2017年8月11日 (金)

月犬句集『鳥獸蟲魚幻譜抄』を読む

 著者の第一句集である。文庫サイズで表紙、裏表紙を含め20頁、作品数は、六十一。だが、作品世界は濃密である。

  蝶群れて激しく水を吸ふ白晝

 巻頭の一句である。わたしにとって、偶然にも、二年前、リアル句会で接した作品である。五句提出されたなかで、「棒立ちの神と私と酔芙蓉」とともに、わたしは選んだ。俳句の実作をしないわたしが句会に参加するという大胆なことをしたのは、ひとえに、著者の強い勧めによる。
 この時の句会報に、わたしは以下のような文章を記した。

 言葉(言語)というものには、自己表出と指示表出という二つの位相があるとして、自己表出を突き詰めていけば、「沈黙にいちばん近いところの言語」(『第二の敗戦期』)になると、吉本は後年、語っている。言葉(言語)というものが、リアルなコミュニケーション・ツールであるという拘束性から放たれて、沈黙のコミュニケーションへ至るということを考えてみた時、俳句作品が通交する場所は、まさしくそういうことなのではないかといいたくなる。つまり、言葉が本来の意味を超え出ていく時、作り手と読み手の間に不思議な沈黙のコミュニケーションがかたちづくられていくことになるのだ。「棒立ち」が「酔芙蓉」へと展開されていく情景や、「蝶」の「群れ」から、「白晝」へと連結されていく時、ここでの超え出ていく言葉たちは、まさに、そういうことを、わたしに喚起してくれる。                         (『夜河』No.02---2015.10)

 ここで述べたことを、幾らか補足したい欲求がいま、わたしに起きている。俳句の実作者と作品のモチーフとの間にもまた、沈黙のコミュニケーションへ至る往還の場所があるのではないだろうかと。モチーフが実景か想起したものかに関係なく、作者自身が俳句という表現のなかに、自分自身を投射して沈黙の共同性をかたちづくることで、作品というものを屹立させていく。月犬作品に接して、わたしが、感受することは、それに尽きるような気がする。
 「激しく水を吸ふ」のは、作品のモチーフとしては、“群れた蝶”なのだが、実は、“自分自身の有様”を描出しているのだといいたい。“白晝、群れた蝶が激しく水を吸ふ”というイメージは、作者自身が、“激しく水を吸ふ”ことへコミュニケートしていくことの動態というべきではないのか。なによりも、強調していいたいのは、“飲む”のではなく、“吸ふ”ということにある。だから、“激しく水を吸ふ”ことは、“有様”であるとともに、“このようにしか生きられない”という〈表象〉なのだ。

  遠くから砲聲聞こえ蝶の午后
  手にすれば若き蝗の濡れてをり
  象連れてゆく七月の海岸へ
  夜の鳥霧動きたる河口かな

 月犬俳句が、わたしを刺激してやまないのは、絶えず喚起する詩語があるからだ。“砲聲”と“蝶の午后”、“若き蝗”と“濡れて”、“象連れて”と“七月の海岸”、“夜の鳥”と“河口”というように、詩語を連結させながら多様なイメージを喚起する、これらの作品は、わたしをいうなれば言葉以前、つまり未生の世界へと誘っていくかのようだ。戦争や争闘といった情況のなかでの“砲聲”を、“蝶”を媒介することによって、無化していくと見做してもいいのだが、わたしは、少し反転させて読み解いてみたい。“蝶”は、作者自身(あるいは、投射された作者像)であり、“砲聲”は、様々に重層化する人の大声であり、雑音のような言葉の暗喩と捉えるならば、“午后”という“場所”は、それを遠ざけていく〈時間性〉として描出されていくことになる。

 手にすれば若き蝗の濡れてをりの“濡れた蝗”に視線を馳せる作者自身の抒情的感性に、わたしなら、率直に感応する。

 象連れてゆく七月の海岸へを初出時に見たとき、“大往生した井の頭の動物園の象なのか。ならば、海岸ではなく、ほんとうは彼岸なのかもしれない”と解したのだが、時間が経過すると、“象”は、様々な生命ある存在の象徴として見做すことを可能にしている。“連れてゆく”場所が、“七月の海岸”であることによって、詩情性が横断していく。

 “河口”という詩語は、直ぐに重信の作品を想起させるが、夜の鳥霧動きたる河口かなでは、“夜の鳥”という有様によって、俯瞰視線を持つ鮮烈な作品として、わたしは感受した。

 これらの作品は、すべて初出時になんらかの応答をしたものだ。
以下、幾つか作品を引いてみる。

  もうすでに壱個の死なる夏の蝶
  魂の柔らかきところに靑蜥蜴
  海渡る宣教師の夢の鯨よ
  壱本の杭を離れぬ冬鷗
  鱶裂かる遠い港の夜更けかな

 
 句集名から分かるように、全作品、“生命あるもの”を織り込んでいる。だからといって、著者は、生命賛歌のようなことはしない。むしろ、生きていくことの苦渋感のようなものを胚胎させていく。 

  白鳥や未來といふは仄暗し

 最後の作品は、そのことを最も象徴している。わたしのなかで、“白鳥”は、アンビバレンツな存在である。けっして、なにかを仮託したくなるような存在ではない。確かに、“白鳥”と“未來”は連結しやすいこととして想起できるかもしれないが、反転させてみれば、そこは、“仄暗”い場所を表出するものとして、描像できるのだ。だから、迷わず、“暗ければ渾べて良し”といいたい。


※夜窓社・刊、2017.7.20発行(非売品)。但し、正式な書名は、“魚”の“脚”が、“大”である。

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2017年6月20日 (火)

白島真・著『詩集 死水晶』を読む。

 本詩集は、著者にとって第一詩集ということになるが、1974年から1995年までに発表された作品(ただし、76年から84年の間に八年間の空白期がある)と、さらに二十一年という時間を経て、2016年に書き下ろされた詩作品によって構成された詩集であるから、わたしは、あえて、“詩集成”といい方をしたいと思っている。
四十数年間という時間の横断のなかで詩人が紡ぎ出した詩作品の集成は、年齢的にいえば、二十四歳から六十六歳までになるわけだが、初期と現在における二作品を象徴的に取り出しながら、『詩集 死水晶』の世界へと近接してみたいと思う。

   生きたままの花の化石になりたい
   という少女がいて
   街は、霞のようにかすかに
   かそけく 輝いているのだった
    (略)
   セカイは思惟と思いに分断された

     浮遊してくる白茶けたちちははの記憶
     抒情はいつだって孤独だ           (「花の化石」2016.7)


   溢れる海の思想(おもい)を
   透いた生命の鼓動にのせて
   ぼくはきみに語りたい
    (略)
   いま冷たい祈りのように
   ぼくの内側から崩れていく海がある    
                           (「ぼくの内側から崩れていく海」1974.8)

  「少女」という詩語から、真っ先に浮かべる詩篇がある。吉本隆明の「少女」(56年)である。しかし、いまから、六十年前の、しかも吉本、三十代の詩篇の中の「少女」を、安易に繋げるのが、わたしの本意ではない。センシティブな吉本の「少女」に比べて、白島真の現在における「少女」は、必ずしも、感傷的な、あるいは抒情的な存在として描像されているわけではないからだ。しかし、そこには、共通の様態を見通すことができるはずだと、わたしには思われる。白島にしても、吉本にしても、「少女」という暗喩に、自分自身の有様を投射しているといっていいはずだ。
  「生きたまま」であることと、「化石」とは、アンビバレンツな表出である。それは、「思惟と思いに分断された」、「セカイ」へと通底していくことになるのだが、同時に四十二年という時間の遡及によって、「溢れる海の思想(おもい)」を透徹していることだと、わたしには思われる。
 そしてまた、父と母の記憶を「白茶けた」ものとしながら、孤独な抒情を噛みしめている現在は、「ぼくの内側から崩れていく海」が重ねられているといっていいのではないか。そのような場所に、詩人・白島真の詩の言葉は時間と空間を鮮鋭に横断させ、わたし(たち)に、回収されずに沈潜した感性の織のようなものを示しているといいたい気がする。思想を「おもい」と表象させる白島にあって、そもそも沈黙期や空白期というものは、ありえないのだ。それらは、時間を横断させながら繋がっていくものだからだ。

   影のように覗きこむ者がいる
   死水晶のきらめき に憑りつかれた
   もうひとつのわたしのかげ

   わたしが捨てた影のため
  涙はその落ちる位置をしらない
  盃はいつも 毒のように吞みほされている    (「死水晶」75.4)

  「死水晶」とは、鮮烈な詩語だと思う。死への鎮魂が込められていたとしても、わたしには、想起しえない言葉だ。「水晶の死」といういい方を誰かがしていたように記憶するが、そもそも、「水晶」に対するわたしの感受のし方が、極めて皮相なものでしかないから、「死」を冠せられる時、「水晶」が、あたかも“水際立ってくる”ように感じられたといっていい。だが、この詩作品が、わたしの心奥へと刻んで入ってくるのは、「もうひとつのわたしのかげ」、つまり「わたしが捨てた影」という暗喩があるからだ。影は死に憑りつかれているとして、やがて、必ず、自分にもやって来る「死」というものは、誰かの「死」を介在させることでしか、感受しえないことによって、哀しみが増幅させられていくからだ。

    (ああ きらびやかな予感の死水晶!)


   光の裏側には
   だれも知らない
   青白い湧水があって・・・・・         (「発寒通信「界川遊行」Ⅱ」90.3)

 だからこそ、十五年後に紡ぎだされた詩作品には、「きらびやかな予感の死水晶」として、自らの有様を投射できるのだといっていい。わたしは、この「きらびやかな予感」という詩語に共感する。

   ああ、瞳が
   瞳が死に向かって光ってしまうよ
   やさしさに崩れていく月夜の晩に
   生まれたばかりの胎児がのそり
   のそりと動いているよ
   そして見えない海のざわめきが
   幾重にも尾をひいて
   枝垂れる俺の内側を
   そんなにもいちずに噛み砕いていくのだよ    (「澱む月夜」74)

  わたしが、集成中、最も感応した詩作品の最後の一連を引いてみた。「瞳(め)」、「月夜」、「胎児」、「海」、そして「死」が、「俺の内側」に貼りついて澱んでいる。本詩集成の詩人は、「詩を書くことは私にとって救済であり、自らのタナトスへの憧憬を断ち切る手段でもあった」「この詩集は私のこれまでの生の全記録とも言える」(「あとがき」)と述べている。澱みは、澱みのまま、人は、どうしようもなく、貼りついたままにしておくのかもしれない。だが、白島真にあっては、生きていくことと、「死」への傾斜は、同時的に時間を重ねていったことなのだ。「詩を書くこと」は、「救済」であったとしても、紡ぎ出す詩世界は、「思惟と思いに分断され」、「抒情はいつだって孤独」であり、「ぼくの内側から崩れていく海があ」り、「海のざわめき」は見えないと、絶えず語られていく。恐らく、いまも、そうに違いない。
 
 本書の巻末に付された福島泰樹による、熱い解説「復活の歌」に誘われながら、詩人・白島真という「物語」を、もう一度、辿る時、わたしには、この詩人が、かつて見ていたであろう情況的なる風景を、どこかで同じように見ていたかもしれないと、感ずるようになった。そのことの、根拠や理由を、いまここでは語らないでおこうと思う。少なくとも、わたしなりの白島真の詩世界から喚起されたことを記したことで、とりあえずは止めておきたい。


※七月堂刊・17.3.7[A5判・176P・本体2000円]

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2016年5月15日 (日)

有馬弘純 著『漱石文学の視界』(論創社刊・16.2.15)

 夏目漱石を国民的作家として評価する見方に、わたしは、釈然としない思いを抱き続けながら、作品を読み続けてきたといっていい。なぜなら、『それから』や『明暗』に代表される作品は、国民的といった茫漠的な相貌には、ほど遠い深い位相を湛えた作品だといえるからだ。
 かつて、吉本隆明は、「『それから』に象徴される漱石の反発は」、「膨張していく社会」への反発であると述べたことがある。それは、急速に拡大化していったことで、露わになった明治近代国家の歪みを最も早くから感知していた作家が漱石であったことを吉本は指摘したかったのだと思う。
 四十六年にわたって書き継いできた漱石論の集成である本書の著者もまた、『三四郎』、『それから』、『こころ』、『明暗』といった漱石作品を視界の中心に据え、その深層へと迫りながら、「誰よりも、限りなく深い実感者としての現実の認識的体験をもち、それだけに暗く絶望的な思想、生活状況に陥ちこみながら、進んでそのような矛盾と苦悩にみちた大きな壁にたちむかっていった作家である」「現実世界の基底にある実相をほりおこし、それにたじろぎあとずさりすることなく毅然とした姿勢で視つづけ、その暗い淵にあしをすべらしたり、溺れたりすることもなく、果てしなく持続的に戦ったといえる」と鮮鋭に述べている。膨張する社会という時、そのことが、現在の情況にも通底していえることだとするならば、いまだに、漱石作品が読まれていることは、当然のことだといっていいはずだ。

(『通販生活 16年夏号』)

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2015年4月12日 (日)

五十嵐進 著『雪を耕す――フクシマを生きる』に喚起されて

 本書は、『らん』誌上にて連載中の「農をつづけながら…フクシマにて」(12回までを本書に掲載)や、『駱駝の瘤』、『横校労』に掲載された、3.11以後「福島の東京核発電所の爆発で福島がフクシマになってしまった年の7月から」毎月書いてきた「フクシマレポート」を纏めたものだ。さらに著者の俳句作品七十五句と、「極私的関心事としての震災後俳句」と題して、〝以後の俳句表現〟における著者の姿勢を述べた文章群も収められている。
 「フクシマレポート」は、放射線量を気にしながら生活せざるをえない場所からの、「国」や「政府」、「行政」に対して、日々、憤怒する「声」たちを綴っていく。例えば、「低線量、高線量に関わらず平常とは違う放射線量があることは確かなのだ」、「耳慣れない熟語かもしれないが原子力発電は『核』発電なのだ、ということをもっと露出すべきなのだ」、「磐梯山の渓流に棲むイワナやヤマメ、檜原湖のワカサギは出荷停止になっている。この世界規模の放射性物質飛散の下、こういう庶民の地を這う苦難をよそに、その筋は大飯原発を再稼働させようと画策している。フクシマから何も学ばなかったのかというのか」と断じていく。
 俳句や短歌、現代詩、その他の表現にもいえることだが、戦前の無残なプロレタリア詩や、戦争賛美詩のように、主題主義的な表現は、表現自体の死を意味するから、反核・反原発をモチーフにして表現することの困難さは、つねにあるはずだ。
 しかし、それでも著者は次のように述べていく。
 「当事者の怒りは、哀しみは、屈辱は、『数年』という時間の鑢によって確実に鈍磨する。私は『忘恩』であっても声を挙げることは大事なことだと思う。歴史に残る名作でなくてもいいではないか。表現の器を持つものは幸いである。器にことばを盛れ。それを互いにぶつけ、鍛えていけばいいのだ。(略)火源の激しさがあってこその『詩』ではないか。(略)現場の火傷のリアルがあるではないか、と思うのだ。」
 わたしは、著者の熱く憤怒する「声」から、直截に喚起される情動を感じないわけにはいかなかった。
                                                        
※影書房・14.12.25刊

『らん 69号』(15.4.10)

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2014年12月15日 (月)

悔恨としての『大杉全集』【『大杉栄全集・第5巻』「月報」】

 完全版全集と銘打った『大杉栄全集』の刊行が始まった。現代思潮社版(全十四巻、63~65年刊)から50年という年月が経っているのだから、歳月茫々というべきかもしれない。大杉栄らが虐殺されて90年以上経ったことになるから、全集は死後40年に、そしてさらに50年経って完全版が刊行されたということを考えてみると、時間の経過に、奇妙なアンバランスができてしまっていることに気づかざるをえない。ところで、わたしにとって、現代思潮社版『大杉栄全集』にたいし、いまだに、悔恨という思いが、心の奥底に張り付いてしまっているのだ。
 比較的美本状態の全集を一括して古書店で買ったのが、一浪の末、大学に入学した69年の春だった。親からもらった祝い金で、購入したことが、なによりも、いやな感じを自分自身が抱くことになる。合格祝いと『大杉全集』が、その時、なんの屈託もなく結びついたわけではないと思うのだが、親を騙して、〝リャク〟をした気分のようで、その後、何年も後ろめたい思いを引きずってしまったのは確かだった。
 なぜ、全集をと思ったのだろうか。記憶を手繰り寄せてみるならば、全集以外、入手可能な大杉栄の単著というのは、『日本の名著46 大杉栄』(69年1月刊)しかなかったからだと思う。いまとなっては、いささか気恥ずかしさしか湧いてこないのだが、『日本の名著』版を読んで、さらに、大杉の著作に触れてみたいと思ったのは、間違いないと思う。
 わたしのアナキズムへの関心の契機は、高校時代に高橋和巳と埴谷雄高に接したからだ。この二人の作家によって、漠然とマルクス主義よりも、アナキズムという思考方法に興味を抱いたといっていい。だから、「レーニンは一揃いのレーニン全集のなかにしか存在しない」(埴谷雄高)のであれば、埴谷に倣って、「アナキズムの大道をハイカラに歩いた大杉栄」(鈴木清順……この名言は、四年後に知る。もちろん、清順独特の諧謔である)の一揃いの全集の中に、大杉栄を見出そうとしても、いいと思ったのかもしれない。
 だが、前年(68年)の秋に刊行された吉本隆明の『共同幻想論』を読んで、国家や法、宗教を共同幻想として捉えるアプローチの仕方が、国家や権力の無化を希求するアナキズムの思考を大きく包括するものだと、わたしには思えたのだ。後年、わたしより四歳ほど年少の赤坂憲雄が、二十歳の頃に「『共同幻想論』をアナーキズムの理論書として読んでいた」と述べていたのをみて、同じように感受していたことを知り、なぜか、安心したことを覚えている(わたしが、知る限り、いわゆるアナ系的な場所で、吉本に共感していたのは、秋山清と内村剛介以外知らない)。だから、『大杉全集』を目の前にして、物足りなさを感じながら読んでいたような気がする。極端なことをいえば、「獄中記」や「自叙伝」をのぞけば、「ロシア革命論」と「バクーニン」についての論稿ぐらいしか、関心を惹かなかったはずだ。つまり、悔恨というのは、一揃いの全集を買うまでもなかったかなと思ってしまったことにもあるし、なにかをいますぐに吸収しようと性急に思ってしまったことにもある。さらには、身分不相応に全集などを持った気恥ずかしさからくるものだともいえそうだ。
 「マフノビチナ(註・わたしたちは、通常、「マフノ運動」と称していた)とは、要するに、ロシア革命を僕等のいう本当の意味の社会革命に導こうとした、ウクライナの農民の本能的な運動である。マフノビチナは、極力反革命軍や外国の侵入軍と戦ってロシア革命そのものを防護しつつ、同時にまた民衆の上にある革命綱領を強制するいわゆる革命政府とも戦って、あくまでも民衆自身の創造的運動でなければならない社会革命そのものをも防護しようとした。」(「無政府将軍 ネストル・マフノ」)
 現代思潮社版全集の第七巻を手に取ってみると、この箇所に線を引いていた。「本当の意味の社会革命」、「農民の本能的な運動」、「民衆の上にある革命綱領を強制するいわゆる革命政府」、「民衆自身の創造的運動」といった言葉に感応しただろうことは、直ぐに推察できる。
 そして、いまのわたしは、今年(2014年)のはじめに生起した、ウクライナでのロシアからの独立運動を知って、すぐにマフノ運動に繋げ考えていた。メディアは、ロシア派と欧米派だけの対立としてしか報道しないが、歴史的連続性を考えてみれば、ウクライナ民衆の、ロシアでもない欧米でもない本能的な自立の声があるはずだと思っている。無数のマフノ、つまりウクライナ民衆の声を聞くことから、わたしたちの彼らへの連帯は始まるのだといいたい。これは、大杉に誘われてきたことの、ひとつの証しだといっていい。45年が経過して、悔恨が少しだけ薄れてきたことを、いま、感じている。

(『大杉栄全集・第5巻』ぱる出版・14.12.10刊)

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2014年12月 8日 (月)

【書評】いま、対抗する思想は可能か             ――『大杉栄伝 永遠のアナキズム』をめぐって

 昨年は、大杉栄・伊藤野枝が虐殺されて90年ということもあり、大杉栄関連本が幾冊か刊行された。「大杉栄と仲間たち」編集委員会編『大杉栄と仲間たち―「近代思想」創刊100年』(ぱる出版・13.6刊)、飛矢崎雅也著『現代に甦る大杉榮―自由の覚醒から生の拡充へ』(東信堂・13.11刊)、そして、本書であるが、『大杉栄と仲間たち』は論集というかたちなので、執筆者の年齢は様々だが、『現代に甦る大杉榮』の著者は74年生まれ、本書の著者は79年と、わたしが、二十歳前後に大杉栄を読んでいた時、二人は、まだこの世に誕生していなかったことになる。やや、複雑な感慨を抱かざるをえない。正直にいえば、わたしは、二十歳前後の数年で、大杉への関心は、終わってしまったといっていい。そもそも、アナキズムへはいり口は、埴谷雄高や高橋和巳だったから、幸徳も大杉も、とりあえず、どんなことを述べているのだろうかといった興味から読みはじめたからかもしれない。むしろ、バクーニンには、強く惹かれるものがあり、それは、いまに至るまで続いている。そういえば、大沢正道が『大杉栄研究』(同成社、68年刊)を刊行した年齢が41歳だった。とりたてて二人の年齢自体、特筆すべきことではないかもしれない。ただ、70年前後の頃は、まだ、からくも、大杉栄や辻潤や幸徳秋水は、アクチュアルであったと思う。擬制左翼、あるいは前衛党神話が崩壊して、十年も経っていなかったわけだから、新左翼的潮流のなかに、アナーキーな運動萌芽が胚胎していたなかで、大杉もまた、格好のテクストといえたからだ。しかし、ここ、十年を俯瞰してみれば、果たして、幸徳秋水や大杉栄の思想や思考方法(僅かに、辻潤は現在でもいくらか耐え得るはずだ)は、どんな意味を持つのだろうかと率直にいえば思わざるをえない。
 しかし、本書の著者は、実に、自在な視線を大杉の思想と行動に射し入れて、わたしには思いもしなかった大杉像を喚起してくれたといえる。
 1918年8月、前月、富山で起きた米騒動が、大阪へも波及して来た時、大杉は、九州からの帰途、たまたま、大阪に降り立って、米騒動に遭遇したことから、本論は書き出されていく。そして、著者は、軽快な文体にのせて、大杉の思想の原像とでもいうべきものを明示すべく、その時の体験へと苛烈に論及していく。

  「大杉にとって、蜂起とは、町奴が泥棒になるということであった。(略)大工や飛び職をなりわいとしていた次郎吉。いかけ屋であった松五郎。かれらは仕事道具をかなぐり捨てて、泥棒へと転身をとげた。『嗚呼、あれも人生、これも人生』。カネは金持ちから奪いとるものだ。みじめなおもいをしてきた町奴が、身分、立場、仕事、アイデンティティ、そのすべてを投げ捨てた。大杉は、こうした江戸っ子のような意気こそが、蜂起の核心であると考えたのであった。(略)日常的につちかってきた生きる力こそが、金持ちを襲うための最大の武器であった。おそらく、このことは職人にだけあてはまることではない。主婦でも学生でも、サラリーマンでも農民でも漁民でも、不良少年でもやくざものでも、誰でもなにかしらの武器はもっている。しかし問題なのは、たいていの武器がカネを稼ぐための、仕事のための道具にさせられていることだ。いちど道具をかなぐり捨てて、みずからの武器を手にしてみよう。そのとき、民衆の武器は無数に存在し、その種類も使用方法も千差万別であることがわかるはずだ。1918年の米騒動。それはまさに、一〇〇〇万人の町奴が泥棒になった瞬間であった。もはや米は買うものではない。米は米屋から奪いとるものだ。」(「第一章 蜂起の思想」・34~35P)

 著者が、ここで「蜂起とは、町奴が泥棒になるということ」と明快に述べているわけだが、なんのレトリックもなしに、直載にいわれてしまえば、否といえない思いになってくるから不思議だ。このことは、全編を通していえることだが、「日常的につちかってきた生きる力」や、「誰でもなにかしらの武器」を持っているものなのだと語る、そのような表明の仕方によって、わたしは鮮烈に感受してしまうことになる。著者の自在な視線は、米騒動から「蜂起のイメージ」を析出してしまうことにあるわけだが、もうひとつ、拡張した視線ということも付け加えてもいい。「職人」だけでなく、「主婦でも学生でも、サラリーマンでも農民でも漁民でも、不良少年でもやくざものでも、誰でも」という拡げ方がいい。これは、閉じていく発想ではなく、開いていく発想として、わたしは、共感する。ただし誤解のないようにいえば、わたしは、「蜂起」という可能性というものをここで論じられているとは思ってはいないし、著者もそのようには考えてはいないはずだ。肝要なことは、自分たちが、いま、立っている場所を確信していくことにある。対抗する思想や考え方というものは、まず、いかに対抗していくかというところから発現していくのではない、著者がいうように「日常的につちかってきた生きる力」をシンプルに「武器」であるということを確信することにある。むろん、「武器」は、様々なメタファーとしてあるのは、当然のことである。

  「『近代思想』誌上での大杉は、人間の自我に注目して、みずからの思想を展開するところに特徴があったが、(略)大杉がおもしろいのは、こうした自我の思想、とりわけニーチェの思想を進化論とむすびつけていた点である。(略)千葉監獄で学んだ生物学や文学は、これまでのクロポトキンの思想をさらに深める役割をはたしていたということができる。もともと、クロポトキンは人間を標準的なものにかこいこみ、その優劣をはかることに反対していた。それでは人間が支配の道具に変えられてしまうからだ。クロポトキンが相互扶助をといたのは、ありふれた生の無償性こそが、そうした資本主義の標準にたいしてあらがうことができると考えたからである。だが、それではたりない。ニーチェは、さらに個性の完成という思想をもちこんだ。(略)大杉は相互扶助に加えて、自我の力という視点をいれることで、ありふれた生の無償性をよりひろくとらえようとしたのである。」(「第三章 ストライキの哲学」・99~104P)

 大杉の思想の基層というのは、多岐、多様に渡り内外の書物から、自分なりの受容の仕方で醸成していったものだ。進化論とニーチェは、一見、アンビバレンツなイメージを持つが、そこを結びつけていくところは、大杉の開かれた感性があるからだ。思想やイデオロギーというものは、どんな理想のイメージを付与されていたとしても、やがて、硬直化し、閉じられたものとなっていく宿運というものを忌避できない。それは、アナキズムといえども、同様である。大杉が、クロポトキン主義に偏重させていくのではなく、自らの感性によってかたちづくっていく思考の有様へと試行錯誤していったことに、もっと注目していいのだ。
 さて、ここからが、本書の核心に触れていくことになる。著者は、「クロポトキンが相互扶助をといたのは、ありふれた生の無償性こそが、そうした資本主義の標準にたいしてあらがうことができると考えたから」だと述べる。「日常的につちかってきた生きる力」といい、「ありふれた生の無償性」といい、感性を刺激するいい方だと思う。しかし、ここではまだ、難渋性から解き放たれているわけではない。もう少し、先を見てみよう。

  「相互扶助。八太は、純然たるコミューンのなかに、相互扶助の理想をみいだしていた。そして、そこから逆算して、運動のありかたを決めていた。(略)大杉の場合、相互扶助は究極の理想ではなかった。それがないということではなくて、いつでもどこにでもあるものであった。相互扶助はありふれた生の無償性のことであり、日常的にちょくちょくやっていることである。見返りを求めずに、ひとのためにしてあげる。それは農村コミューンにもみられるだろうが、ふつうに友人同士で遊んでいるときだって、労働組合で活動しているときだって、工場で働く労働者のあいだにだってあらわれている。(略)この無尽蔵にわきあがってくる相互扶助の感覚を、どうやってひろげていけばいいのだろうか。資本主義というものが、人間の活動を採算のとれるものへと切り縮めているのだとしたら、それをどうやってたたけばいいのだろうか。その手段や方法は、いくらでもあるはずだ。無数にありうる生の無償性を武器にすること。大杉の場合、米騒動のイメージをもってこういうことがいえたのだろう。しかし、よく考えてみると、関東大震災をみたあとのアナキストは、なかなかそうもいえなかったのかもしれない。いちばんひとが助けあうべきときに、未曾有の大虐殺がおこり、大杉も殺されてしまったのだから。純粋にただしい理想にすがりたい。ありふれた生の無償性か、それとも究極のコミューンか。かつて八太とおなじような問題を提起していた岩佐作太郎にたいして、大杉はこう述べていた。『いい問題だ。かなり難しい問題ではあるだろうが、しかしだいぶ進んだ問題だ。』」(「第六章 アナキストの本気」・252~253P)

 ここでの、純正アナキズムを説いた八太舟三と大杉を対比する手捌きは鮮鋭だ。そもそも、わたしは、労働組合至上主義を批判していくのはいいとしても、八太の純化させていく理念に、あまり共感した記憶がない。実は、わたしが、バクーニンに傾斜していったのは、クロポトキンの理想主義的な相互扶助概念に馴染めなかったからだ。もうひとつある、自由連合という言葉にも僻々した覚えがある。そもそも初めから、結びつくことを前提としたビジョンほど、怪しいものはない。「大杉の場合、相互扶助は究極の理想ではなかった。それがないということではなくて、いつでもどこにでもあるものであった」と、著者は簡明に述べていく。わたしも、そう思う。とすれば、それはもはや究極の理想のコミューンなんかではなく、“ありふれた日常”の地べたの関係性ということになる。それでいいのだと、わたしならいい切ってしまいたい。コミューンや共同体というものは、それが、いつでも開くことができるのならいいが、閉じていく可能性を内在させている限り、なにか理念の共有を強いるものになり、結局一つの共同幻想に過ぎなくなる。
 わたしは、ただ「生の無償性」という言葉だけなら、それほど感応しなかったと思う。そこに、「ありふれた」としたことによって、「いま」を少しずつでも、推し進めていく「力」にはなるはずだと考えたいのだ。大杉の言葉の意味するところは、なかなか焦点を捉えにくいかもしれないが、たぶん、一つの方向だけに特化する進み方ではなく、様々な捉え方があっていいのだ。そういう動態によって、自然に連携していけば、なにかが、変わりだすかも知れないと、思っていたのではないかといいたい気がする。それこそが、いうところの永遠のアナキズムなのかもしれない。

※栗原康著『大杉栄伝 永遠のアナキズム』
夜光社・13.12.24刊 四六判 320頁 本体2000円

(『アナキズム』第18号-14.11.25)

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2014年10月15日 (水)

伊藤彰彦 著『映画の奈落――北陸代理戦争事件』          (国書刊行会刊・14.5.25)

 1970年代の日本映画で、実録やくざ抗争劇を主題とした作品が数多く製作されていた。わたしもそうだが、当時、多くの観客を魅了したものである。その先鞭となったのが、『仁義なき戦い』(73年・東映、監督・深作欣二、脚本・笠原和夫)だ。この作品は、『映画芸術』の日本映画ベストテンの第一位になるという高評価を受けている。東映は以降、『仁義なき戦い』シリーズを初め、数多くの実録やくざ路線の作品を製作、配給していくことになる。本書で取り上げている『北陸代理戦争』(77年公開。監督・深作欣二、脚本・高田宏冶)を、わたしは、もちろん封切館で観ている。後々まで印象深い作品として残ったのだが、当時のわたし自身の感慨をふり返ってみれば、なにか、未消化な感覚を抱いたものだ。77年は、待望久しい加藤泰と鈴木清順の新作が同時に封切られるという画期的な年でもあったが、本書の著者が指摘するように、「『北陸代理戦争』に漂う、実録やくざ路線末期の暗鬱さ」のためだったように思う。だが、この映画は、いろいろな意味で、まぎれもなくその時代を象徴する作品であったのは、間違いない。この後、深作は実録路線から離れていったし、主人公のモデルとなった川内組組長・川内弘が、公開されて一ヵ月半後、実際の抗争で殺される「三国事件」が起きたからだ。
 かつて、高田宏冶は、『高田宏冶 東映のアルチザン』(96年・カタログハウス刊)で、「実録やくざ映画の脚本がエンターテインメントとして生彩を放つ場合には、こちらが手応えを感ずるモデルがいな」ければならないと述べていた。しかし、それはまた、著者がいうように「実録やくざ映画にはさまざまなやくざ絡みのトラブルがともな」うため、「矛盾とジレンマがある」ということになるのだ。
 本書は、企画段階から脚本完成・撮影開始、公開までを関係者への徹底した取材や多様な資料の精緻な解析によって、一つの映画作品が完成していくプロセスをスリリングに描出しながら、やがて、それぞれの関係者が奈落へと向かっていく様を見事に浮き上がらせていく。特に高田が川内に共感しながら書き上げいく脚本という世界の奥深さを、著者の鮮鋭な視線によって明らかにしていくところは、本書の核心部分だといっていい。「三国事件」がなぜ起きたのかといったことは、様々な因縁があるとしても、映画のラストで川内が対立する山口組若頭補佐(菅谷)に向かって宣戦布告するシーンを描いたことで「川内弘の菅谷政雄に対する立場を危うく、そして旗幟鮮明にさせ、『三国事件』にいたる〈奈落〉に向かって背中を押した」のは、確かである。映画というものの凄さがそこにはある。

(『通販生活 2014年秋冬号』14.11.15)

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2014年1月25日 (土)

声がするほうへ・死者のほうへ                     ――『岡井隆詩歌集2009-2012へい 龍 カム・ヒアといふ声がする(まつ暗だぜつていふ声が添ふ)』評

 思いおこしてみれば、何度か、空白期があるとはいえ、岡井隆には、長い間、途切れることなく随伴してきたように思う。わたしは、短詩型表現には、極めて当たり前の接し方(誤解のないようにいえば、わたしは、一度も創作をしたことがない)をしてきたといえる。近代詩から、現代詩、そして、短歌へという順にである。やがて、俳句作品の世界に浸ることになっていくのだが。それでも、断続的にではあるが、岡井隆の歌集や評論集を求め、読んできたのだ。ただし、近年、詩を発表するようになったようだが、わたしは、本書を手に取るまでは、まったく未見であった。
 七十年代前半、早稲田大学の短歌同人誌『反措定』を知って、福島泰樹や、三枝昂之、伊藤一彦といった歌人たちの作品を熱心に読みだしたことが、そもそも現代短歌に接した始まりだった。そういえば、河野裕子の第一歌集『森のやうに獣のやうに』にも共感して、短歌的世界の豊饒さを認識せざるをえなかったように思う。現代詩の方は、清水昶までで、同世代の詩人(荒川洋治や平出隆)は、まったく不純な切っ掛けだが、吉本の「修辞的な現在」を読むまでは、無関心であった。
岡井隆という名前を明確に刻印された契機は、吉本との論争(もちろん、リアルタイムで望見したわけではない)であったのか、三枝昂之の第一歌集『やさしき志士達の世界へ』集中の、「まみなみの岡井隆へ 赤軍の九人へ 地中海のカミュへ」に喚起されるまま、流亡、沈黙期に入っていた岡井隆に不思議な関心を抱いたからだったのかは、いまとなっては、はっきりしない。
 それにしても、この二人(岡井と三枝)が、まさか、後年、歌会始の選者になるとは、思ってもみなかったといっていい。短歌と天皇制は、親近性があるというのは、まぎれもなく、近代天皇制というシステムが作り上げた幻想性であって、選者になった岡井と三枝に対して、わたしも含め、多くの人たちが落胆と批判をしたことをあらためて明記しておく。
 本書は詩歌集とあるが、詩歌をめぐる対談が三篇と評論・エッセイも織り込まれているから、純然たる詩歌集とはいえないかもしれない。それにしても、不思議な書名(91年に刊行された歌集『宮殿』集中の一首だという)だと思う。龍が隆(リュー)のことだったのかと分かったのは、「Ⅰ 詩集(二〇〇九‐二〇一二)」のなかに収められた「沼津在『恐怖の一夜』にちなんで――故清水昶さんの霊に」という詩篇によってだった。果たして、岡井隆の詩とはどんなものなのかと、思いつつ読み解いていくと、ほとんど、句読点のない散文といったものだった。散文詩といっていいと思うが、そもそもそんなカテゴリーはどうでもいいかもしれない。本人がこれは、詩だといえば、そうだろうし、要するに、そこに紡ぎだされた言葉に、ポエジーを感受できればいいのだから。その詩篇は、こんな書き出しから始まっている。

 新聞の訃報は人の名前が読むものを打つ好例だが人名に付された四五行の解説はその人を知るものにとつては慮外のことつまりどうでもいいので清水昶の名だけで一気にぼくのその朝をざわめく暗い森にしてしまった とはいへ昶君と呼んでゐた君との交流は村上一郎死後の七〇年代後期から八〇年代前期にまたがる一時に限られるだらう 昶君の文章でぼくの当時を写しとつてみるのはいい趣味ではないが「岡井さんは『ジンブツ』だった。酒をのみ、のむほどに、ぎゃあぎゃあと騒ぎたて、からみ、まといつく福島泰樹や小生を、医師リューはほとんど頬笑で巧みにかわしていた。」といはれればそんな気にもなる「岡井さんと一緒に旅をしたことがある。福島泰樹が住んでいた沼津に行ったのだ。」さうだつた

 『清水昶詩集』という全詩集が79年に国文社から刊行された。附録と明記された冊子が入っていて、最後のスペースに岡井隆の「つぶて」と題した文章が掲載されている。清水昶に酒席で、「あなたは歌壇の、いわば吉本隆明のようなところにあってなどと(それにしてはちと軽いじゃないの、との言外の意をたっぷりふくませつつ)言い出すのを聞くと、一瞬、酔いも醒めてしまう秋気を感ずる」と述べながら、沼津への旅のことに触れていて、「寺の門前の川の川中の芥の山めがけて石投げ遊びを(挑んで来た昶君の言のまにまに)やったが、わたしの投げる石は安保闘争のつぶてさながら芥に命中したのに若き同志のそれはことごとく空を切った」と記していく。この岡井隆と清水昶の往還は、ここまでの断片を見る限り、よくある共感し合う関係といっていいと思うが、詩篇はさらに、「恐怖の一夜」を回想した後に、次のように書かれていく。

 「あへて危険な場所」へ出て行く勇気ではなく無知と無謀のための微笑などうかべながら九州へ逃げ九州から中部圏へと帰りさらに上京しても「危険」に気付かず生きて来たぼくへの昶君の批評でありやがてそれは九〇年代になつて宮中歌会始選者になつたぼくへの悪罵ともなつたことは知る人ぞ知る事実あそこまではつきりとぼくを指さしてののしつた人は昶君だけだつたのだ

 本書の後書といっていい、「この本について」と題された文章がある。そこに、「この本は、二〇一二年の二月~三月のころに編まれた。わたしはその前年の二〇一一年の十二月、新潮社から『わが告白』といふ自叙伝形式の作品を出した。三年がかりで書いたものであつたが、出版と共に、さまざまな書評が出た。(略)時に酷しい批評をうけて心乱れた。今回のこの本は、直接さうした批評(匿名批評も多かつた)に応へるやうな本ではないが、編集の時に、『わが告白』並びにそれへの批評が影響してゐなかつたとはいへないだらう」と記している。こうしてみると、歌会始選者になったことを批判した清水昶の悪罵も、匿名による『わが告白』への酷しい批評も、同じ位相で「心乱れた」と思えるが、じつは、そうではないと、わたしは思う。そもそも、「安保闘争のつぶて」をさりげなく引き合いに出す岡井にとって、歌会始選者になることも、『わが告白』という自叙伝形式の作品を出すことも、まったくの確信犯的行為といわざるをえない。批判されても「心乱れた」とは思えない。「歌壇の、いわば吉本隆明のようなところにあってなどと(それにしてはちと軽いじゃないの、との言外の意をたっぷりふくませつつ)」という表現それ自体が、ある種の韜晦を露呈しているといっていい。しかし、それが、岡井隆らしいといえば、そうなのだが。
 わたしは、作品評価的にというよりは、好きな歌集はなにかと問われれば、なんの迷いもなく『人生の視える場所』(82年刊)をあげる。岡井隆、五十代時のものだが、いいようのない老いのとば口に立った男のエロスとでもいう情感が好きだったからだ。例えば、『神の仕事場』(94年刊)の頃の岡井を、吉本は、「言葉がおどろくほど自在になっている」(『写生の物語』)と評していたが、確かに、自在さは、岡井短歌における膂力の源泉であると思うが、本書の作品群はどうか。

  たとへわれ右に片よりつつあると言われてもよい 旗は旭日
  皇居ふかき冬のみ苑生、御言葉を噛みしめながら帰り来たりつ
  両陛下へのご進講つづくその深い峡の一日第九を聴きぬ
  皇后さまのご提示されたいくつもの下の句案はどれも正しい

 自在さが、ここまでモチーフを偏在させていくと、それは自在性などではなく、天皇への信仰心の吐露としかいいようがない。さらにいえば、ある種の現状肯定によって、自分のいまを支えているといってもいい。あるいは、このような作品も、同じことがいえるかもしない。

  シャコンヌをまたきくまでに午がありナショナリストの午睡があつた
  アメリカの永き支配を押しのける意志も力もなきぞかなしき
  いや〈なきぞ嬉しき〉かもな。せめて〈なき〉さびしさをしも力に立たむ
  なぜ生きて歌ふのか〈死〉に訊いてくれかなり近くに居る筈だから
  時間(クロノス)といふ老人がぼくといふ老人にしぶしぶ呉れた今日です
  原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で弁護してみた

 独白といえば、そんな感じもしなくはない。ほんとうは、もっと、苛烈に告白したいのかもしれない。やはり気になるのは、宮中関係の作品が、他にも、かなりあるのだが、それが年末正月期の岡井の日常ということなのだろう。わたしが、ここで引いたのは、清水昶に倣って悪罵したいからではない。いまを肯定するということは、いい。それはそれで、その人のスタンスであるならば。わたしには、なにか、迷宮のなかにいる岡井隆が居るように思えてならない。ロラン・バルトは、皇居を〈空虚な中心〉といったが、岡井は、まさしく空虚のなかを彷徨っているのだろうか。
 「吉本隆明没後に書いた歌と文」と題した最終章にも触れておくべきだろう。わたしは、『吉本隆明をよむ日』(02年刊)よりは、『慰藉論』(75年刊)のなかの吉本についての文章の方がはるかにいいと思う。本書に収められたものは、『吉本隆明をよむ日』の方に近く、残念ながら、わたしには、あまり、響いてこなかった。
 最後に「吉本隆明といふ桜」と題した作品が七首掲載されている。それをすべてあげてみる。

  吉本さんが死んで何日と算へるのはそろそろ止めなつて桜が言つてる
  らんまんつて形容は便利、しかしだよ桜の本質は別のとこに在る
  次々に人死にし後の寂光の世に生きるとは、老いし桜よ
  夕方に人が来て次の仕事へとうながすときの 夕桜かな
  夕日には彼だけの差し方がある 老いには気になるギラリ、でもある
  吉本さんの言葉また一つ見つかった「岡井は死についてどう思ふのか」
  永遠に散らぬ桜が佃島から今日までを貫いて咲く

 最初の一首が、いちばんいいと思う。「そろそろ止めなつて桜が言つてる」というのが、声がするほうへ、死者のほうへ向かっていると思えるからだ。「便利」、「寂光の世」、「次の仕事」、「ギラリ」、「岡井は死についてどう思ふのか」、「貫いて咲く」という言葉の表出が、わたしには、わからない。やはり、岡井短歌を最大に評価した吉本の死をもっても、岡井隆の彷徨いは、終わらないのだろうか。

(『LEIDEN―雷電 No.5』14年1月)

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2014年1月20日 (月)

映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』考               ―――山田勇男の〈夢〉が彷徨する先は

 
      ※ ※ ※

 大正ギロチン社をモチーフに映像詩人の山田勇男監督が、ようやく映画化することになったと、昨年の初春頃に知り、わたしは、驚きと共に、おおいなる期待感を抱いたといっていい。それは、十年前に、鈴木清順監督で『疾風怒濤』と題し、映画化が企図され、その脚本づくりのプロセスの一端に、関わったわたしとしては、複雑な思いを抑えることができなかったのは、確かだったが、鈴木監督での作品化を断念せざるをえない段階で、あらたに、山田勇男による脚本・監督で再スタートしたことを知っていたこともあって、よく実現への端緒についたなという感慨が湧きあがってきたからだ。だが、撮影に入ってから、様々なことが生起し、完成も危ぶまれたのだが、それでも、上映(11.11の特別試写会と、11.16大杉・野枝没後90年集会での一般特別公開)へと辿りついたことは、率直に賞賛したいと思う。
 山田勇男にとって、『蒸発旅日記』以来、十年振りの劇映画作品であり、しかも、二時間を超える長大な作品となった『シュトルム・ウント・ドランクッ』を撮り上げたことの意味は、大きいはずだ。わたしは、訳知り顔で山田作品を論じられるほどに、作品を丹念に見てきたわけではないが、この『シュトルム・ウント・ドランクッ』は、まぎれもなく、山田勇男のフィルモグラフィーのなかで、傑出した作品となったことは、断言していい。
 わたしが、山田勇男という名前を知ったのは、しばしば、執筆参加していた『夜行』(北冬書房・発行)誌上であった。湊谷夢吉という作家がいた。彼の劇画作品が初めて『夜行』に掲載されたのが、八号(79.5刊)の「続・惜春記」であった。以後、毎号、掲載され、「マルクウ兵器始末」、「魔都の群盲」、「虹龍異聞」といった傑作群を次々と発表していく。しかし、残念ながら、88年6月に急逝。8月に偲ぶ会があり、わたしは、湊谷には一度も会ったことはなかったが、『夜行』を通しての共感の思いから、参加した。二次会では、大勢の人が集まっていた。おそらく、その同じ場所に、山田勇男もいたと思うが、その時はまだ、彼のことは知らなかった。『夜行 16号』(89.3刊)に、わたしは、「流離する物語」と題したつげ義春の旅作品論のような文章を発表した。この号は、秋山清の追悼特集と共に、「湊谷夢吉追悼特集」でもあった。そこに、山田勇男は、「緑色のハート」という文章を掲載している。それが、わたしとって、山田勇男という名前を初めて眼にした時だった。後に、札幌で湊谷とともに、銀河画報社を結成し、『スバルの夜』、『夜窓』など、多くの8ミリ映画作品を発表していたことも知る。それ以前は、寺山修司のもとで、映画美術に関わっていたこともわかり、わたしは、一方的に、親近感を抱いていったように思う。ただし、「8ミリの世界では、山田さんは『巨匠』だった」(古屋淳二「映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』をめぐって」―『アナキズム17号』掲載)ことは、その頃、知る由もなかった。しかし、実際に山田と直接、会ってみると、寺山や湊谷と連結されるはずの多彩な表現に対する熱情のようなものは感じられず、むしろ、表現への思いを自らの内奥に核として深く静かに潜在させているように思えてならなかった。山田による『夜行 18号』(93.2刊)の表紙カヴァーデザインは、後にしばしば、散見されるようになる独特の色調と文字体の苛烈さを象徴していて、寺山や湊谷と通底するものが、あったとはいえ、同号に発表された漫画作品「日向の匂い」は、静謐でありながらも、その描線の有様は、強い思いを湛えているような気がした。むしろその時、山田の本領は、そういうところにあると、確信めいたことを感じた覚えがある。
 その後、『夜行』、『幻燈』と引き継がれるなか、わたしにとって漫画作品が、リアルタイムで接していた山田作品ということになる。そして、山田は、03年につげ義春原作の『蒸発旅日記』を監督作品として、わたしたちの前に、提示した(92年の『アンモナイトのささやき』以来の劇映画作品ということになる)。この作品は、山田勇男にとって、自らの内奥に核として潜在させていたものを率直に表現したものであったと、わたしは思っている。
 それは、『幻燈 No.4』(02.10刊)に掲載されたインタビューで、山田は、「わたしが今までつくってきた映画の方向性というのは夢の感覚のリアリティみたいなもの」だと答えていたからだ。つまり、わたしは、埴谷雄高的な意味で、「夢の感覚のリアリティ」を存在感覚の位相へと結びつけて、山田のいう「夢の感覚のリアリティ」という言葉に感応したのだが、もう少しアクティヴに捉えた方が「夢の感覚のリアリティ」は、大きな意味を持ってくるといっていいかもしれないと、いま、この稿を起しながら考えている。

      ※ ※ ※

 映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』について、述べてみたい。わたしは、鈴木清順の「花」というエッセイから紡ぎだされるギロンチン社のイメージによって、喚起される思い入れを、断絶させたところから、この作品に向き合うことを、前提としたい。つまり、当初の『疾風怒濤』と、同じ語義を持つ『シュトルム・ウント・ドランクッ』は、まったく別の企図を有したものだと見做すべきなのだ。当然、そのことは、企画者の高野慎三が当初抱いていた制作意図(『アナキズム 17号』掲載)とも、離れるものだといっていい。だからといって、そのことを負の意味でいっているのではない。これは、声高にいっておきたいことだが、『蒸発旅日記』と『シュトムル・ウント・ドランクッ』は、ひとつの連続した世界をかたちづくっていると捉えるべきなのだ。わたしは、ここで、映画における作家主義に拘泥しているわけではないし、監督第一主義を主張したいのでもない。
 高野慎三・山田勇男共同脚本と銘打ってある撮影台本を見ながら思ったのは、そこには、わたしが、これまで想起してきた古田、中浜、和田、村木といった関係性の有様を、あまり微細には描かれておらず、鈴木清順作品の初期構想の女テロリストが、登場し、彼女がいわば、時空の横断を象徴させるかのように物語をかたちづくっている。そのことは、この作品が、必然的に歴史活劇と、リアリズム映画の狭間にあることを示している。映画は、作りものであり、虚構の世界を描いているものだとしても、どこかで、事実的な事柄をモチーフにしている時、見る側にとって、そこになんらかの視線を這わせていかざるをえない。それは、作品にとって不運なことだと思う。だからこそ、わたしたちは、自分たちの抱いてしまっている大正アナキストたちへの憧憬感をいったん排除したところで、この作品に向き合うべきなのだ。とすれば、女テロリスト・松浦エミル(中村栄美子)とは、どのような存在として見るべきだろうかという思いが切実なものとなってくるといっていいはずだ。
 何度か、エミルに自分は「幽霊」であるといわせているが、わたしは、そのようにいわせてしまうことに、疑義を挟みたい。中浜や古田たちにいわせるならわかるが、エミル本人にいわせるべき言葉でない。
 なぜなら、まるで、敢えて物語を断絶するかのように、印象深く描出される窓から見える月のカットと同じように、しばしば導入されるエミルの佇む姿は、「幽霊」という言葉を纏うこととはなんの関係もないからだ。むしろ、山田の次のような言葉こそ、佇むエミルに相応しいと、わたしなら思う。
 「ひたすら無いものねだりに明け暮れ、気が付けば未だ八ミリフィルムに虫眼鏡をあて、光を透かしている。そのまま見ても、何が映っているのか、滲んだ色彩の、あわいの切片でしかない。そんな寂しい思い。だが、いつも出会いが、僕を救ってくれていた。そこに僕らの映画がある、と思った。」(「僕の『存在と無』 あとがき風に」―『星のフラグメント 山田勇男のあしおと』・ワイズ出版、03.7刊)
 エミルは、時間や空間を横断する存在ではない。もちろん、「幽霊」でもない。エミルは、死者たちの関係性を語りつぐ存在としてあるのだと、わたしなら見做してみたい。佇むエミルの姿は、寂しさを滲ませている。鎮魂の思いを湛えているとも捉えることができるかもしれない。だからこそ、関係性というものへの希求の象徴として、エミルはあるといいたい。中浜や古田たちの方こそが、既に死者であり、幽霊という存在なのだ。「寂しい思い。だが、いつも出会いが、僕を救ってくれていた」と語る山田勇男は、そのまま、佇むエミルの姿に重なっていく。そして、そこに、山田勇男の映画がポエジーを滲ませながら映し出されているのだ。

      ※ ※ ※

 高野慎三の「制作意図」のなかに、加藤泰監督が描いた映画『緋牡丹博徒』シリーズ(全八作のうち、三作『花札勝負』、『お竜参上』、『お命戴きます』を監督している)の藤純子演ずる矢野竜子と、農村青年社の八木秋子の像を重ねながら、松浦エミルに仮託したと述べている。そして、撮影台本では、赤字で「農村青年社」という文字、白字で、「信州コミューン」という文字が書かれている黒旗を掲げながら、「鍬を振り上げ、畑を耕している」エミルの姿を終景にしている。加藤泰の『緋牡丹博徒』三作に魅せられてきたわたしは、高野の意図に全面的に共感しながらも、「ギロチン社」から、「農村青年社」に繋げることに、やや、逡巡しないわけにはいかなかった。
 映画では、終景にではなく、「南天堂」シーンの前に置いた。それなら、むしろ、エミル・農青社の場面は、なくてもいいのではないかと、わたしには感じられたといっていい。むろん、様々な事情で、そういうわけには、いかなかったかもしれないが、エミル・農青社という有様は、山田作品には、異和感を抱かせるものだというのが、ひとつのわたしの見方だといい添えたい。
 終景からエンディングは、ある種のドキュメントタッチで主要登場人物たちの像が描出されていく。「いつも出会いが、僕を救ってくれていた。そこに僕らの映画がある」と述べる山田勇男の、出演者たちにたいして、この映画の現在という場所からのオマージュのように思えた。みんな、表情がいい。彼らの表情は、まるで「夢」の場所から、「いま」の場所のなかで、出会いと関係性をかたちづくったことの達成感のように見えた。
 果たして、山田勇男の〈夢〉が彷徨する先、つまり、「夢の感覚のリアリティ」をつかむ場所は、どこなのだろうかと、問い直してみる。それは、山田勇男にとっても、わたしにとっても、映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』で、松浦エミルが見据える視線の先にあるはずだと、見終えた後、わたしは思ったといっておきたい。

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2013年12月30日 (月)

追悼・藤圭子へ

【1】藤圭子の〈自死〉をめぐって

 藤圭子が、〈自死〉して四ヶ月以上過ぎたことになる(8月22日)。もう、何年も前のことのように思えてくるから、不思議だ。こうして、時間をおいてみると、藤圭子の〈声〉や〈歌〉は、やはり、自分にとって大きな存在だったと感じられてくる。
 わたしにとって、藤圭子は、デヴューとともに、魅せられた歌手だった。藤圭子より二歳年上のわたしが19歳から20歳にかけての、ほぼ一年間に限られていたが、様々なことを包摂していた69年から70年という時制であったことで、藤圭子もまた、わたしにとって、切実な存在であったのだ。そのことは、やや回想も含めて、「わが『演歌』考――藤圭子から椎名林檎まで」(『塵風』第三号・11年2月刊)という文章を書いたことがあるので、ここでは繰り返さないが、例えば、次のような記述には、ひとこと疑義を呈したくなる。

 「藤圭子はしばしば世界的な六八年の記憶と重ねられて語られるが、実は一九六九という一年の差が重要なはずだ。七〇年安保へ向けた社会叛乱のピークは六八年であり、六九年にはすでに退潮期にはいり、そうであるがゆえに一部では鬱屈と一部では過激化を生み出し、その影は大衆文化全般にも影響を与えていた。」(「イントロダクション 藤圭子 1951~2013」―『文藝別冊 藤圭子追悼 夜ひらく夢の終わりに』13.10刊)

 この記述者(無署名)の大きな錯誤を指摘しなければ、藤圭子の存在性が希薄になっていくので、あえて論及しておきたい。真っ先に、述べておきたいことは、「世界的な六八年の記憶」というものいいだ。いったい誰が、藤圭子を「世界的な六八年の記憶と重ねられて語」ってきたというのか。絓秀実の誇大妄想的な「六八年革命」なるものに感化されたのか、「社会叛乱のピークは六八年であ」ったなどと、いうに及んで、わたしは、絶句するしかない。はっきり、いっておこう。六〇年代から七〇年代初頭にかけて、対抗的な渦動のどこかにピークがあるなどという捉え方を、わたしなら絶対にしない。すべて、地続きなものであって、ピークや「退潮期」などという皮相な認識は、まったく無効であると断言しておく。このようなものいいは、歴史を教科書的に捉えることと同じであって、まったく意味をなさないのだ。そして、もっと容認しがたいのは、「大衆文化全般」というものを、まったく理解していないということだ。退潮期に入った対抗的な渦動の「影は大衆文化全般にも影響を与えていた」ことなど、ありえない。わたし自身は、大衆文化(東映任侠映画、漫画、歌謡曲)の方から、圧倒的に大きな影響を受けていたからだ。一例をいっておこう。68年初夏、つげ義春の衝撃的な作品「ねじ式」が、発表される。この記念碑的な劇画作品は、“世界的な六八年”の渦動の影響下にあったものでは、まったくない。

  「私が男になれたなら/私は女を捨てないわ/ネオンぐらしの蝶々には/やさしい言葉がしみたのよ/バカだなバカだな/だまされちゃって/夜が冷たい新宿の女」(藤圭子『新宿の女』―69年9月、作詞・石坂まさを、作曲・みずの稔・石坂まさを)

 確かに、ほぼ一年前の10月21日の新宿は、騒乱の坩堝と化した街であった。時は過ぎゆくものだ。一年が、何年も経ったように思えた時期である。だからこそ、「バカだなバカだな/だまされちゃって/夜が冷たい新宿」という詞に、直載に感応したの当然であったとしても、それは、藤圭子の〈声〉が、わたし自身の感性の在り処を撃ったからであって、藤圭子の〈歌〉になにかを仮託しようとしたわけではなかった。
 いま、あらためてシングル盤のみのアルバムを買い求めて、聴き直してみると、『新宿の女』(69.9)、『女のブルース』(70.2)、『圭子の夢は夜ひらく』(70.4)、『命預けます』(70.7)までが、わたしにとっての最も藤圭子に近接していた時だった。その後は、やや時間を開けて、『京都から博多へ』(72.1)までが、随伴していった最後だった気がする。それは、時代情況とは関係のないことであって、わたし自身が、藤圭子の〈声〉と〈歌〉に魅せられなくなったということである。
 98年暮れ、「Automatic」による、宇多田ヒカルの登場は、衝撃的だった。その詞とメロディーの斬新さ、そして歌唱は、母が演歌の歌い手であったことを継承していると直載に思えたものだった。だが、念願だったはずの娘の華々しいデヴューに際して、ほとんど、その素顔(つまり母としての)を露出することがなかったことは、戦略的だったのかどうかは別として、藤圭子という存在を既に終えことを自ら宣しているようだといっていい。
 先の『文藝別冊』に、四方田犬彦も文章を寄せているのだが、書き出しの酷さに言葉もない。引くのも嫌になるが、「藤圭子が精神を病み、成功した実の娘を横目で眺めながら破滅したと聞かされたとき、わたしが直感的に思ったのは二つのことだった」というものだ。メディアがどんなことを喧伝しようが、宇多田照實と宇多田ヒカルの側が、いかなることも宣しようが、それらのことを真実として受けとめる度量は、わたしにはない。四方田ですら、一方的な情報に洗脳されているのだとしたら、藤圭子の〈自死〉は、恐ろしい事態を引き起こしているといわざるをえない。簡単に「精神を病み」、「破滅した」などという皮相な言葉を伝聞であっても記すべきではないのだ。山口百恵をバックアップしたプロデューサー酒井政利の言葉は、そんな事態の中にある藤圭子を救済している。

 「スーパースター的な要素の人って、影が濃いですよね。影は誤解されるし、歪められます。天才だから、理解されないまま不可解なまま終わっていくものです。答えをさがしだそうとしても、それをひきだすことは不可能なんだと思います。(略)大孤独だったと思います。だから、呟いたりするんだと思います。最初から彼女は孤独を背負ってきたんだと思います。ぬぐい去れないものなんだと思いますね。」(「歌の行間から負の叫びをうたった天才」―『同前』)

 「大孤独」とは、凄い表現だ。と同時に、「影は誤解されるし、歪められ」るといういい方にも、共感できる。理解できないことを、「精神を病」んでいるとすれば、外部にとっては楽なことだ。もし、最も信頼している家族からも、そう見做されたとしたら、藤圭子は、いったい何処へ向かえばいいというのだろうか。
 藤圭子は、娘・宇多田ヒカルがデヴューした後も、宇多田純子ではいられなかったに、違いない。「大孤独」さが、娘の華々しい活躍と反比例するように、慰藉されることはなく、ますます増大していったのではないかと、わたしには思われる。

【2】沢木耕太郎著『流星ひとつ』を読みながら、思ったこと。

 亡くなった後、様々な新聞・雑誌の記事の中に、次のような文章があった。

 「(ロックが歌いたかったという=引用者記)夢を求め、79年に芸能界を引退した藤圭子は単身、渡米する。そこでたまたまライターのマコこと田家正子さん(66)に巡りあう。元ゴールデン街のママのやっている神楽坂の酒場のカウンターにマコはいた。『ある日、ニューヨークのカフェでお茶を飲んでいたら、日本人らしい女性が通り過ぎ、また戻ってくる。アパートを探していた。それが藤圭子。結局、同じアパートの部屋で3カ月、一緒だった。マスコミが自分をつくった、藤圭子は終わった、と言ったわ。(略)』/グラスを傾けながら、マコは藤圭子が大切にしていた原稿の束のことを口にした。『あるルポライターが彼女について書いたもの。彼女はその男を待っていた。でも、来なかった』。アパートに入居したときのパーティーに招かれていたのが、後に夫となる現地取材コーディネータを手がけていた宇多田照實さん(65)だった。そして一粒だねの宇多田ヒカルさん(30)が生まれる。」(鈴木琢磨「『藤圭子の新宿』を歩く」・「毎日新聞」13.9.4夕刊)

 この記事を読んで、そのルポライターが、沢木耕太郎であることが、すぐに推察できたといっていい。かつて、沢木耕太郎による幻の藤圭子インタビュー本のことが、雑誌『噂の真相』(1999年11月号)で触れられていたからだ。沢木が、藤圭子へのインタビュー本を封印したのは、恋愛関係になったからだというのが、『噂の真相』の記事の骨子だったと思う。この鈴木の報告は、まさしく、そのことを傍証するものだといっていい。
 宇多田側の一方的な宣明に対して、楔を打つかのように出したのが、沢木が封印していたはずのインタビュー本『流星ひとつ』(新潮社刊・13.10)である。全編、会話だけで構成した、この本は、画期的なものとなっている。藤圭子の全発言を引きたいほど、酒井の言葉と繋がるかのように、孤独な表現者・藤圭子の〈像〉を浮き上がらせている。印象深い箇所を引いてみたい。

 「あの『面影平野』(引用者註=作詞・阿木耀子、作曲・宇崎竜童―77.1)がヒットしなかったのは、あたしが詞の心がわからなかったから……だけじゃないんだよ。そう思いたいけど、やっぱり、藤圭子の力が落ちたから、なのかもしれないんだ」「もう……昔の藤圭子はこの世に存在してないんだよ」「喉を切ってしまったときに、藤圭子は死んでしまったの。いまここにいるのは別人なんだ。別の声を持った、別の歌手になってしまったの……」「無知なために……手術をしてしまったから、さ」「決まってたんだよね、その、先天的な結節みたいのを取っちゃえば、声が変わってしまうということは、ね。でも、あのときはわからなかった。結節さえ取れば、これから楽に声が出るようになるって、それしか考えなかったんだ。でも、それを切り取ることで、あたしの、歌の、命まで切り取ることになっちゃたんだ」

 二十八歳の時の藤圭子の言葉は、自らに対して潔癖だったといえる。いや、潔癖ということは、必ずしも的確ではないかもしれない。わたしが、藤圭子の〈声〉と〈歌〉から離れていった時と、藤圭子が喉の手術をした時期と、どう重なるのかは、わからないが、「あたしの、歌の、命まで切り取ることにな」ったといいきる藤圭子は、やはり傑出した表現者だったと、思う。

 「前を見るよな 柄じゃない/うしろを向くよな 柄じゃない/よそ見してたら 泣きを見た/夢は夜ひらく」

―――2013.12.30記

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