貸本小説関係年表」が第1巻の巻頭に、都崎友雄の『新貸本開業の手引』(54年9月刊)が第2巻の巻末に付録として掲載されている。梶井純は、貸本組合結成に至るキーマンとして、中山庄二郎(1901~61)と都崎友雄(1901~91)の名を挙げている。都崎は、戦前、ドンザッキーという筆名で、ダダイスト詩人として知られていて、25年に「綜合詩誌『世界詩人』を創刊。(略)極東詩人連盟結成の構想を第3号(26.1)に発表するが突然詩壇から消えた。(略)戦後は『古書月報』編集長、貸本組合の理論的指導者、古書店高松堂主人として知られる」(堀切利高・記―『日本アナキズム運動人名事典』)といった人物である。しかも、『世界詩人』には、秋田雨雀、辻潤、小野十三郎、萩原恭次郎、高群逸枝、林芙美子、岡本潤、局清(秋山清)といった錚々たる詩人、作家、思想家が名を連ねていた。都崎は貸本全連には、なぜか参加しなかったのだが、『新貸本開業の手引』には、「吾等が新天地の将来を考へるとき、全国統一組合を結成し(略)状勢の変化に対応して業者の福祉を謀るべきは緊急の要務である」と組合結成の必要性を述べている。
 月刊で発行されていった新聞は、編集を中心的に担っていた中山の死や、貸本業の経営的後退とともに、隔月刊となり、やがて年数回発行というように遅滞し、最後の活版刷でもある第123号でいったん休刊となり、後にタイプ印刷で復刊したものの、不定期刊で継続しながら、94年1月発行の第174号で休刊になったとのことだ(大竹正春「同前」)。この間の時制を考えみれば、情況相として、あまりにも急激な変化を見てとることができる。紙面で、貸本業の営為の厳しさが日に日に押し寄せてくることが明白になっていくのは、わが国の資本制社会が表層的には成熟していったにも関わらず、基層部分では、その恩恵を受けられるシステムではなかったからだ。折からの六〇年安保闘争における理論的基軸が、独占資本との闘いだったことに、それは示される。
 紙面を概観してみれば、編集人・中山の熱い思いを込めたメッセージが、端にある柱部分に頻出するのが真っ先に強い印象を与える。「“貸本全連”は、相互扶助を根本理念とする。聖なる宗教と、その源は一つである」「“貸本全連”は、同志的結合によつて成立つ。革命運動と、その情熱の火は同じだ」(第22号)などは、苛烈だ。創刊号の記事には、「貸本業に自負を持て」というのもある。“志”を共同的に抱くという意味では、通例の組合組織とは明らかに違う位相を、貸本全連は持っていたということになる。貸本といえば、漫画本が主流のように思われやすいが、中心は大衆小説、雑誌だった。「大衆文学論」という連載記事が、第11号から13号まで掲載されていることからも、そのことが窺える。やがて、「漫画作家ベストテン」(第37号・60年9月)や「マンガ家のベストセラー東西番付」(第66号・63年2月)を掲載していき、貸本における漫画本の重要性が明確になっていく。どちらも、「時代物」ジャンルでは白土三平、平田弘史、小島剛夕の三人が、上位を占めている(ちなみにベストテンの方ではつげ義春が第十三位となっていた)。結成時から理事長だった田中利弥(享年59)が、67年2月に亡くなる。一面で訃報を伝える第101号の三面には、「『忍者武芸帳』映画化大ヒット」の記事がある。第102号が四ヵ月後に刊行され、以後、隔月刊となっていき、69年以降、新年号以外、広告は掲載されていない。漫画出版社の広告が“氾濫”していた時期との落差は、余りに大きい。十六年間、123号にわたる紙面を眺めれば、そこに戦後過程の〈像〉を極めて鮮烈に浮かび上がらせてくれている。その〈像〉を通してこそ、わたしたちの現在を考えていくべきではないかと、いま思っている。

(『図書新聞』10.8.14号)

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2010年4月30日 (金)

ボリース・ピリニャーク 著                            川端香男里/工藤正廣 共訳・解説              『機械と狼』(未知谷刊・10.1.25)

 ボリース・ピリニャーク(1894~1938)は、ソ連・スターリン政権下で、反ソ作家として文壇から追放され、37年に逮捕、38年、銃殺によって刑死した。共訳者の川端の「再刊に寄せて」によれば、スターリン批判の年に名誉回復も、ソ連本国では、八〇年代にようやく出版されるようになったという。『機械と狼』は、ピリニャークの第二長編として23~24年に執筆されたもので、73年に白水社から『20世紀のロシア小説』というシリーズの最終巻として初邦訳が刊行された。本書は、その新版である。ピリニャークは、戦前、26年、27年と二度来日して、『日本の太陽と根元』(34年刊)という日本旅行記を出しているし、多くの作品の邦訳が出版され、「戦前のロシア文学愛読者にとっては懐かしい名前」(川端)であるという。これは、革命後のピリニャークは党公認の作家として十年以上は活動していたということになる。しかし、自身のなかに、革命プロセスに対する疑義が絶えず熱いエネルギーとして胚胎していたと見るべきかもしれない。
 わが国では、大杉栄がいち早くというか、唯一、ロシア革命の独裁権力の実態を看破していた。社会主義者・山川均との論争などがよく知られているが、大杉の死後は、スターリン政権の実相を透視できずに、戦後も含めて、わが国の旧左翼のほとんどが、ロシア革命を連続して捉え、理想社会へ漸進化していると見做していた。
 だからこそ、ピリニャークの視線は苛烈だといえる。内側から見たものが紡ぎ出す言葉は、悲痛な叫びでもあるからだ。
 「狼であるぼくらは幸福だ。なぜならぼくらにはいかなる長もないからだ。ぼくは咬みつき、また。友のために咬み合いもする!……そして国家組織が思い負担をかけることが少なければ少ないほど、その国家組織は良いものだ。」「ソヴィエト権力についてですが、わたしはまったく信頼できる筋の情報をもっていると言うことができます。それは、すべての共産主義者たちが新しい宗教信仰に入るよう命令を受けているということ」「機械とは何か?そしてプロレタリアとはいったい何者か?機械には、神と同様、血ハナイノダロウカ?」
 「機械」は、フロレタリア革命によって推進されていく機械主義(スターリン政権が直走った重工業化路線)を象徴しているし、「狼」は、「スラヴ的な民俗の恐るべき獣的な現実、それも古代や中世がついに昨日のように生きていて噴出するようなロシア民衆のありよう」(工藤正廣「思い出のピリニャーク」)だといえよう。
 本書の最終部にロシア革命を、「ロシアがヨーロッパとアジアとのソヴィエト共和国連邦と改称したとき」という記述がある。これは、まさしく、「機械」が、「ヨーロッパ」で、「狼」が、「アジア」を示唆していることになる。広大なユーラシア大陸の北半分を占めるロシアは、そのままアジアからヨーロッパに跨る、連結した空間を構成している。しかしロシア革命後のプロセスは、ヨーロッパ列強に伍していく、つまり重工業化を進めることよってヨーロッパ資本主義を超え、軍事的にも経済的にも優位に立とうとした覇権主義が、ロシアにおける「アジア的なるもの」を後列に配し、ロシア的共同体を疲弊させていったと捉えるべきであろう。ロシア・アジア的なものは後進性で、ソ連・ヨーロッパは先進社会であるという錯誤のまま、やがてソ連は解体していく。
 本書は、幾つもの断章をまるでモザイクのように構成して物語化を企図している。主要人物としては、統計学者のニェポムニャシチイとロスチスラフスキイ家の三兄弟といっていいだろう。統計学者は、物語の中の語り手のように革命プロセスの歪を統計的数字で明らかにしていく。ロスチスラフスキイ家の長男・ユーリイは、当局によって精神病者扱いをされて殺害される。ユーリイの伝言を秘めながら、「狼」について思索する次男のアンドレイのモノローグは、実に印象的だ。
 「全世界は鉄道や機械や工場なしに幾千年も平安に生きてきたじゃないか。そして今よりもずっと幸福だったじゃないか……ロシアは、百姓の、農耕の、賛美歌の、静寂のロシアは、ヒバリや歌や、民間信仰につつまれていた」
 ほんらい改革や革命(政治的なことだけではなく、産業構造的なことも含む)というものは、古いものを否定し解体して新しく組み変えていくことでは必ずしもないとわたしは考える。つまり時間性と空間性は比例するものではないのだ。アジアやアフリカが遅れた場所でアメリカやヨーロッパが進んだ場所とするあやまった歴史理念は、失効させるべきだし、失効しつつあるといえる。
 だからこそ、ピリニャークの「狼」的叫びは、現在にこそ響き渡らせるべきだと思う。

(『図書新聞』10.5.8号)

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2010年4月 9日 (金)

松本健一 著『村上春樹――都市小説から世界文学へ』(第三文明社刊・10.2.20)

 昨年出版された、村上春樹の最新長編小説『1Q84』は、1、2巻合わせて二百万部発売されるという大ベストセラーとなった(3巻は、今春発売)。ベストセラー作家という印象が強い村上春樹だが、これだけ売れた作品は、『ノルウェイの森』以来ということになる。通例、ベストセラー作家に対して、様々な批評がなされることは、わが国の論壇においてはあまりないことなのだが、これまで村上春樹に関してだけは、単著、共著に関わらず数多くの作家論が刊行されてきている。本書もまた、そのひとつとして見做されるかもしれないが、著者が松本健一であることによって、異彩を放った村上春樹論となっている。副題の「都市小説」から、「世界文学」へとは、まさしく本書における村上春樹論の眼目であるわけだが、これは村上作品の主題的な転換を指し示していることを意味している。松本の視点は、「都市小説」とは、「都会で『孤独』に生きる若者と、そのために他者と『つながろう』とする男や女の『愛』という『小さな物語』」を持った「一種の風俗小説」であり、「戦争や革命、あるいは民族の運命や、そのために引き裂かれる人間の愛や死といった『大きな物語』」を持ったものが、「世界文学」ということになる。もちろん、ここでいう「都市小説」は、低次元の文学作品で、「世界文学」は高次元のものだということではない。主題的位相の問題を松本は述べているのだ。そして、その転換の契機を『ノルウェイの森』と『ねじまき鳥クロニクル』として捉えていく。『ねじまき鳥クロニクル』と『1Q84』の間には十五年間という長い時間性が横たわっているが、確かに、この二作品には、村上春樹の主題性への拘りが濃密であるという共通性はあるといっていいかもしれない。
 ところで、村上春樹から遅れること二年後に作家デヴューした高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』(81年)と、村上春樹の『羊をめぐる冒険』(82年)、さらには桐山襲の『パルチザン伝説』(83年)の三作品は、作家的スタンスと方法的差異の違いを承知の上でいえば、わたしは、全共闘運動、あるいは六十年代末から七十年代初頭にかけて生起した反体制的渦動の陰影を抱え持つ極めて屹立した小説であると見做している。もし全共闘運動や反体制的渦動を「大きな物語」として活写するのであれば、「主題小説」の典型として見做されたプロレタリア文学に収斂されることになり、主題を顕在化させることによって主題そのものの空白を表出させることになる。だから、三作品とも、けっして「大きな物語」として露出させてはいない。桐山は独特の文体と象徴的な表現で主題を出来る限り潜在化させることによって作品を深化させ、読む側の共感を喚起していた。村上春樹と高橋源一郎は、一見、桐山とは異質な文体と表現方法を駆使しながらも、同じように主題を潜在化させることによって、主題の持つ深遠さ表出していたといえる。だが、『ねじまき鳥クロニクル』と『1Q84』には、明らかな主題性の積極的な顕在化というものを感受することになる。これは、方法的転換なのだろうか、あるいは、松本的な視点でいえば、「小さな物語」から「大きな物語」への飛翔と見做すべきなのだろうか。『ねじまき鳥クロニクル』では、ある種、唐突に十五年戦争下での暗部が描出され、『1Q84』では、新左翼運動の暗部である党派間抗争とオウム事件を混在させながら、モチーフとして横断させている。『羊をめぐる冒険』が連赤事件を内在していると見做してみれば、ほんらいなら、なんらモチーフとして異和感を抱くことはないのだが、わたしには、なにかが違うといった感覚が読後に残ったのは確かだ。
 松本は、次のように述べていく。
 「人間に『想像』を許さないというシステム自体は、時代によって変化しながらいつも人間社会に出現する、ということです。『1Q84』では、小さなリトル・ピープルがにこやかに出現してきて、踊りを踊ってみんなに幸せをもたらすような物語を作っているけれども、これが要するに、新しい集団のシステムの中では人に『想像』を許さず、人々を精神の内部から支配しているのだ、という村上春樹のメッセージになっています。」
 「かれは都市小説の手法を使いながら世界文学を書こうと挑戦したのだといえます。それは、今までのような心地よい物語を提供しているという過去への自己否定で、そのことによって自ら都市小説の殻を破ろうとしたのだと思われます。」
 松本の言に従えば、メッセージ持った村上春樹作品であり、「心地よい物語」からの脱却ということになる。確かに、そう見做してみれば、『1Q84』に対するある程度の異和感は、払拭するかもしれない。
 いまは、『ねじまき鳥クロニクル』の第3巻によって物語を大きく離反させて、わたし(たち)に落胆を与えてしまった村上春樹が、『1Q84』で同じ轍を踏まないことを期待するだけだ。

(『図書新聞』10.4.17号)

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2010年2月27日 (土)

菅野修・うらたじゅん・山田勇男他 著                       『幻燈 10』(北冬書房刊・09.11.23)

 漫画・劇画作品のアンソロジー集として98年に創刊された『幻燈』は、ほぼ、年一回のペースで刊行されてきた。昨年の3月に第9集が、そして11月に区切りとなる第10集の発行と、初めて年二冊が出されたことになる。しかも、いままでにない300頁を越える重厚な一冊となった。『幻燈』は、六十年代後半期の『ガロ』、『幻燈』と同じ北冬書房が出していた『夜行』(全20集・72~95年)の表現世界を継承していこうとするものだ。端的にいえば、『ガロ』66年二月号に発表され、わたしたちに大いなる衝撃を与えた、つげ義春の「沼」以後の劇画世界を見通すことのできる表現水位に連なっていくことを意味しているといっていい。
 マスメディアのなかで多産され続けてきた漫画作品は、売上の低迷と差し迫る閉塞的な時代情況とともに作品性の深度に翳りが見えてきた現在、商業主義とは一線を画す『幻燈』に参集した作家たちの作品は、いかなる世界を放射しているのだろうかということが、差しあたってわたしの関心事である。そして、表現することの実際は、現実的なことどもを忌避してはありえないということも含みながら、本集の作品群を渉猟していくと、やはり、うらたじゅんの作品へと真っ先に視線を向けざるをえなくなる。ここ数年、『幻燈』誌上で発表されたうらた作品のなかでも、本集に発表された「夏の午後には」は、際立った物語性を表出させて、またあらたな段階へとうらたじゅんの世界は達したといえるような気がする。「いつかひとりぼっちの/おばあさんになったら/夏の午後には/レースのカーテンを/編もう」と、表題を明示した白地の扉の右上に並んで配置された言葉たち。“いつか”、“なったら”ということは、“ならない”、“なれない”かもしれないということを暗示していると考えていい。この扉のエピグラフだけで、わたしは、本作品が含意するところのものを過剰に受けとめてしまったかもしれない。しかし、そうではない。扉の次の頁を開くと、水着の少女が下方に描かれている。そこに「もう老いて/泳ぐことができないが/はじめて海で/泳いだ日のことは/今でもおぼえている」と記している。作品中、唯一、顔の表情を明快に描かれている場所だ。次の見開きでは、記憶の物語を断片化しながら画像と言葉たちは、陰影に満ちて流れていく。このことはすなわち、わたしたちが郷愁というセンチメンタリズムに浸ろうとすることに対して、時間を断絶するかのように強く拒否していることを示している。続く見開きには、「夜の日課は/朝の楽しみを/作ること」と、「私はあと/どれくらい/生きられるの/だろうか」が、対角線上に配置されていく。そして「秋が来ても/冬が来ても/レースのカーテンは/いつもきれいに/洗濯しておこう」と記し、向日葵の種が寂しく点在する画像が置かれる。こうして終景では、力強く咲き誇る向日葵の大輪が描かれていく。この終景には作者の強い意志のようなものが喚起していると、わたしは直截に理解した。自分のいまある場所をしっかり見据えながら、未知の時間性を想起させるうらたじゅんの物語性は、ジャンルを越えて際立っている。
 いまわたしたちは、どんな場所にいるのだろうかと問うてみる。個と共同性の間隙を浮遊し彷徨し、現在というものを見通すことのできない様態のなかにいるといえるのではないだろうか。その様な情況を切開していくためには、物語の力(反制度)を対置すべきだというのが、わたしの考えだ。物語の力とはなにか、それは現実の生活感から湧き出す豊穣な想像力を源泉とする強い意志である。数年前、フリーターの惨憺たる現状と来るべき貧困社会を憂えて、“希望は戦争”と諧謔化した若いライターの文章が、センセーショナルな波及を生起したことがある。そのライターの言葉は、結局、制度の中から生まれた言葉でしかないといっていい。わたしたちは、現実からただただ圧迫感を受苦するだけでは、なにごとも見通すことはできないということを銘すべきである。
 もう一編「嵐々電々」は、記憶の遡及によって、現在の孤立感を象徴化している秀作だ。
 菅野修は、変わらぬ物語力を強固に保持し続けている作家だ。「性と生活」における、圧倒する画像の迫力は、根源的だ。エロスの只中で、シャネルのバックを懇願する妻に対して、「おい/お前 それは/生活必需品/なのか」「本当に必要な」「生活必需品なのか」と激しく発する夫の言葉と表情がすごい。その後の三頁にわたる夫の表情と佇まいとの落差が、代行表象的に現在を鋭く撃っていると見做すことができる。
 以下、それぞれに視線を向けたい欲求を抑えながら、主な内容を列記しておく。
 おんちみどり「古本海岸」、角南誠「彼女の思い出」、藤宮史「或る押し入れ頭男の話・箱舟」、斎藤種魚「タスケ」、西野空男「走馬燈」、永井サク「行ってきます」、片桐慎二「背中」、海老原健悟「香り」、木下竜一「意識」、山羊タダシ「灰と煙」、ネズ実「きれ間」、甲野酉「三人」、小林坩堝の詩「街」「さよなら夢幻島」、天野天街と山田勇男との対談「無意識の世界と夢―少年王者舘公演『夢+夜』にふれて」、金ゐ國許「アクチュアリティと無化―少年王者舘『夢+夜』を観て」、小林坩堝と山羊タダシとの対談「高橋和巳の現在」。
 さて、ここ数年、『幻燈』に参集する作家たちによって様々な漫画誌が創刊されている。西野空男は、自らの編集で『架空』を二号まで刊行し、今春、装いも新たに、斎藤種魚とともに、一年間限定で『月刊 架空』を出す。斎藤種魚と山羊タダシ編集によって三号まで刊行した『走馬燈』は、同じく今春、山羊タダシ単独編集となって第四号が刊行予定、Website「高田馬場つげ義春研究会」を運営している金ゐ國許編集の『別冊 架空[特集・木下竜一 冬の時代]』は、昨夏出され、引き続き『別冊 架空』の刊行が企図されている。作品的には個へとやや内閉的になっていく傾向を持っている作家たちが表現の共同性を模索していることに注目していきたい。

(『図書新聞』10.3.6号)


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2010年1月15日 (金)

國方敬司・永野由紀子・長谷部弘 編                   『家の存続戦略と婚姻―日本・アジア・ヨーロッパ―』                 (刀水書房刊・09.10.16)

 家族または家という構成体から、親族へと拡大展開をしていき、やがて一つの共同体を形成していくという視線を包括的にとるならば、そこには、国家や社会の像を措定しうる位相というものを、透徹できるはずだ。ただしここで前提とすべきことは、家族や家々の集合するかたちそれ自体が、社会や国家へと即時的に連結していく契機を有しているわけではないことだ。わたし自身、これまで、共同体をめぐる諸問題に対して長い間、関心を向けてきたのだが、最も、難渋する切開点は、家族または家という様態に対するアプローチの仕方であった。本論集の主旨は、古代的時空間における家族の淵源や共同体形成過程への遡及にあるのではないとしても、家の存続ということを想起するならば、それは、共同体の位相と切り離しては考えられないものとしてある。
 家の存続とは、どういう意味を持つものなのだろうか。一代を考えれば、死ねば死にきりである。例え、血縁性や財産、資産が継承されたとしても、それは、当代の人たちにとって、死後のことをいくらか安寧に考えていられるに過ぎないのであって、何代か先のことは、実際としては考慮外とならざるをえない。にもかかわらず、いうなれば、家の存続という要請がどこからともなくやってくることになるのだ。
 本書では、「『家・イエ』を家制度とは区別して、基本的には、継承すべき家業・家産をもつ永続的な家族集団」(國方敬司「婚姻と家の存続―『はじめに』として―」)としている。例えば、「第一部 日本の家と婚姻戦略」においては、東北の大名、信州の蚕種家、明治・大正期の三井家、住友家、岩崎・安田家といった旧財閥を対象としている。これは、本書の主旨として婚姻を基軸とした「家の存続戦略」を分析、論及するものである以上、権勢を所有する家族集団がその対象となるのは、当然のこととなるわけだが、「第二部 アジアにおける家と存続戦略」、「第三部 ヨーロッパにおける家と存続戦略」では、幾分、多様な視線を持って、「家の存続戦略」を展開しているといっていい。十三の論稿で構成している本書だが、わたしの関心を惹いた幾つかの論稿に触れて、「家の存続」という意味を見通してみたい。
 岩本由輝「近世大名における家存続戦略」では、出羽久保田藩佐竹氏における藩主継承の問題を精緻に分析している。柳田國男に関する刺激的な諸論を展開してきた岩本が、わたしの故郷でもある秋田・佐竹藩の内紛を描出するという機縁にまず驚いた。そして、岩本も縁のある相馬藩(陸奥中村藩相馬氏)が、佐竹家と深い関係で結ばれていたことを初めて知った。佐竹家の藩主継承に相馬氏の妾腹の子が養子となって入っていくという構図は、戦国大名が、戦略的な婚姻をしたことと、同じ様な位相を持っていると捉えることはできるとしても、時代の違いを考えれば、悲惨な歴史の影とでもいうべきものを感じてしまう。それほどまでに、「家の存続」というものが、共同体的な基層のなかでは、重く潜在しているといえそうな気がする。
 長谷部弘「近世日本における『家』の継承と相続」においては、名声という意味の「名」ではなく、文字通りの「家名」ということへの析出を行っている。「江戸時代の身分として」、「本百姓」であっても、「家業・家産の規模が大きい家々」では、「家督の継承・相続」で「代々世襲する」、「家名」というものは、「実名」というよりは、「通名」であった。「何々家」というものではなく、「何々衛門」といった名で呼ばれるということである。一つの共同体のなかに、同じ「家名」のものが存在していて、それぞれに当然「実名」があるわけだが、「何々衛門」と称することによって、その家が、本家なのか分家なのかということが、わかるかたちになっているのだ。これは、わたし自身も経験していることであり、いまだに、そのように称することが残っている場所があるのは確かだ。
 大澤正昭「宋代士大夫の『興盛之家』防衛策」では、「中国の伝統的な考え方では、個別の家を維持することが大切なのではなく、祖先から子孫へと受け継がれる『気』の流れを絶やさないことが大切なのである」と述べていることに注目した。
 小池誠「東インドネシアにおける家と婚姻戦略」は、「東インドネシアに位置するスンバ島の『家』の事例」をレヴィ=ストロースの親族理論を援用して展開した意欲的な論稿だ。
 このようにして、見てみれば、「家の存続」とは、共同体的要請からくるものであることが推察しうる。それは、なによりも、共同体とは、家々の集合体(家族から親族へと拡大していく過程)の別称でもあるといっていいからなのだ。近現代は、そうした家、共同体を法制度という国家的な統治支配力を持って、婚姻・戸籍というものを強固に管理していった過程であったということができる。本書の論稿は、いわばそうした過程の前段を分析した注目すべき試みだといっていい。

(『図書新聞』10.1.23号)

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