2019年5月 1日 (水)

映画『金子文子と朴烈』の世界

 ほんとうは、「文子と朴烈の世界」という表題にすべきかも知れない。映画作品は入り口であって、その先に過去と現在を結ぶ混沌とした世界があるからだ。だが、映画の金子文子(チェ・ヒソ)は、鮮烈に立っていた。まずそのことから、言葉を対置しなければならないと思いはじめている。
 「私はいつもあなたについています。決してあなたを病気なんかで苦しませはしません。死ぬるなら一緒に死にましょう。私達は共に生きて共に死にましょう」と心の中の熱い思いを記して、文子は獄中手記『何が私をこうさせたか』を閉じている。文子の〈死〉が、〈自死〉なのか〈圧殺〉なのかどうかを確定させる確かな根拠はない。しかし、「死ぬるなら一緒に死にましょう。私達は共に生きて共に死にましょう」という強い共感性は揺らぐことはなかったに違いない。囚われて以後、天皇制という権力の様態と激しく闘った文子と朴烈の共闘は、対なる関係性に象徴させながら、映画の世界で見事に表出させていく。
 監督のイ・ジュンイクは、映画『アナーキスト』(監督:ユ・ヨンシク、脚本:パク・チャヌク、主演:チャン・ドンゴン、二〇〇〇年・韓国)のプロデューサーだった。その映画は、一九二四年の上海が映画の場所だったが、二二年から二六年の東京がこの映画の場所となる。前作、『空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~』(一六年・韓国)は、戦時下の日本で獄死する詩人の有様を、静謐な抒情詩を全篇に渡って援用しながら、見事に描出していった。
 「アナキズムという言葉は、韓国ではタブー視されてきました。共産主義と混同もされてきましたし、『無政府主義』と訳されることで暴力的なものと思われていました。(略)実際に韓国人の政治や権力にたいする志向性をみると、アナキズム的な思考があります。最近のキャンドルデモなんかをみても、アナキズム的な集団行動なんですよね。日本には天皇制が存在するということもあり、比較的、権力にたいする尊重意識や服従をよしとする傾向があるように思いますが、韓国では絶対権力を否定しようとする気質がとても強いです。今後も朴烈や金子文子のようなアナキズム的表現や発想は繰り返されていくのではないでしょうか。」(『キネマ旬報』一九年三月上旬特別号)
 イ・ジュンイク監督の「日本には天皇制が存在するということもあり、比較的、権力にたいする尊重意識や服従をよしとする傾向がある」という指摘は、間違ってはいない。ここ数年に渡った茶番劇(アキヒトの譲位表明とアベの暴走)は、クライマックスを迎えるが、わたしには、なんの感慨も湧いてこない。茶番劇は茶番でしかないからだ。文子と朴烈の対なる関係性が向かう先は、ただひたすら共同性を開いていくことにある。怪写真として見做されている二人の寄り添う写真を敢えて頻出させながら、強固な日朝(日韓)の境界性のみならず、ヤマトという擬似国家体制をも無化させていく映画の力を胚胎させている。微細な部分を重視しながら、事実とは違うといったことを語る方法を、わたしは採らない。震災時、ラジオ放送はなかったから、この映画に隘路があるといえないと思う。
 チェ・ヒソが演じた金子文子は、確かに金子文子だったといっておきたい。
※『金子文子と朴烈』(原題『朴烈』、一七年、韓国)。

(『アナキズム文献センター通信 第47号』19.5.1)

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2019年4月30日 (火)

追悼・うらたじゅん

 うらたじゅんさんが二月七日に亡くなったことを、八日朝、ご主人からの電話で知った。もちろん、この時、ご主人と初めて話したことになる。
 〇二年二月、「胃潰瘍だと軽く考えていたら、胃ガン」だった。八月、「十七年間一緒に暮らした」猫のミルキイが亡くなる。うらたじゅんさんは、十七年間、癌との闘いだった。想像を超えている。言葉を記すことができない。
 うらたじゅんさんとは、九八年に三作品(「冬紳士」―『幻燈 1号』、「思い出のおっちゃん」―『ガロ』4月号、「天王寺夏絵日記」―『ガロ』7月号)に出会ったのが、始まりだった。最初の作品集は、『眞夏の夜の二十面相』(北冬書房・〇三年)である。うらたさんとは、何度も会ってきた。
 『アナキズム』誌には、三作品、発表している。「うわばみのおキヨ」(六号、〇五年六月)は、つげ義春さんが絶賛した。「こんにちは赤ちゃん」(十二号、〇九年八月)、そして、「バクーニンとノーブラ女」(十九号、一五年五月)である。山田勇男監督『シュトルム・ウント・ドランクッ』(一三年)にも映画出演をしている。十四年に会ったのが、最後だったかもしれない。その時に、バクーニン特集を『アナキズム』誌でやるので、作品をお願いしたはずだ。
 『眞夏の夜の二十面相』評をはじめ、作品評は、「図書新聞」紙上で行ってきた。うらたさんからは、俳句作品を掲載した作品集やいろいろな作品を掲載したものを贈っていただいている。どんな会話をしたのか、どんなふうに接してきたのか、明確にいえないまま、この文章を書いている。お嬢さんがいて、子どもが生まれ、おばあさんなったことは、「道草日記」(Web上の公開日誌)で知ることになるが、ご主人のことを含め、東京で会っている時は、何も聞いてこなかったように思う。わたし(たち)は、うらたじゅんさんと会ってきたことになるが、浦田純子さんとは会っていない。一九五四年一月四日、NHKラジオで「紅孔雀」の放送を開始。「第五福竜丸」が三月一日、ビキニ水爆実験で被爆。九月、武内つなよし「赤胴鈴之介」の連載開始。うらたじゅん(浦田純子)さんは、十一月六日に生まれた。

(『アナキズム文献センター通信』第47号―19.5.1)

 

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2019年4月15日 (月)

「吉本隆明」――『【増補改訂】日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版刊・19.4.20)

 1924(大13)11.25―2012(平24)3.16。父は郷里の天草で造船所を経営していたが、不況のため倒産し、夜逃げ同然で、吉本が生まれた年の4月に東京・月島へ移住する。その時、吉本は既に母親の胎内にあった。
 十歳の時から、今氏乙治の私塾に通い、少年期の吉本は大きな影響を受けていく。府立化学工業学校卒業後、42年米沢高等工業学校応用化学科入学。44年初の詩集『草莽』(私家版)を刊行。45年東京工業大学電気化学科入学。卒業後、職を転々とし、やがて東洋インキ製造・青砥工場に勤務。しかし、組合運動によって職場を追われ、56年から特許事務所に就職し、69年まで勤務。
 52年に『固有時との対話』、53年に『転位のための十篇』を私家版詩集として刊行、詩人としての本格的な出立をする。56年武井昭夫との共著『文学者の戦争責任』は、様々な反響を巻き起こすことになる。同年に刊行された『文学の自己批判』のなかで、秋山清は、吉本たちの発言に率直に共感を表明している。吉本は、早くから秋山清の戦時下の詩を高く評価し、後に詩集『白い花』(吉本の解説を付して66年に刊行)に収められることになる詩篇を58年「批評運動」に再録の助力をしている。
 六〇年安保闘争は、吉本にとって大きな転換点になった。以後、戦後体制の基層を徹底的に批判する方途を自らに課していったのだ。埴谷雄高は、吉本が、「唱えた『自立』こそアナキズムの流れの中心にある思想」であると語っている(「無政府主義研究 第2号」1974.6)。61年に創刊した雑誌「試行」(97年74号で休刊)は「自立誌」といわれ、多くの直接定期購読者に支えられ、様々な書き手を輩出した。
 68年に刊行された『共同幻想論』は、国家や法・宗教を人間が作り出した観念領域だとし、全幻想(個人幻想・対幻想・共同幻想)領域を切開しようとした戦後思想史における画期的な著作となった。吉本は、マルクスの思想とマルクス主義の思想は、まったく別物であるという視点から激しくマルクス主義(スターリン主義)批判を展開していったため、赤坂憲雄は、二十歳の頃に「『共同幻想論』をアナーキズムの理論書として読んでいた」(吉本隆明他『琉球弧の喚起力と南島論』河出書房新社1989)というが、ある意味、的確な捉え方だともいえる。
 八十年代に入り、資本主義が高度消費社会に達したことを積極的に評価し、初期からの読者が離反していくことになる。96年西伊豆で水難事故に遭い、その後、身体の衰えが加速していくものの、口述筆記というかたちで、精力的な著作活動をしていく。
 亡くなる最後の一年は、3.11以後の反原発運動に疑義を呈し、結果、原発擁護の立場と見做されながら、その死を迎えた。
[著作]『擬制の終焉』現代思潮社1962、『言語にとって美とはなにか Ⅰ、Ⅱ』勁草書房1965、『吉本隆明全著作集』全15巻・勁草書房1968-1975、『共同幻想論』河出書房新社1969、『心的現象論序説』北洋社1971、『最後の親鸞』春秋社1976、『マス・イメージ論』大和書房1984、『ハイ・イメージ論』全Ⅲ巻・福武書店1989-94、『母型論』学習研究社1994、『アフリカ的段階について』春秋社1998、『吉本隆明全集』全38巻別巻1・晶文社2014---
[文献]『鑑賞日本現代文学30埴谷雄高・吉本隆明』角川書店1982、吉本隆明・久保隆「秋山清と〈戦後〉という場所」『現代詩手帖』2007.10、石関善次郎『吉本隆明の帰郷』思潮社2012

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「信太裕」――『【増補改訂】日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版刊・19.4.20)

 1948(昭23)9.22―----(---)---- 北海道出身。道立滝川高校卒業、法政大学法学部入学、後中退。法政大学アナキズム研究会に所属し、ベトナム反戦直接行動委員会のメンバーだった和田俊一を中心に結成された背叛社に参加。背叛社の理念としては、「直接行動は、一切の権威と権力に叛逆する。この事実=真理を総破壊と称する」というもので、バクーニン理論に通じていくものがある。ここには、戦後アナキズムの運動体が、サロン集団化したことへの苛立ちと、折からの新左翼運動の苛烈化が影響していたことは、明らかだ。
 68年10月6日夜、新宿区上落合の背叛社事務所で製造中の手製爆弾が誤爆するという事故が起きて、背叛社のメンバー全員が逮捕される。唯一の未成年者だった信太は、起訴されなかったものの、公判中、和田が公安権力と癒着していたことが判明、大きな衝撃を受ける。その結果、一部の人たちを除き、旧来のアナキズム的立場の側からは、べ反委の運動は評価されるべきだが、背叛社の運動は、アナキズムといえないという錯誤的発言が露呈していった。ここにいたって、信太は、旧来のアナキズム的立場を似而非アナキスト達と断じ、1969年8月、中央大学学生寮の一室でタナトス社結成準備会を立ち上げる。
 そして、結成にあたっては、「日本のアナキズム運動を主体的に嚮導する力量が不足していることを直視するとき、(略)啓蒙主義的アナキズムを超克し、より激越な反権力闘争を展開し、現今の無政府主義陣営内部に侵食している日和見主義・退嬰主義・敗北主義を排拆する新たな反権力組織を結成するのが焦眉の急と存意する。(略)擬制の自由ではなくして真制の自由を志向し、(略)現今の似而非アナキズム潮流を拝して、新たな革命的アナキストによる組織を結成し逼迫せる革命の橋頭堡を構築し、ありとあらゆる国家権力機構の瓦礫と廃墟の上に黒旗を屹立せしめよ!」と宣していく。
 理念的位置づけの先鋭さは、突出していたが、運動総体としては、宣言通りの激越な闘いというわけには、いかなかった。それは、タナトス社から分岐して結成されたギロンチン社にもいえることだった。70年10月、タナトス社、ギロチン社の共同呼びかけで、富士宮にて全国アナキスト会議が二日間にわたって開かれた。これは、旧来のアナ連やアナキストクラブといった組織とは別のまったく新しい、二十歳前後という若い世代が領導した画期的なものだったことは、強調していい。ここから、ネビース社といった新たな運動体も生まれことも付記しておく。
 その後、運動関係から離れた信太は、関西の方へ転居して、大阪で古書店を営んでいたことと、生前唯一の著作となった句集を出したこと以外、その消息はほとんど知られていない。
 『水の音』と題された句集は、179句が収められ、「春の香や 水の音して 醒むる日の」「戦いの ひまを盗みて 濁り酒」「目覚めるも つかのまの虹かかる空」「粉雪や 虚空に消ゆる 音の影」「忽ちに 消ゆるも夜の 花火かな」などの作品がある。また、「あとがき」には、多行形式で「観し景は/ 古今を/辿る/言の葉の/ 道の/奥処に/ 月/出ずる/ まで」という短歌を記して、一書を閉じている。
[著作]句集『水の音』近代文藝社1991
[文献]信太裕「10.6背叛社事件、その意味するもの―蘇生するアナキズム」『中央大学新聞』1969.9.9、「新たな反権力組織結成にむけて」『THANATOS 創刊号』1969.9、和田俊一『背叛社非政治資料・国体論並びに背叛革命』1968.12

 

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2018年10月 1日 (月)

映画『菊とギロチン』・考

 わたしにとってギロチン社とは、中濱鐡ではなく古田大次郎であった。六十年代後半の対抗的運動の中で、ともすれば情念が直截に奔出する時、既知の理念に仮託することの疑義を払拭できないでいた自分自身の感性が、『死の懺悔』や、啄木の詩篇「ココアのひと匙」へと傾斜していったからだ。中島貞夫監督の『日本暗殺秘録』(69年・東映)で、オムニバスの一篇として古田大次郎(高橋長英)の小坂事件に焦点をあて、『死の懺悔』のモノローグとともに描像していく〈風景〉の秀逸さに共感したことも大きかったかもしれない。山田勇男監督の『シュトルム・ウント・ドランクッ』(14年)では、旧知の廣川毅が演じた。そして、『菊とギロチン』では新人俳優・寛一郎である。
 「恋愛だけではなく、人との距離の取り方などは自分と少し通ずる部分があるのではないかと思うと、日常の古田が少し垣間見えて来るような感覚を覚えました。」(廣川毅「古田大次郎を演じみて、幾つか思うこと」―『アナキズム 17号』13年11月)
 「大次郎の葛藤は、役者一年目の僕自身の葛藤と重なっているところが多かったので、自分に寄せつつ、悩みながら、感情を出し切って演じた部分が多かったです。」(寛一郎、東出昌大との対談「一瞬の三時間半を僕らは活きた」―『映画芸術 464号』18年夏)
 わたしは、二つの作品を対比しようとしているわけではない。また、二人のどちらが古田像に近いのかといったことをいいたいのでもない。「人との距離の取り方などは自分と少し通ずる部分がある」、「大次郎の葛藤は、役者一年目の僕自身の葛藤と重な」るといったことは、関東大震災、そして大杉栄、朝鮮人虐殺後の閉塞的な時代情況のなか、自らの思念を表出することの困難さを抱える古田大次郎の有様を、時間と空間を変容させて、3.11以後へ視線を射し入れてみるならば、息苦しさを抱えるわたしたちの有様に通底していることを意味している。
 映画『菊とギロチン』というタイトルは、確かに菊は天皇の、ギロチンは、ギロチン社つまりアナキストたちのメタファーだとしても、菊の花が好きだという古田大次郎が花菊(木竜麻生)という女相撲の力士に対して共感と恋情を抱き、〈対なる関係性〉をかたちづくろうとしたことの表象だといっていいはずだ。もちろん、もう一つの〈対なる関係性〉、つまり、十勝川(韓英恵)と中濱鐡(東出昌大)の有様も照応させて捉えてもいい。
 中濱と古田が住む舟屋の前には砂浜の海岸が続いている。そこで、「鳥追い女や願人坊主、被災民たち」、そして女相撲の力士たちはもちろん、花菊や十勝川とともに、中濱も古田も一緒に、太鼓や三味線の音に乗って踊っているシーンがある。恐らく、この映画を観た多くの人に強い印象を与えた場面だと思う。そこで、中濱が十勝川に向かって話す。
 「俺の夢はな、満州に行って自分たちだけの国を作る。そこじゃ何もかも平等で。(略)共存共栄の理想郷だ。」
 十勝川は、ただ笑いながら「ホントにできるのかい、そんな国」と応答する。太宰治に「冬の花火」(46年)という戯曲がある。その中でヒロインに「ねえ、アナーキーってどんな事なの?あたしは、それは、支那の桃源郷みたいなものを作ってみる事ぢゃないかと思ふの」と語らせている。瀬々敬久と相澤虎之助の思いは、敗戦後の暗澹たる情況のなかで書かれた「冬の花火」のヒロインに繋がっていくものだ。この海岸での踊る場面で、中濱と十勝川にフォーカスしながら、「中濱鐡と十勝川」というテロップが入る。後段、三治と勝虎が逃避行しようする場面にも「三治と勝虎」というテロップが入る。そして、古田が、花菊を連れ戻しに来た夫・定生を爆弾で脅し花菊を諦めさせる場面。古田と別れたくない花菊が古田に抱きつき口づけをする。そこで、大きく「菊とギロチン」のテロップ。菊は女相撲の力士・花菊であり、ギロチンは心優しきテロリスト・古田大次郎なのだ。
 〈個と個の関係性〉から、〈未知なる共同性〉へとかたちづくることができるだろうかと、いまあらためてわたしは考えている。

(『アナキズム文献センター通信』第44号-18.10.1)

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2017年8月11日 (金)

月犬句集『鳥獸蟲魚幻譜抄』を読む

 著者の第一句集である。文庫サイズで表紙、裏表紙を含め20頁、作品数は、六十一。だが、作品世界は濃密である。

  蝶群れて激しく水を吸ふ白晝

 巻頭の一句である。わたしにとって、偶然にも、二年前、リアル句会で接した作品である。五句提出されたなかで、「棒立ちの神と私と酔芙蓉」とともに、わたしは選んだ。俳句の実作をしないわたしが句会に参加するという大胆なことをしたのは、ひとえに、著者の強い勧めによる。
 この時の句会報に、わたしは以下のような文章を記した。

 言葉(言語)というものには、自己表出と指示表出という二つの位相があるとして、自己表出を突き詰めていけば、「沈黙にいちばん近いところの言語」(『第二の敗戦期』)になると、吉本は後年、語っている。言葉(言語)というものが、リアルなコミュニケーション・ツールであるという拘束性から放たれて、沈黙のコミュニケーションへ至るということを考えてみた時、俳句作品が通交する場所は、まさしくそういうことなのではないかといいたくなる。つまり、言葉が本来の意味を超え出ていく時、作り手と読み手の間に不思議な沈黙のコミュニケーションがかたちづくられていくことになるのだ。「棒立ち」が「酔芙蓉」へと展開されていく情景や、「蝶」の「群れ」から、「白晝」へと連結されていく時、ここでの超え出ていく言葉たちは、まさに、そういうことを、わたしに喚起してくれる。                         (『夜河』No.02---2015.10)

 ここで述べたことを、幾らか補足したい欲求がいま、わたしに起きている。俳句の実作者と作品のモチーフとの間にもまた、沈黙のコミュニケーションへ至る往還の場所があるのではないだろうかと。モチーフが実景か想起したものかに関係なく、作者自身が俳句という表現のなかに、自分自身を投射して沈黙の共同性をかたちづくることで、作品というものを屹立させていく。月犬作品に接して、わたしが、感受することは、それに尽きるような気がする。
 「激しく水を吸ふ」のは、作品のモチーフとしては、“群れた蝶”なのだが、実は、“自分自身の有様”を描出しているのだといいたい。“白晝、群れた蝶が激しく水を吸ふ”というイメージは、作者自身が、“激しく水を吸ふ”ことへコミュニケートしていくことの動態というべきではないのか。なによりも、強調していいたいのは、“飲む”のではなく、“吸ふ”ということにある。だから、“激しく水を吸ふ”ことは、“有様”であるとともに、“このようにしか生きられない”という〈表象〉なのだ。

  遠くから砲聲聞こえ蝶の午后
  手にすれば若き蝗の濡れてをり
  象連れてゆく七月の海岸へ
  夜の鳥霧動きたる河口かな

 月犬俳句が、わたしを刺激してやまないのは、絶えず喚起する詩語があるからだ。“砲聲”と“蝶の午后”、“若き蝗”と“濡れて”、“象連れて”と“七月の海岸”、“夜の鳥”と“河口”というように、詩語を連結させながら多様なイメージを喚起する、これらの作品は、わたしをいうなれば言葉以前、つまり未生の世界へと誘っていくかのようだ。戦争や争闘といった情況のなかでの“砲聲”を、“蝶”を媒介することによって、無化していくと見做してもいいのだが、わたしは、少し反転させて読み解いてみたい。“蝶”は、作者自身(あるいは、投射された作者像)であり、“砲聲”は、様々に重層化する人の大声であり、雑音のような言葉の暗喩と捉えるならば、“午后”という“場所”は、それを遠ざけていく〈時間性〉として描出されていくことになる。

 手にすれば若き蝗の濡れてをりの“濡れた蝗”に視線を馳せる作者自身の抒情的感性に、わたしなら、率直に感応する。

 象連れてゆく七月の海岸へを初出時に見たとき、“大往生した井の頭の動物園の象なのか。ならば、海岸ではなく、ほんとうは彼岸なのかもしれない”と解したのだが、時間が経過すると、“象”は、様々な生命ある存在の象徴として見做すことを可能にしている。“連れてゆく”場所が、“七月の海岸”であることによって、詩情性が横断していく。

 “河口”という詩語は、直ぐに重信の作品を想起させるが、夜の鳥霧動きたる河口かなでは、“夜の鳥”という有様によって、俯瞰視線を持つ鮮烈な作品として、わたしは感受した。

 これらの作品は、すべて初出時になんらかの応答をしたものだ。
以下、幾つか作品を引いてみる。

  もうすでに壱個の死なる夏の蝶
  魂の柔らかきところに靑蜥蜴
  海渡る宣教師の夢の鯨よ
  壱本の杭を離れぬ冬鷗
  鱶裂かる遠い港の夜更けかな

 
 句集名から分かるように、全作品、“生命あるもの”を織り込んでいる。だからといって、著者は、生命賛歌のようなことはしない。むしろ、生きていくことの苦渋感のようなものを胚胎させていく。 

  白鳥や未來といふは仄暗し

 最後の作品は、そのことを最も象徴している。わたしのなかで、“白鳥”は、アンビバレンツな存在である。けっして、なにかを仮託したくなるような存在ではない。確かに、“白鳥”と“未來”は連結しやすいこととして想起できるかもしれないが、反転させてみれば、そこは、“仄暗”い場所を表出するものとして、描像できるのだ。だから、迷わず、“暗ければ渾べて良し”といいたい。


※夜窓社・刊、2017.7.20発行(非売品)。但し、正式な書名は、“魚”の“脚”が、“大”である。

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2017年6月20日 (火)

白島真・著『詩集 死水晶』を読む。

 本詩集は、著者にとって第一詩集ということになるが、1974年から1995年までに発表された作品(ただし、76年から84年の間に八年間の空白期がある)と、さらに二十一年という時間を経て、2016年に書き下ろされた詩作品によって構成された詩集であるから、わたしは、あえて、“詩集成”といい方をしたいと思っている。
四十数年間という時間の横断のなかで詩人が紡ぎ出した詩作品の集成は、年齢的にいえば、二十四歳から六十六歳までになるわけだが、初期と現在における二作品を象徴的に取り出しながら、『詩集 死水晶』の世界へと近接してみたいと思う。

   生きたままの花の化石になりたい
   という少女がいて
   街は、霞のようにかすかに
   かそけく 輝いているのだった
    (略)
   セカイは思惟と思いに分断された

     浮遊してくる白茶けたちちははの記憶
     抒情はいつだって孤独だ           (「花の化石」2016.7)


   溢れる海の思想(おもい)を
   透いた生命の鼓動にのせて
   ぼくはきみに語りたい
    (略)
   いま冷たい祈りのように
   ぼくの内側から崩れていく海がある    
                           (「ぼくの内側から崩れていく海」1974.8)

  「少女」という詩語から、真っ先に浮かべる詩篇がある。吉本隆明の「少女」(56年)である。しかし、いまから、六十年前の、しかも吉本、三十代の詩篇の中の「少女」を、安易に繋げるのが、わたしの本意ではない。センシティブな吉本の「少女」に比べて、白島真の現在における「少女」は、必ずしも、感傷的な、あるいは抒情的な存在として描像されているわけではないからだ。しかし、そこには、共通の様態を見通すことができるはずだと、わたしには思われる。白島にしても、吉本にしても、「少女」という暗喩に、自分自身の有様を投射しているといっていいはずだ。
  「生きたまま」であることと、「化石」とは、アンビバレンツな表出である。それは、「思惟と思いに分断された」、「セカイ」へと通底していくことになるのだが、同時に四十二年という時間の遡及によって、「溢れる海の思想(おもい)」を透徹していることだと、わたしには思われる。
 そしてまた、父と母の記憶を「白茶けた」ものとしながら、孤独な抒情を噛みしめている現在は、「ぼくの内側から崩れていく海」が重ねられているといっていいのではないか。そのような場所に、詩人・白島真の詩の言葉は時間と空間を鮮鋭に横断させ、わたし(たち)に、回収されずに沈潜した感性の織のようなものを示しているといいたい気がする。思想を「おもい」と表象させる白島にあって、そもそも沈黙期や空白期というものは、ありえないのだ。それらは、時間を横断させながら繋がっていくものだからだ。

   影のように覗きこむ者がいる
   死水晶のきらめき に憑りつかれた
   もうひとつのわたしのかげ

   わたしが捨てた影のため
  涙はその落ちる位置をしらない
  盃はいつも 毒のように吞みほされている    (「死水晶」75.4)

  「死水晶」とは、鮮烈な詩語だと思う。死への鎮魂が込められていたとしても、わたしには、想起しえない言葉だ。「水晶の死」といういい方を誰かがしていたように記憶するが、そもそも、「水晶」に対するわたしの感受のし方が、極めて皮相なものでしかないから、「死」を冠せられる時、「水晶」が、あたかも“水際立ってくる”ように感じられたといっていい。だが、この詩作品が、わたしの心奥へと刻んで入ってくるのは、「もうひとつのわたしのかげ」、つまり「わたしが捨てた影」という暗喩があるからだ。影は死に憑りつかれているとして、やがて、必ず、自分にもやって来る「死」というものは、誰かの「死」を介在させることでしか、感受しえないことによって、哀しみが増幅させられていくからだ。

    (ああ きらびやかな予感の死水晶!)


   光の裏側には
   だれも知らない
   青白い湧水があって・・・・・         (「発寒通信「界川遊行」Ⅱ」90.3)

 だからこそ、十五年後に紡ぎだされた詩作品には、「きらびやかな予感の死水晶」として、自らの有様を投射できるのだといっていい。わたしは、この「きらびやかな予感」という詩語に共感する。

   ああ、瞳が
   瞳が死に向かって光ってしまうよ
   やさしさに崩れていく月夜の晩に
   生まれたばかりの胎児がのそり
   のそりと動いているよ
   そして見えない海のざわめきが
   幾重にも尾をひいて
   枝垂れる俺の内側を
   そんなにもいちずに噛み砕いていくのだよ    (「澱む月夜」74)

  わたしが、集成中、最も感応した詩作品の最後の一連を引いてみた。「瞳(め)」、「月夜」、「胎児」、「海」、そして「死」が、「俺の内側」に貼りついて澱んでいる。本詩集成の詩人は、「詩を書くことは私にとって救済であり、自らのタナトスへの憧憬を断ち切る手段でもあった」「この詩集は私のこれまでの生の全記録とも言える」(「あとがき」)と述べている。澱みは、澱みのまま、人は、どうしようもなく、貼りついたままにしておくのかもしれない。だが、白島真にあっては、生きていくことと、「死」への傾斜は、同時的に時間を重ねていったことなのだ。「詩を書くこと」は、「救済」であったとしても、紡ぎ出す詩世界は、「思惟と思いに分断され」、「抒情はいつだって孤独」であり、「ぼくの内側から崩れていく海があ」り、「海のざわめき」は見えないと、絶えず語られていく。恐らく、いまも、そうに違いない。
 
 本書の巻末に付された福島泰樹による、熱い解説「復活の歌」に誘われながら、詩人・白島真という「物語」を、もう一度、辿る時、わたしには、この詩人が、かつて見ていたであろう情況的なる風景を、どこかで同じように見ていたかもしれないと、感ずるようになった。そのことの、根拠や理由を、いまここでは語らないでおこうと思う。少なくとも、わたしなりの白島真の詩世界から喚起されたことを記したことで、とりあえずは止めておきたい。


※七月堂刊・17.3.7[A5判・176P・本体2000円]

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2016年5月15日 (日)

有馬弘純 著『漱石文学の視界』(論創社刊・16.2.15)

 夏目漱石を国民的作家として評価する見方に、わたしは、釈然としない思いを抱き続けながら、作品を読み続けてきたといっていい。なぜなら、『それから』や『明暗』に代表される作品は、国民的といった茫漠的な相貌には、ほど遠い深い位相を湛えた作品だといえるからだ。
 かつて、吉本隆明は、「『それから』に象徴される漱石の反発は」、「膨張していく社会」への反発であると述べたことがある。それは、急速に拡大化していったことで、露わになった明治近代国家の歪みを最も早くから感知していた作家が漱石であったことを吉本は指摘したかったのだと思う。
 四十六年にわたって書き継いできた漱石論の集成である本書の著者もまた、『三四郎』、『それから』、『こころ』、『明暗』といった漱石作品を視界の中心に据え、その深層へと迫りながら、「誰よりも、限りなく深い実感者としての現実の認識的体験をもち、それだけに暗く絶望的な思想、生活状況に陥ちこみながら、進んでそのような矛盾と苦悩にみちた大きな壁にたちむかっていった作家である」「現実世界の基底にある実相をほりおこし、それにたじろぎあとずさりすることなく毅然とした姿勢で視つづけ、その暗い淵にあしをすべらしたり、溺れたりすることもなく、果てしなく持続的に戦ったといえる」と鮮鋭に述べている。膨張する社会という時、そのことが、現在の情況にも通底していえることだとするならば、いまだに、漱石作品が読まれていることは、当然のことだといっていいはずだ。

(『通販生活 16年夏号』)

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2015年4月12日 (日)

五十嵐進 著『雪を耕す――フクシマを生きる』に喚起されて

 本書は、『らん』誌上にて連載中の「農をつづけながら…フクシマにて」(12回までを本書に掲載)や、『駱駝の瘤』、『横校労』に掲載された、3.11以後「福島の東京核発電所の爆発で福島がフクシマになってしまった年の7月から」毎月書いてきた「フクシマレポート」を纏めたものだ。さらに著者の俳句作品七十五句と、「極私的関心事としての震災後俳句」と題して、〝以後の俳句表現〟における著者の姿勢を述べた文章群も収められている。
 「フクシマレポート」は、放射線量を気にしながら生活せざるをえない場所からの、「国」や「政府」、「行政」に対して、日々、憤怒する「声」たちを綴っていく。例えば、「低線量、高線量に関わらず平常とは違う放射線量があることは確かなのだ」、「耳慣れない熟語かもしれないが原子力発電は『核』発電なのだ、ということをもっと露出すべきなのだ」、「磐梯山の渓流に棲むイワナやヤマメ、檜原湖のワカサギは出荷停止になっている。この世界規模の放射性物質飛散の下、こういう庶民の地を這う苦難をよそに、その筋は大飯原発を再稼働させようと画策している。フクシマから何も学ばなかったのかというのか」と断じていく。
 俳句や短歌、現代詩、その他の表現にもいえることだが、戦前の無残なプロレタリア詩や、戦争賛美詩のように、主題主義的な表現は、表現自体の死を意味するから、反核・反原発をモチーフにして表現することの困難さは、つねにあるはずだ。
 しかし、それでも著者は次のように述べていく。
 「当事者の怒りは、哀しみは、屈辱は、『数年』という時間の鑢によって確実に鈍磨する。私は『忘恩』であっても声を挙げることは大事なことだと思う。歴史に残る名作でなくてもいいではないか。表現の器を持つものは幸いである。器にことばを盛れ。それを互いにぶつけ、鍛えていけばいいのだ。(略)火源の激しさがあってこその『詩』ではないか。(略)現場の火傷のリアルがあるではないか、と思うのだ。」
 わたしは、著者の熱く憤怒する「声」から、直截に喚起される情動を感じないわけにはいかなかった。
                                                        
※影書房・14.12.25刊

『らん 69号』(15.4.10)

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2014年12月15日 (月)

悔恨としての『大杉全集』【『大杉栄全集・第5巻』「月報」】

 完全版全集と銘打った『大杉栄全集』の刊行が始まった。現代思潮社版(全十四巻、63~65年刊)から50年という年月が経っているのだから、歳月茫々というべきかもしれない。大杉栄らが虐殺されて90年以上経ったことになるから、全集は死後40年に、そしてさらに50年経って完全版が刊行されたということを考えてみると、時間の経過に、奇妙なアンバランスができてしまっていることに気づかざるをえない。ところで、わたしにとって、現代思潮社版『大杉栄全集』にたいし、いまだに、悔恨という思いが、心の奥底に張り付いてしまっているのだ。
 比較的美本状態の全集を一括して古書店で買ったのが、一浪の末、大学に入学した69年の春だった。親からもらった祝い金で、購入したことが、なによりも、いやな感じを自分自身が抱くことになる。合格祝いと『大杉全集』が、その時、なんの屈託もなく結びついたわけではないと思うのだが、親を騙して、〝リャク〟をした気分のようで、その後、何年も後ろめたい思いを引きずってしまったのは確かだった。
 なぜ、全集をと思ったのだろうか。記憶を手繰り寄せてみるならば、全集以外、入手可能な大杉栄の単著というのは、『日本の名著46 大杉栄』(69年1月刊)しかなかったからだと思う。いまとなっては、いささか気恥ずかしさしか湧いてこないのだが、『日本の名著』版を読んで、さらに、大杉の著作に触れてみたいと思ったのは、間違いないと思う。
 わたしのアナキズムへの関心の契機は、高校時代に高橋和巳と埴谷雄高に接したからだ。この二人の作家によって、漠然とマルクス主義よりも、アナキズムという思考方法に興味を抱いたといっていい。だから、「レーニンは一揃いのレーニン全集のなかにしか存在しない」(埴谷雄高)のであれば、埴谷に倣って、「アナキズムの大道をハイカラに歩いた大杉栄」(鈴木清順……この名言は、四年後に知る。もちろん、清順独特の諧謔である)の一揃いの全集の中に、大杉栄を見出そうとしても、いいと思ったのかもしれない。
 だが、前年(68年)の秋に刊行された吉本隆明の『共同幻想論』を読んで、国家や法、宗教を共同幻想として捉えるアプローチの仕方が、国家や権力の無化を希求するアナキズムの思考を大きく包括するものだと、わたしには思えたのだ。後年、わたしより四歳ほど年少の赤坂憲雄が、二十歳の頃に「『共同幻想論』をアナーキズムの理論書として読んでいた」と述べていたのをみて、同じように感受していたことを知り、なぜか、安心したことを覚えている(わたしが、知る限り、いわゆるアナ系的な場所で、吉本に共感していたのは、秋山清と内村剛介以外知らない)。だから、『大杉全集』を目の前にして、物足りなさを感じながら読んでいたような気がする。極端なことをいえば、「獄中記」や「自叙伝」をのぞけば、「ロシア革命論」と「バクーニン」についての論稿ぐらいしか、関心を惹かなかったはずだ。つまり、悔恨というのは、一揃いの全集を買うまでもなかったかなと思ってしまったことにもあるし、なにかをいますぐに吸収しようと性急に思ってしまったことにもある。さらには、身分不相応に全集などを持った気恥ずかしさからくるものだともいえそうだ。
 「マフノビチナ(註・わたしたちは、通常、「マフノ運動」と称していた)とは、要するに、ロシア革命を僕等のいう本当の意味の社会革命に導こうとした、ウクライナの農民の本能的な運動である。マフノビチナは、極力反革命軍や外国の侵入軍と戦ってロシア革命そのものを防護しつつ、同時にまた民衆の上にある革命綱領を強制するいわゆる革命政府とも戦って、あくまでも民衆自身の創造的運動でなければならない社会革命そのものをも防護しようとした。」(「無政府将軍 ネストル・マフノ」)
 現代思潮社版全集の第七巻を手に取ってみると、この箇所に線を引いていた。「本当の意味の社会革命」、「農民の本能的な運動」、「民衆の上にある革命綱領を強制するいわゆる革命政府」、「民衆自身の創造的運動」といった言葉に感応しただろうことは、直ぐに推察できる。
 そして、いまのわたしは、今年(2014年)のはじめに生起した、ウクライナでのロシアからの独立運動を知って、すぐにマフノ運動に繋げ考えていた。メディアは、ロシア派と欧米派だけの対立としてしか報道しないが、歴史的連続性を考えてみれば、ウクライナ民衆の、ロシアでもない欧米でもない本能的な自立の声があるはずだと思っている。無数のマフノ、つまりウクライナ民衆の声を聞くことから、わたしたちの彼らへの連帯は始まるのだといいたい。これは、大杉に誘われてきたことの、ひとつの証しだといっていい。45年が経過して、悔恨が少しだけ薄れてきたことを、いま、感じている。

(『大杉栄全集・第5巻』ぱる出版・14.12.10刊)

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