2020年6月 1日 (月)

吉本隆明との〈通交〉をめぐって

 詩人の清水昶は、かつて「青年期につよい影響を受けたひとに出会うのは、いまでもわたしには怖い気がする。埴谷雄高、吉本隆明、谷川雁、この三人には、わたしは会いたくなかった。(略)『鮎川信夫著作集』完結記念講演会で大それたことに司会などをやったとき吉本さんが講演した。そのときわたしはボーッとあがってしまった。吉本さんとはひとことも口を利かなかった」(『詩人の肖像』八一年刊)と述べていたことがある。わたしは、昶さんより、ひと回り後の世代だから、谷川雁からは、ほとんど影響を受けていないので、埴谷、吉本となる。埴谷さんには十代後半に初めてお会いし、その後、友人とインタビューをした。吉本さんの講演は何度も聞きに行っているし、学生時代、講演録を起こしたこともあるが、直接会って話したいと思ったことは一度もなかった。昶さんのように、「怖い」ということではなく、著作世界に接し続けるだけで充分であり、そのことに共感性を抱き続けることでいいと思っていたからだ。
 八三年頃に、吉本さんの長女で漫画家のハルノ宵子(多子)さんと親しくなり(いまでも、交流は続いている)、どうしても、多子さんに伝えなければならない用件があり、電話をして、もし吉本さんが出たらどうしようと思いながら、ダイヤルを回したところ、お母さんの和子さんが出て、ほっとしたことを思い出す。
 その後、〇五年に『秋山清著作集』(ぱる出版)の編集にかかわることになり、吉本さんに推薦文をお願いすることになった。万事休すである。電話をかけ、多子さんに取りついでいただき、初めて、声を交わす。終わってみれば、著作世界だけでと固執していたことは、けっして声高に言うべきことではなく、粛々と関係性は開いていくべきだと思うようになった。わたしの妻が、俳句を通して和子さんと手紙のやり取りをしていたこともあり、その年の吉本家の忘年会と、翌年の花見の会から二人で参加することになった。
 九六年夏、吉本さんは水難事故に遭った。奇跡的な回復後、精力的に執筆活動を続けた。わたしがお会いしたころは、足腰が大分弱くなったころではあったが、変わらず、いろいろな話ができたのは、貴重な体験をしたといま思っている。
 『秋山清著作集』[全十一巻・別巻一]が完結し、「現代詩手帖」で特集を組むことになり、巻頭に吉本さんへのインタビューを掲載することを発案し、吉本さんに快く引き受けていただいた。〇七年六月五日のことである。自宅に伺い、わたし一人で吉本さんと五時間ほど話したと思う。二人だけで会っていたことに、特に緊張することもなく、中程からは、本題から離れて様々な話題を横断するかたちで談笑したといえる。もちろん、掲載するのは、詩の雑誌なので全部を収録できなかったが、なかでも、わたしにとって深い印象を抱いた吉本さんの発言を紹介したいと思う。
 「詩のほうで二十代、三十代の人たちの作品を読むと、なんかこれから後のことを考えたりすることが、お年寄りと同じで、億劫で億劫でしょうがないという感じなんですね。(略)それなら、いい詩を書くために踏ん張ったという作品を出してくれればいいですが、そういうものもないんですね。(略)詩を考えるみたいなところで、難しいことしか言えないなら、それはそれでいいから、詩らしくしてくれと思うんですが、そういうものもない。」(「現代詩手帖」〇七年一〇月号)
 これは、詩の世界のことだけではなく、若い世代の混迷様態を切開しているといっていいと思う。
 その後、〇八年五、六月に春秋社の仕事で、『第二の敗戦期』という本を進めて、吉本さんに起こした原稿を提示したが留保されてしまった。その頃、なぜか数多くの留保された本があったようで、吉本さん逝去後、次々と刊行された。多子さんは、父が引き受けたものはすべて刊行するという判断をされて、わたし(たち)の『第二の敗戦期』は、一二年一〇月に刊行した。
 「気心の知れた友達同士で同人誌を作るみたいな感覚を持ち、三人以上いればしっかりした集団ですので、そこでいろいろなことをやってみる。つまり、ここだけはすこし自由・平等なんだという、三人ぐらいでそういうものを作っていく、ということがたくさんできていけばいいと思っています。」(『第二の敗戦期』)
 吉本さんの優しい視線は普遍性を有しているのだ。

(「トンボ 10号」20.6.15)

 

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2019年9月25日 (水)

吉本隆明・北川太一、そして光太郎へ

 吉本隆明は私家版詩集(『固有時との対話』、『転位のための十篇』)の後、武井昭夫との共著『文学者の戦争責任』(五六年九月)を刊行する。集中、巻頭に配置されたのが「高村光太郎ノート―戦争期について―」であった。翌年七月、初めての単著『高村光太郎』を飯塚書店から上梓する。この著作は「この国で高村光太郎について書かれた、最初の単行本」(北川太一)であった。さらにその翌年十月、五月書房版が、六六年二月、『決定版』が春秋社から、そして七〇年八月、同じく春秋社から『増補決定版』が刊行されてくというように、吉本の高村光太郎論の書籍のかたちでの足跡を辿ることができる。
 わたしにとって、高村光太郎とのはじまりは彫刻家であった。小学生時代、光太郎の最後の彫像作品となった十和田湖の乙女の像を見ている。詩作品に初めて接したのは、中学一年生の時だった。自分で意識して接したわけではない。担任の教師が、黒板の上方に額に入れ「道程」の一篇を掲示したのだ。漫画(劇画)しか読まなかったわたしにとって、残念ながら毎日見る光太郎の詩は退屈な言葉としか受け取れなかったといっていい。『智恵子抄』の詩人だったことに繋がったのは、それから数年は経ている。
 吉本の著作は高校生の時に、江藤淳の論稿を読みたいため、購入した『われらの文学 22』(六六年、講談社刊)で初めて知ったことになる。その後、六十年代後半から、吉本の著書のほとんどすべてに随伴していった。
 わたしは、戦争期の光太郎の詩群を切開していく吉本や、「暗愚小伝」に鋭く切りこむ秋山清に対して、異論はないものの、そこから滲み出てくるものは、光太郎の孤絶感ではなかったのかと思わないではない。父光雲との潜在する確執、そしてその死、妻智恵子の死を経ての、戦争期から戦後の時空は、光太郎にとって悲痛の日々だったはずだが、むしろ自らの立ち位置を徹底していくことだったといっていい。吉本の『高村光太郎』はそのようなことを濃密に放射していったといえる。
 何十年も前に、花巻の高村山荘を訪れて思ったことは、まさしく「暗愚」ということの不可思議さが想起されたことだった。敗戦時、二十代前半の年齢だった吉本、北川太一に導かれるように光太郎の世界を理解したつもりであったが、どうしても賢治や啄木とは違って、光太郎の紡ぐ詩群との間隙には埋めようもできない深い暗渠があることに、わたしは諦念のような思いを抑えることができないでいた。
 「昭和二十年四月、智恵子と共に半生を生きた思い出深いアトリエは、空襲によって炎上する。六十二歳、寡にして孤。彫刻刀と一束の詩稿の他、一切を失った光太郎は、彫刻の材を求めてする東北放浪を夢み、さそいによって、岩手県花巻の宮沢清六方にうつる。肺炎臥床。東北の人と自然の中で回復する光太郎に再び戦災。そして終戦がくる。(略)光太郎を取巻くのは、北方の美しくもまた厳しい自然のみではない。/その一つは戦時の行動への、さまざまな形での弾劾である。(略)光太郎は書く。『小生の戦時中の詩について摘発云々の事はいささかも驚きません。……小生の詩は多くの戦争によつて触発された人間美をうたつたものですが此際釈明などしたくもありません。若し招喚などうけるやうな事があつたら、語るべき事を語る機会を得たやうなもので、それも亦可なりと存ぜられます。』(佐藤隆房宛)」(北川太一「評伝 高村光太郎」)
 光太郎は自らの理に反して戦争詩を書いたわけではなかった。だから、「摘発云々の事はいささかも驚きません」と述べ、「小生の詩は多くの戦争によつて触発された人間美をうたつたもの」だと強調していく。吉本は、そのような光太郎の揺るぎない表明を、例えば、戦後に書かれた、「死はいつでもそこにあつた/死の恐怖からわたし自身を救ふために/『必死の時』を必死になつて私は書いた。/その詩を戦地の同胞がよんだ。/人はそれをよんで死に立ち向つた。」(「我が志をみて人死に就けり」)を引きながら、次のように述べていく。
 「戦後、高村をほんとうに苦しめたのは、天皇(制)の問題と、このじぶんの詩をよんで人は死んでいったという問題だけであった。天皇(制)の問題は高村を駆りたてて、青年期にあれほどまで反抗した庶民的な家の情感のなかにひっぱってゆき庶民的な天皇尊崇をうけいれさせた原動力の問題であった。(略)たしかに、二年余をついやして高村は天皇(制)の重圧を意識のそとに追い払ったが、けっして意識のなかで扼殺したのではなかった。天皇(制)に戦争責任はなく、天皇(制)の名をかりて、残虐をおこない、侵略をおこなった官僚権力、軍隊に責任があるというところに社会問題は転化されたのである。高村は、自分の意識のなかをおおった天皇にたいして自省をくわえずに、天皇を担いだ自己意識の退化に批判をくわえておわった。」(『高村光太郎』)
 わたしは、いま、明仁から浩宮(徳仁)へ譲位され、改元も行われた現在、光太郎の戦争期から戦後期への心象は、なにかということが、沸々と湧き出てくることに、悲哀の思いしか感じられない。天皇及び天皇制は空虚なものだということが、どうしてわからないのだろうかといいたくなる。なにもない、なんの意味もないものが、この国の王制の核心なのだ。そこには神なんかではない人間の天皇がいるだけだ。だから、官僚権力、軍隊と同じ様に戦争責任があるのは自明のことなのだ。
 高村光太郎にとって、父光雲がもう一人の天皇であったことが悲運だったのだと思う。

(『トンボの眼玉』No.9---19.9.20)

 

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2019年9月 1日 (日)

山田勇男・著『白い夢』の世界へ

 何年か前に、山田勇男が漫画作品を久しぶりに描き始めることになったと聞いた。映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』(2014年)の後に来る作品として、わたしは、待ち続けた。ようやく、届いた『白い夢』のカヴァーを開いてみると、扉には、次のような献辞といっていいものが記されている。

  おお、動け、妄想(ヒメーラ)―。
           埴谷雄高『死霊』

 山田勇男から埴谷雄高の名を聞いたことがあったのかどうか、覚えていないが、こうして『白い夢』を手にとってみると、なんの異和感もない。いや、むしろ埴谷的世界は、ある意味、山田勇男の世界、そのものではないかと確信する。
 開巻、見開き頁に海岸の全景。桟橋に煙をはきながら停泊している船。遠くにも一隻の船が航行している。海岸の手前で少女が自転車を止めている。右側に桶をふたつ担いで歩いてくる男が配置されている。男は何気なく少女の方へ視線を向けているかのようだ。少女はこの画像だけに配置されていて、以後、描かれていない。

  小学五年生のとき/理科の時間に宇宙の/話を聞いていると、まるで/自分が
  地球から宇宙のなかに/放り出されたような感覚になって、/汗ばんだ手で机に
  しがみついたことが/あった。

 このような書き出しから始まるモノローグを鮮烈な陰影の画像に重層化させながら物語化していく山田勇男の『白い夢』の世界に、わたしは思わず惹き込まれていく。それは、かつての“瑠璃シリーズ”とは、幾らか位相の違うイメージを喚起してくれたからだ。賢治的宇宙、足穂的宇宙から超え出て、埴谷的世界、そしてつげ義春的世界へと、山田勇男の視線が凝集していったからだといいたい気がする。
 五頁の三コマの画像、上段右の画像は、一本の樹が細く高く延び、遠くに小島のようなものが描かれ、男が樹を見つめるように立っている。そして、埴谷的言辞。

  虚空。/日の沈んだ/ウツロナソラ。/孤影。//夜に/溶けてゆく。

 上段左の画像は、三本の樹の脇の小道を男が歩いていく。「ふらりを/辿りゆく」には、“傍点”を付しているのは、そこにつげ的世界を山田勇男は託したいからだと思う(註・引用では、傍点は略)。

  虹を渡るように、/ふらりふらり。ふらりを/辿りゆくのだ

 下段は、三本の樹を後方に、“白い道”を男が歩いてくる画像だ。
ここまでの静謐が画像から山田勇男の〈幻視〉は、苛烈化していく。それは、「初めての目暈の年/一+一が二ではない」という確信が喚起されたからだといってもいい(六頁)。
わたしも、長く長く、そしていまだに《一+一が二ではない》という感覚に拘泥し続けている。ロジカルなものへの批判・否定ということもあるが、考え方や大げさにいえば生き方のようなことは、“一+一は二である”というような割り切り方で捉えることはできないものなのだといえるからだ。

  どうして そう思ったのか、/自分でも よく解らない。/総てに対して信じき 
  れ/ない覚えたてのような、/納得いかない不条理/を了解してしまった/のか
  も知れない。

 山田のモノローグでは、そのように語られていく。
 次頁で、骸骨体が、帽子を被った男に向かって、「今晩わ。/ボヘミアの/旦那!」と語りかけて、物語は、《深淵》へと向かっていくことになる。
そして、九頁に林檎が描出される。帽子を被った陰影の男が林檎を手に取って、皮を剥き出してから、急変していくことになる。
やがて、終景(十六面)では、“うじ虫と骰子”だ。うじ虫を手から離し、“ハッハッハッハハハッ”という声とともに、水面へと落とすと骰子となって浮かびあがり、“六ツ目”の面に、中黒が一点付されて、“七ツ目”が現われる。

  とうとう/七ツ目の/骰子が出たぞ、/―無惨な。

 〈七ツ目の骰子〉は、この作品の中心だ。“六ツ目”ではなく、“七ツ目”とはなにか。それが、まさしく、《一+一が二ではない》という山田勇男的宇宙観なのだ。“無惨な”としながらも、可笑しみを湛えていることによって、山田勇男の世界は、“一+一は二である”という現況を解体していくことになるのだ。

  何んといじらしいこと。/悟りとは絶望するちから、か。

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※山田勇男・著『白い夢』(虹霓社・A4判・20頁・19.4.3発行)
本体1,500円(税抜)+送料185円。
虹霓社のネットショップ、タコシェほかでも販売。

 

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2019年8月 5日 (月)

開かれた思考が伝わってくる

 情況誌、思想誌というものが、ほとんど見かけることがなくなったここ数年、いや十年近い時間性を見通してもいいかもしれないが、16年2月創刊の『フラタニティ』は、意欲的に情況的なるものに対峙し続けている。わたしが関わってきた『アナキズム』は、15年5月発行以降休眠中である。『フラタニティ』は創刊以降、季刊ペースを維持して、切実なる情況に視線を投射してきたことを、わたしは驚嘆しながら望見してきたことになる。第14号の、「特集:沖縄を自分の問題として考える」は、表題に感心した。沖縄が置かれている情況や政治的、思想的、歴史的な事象に関して、政治的な運動体の方向性に制約される立場ではなく、まず、自分自身の問題として捉えていくということを、最も切実なことと思うからだ。ひとつだけ例示してみれば、次のようなことだ。
 公明党が自民党と連立政権を組んで二十年になる。それは、かつて非自民の細川連立政権の一角を担っていた公明党とは、まったく別様の政治政党に変容したこと示している。第二次安倍政権になって、皮相な九条改憲を進めることに加担していることを、もはやなんの痛痒も感じないまま、ついには、沖縄の人たちを見放している創価学会=公明党の罪過は大きい。だから、創価学会員の野原義正氏の「三色旗を掲げデニー勝利に貢献」の寄稿は、様々なことを伝えてくれたといっていい。
 わたしたちは、そもそもイデオロギーや考え方、信の有様で生きているわけではない。もちろん、様々な指針の契機として綱領的な思考を根拠にすることを否定はしない。しかし、人と人との関係性は、僅かな重なりでも繋がることができることを忘れてはならない。個々は、みな共通の考え方を確認できるとしても、百パーセント同じことはありえないということを前提にすべきだ。多様な考え方のなかで、繋がることを模索することは切実なことではないかと、わたしなら思う。だから関係性は閉じてはならない、開いていくべきなのだ。『フラタニティ』をみればわかる。多様な考え方に開いていることを。

(『季刊 フラタニティ』No.15---2019.8)

 

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2019年5月 1日 (水)

映画『金子文子と朴烈』の世界

 ほんとうは、「文子と朴烈の世界」という表題にすべきかも知れない。映画作品は入り口であって、その先に過去と現在を結ぶ混沌とした世界があるからだ。だが、映画の金子文子(チェ・ヒソ)は、鮮烈に立っていた。まずそのことから、言葉を対置しなければならないと思いはじめている。
 「私はいつもあなたについています。決してあなたを病気なんかで苦しませはしません。死ぬるなら一緒に死にましょう。私達は共に生きて共に死にましょう」と心の中の熱い思いを記して、文子は獄中手記『何が私をこうさせたか』を閉じている。文子の〈死〉が、〈自死〉なのか〈圧殺〉なのかどうかを確定させる確かな根拠はない。しかし、「死ぬるなら一緒に死にましょう。私達は共に生きて共に死にましょう」という強い共感性は揺らぐことはなかったに違いない。囚われて以後、天皇制という権力の様態と激しく闘った文子と朴烈の共闘は、対なる関係性に象徴させながら、映画の世界で見事に表出させていく。
 監督のイ・ジュンイクは、映画『アナーキスト』(監督:ユ・ヨンシク、脚本:パク・チャヌク、主演:チャン・ドンゴン、二〇〇〇年・韓国)のプロデューサーだった。その映画は、一九二四年の上海が映画の場所だったが、二二年から二六年の東京がこの映画の場所となる。前作、『空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~』(一六年・韓国)は、戦時下の日本で獄死する詩人の有様を、静謐な抒情詩を全篇に渡って援用しながら、見事に描出していった。
 「アナキズムという言葉は、韓国ではタブー視されてきました。共産主義と混同もされてきましたし、『無政府主義』と訳されることで暴力的なものと思われていました。(略)実際に韓国人の政治や権力にたいする志向性をみると、アナキズム的な思考があります。最近のキャンドルデモなんかをみても、アナキズム的な集団行動なんですよね。日本には天皇制が存在するということもあり、比較的、権力にたいする尊重意識や服従をよしとする傾向があるように思いますが、韓国では絶対権力を否定しようとする気質がとても強いです。今後も朴烈や金子文子のようなアナキズム的表現や発想は繰り返されていくのではないでしょうか。」(『キネマ旬報』一九年三月上旬特別号)
 イ・ジュンイク監督の「日本には天皇制が存在するということもあり、比較的、権力にたいする尊重意識や服従をよしとする傾向がある」という指摘は、間違ってはいない。ここ数年に渡った茶番劇(アキヒトの譲位表明とアベの暴走)は、クライマックスを迎えるが、わたしには、なんの感慨も湧いてこない。茶番劇は茶番でしかないからだ。文子と朴烈の対なる関係性が向かう先は、ただひたすら共同性を開いていくことにある。怪写真として見做されている二人の寄り添う写真を敢えて頻出させながら、強固な日朝(日韓)の境界性のみならず、ヤマトという擬似国家体制をも無化させていく映画の力を胚胎させている。微細な部分を重視しながら、事実とは違うといったことを語る方法を、わたしは採らない。震災時、ラジオ放送はなかったから、この映画に隘路があるといえないと思う。
 チェ・ヒソが演じた金子文子は、確かに金子文子だったといっておきたい。
※『金子文子と朴烈』(原題『朴烈』、一七年、韓国)。

(『アナキズム文献センター通信 第47号』19.5.1)

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2019年4月30日 (火)

追悼・うらたじゅん

 うらたじゅんさんが二月七日に亡くなったことを、八日朝、ご主人からの電話で知った。もちろん、この時、ご主人と初めて話したことになる。
 〇二年二月、「胃潰瘍だと軽く考えていたら、胃ガン」だった。八月、「十七年間一緒に暮らした」猫のミルキイが亡くなる。うらたじゅんさんは、十七年間、癌との闘いだった。想像を超えている。言葉を記すことができない。
 うらたじゅんさんとは、九八年に三作品(「冬紳士」―『幻燈 1号』、「思い出のおっちゃん」―『ガロ』4月号、「天王寺夏絵日記」―『ガロ』7月号)に出会ったのが、始まりだった。最初の作品集は、『眞夏の夜の二十面相』(北冬書房・〇三年)である。うらたさんとは、何度も会ってきた。
 『アナキズム』誌には、三作品、発表している。「うわばみのおキヨ」(六号、〇五年六月)は、つげ義春さんが絶賛した。「こんにちは赤ちゃん」(十二号、〇九年八月)、そして、「バクーニンとノーブラ女」(十九号、一五年五月)である。山田勇男監督『シュトルム・ウント・ドランクッ』(一三年)にも映画出演をしている。十四年に会ったのが、最後だったかもしれない。その時に、バクーニン特集を『アナキズム』誌でやるので、作品をお願いしたはずだ。
 『眞夏の夜の二十面相』評をはじめ、作品評は、「図書新聞」紙上で行ってきた。うらたさんからは、俳句作品を掲載した作品集やいろいろな作品を掲載したものを贈っていただいている。どんな会話をしたのか、どんなふうに接してきたのか、明確にいえないまま、この文章を書いている。お嬢さんがいて、子どもが生まれ、おばあさんなったことは、「道草日記」(Web上の公開日誌)で知ることになるが、ご主人のことを含め、東京で会っている時は、何も聞いてこなかったように思う。わたし(たち)は、うらたじゅんさんと会ってきたことになるが、浦田純子さんとは会っていない。一九五四年一月四日、NHKラジオで「紅孔雀」の放送を開始。「第五福竜丸」が三月一日、ビキニ水爆実験で被爆。九月、武内つなよし「赤胴鈴之介」の連載開始。うらたじゅん(浦田純子)さんは、十一月六日に生まれた。

(『アナキズム文献センター通信』第47号―19.5.1)

 

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2019年4月15日 (月)

「吉本隆明」――『【増補改訂】日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版刊・19.4.20)

 1924(大13)11.25―2012(平24)3.16。父は郷里の天草で造船所を経営していたが、不況のため倒産し、夜逃げ同然で、吉本が生まれた年の4月に東京・月島へ移住する。その時、吉本は既に母親の胎内にあった。
 十歳の時から、今氏乙治の私塾に通い、少年期の吉本は大きな影響を受けていく。府立化学工業学校卒業後、42年米沢高等工業学校応用化学科入学。44年初の詩集『草莽』(私家版)を刊行。45年東京工業大学電気化学科入学。卒業後、職を転々とし、やがて東洋インキ製造・青砥工場に勤務。しかし、組合運動によって職場を追われ、56年から特許事務所に就職し、69年まで勤務。
 52年に『固有時との対話』、53年に『転位のための十篇』を私家版詩集として刊行、詩人としての本格的な出立をする。56年武井昭夫との共著『文学者の戦争責任』は、様々な反響を巻き起こすことになる。同年に刊行された『文学の自己批判』のなかで、秋山清は、吉本たちの発言に率直に共感を表明している。吉本は、早くから秋山清の戦時下の詩を高く評価し、後に詩集『白い花』(吉本の解説を付して66年に刊行)に収められることになる詩篇を58年「批評運動」に再録の助力をしている。
 六〇年安保闘争は、吉本にとって大きな転換点になった。以後、戦後体制の基層を徹底的に批判する方途を自らに課していったのだ。埴谷雄高は、吉本が、「唱えた『自立』こそアナキズムの流れの中心にある思想」であると語っている(「無政府主義研究 第2号」1974.6)。61年に創刊した雑誌「試行」(97年74号で休刊)は「自立誌」といわれ、多くの直接定期購読者に支えられ、様々な書き手を輩出した。
 68年に刊行された『共同幻想論』は、国家や法・宗教を人間が作り出した観念領域だとし、全幻想(個人幻想・対幻想・共同幻想)領域を切開しようとした戦後思想史における画期的な著作となった。吉本は、マルクスの思想とマルクス主義の思想は、まったく別物であるという視点から激しくマルクス主義(スターリン主義)批判を展開していったため、赤坂憲雄は、二十歳の頃に「『共同幻想論』をアナーキズムの理論書として読んでいた」(吉本隆明他『琉球弧の喚起力と南島論』河出書房新社1989)というが、ある意味、的確な捉え方だともいえる。
 八十年代に入り、資本主義が高度消費社会に達したことを積極的に評価し、初期からの読者が離反していくことになる。96年西伊豆で水難事故に遭い、その後、身体の衰えが加速していくものの、口述筆記というかたちで、精力的な著作活動をしていく。
 亡くなる最後の一年は、3.11以後の反原発運動に疑義を呈し、結果、原発擁護の立場と見做されながら、その死を迎えた。
[著作]『擬制の終焉』現代思潮社1962、『言語にとって美とはなにか Ⅰ、Ⅱ』勁草書房1965、『吉本隆明全著作集』全15巻・勁草書房1968-1975、『共同幻想論』河出書房新社1969、『心的現象論序説』北洋社1971、『最後の親鸞』春秋社1976、『マス・イメージ論』大和書房1984、『ハイ・イメージ論』全Ⅲ巻・福武書店1989-94、『母型論』学習研究社1994、『アフリカ的段階について』春秋社1998、『吉本隆明全集』全38巻別巻1・晶文社2014---
[文献]『鑑賞日本現代文学30埴谷雄高・吉本隆明』角川書店1982、吉本隆明・久保隆「秋山清と〈戦後〉という場所」『現代詩手帖』2007.10、石関善次郎『吉本隆明の帰郷』思潮社2012

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「信太裕」――『【増補改訂】日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版刊・19.4.20)

 1948(昭23)9.22―----(---)---- 北海道出身。道立滝川高校卒業、法政大学法学部入学、後中退。法政大学アナキズム研究会に所属し、ベトナム反戦直接行動委員会のメンバーだった和田俊一を中心に結成された背叛社に参加。背叛社の理念としては、「直接行動は、一切の権威と権力に叛逆する。この事実=真理を総破壊と称する」というもので、バクーニン理論に通じていくものがある。ここには、戦後アナキズムの運動体が、サロン集団化したことへの苛立ちと、折からの新左翼運動の苛烈化が影響していたことは、明らかだ。
 68年10月6日夜、新宿区上落合の背叛社事務所で製造中の手製爆弾が誤爆するという事故が起きて、背叛社のメンバー全員が逮捕される。唯一の未成年者だった信太は、起訴されなかったものの、公判中、和田が公安権力と癒着していたことが判明、大きな衝撃を受ける。その結果、一部の人たちを除き、旧来のアナキズム的立場の側からは、べ反委の運動は評価されるべきだが、背叛社の運動は、アナキズムといえないという錯誤的発言が露呈していった。ここにいたって、信太は、旧来のアナキズム的立場を似而非アナキスト達と断じ、1969年8月、中央大学学生寮の一室でタナトス社結成準備会を立ち上げる。
 そして、結成にあたっては、「日本のアナキズム運動を主体的に嚮導する力量が不足していることを直視するとき、(略)啓蒙主義的アナキズムを超克し、より激越な反権力闘争を展開し、現今の無政府主義陣営内部に侵食している日和見主義・退嬰主義・敗北主義を排拆する新たな反権力組織を結成するのが焦眉の急と存意する。(略)擬制の自由ではなくして真制の自由を志向し、(略)現今の似而非アナキズム潮流を拝して、新たな革命的アナキストによる組織を結成し逼迫せる革命の橋頭堡を構築し、ありとあらゆる国家権力機構の瓦礫と廃墟の上に黒旗を屹立せしめよ!」と宣していく。
 理念的位置づけの先鋭さは、突出していたが、運動総体としては、宣言通りの激越な闘いというわけには、いかなかった。それは、タナトス社から分岐して結成されたギロンチン社にもいえることだった。70年10月、タナトス社、ギロチン社の共同呼びかけで、富士宮にて全国アナキスト会議が二日間にわたって開かれた。これは、旧来のアナ連やアナキストクラブといった組織とは別のまったく新しい、二十歳前後という若い世代が領導した画期的なものだったことは、強調していい。ここから、ネビース社といった新たな運動体も生まれことも付記しておく。
 その後、運動関係から離れた信太は、関西の方へ転居して、大阪で古書店を営んでいたことと、生前唯一の著作となった句集を出したこと以外、その消息はほとんど知られていない。
 『水の音』と題された句集は、179句が収められ、「春の香や 水の音して 醒むる日の」「戦いの ひまを盗みて 濁り酒」「目覚めるも つかのまの虹かかる空」「粉雪や 虚空に消ゆる 音の影」「忽ちに 消ゆるも夜の 花火かな」などの作品がある。また、「あとがき」には、多行形式で「観し景は/ 古今を/辿る/言の葉の/ 道の/奥処に/ 月/出ずる/ まで」という短歌を記して、一書を閉じている。
[著作]句集『水の音』近代文藝社1991
[文献]信太裕「10.6背叛社事件、その意味するもの―蘇生するアナキズム」『中央大学新聞』1969.9.9、「新たな反権力組織結成にむけて」『THANATOS 創刊号』1969.9、和田俊一『背叛社非政治資料・国体論並びに背叛革命』1968.12

 

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2018年10月 1日 (月)

映画『菊とギロチン』・考

 わたしにとってギロチン社とは、中濱鐡ではなく古田大次郎であった。六十年代後半の対抗的運動の中で、ともすれば情念が直截に奔出する時、既知の理念に仮託することの疑義を払拭できないでいた自分自身の感性が、『死の懺悔』や、啄木の詩篇「ココアのひと匙」へと傾斜していったからだ。中島貞夫監督の『日本暗殺秘録』(69年・東映)で、オムニバスの一篇として古田大次郎(高橋長英)の小坂事件に焦点をあて、『死の懺悔』のモノローグとともに描像していく〈風景〉の秀逸さに共感したことも大きかったかもしれない。山田勇男監督の『シュトルム・ウント・ドランクッ』(14年)では、旧知の廣川毅が演じた。そして、『菊とギロチン』では新人俳優・寛一郎である。
 「恋愛だけではなく、人との距離の取り方などは自分と少し通ずる部分があるのではないかと思うと、日常の古田が少し垣間見えて来るような感覚を覚えました。」(廣川毅「古田大次郎を演じみて、幾つか思うこと」―『アナキズム 17号』13年11月)
 「大次郎の葛藤は、役者一年目の僕自身の葛藤と重なっているところが多かったので、自分に寄せつつ、悩みながら、感情を出し切って演じた部分が多かったです。」(寛一郎、東出昌大との対談「一瞬の三時間半を僕らは活きた」―『映画芸術 464号』18年夏)
 わたしは、二つの作品を対比しようとしているわけではない。また、二人のどちらが古田像に近いのかといったことをいいたいのでもない。「人との距離の取り方などは自分と少し通ずる部分がある」、「大次郎の葛藤は、役者一年目の僕自身の葛藤と重な」るといったことは、関東大震災、そして大杉栄、朝鮮人虐殺後の閉塞的な時代情況のなか、自らの思念を表出することの困難さを抱える古田大次郎の有様を、時間と空間を変容させて、3.11以後へ視線を射し入れてみるならば、息苦しさを抱えるわたしたちの有様に通底していることを意味している。
 映画『菊とギロチン』というタイトルは、確かに菊は天皇の、ギロチンは、ギロチン社つまりアナキストたちのメタファーだとしても、菊の花が好きだという古田大次郎が花菊(木竜麻生)という女相撲の力士に対して共感と恋情を抱き、〈対なる関係性〉をかたちづくろうとしたことの表象だといっていいはずだ。もちろん、もう一つの〈対なる関係性〉、つまり、十勝川(韓英恵)と中濱鐡(東出昌大)の有様も照応させて捉えてもいい。
 中濱と古田が住む舟屋の前には砂浜の海岸が続いている。そこで、「鳥追い女や願人坊主、被災民たち」、そして女相撲の力士たちはもちろん、花菊や十勝川とともに、中濱も古田も一緒に、太鼓や三味線の音に乗って踊っているシーンがある。恐らく、この映画を観た多くの人に強い印象を与えた場面だと思う。そこで、中濱が十勝川に向かって話す。
 「俺の夢はな、満州に行って自分たちだけの国を作る。そこじゃ何もかも平等で。(略)共存共栄の理想郷だ。」
 十勝川は、ただ笑いながら「ホントにできるのかい、そんな国」と応答する。太宰治に「冬の花火」(46年)という戯曲がある。その中でヒロインに「ねえ、アナーキーってどんな事なの?あたしは、それは、支那の桃源郷みたいなものを作ってみる事ぢゃないかと思ふの」と語らせている。瀬々敬久と相澤虎之助の思いは、敗戦後の暗澹たる情況のなかで書かれた「冬の花火」のヒロインに繋がっていくものだ。この海岸での踊る場面で、中濱と十勝川にフォーカスしながら、「中濱鐡と十勝川」というテロップが入る。後段、三治と勝虎が逃避行しようする場面にも「三治と勝虎」というテロップが入る。そして、古田が、花菊を連れ戻しに来た夫・定生を爆弾で脅し花菊を諦めさせる場面。古田と別れたくない花菊が古田に抱きつき口づけをする。そこで、大きく「菊とギロチン」のテロップ。菊は女相撲の力士・花菊であり、ギロチンは心優しきテロリスト・古田大次郎なのだ。
 〈個と個の関係性〉から、〈未知なる共同性〉へとかたちづくることができるだろうかと、いまあらためてわたしは考えている。

(『アナキズム文献センター通信』第44号-18.10.1)

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2017年8月11日 (金)

月犬句集『鳥獸蟲魚幻譜抄』を読む

 著者の第一句集である。文庫サイズで表紙、裏表紙を含め20頁、作品数は、六十一。だが、作品世界は濃密である。

  蝶群れて激しく水を吸ふ白晝

 巻頭の一句である。わたしにとって、偶然にも、二年前、リアル句会で接した作品である。五句提出されたなかで、「棒立ちの神と私と酔芙蓉」とともに、わたしは選んだ。俳句の実作をしないわたしが句会に参加するという大胆なことをしたのは、ひとえに、著者の強い勧めによる。
 この時の句会報に、わたしは以下のような文章を記した。

 言葉(言語)というものには、自己表出と指示表出という二つの位相があるとして、自己表出を突き詰めていけば、「沈黙にいちばん近いところの言語」(『第二の敗戦期』)になると、吉本は後年、語っている。言葉(言語)というものが、リアルなコミュニケーション・ツールであるという拘束性から放たれて、沈黙のコミュニケーションへ至るということを考えてみた時、俳句作品が通交する場所は、まさしくそういうことなのではないかといいたくなる。つまり、言葉が本来の意味を超え出ていく時、作り手と読み手の間に不思議な沈黙のコミュニケーションがかたちづくられていくことになるのだ。「棒立ち」が「酔芙蓉」へと展開されていく情景や、「蝶」の「群れ」から、「白晝」へと連結されていく時、ここでの超え出ていく言葉たちは、まさに、そういうことを、わたしに喚起してくれる。                         (『夜河』No.02---2015.10)

 ここで述べたことを、幾らか補足したい欲求がいま、わたしに起きている。俳句の実作者と作品のモチーフとの間にもまた、沈黙のコミュニケーションへ至る往還の場所があるのではないだろうかと。モチーフが実景か想起したものかに関係なく、作者自身が俳句という表現のなかに、自分自身を投射して沈黙の共同性をかたちづくることで、作品というものを屹立させていく。月犬作品に接して、わたしが、感受することは、それに尽きるような気がする。
 「激しく水を吸ふ」のは、作品のモチーフとしては、“群れた蝶”なのだが、実は、“自分自身の有様”を描出しているのだといいたい。“白晝、群れた蝶が激しく水を吸ふ”というイメージは、作者自身が、“激しく水を吸ふ”ことへコミュニケートしていくことの動態というべきではないのか。なによりも、強調していいたいのは、“飲む”のではなく、“吸ふ”ということにある。だから、“激しく水を吸ふ”ことは、“有様”であるとともに、“このようにしか生きられない”という〈表象〉なのだ。

  遠くから砲聲聞こえ蝶の午后
  手にすれば若き蝗の濡れてをり
  象連れてゆく七月の海岸へ
  夜の鳥霧動きたる河口かな

 月犬俳句が、わたしを刺激してやまないのは、絶えず喚起する詩語があるからだ。“砲聲”と“蝶の午后”、“若き蝗”と“濡れて”、“象連れて”と“七月の海岸”、“夜の鳥”と“河口”というように、詩語を連結させながら多様なイメージを喚起する、これらの作品は、わたしをいうなれば言葉以前、つまり未生の世界へと誘っていくかのようだ。戦争や争闘といった情況のなかでの“砲聲”を、“蝶”を媒介することによって、無化していくと見做してもいいのだが、わたしは、少し反転させて読み解いてみたい。“蝶”は、作者自身(あるいは、投射された作者像)であり、“砲聲”は、様々に重層化する人の大声であり、雑音のような言葉の暗喩と捉えるならば、“午后”という“場所”は、それを遠ざけていく〈時間性〉として描出されていくことになる。

 手にすれば若き蝗の濡れてをりの“濡れた蝗”に視線を馳せる作者自身の抒情的感性に、わたしなら、率直に感応する。

 象連れてゆく七月の海岸へを初出時に見たとき、“大往生した井の頭の動物園の象なのか。ならば、海岸ではなく、ほんとうは彼岸なのかもしれない”と解したのだが、時間が経過すると、“象”は、様々な生命ある存在の象徴として見做すことを可能にしている。“連れてゆく”場所が、“七月の海岸”であることによって、詩情性が横断していく。

 “河口”という詩語は、直ぐに重信の作品を想起させるが、夜の鳥霧動きたる河口かなでは、“夜の鳥”という有様によって、俯瞰視線を持つ鮮烈な作品として、わたしは感受した。

 これらの作品は、すべて初出時になんらかの応答をしたものだ。
以下、幾つか作品を引いてみる。

  もうすでに壱個の死なる夏の蝶
  魂の柔らかきところに靑蜥蜴
  海渡る宣教師の夢の鯨よ
  壱本の杭を離れぬ冬鷗
  鱶裂かる遠い港の夜更けかな

 
 句集名から分かるように、全作品、“生命あるもの”を織り込んでいる。だからといって、著者は、生命賛歌のようなことはしない。むしろ、生きていくことの苦渋感のようなものを胚胎させていく。 

  白鳥や未來といふは仄暗し

 最後の作品は、そのことを最も象徴している。わたしのなかで、“白鳥”は、アンビバレンツな存在である。けっして、なにかを仮託したくなるような存在ではない。確かに、“白鳥”と“未來”は連結しやすいこととして想起できるかもしれないが、反転させてみれば、そこは、“仄暗”い場所を表出するものとして、描像できるのだ。だから、迷わず、“暗ければ渾べて良し”といいたい。


※夜窓社・刊、2017.7.20発行(非売品)。但し、正式な書名は、“魚”の“脚”が、“大”である。

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