2017年3月11日 (土)

青木孝平 著『「他者」の倫理学―レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む』( 社会評論社刊・16.9.10)

 「他者」という概念は、それ自体として存立できないものだ。つまり、「自己」というものを措定して、初めて、「他者」ということが表象してくるといえるからだ。しかし、本書の著者が思考する「他者」は、「自己」の反照か鏡像のように在ると、わたしは受けとめたことになる。もちろん、著者にあっては、「他者」とは、「自己」を対象化もしくは相対化するものと措定しているのだが。
 「レヴィナス、親鸞と宇野弘蔵という思想の出所も思考の形成過程もまったく異なるものをクロスオーバーさせることで、形而上学的観念論と弁証法的唯物論との障壁をいったん解体し、自我を根源的に相対化しうる『他者』を主体とする思想、すなわち語の厳密な意味での倫理的思考へと向かうことをめざしている。」(「まえがき」)
 ここで著者が明言していることは、「自我を根源的に相対化しうる『他者』を主体とする思想」を構築していく方途として、レヴィナス、親鸞、宇野弘蔵という一見クロスしない思想表現を横断させていこうという試みになるわけだが、「他者」という様相を鏡像のように見做していけば、それぞれのなかで微妙な差異を見せていることに、わたしの関心は引き寄せられていくのだ。その差異の位相を、わたしなりに共感性を滲ませながら述べていくことができれば、本書の深部へと幾らかでも近づくことがでるのではないかと思っている。本書の構成と違い、宇野、レヴィナス、親鸞という順に触れていく。
 著者は、「マルクスが人間主義的立場から資本主義を解明し批判しようとしたのに対して、宇野弘蔵のそれは、全く逆に、ひとまず資本の立場に主語を置いて、徹底的に『人間』を対象化し批判する方法論を貫こうとしたもの」だから、「人間(自己)に対してあらかじめ外的に存在する『他なるもの』を主体とする論理だったというべきである」と述べているのだが、確かに、資本制社会を構成するのは、「市民社会」という人間集団である以上、「人間」を対象化していくことは当然のことだと思う。そのように対象化していく視線が、「『他なるもの』を主体とする論理」となるのかどうか、幾らか逡巡しないわけにはいかない。
 レヴィナスについては、「顔」という概念を軸に「他者」へと敷衍させていく。「私の内にある『他』の観念をはみ出しつつ『他者』が現前する仕方、このし方のことをわれわれは顔と呼ぶ」というレヴィナスの言説を引きながら、著者は次のように述べていく。
 「(略)レヴィナスは、私と顔、それゆえ自己と他者を、鋭角的な非対称性によって切断する。そして自己を超える他者の崇高さ、尊厳さ、無限性を強調する。彼は、(略)無限に超越していく者として他者の『顔』を渇望した。むろん、こうした絶対的他者の肯定は、哲学ではなく宗教学としての『神学』にすぎないのではないかという疑問もありえよう。しかし、レヴィナスにとって、神は現前することない『絶対的不在者』であり、彼の追求したものは、どこまでも自己に対する他者の倫理的関係であった。」
 これはあきらかに、レヴィナスの他者(顔)は、宇野思想から、やや距離を置き、親鸞の「他力思想」により近接していくかのようだ。著者は、当然のことなのだが、仏教史、あるいは、仏教思想という位置づけのなかで、親鸞を捉えていくわけだが、宇野経済学ではなく、宇野思想として著者が見做したように、わたしは、思想家としての親鸞、あるいは親鸞思想という視角で捉えてみたいのだ。
 「(略)親鸞は、称名念仏の行を、衆生の側からする能動的な行(能行)としてではなく、どこまでも諸仏の、さらには阿弥陀仏の側からの大行としてのみ読み替えて捉えることになった。(略)親鸞の『他力』は絶対他者としての仏による無限の能動的救済を指すことばであり、これに、凡夫としての『自己』の、いっさい選択の余地のない徹底的に受動的な信心が対置されることになる。」
 称名念仏を一生懸命唱える、あるいは、俗的にいえば修業して悟りを開くといったことは、能動的信心ということになる。しかし、まったく逆のベクトルで信の構造を切開して見せたのが親鸞であった。著者の論及を援用していくならば、「自己があれこれ心配して手段を講じなくても、阿弥陀仏の側からひとりでに救いの手が差しのべられ」、その「背後に、一切衆生を救おうという弥陀の本願がある」ということになるのだ。そして、「もしかするとそれは、信仰そのものの放棄と紙一重の心境であり、いわゆる『非智』ないし『無知』の思想であったかもしれない」と付言していく、著者の親鸞思想の描出は、同意できる。そうであれば、信というものを徹底的に突き詰めて、やがて解体させていくかのような位相を表出する親鸞における「他者」の倫理思想は、屹立していると、いっていいのではないだろうか。

(『図書新聞』17.3.18号)

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2017年2月25日 (土)

中田豊一、和田信明 共著                     『ムラの未来・ヒトの未来―化石燃料文明の彼方へ』      (竹林館刊・16.11.1)

 著者たちは、長年、「国際協力という分野で仕事を続けてきた」という。つまり、NGOを立ち上げて開発途上国への援助活動を行ってきたのだが、そのことによって、村(共同体)へ恣意的な変容を強いて来た結果、村が村でなくなっていく、あるいは村という共同体が壊れていくという事態を招来させてしまったことを著者たちは、「介入」といういい方をしながら、苦渋を込めて述べている。
 「国際協力とは、相手側の状況への介入である。特に、私たちのように、農漁村、都市のスラムなど、コミュニティ単位で係わることが多い場合、相手が現在置かれている状況を変えるという方向で係わる。(略)私たちは、村に代表されるコミュニティ(共同体)が抱える課題を解決する。解決する主体はコミュニティであり、私たちはそれを支援するという建前になっている。だが実際は、課題の設定もその解決方法も私たちが持ち込むものであり、したがって、文化も生活慣習も、そしてそれぞれ抱える課題も違うはずの世界各地の村で、どこも似たようなプロジェクト、いやまったく同じ内容のプロジェクトを十年一日のごとく行っている。」(和田「序章」)
 著者たちによれば、プロジェクトとは、「貧困削減のための収入プロジェクト」といわれる市場経済の導入を意味する。その結果、「持てる者と持たざる者の境目は曖昧だった」にも拘らず、「持たざる者」たちは、「落伍者として村で暮らすことが難しくなる」と指摘していく。わたしは、途上国援助に関して、もともと好感を持って望見してこなかったが、それでも、著者たちの自省を込めた認識に接して、当然のことだという思いはない。むしろ、開発途上国であれ、先進国であれ、直面している難題は、それほど違いはないということが、言葉のなかに滲み出ていると見做したい。かつて、社会主義体制の崩壊によって、資本主義体制は、消費資本主義という相貌を身に纏いながら膨張し続け、中間層(大多数のわたしたち)が消費という幻想に酔いしれて豊かな社会をかたちづくったと錯覚してから、やがて坂の上から転げ落ちるように消費社会というものは虚構のなかに埋葬され、圧倒的な少数の「持てる者」と、圧倒的な多数の「持たざる者」に分岐してきた超資本主義となったのが、現在だといっていい。
 そこで著者たちは、「化石燃料文明」という概念を鏡像にして、コミュニティ(共同体)の有様を恢復させる方途を模索していく。わたしたちの現在から、時間を遡って類推していけば、ひとつの初源の類型に思い至ると著者たちは考える。つまり、18世紀から19世紀にかけてイギリスを中心に西欧を席巻していった産業革命に注視して、そこでの資本主義の形成や科学技術の進歩は無尽蔵に思えた化石燃料というエネルギー源に動力の根源があったと捉えていく。
 「化石燃料を利用した大量生産、高速大量輸送のシステムが日進月歩で進歩を遂げていく一方で、私たち人間自身は古来より何も変わらない。生身で生きるしかない。そして、生身の体ができることはたかが知れている。私たちの手漕ぎの舟と川自体を流れさせている化石燃料の『物理的』な力の差が、私たちの徒労感と無力感の根底にはある。私たちは、消費の欲望に誘われながら自分の足で歩んでいると思っているが、実際には私たちを動かしているのは、舟底の下を流れる川を動かしている化石燃料の圧倒的な力なのだ。」(中田「第2章 西洋文明でもない近代文明でもない化石燃料文明という枠組み」)
 著者たちは、自分たちが経験し試みてきたことにもとづいて、「思考実験」のように、「化石燃料文明という枠組み」からの逸脱、自立を語っていく。けっして、硬直した発想ではなく、また、イデオロギーから遠く離れて身の丈の考え方で、著者たちは自前の言葉で述べていく。
「私たちが生身の人間である」からこそ、「限りある一度だけの生のなかで自分が生きる道を探るしかない」と、そして、「私たちは、個人でどこまででき他人と共にしかできないことは何であるか」(和田「序章」)を考えるべきであると、綴っていく。 
 かつて本書の共著者・中田豊一は、『人間性未来論―原型共同体で築きなおす社会』・竹林館、07年11月刊)の中で、次のように鮮鋭に述べていた。
 「『市民社会』とは、人と人とが助け合い、協同していくための基盤のことを指す。それは原理的には相互扶助に基づく共同体としての機能を持つことになる。現在、日本でますます深刻化する問題の多くが、このような機能の喪失によるものであることを、今私たちは痛感しているはずだ。」
 ここで触れている「市民社会」を拡張、変換させて語るべきだと、わたしならいいたい。都市でもいい、農村でもいい、そうもっと直截にいうならば、ムラという共同体(コミュニティ)として視線を這わせていけば、個と共同性の問題は、ある普遍性をもって、せり上がってくるはずなのだ。
 「私たちが生活を変えていく、ということは、結局は、土と水に行き着く自然資源をどのように使うか、あらたな仕組みを作っていくかということにほかならない。そのとき、私たちが参照すべきは、やはり村だ。」(和田「終章」)
 かつてのありうべき共同性を、現在時にかたちづくることは難しいとしても、希求していく思いだけは、切実なものとして持ち続けていくべきであると、本書は語ってくれているといっていい。

(『図書新聞』17.3.4号)

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2017年1月28日 (土)

尾関周二、矢口芳生 監修                    『共生社会 Ⅰ 共生社会とは何か』『共生社会 Ⅱ 共生社会をつくる』(農林統計出版刊・16.10.5)

 わたしたちは、敗戦からの奇跡的な復興から、やがて高度成長を経て、いわゆる〝豊かな〟暮らしというものを享受してきたが、ここにきて、様々な矛盾が露呈し、失ってきたものの大きさを思い知るようになっている。ここで、確認しておくべきことは、資本主義的なシステムか共産主義的なシステムかという二元論的なことでは、もちろんない。どちらも、統治システム(例え、資本主義社会が民主主義的な装いを持っていたとしても)である限り、わたしたちに希望を与えるものではないということである。誰もが均等に消費して暮らしを豊かにするという消費社会の様態は、グローバリズムの席巻によって、『21世紀の資本』でトマ・ピケティも指摘するように、圧倒的少数の富める者と大多数の持たざる者の急激な二分化を生みだしたことを、あらためて認識すべきなのだ。
 ここ、何年か、あたかもグローバリズムへの対抗概念のように、「共生」、あるいは「共生社会」という考え方が論議されるようになった。本書は、「共生社会を可能にするような社会システムを学際的に研究するという目的で」、2006年に発足した共生社会システム学会の創立十周年を記念して刊行されたものだという。監修者たちによれば、共生あるいは共生社会とは、次のような捉え方になる。
 「(略)『共生』とは、多様性のなかの平等性や持続可能性を確保・向上するための実践のあり方であり、その前提には、言語・文化・風土等の異質性・多様性の尊重がある。実践の対象には、人間と自然、人間と人間(社会)、人間と文化(風土)との関わりかある。また、『共生社会』とは、持続可能で真に平和で平等な社会の構築のための実践的協働社会のことである。実践の担い手は、異質性・多様性を尊重する自由な諸個人であり、また、諸個人が共同的に結びついた集団・組織である。」(Ⅰ・「はしがき」)
 わたしは自分が拘泥してきた思考の有様のなかに、関係性や共同性ということの問題を汲み入れてきた。だから、「共生」や「共生社会」という考え方に親近性を抱いてきたといっていい。ただし、その前提となるのは、ひとつは民主主義の擬制を超克することと、統治システムに対しては徹底的に抗していくことだと思ってきた。監修者たちがここで述べていることに、ほぼ首肯できるのだが、次のことだけは、付け加えておきたい。関係性(共同体、社会)は、絶えず開いていて、去るものは追わず、来るものは拒まない、また、集団・組織は水平的・横並びであるということだ。そういう有様が、可能かどうかをいま論議すべきことではない。「可能にするような」方途を、まず模索していくべきなのだ。
 そのような、わたしの思いを視線に託して、本書を読み通して、多くの示唆と喚起を受けたことを率直に述べておきたいが、二分冊のなかのすべての論稿に触れるわけにはいかないので、かなり恣意的に幾つかの論稿について述べてみる。
 「“人間の持続”をも含めた真の意味での“持続可能な社会”があるとするならば、われわれに求められるのは、人間というものを理解するための新たな枠組みの提起である。」(Ⅰ・第Ⅰ部、上柿崇英「第6章 持続可能性と共生社会」)
 上柿の直截な言表は、あらゆる現象を切開していく。ただし、この言表を実践することの困難さを上柿は周知のごとくいい切っていることが切実なことなのだ。
 「地産地消」によって地方経済を活性化していこうといわれて久しい。野見山敏雄は、「地産地消を取り巻く日本社会の構造的状況は急速に変貌している。農業生産の担い手が消失し、生鮮青果物の需要が減退する状況下では、大規模農産物直売所を代表とする従来型の地産地消は次第に衰退しつつある。これに代るものとして期待されるのは、人口増加や経済成長には依存しない、脱成長型の地産X消ではないだろうか」(Ⅱ・第Ⅲ部「第4章 脱成長型の地産X消で地域に活力を」)と述べ、農産加工業務を需要に振り向ける「地産加消」、地元食材を農家民宿・民宿に供給する「地産宿消」、給食に食材を提供する「地産学消」、再生可能エネルギーの地産地消を目指す「地産燃消」、地域の互助性や贈与性を活用して食の無駄をなくす「地産完消」を提言していく。親近なる共同体のなかで、多様なかたちで、「地域再生」を図るべきだとする野見山の発想は刺激的だ。
 福田恵もまた、同じ様に本来あり続けたはずの農村共同体の相互扶助的なるものに着目しながら、「『村落』を同質的な者同士の堅固な社会集団として単純に規定するわけにはいかない。むしろ、共生の方途を探るためには、人的揺らぎの中で異質な他者と対話し続ける『村落』の側面に目を向ける必要があろう」(Ⅱ・第Ⅳ部「第5章 集落社会における共生の関係」)と論及している。わたしもそう思う。日本的な共同体(性)の有様というのは、一見、閉じているように見えて、実は、開かれていると捉えることができる。それが、列島的なアジア性の特質なのだ。
 「共生社会」を見通すことは、わたしたちが、在るということ、つまり、「人間」が存在すること、そしてその持続性を問い続けていくことであることを、忘れてはならないといいたい。

(『図書新聞』17.2.4号)

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2016年12月24日 (土)

河村次郎 著『存在と時空』(萌書房刊・16.10.9)

 存在論を基軸とした哲学的思考を前にして、わたしは、一瞬、戸惑いを感じながらも読み進めていった。いったい、息苦しさを潜在させながら迷走する現在において、存在論を展開していくことに、どんな意義や意味があるのだろうかと思ったからだ。
 それでも、書名から直截に受けるイメージからいって、当然、著者は、ハイデガーを意識した先を見据えて論及していくわけだが、一方では、「ライトモチーフ」としてプルーストの『失われた時を求めて』が、「心を捉えて離さなかった」と率直に述べている。わたしは、著者のようにプルーストから喚起されたことはないが、それでも、過去―現在―未来と通底する時間の流れを水脈のように本書全体を貫いていることに共感したといえる。だから、いまここで本書へと視線を降り立たせて、わたしが発語していくことは、著者の本意からは、大きくかけ離れていくかもしれないが、敢えて論述していくつもりである。
 著者は、自己組織化、あるいは自己組織性という概念を援用しながら存在という様態を様々に析出していく。ただし、自己を組織するということは、どういうことなのかは語られていない。にもかかわらず、次のように論述されていくと、おぼろげに自己を組織することのイメージが伝わってくるといっていい。
 「我々は、自己組織化する有機体としての世界のなかで生きる意識生命体である。そして意識生命体であるということは、それもまた自己組織性をもつということを意味する。世界も自己もその存在において自己組織性を核としている。しかるに、世界と自己は分離しつつも相互浸透する融合的一体性をなしている。すなわち、『自己を生かしている場としての世界』と『世界へと関わる能動的な自己』は、渦動的一体性において一つの巨大な生命の自己組織性の一局面を形成しているのである。」
 「自己」と「世界」を繋ぐものとして組織化という概念を援用しているとするならば、わたしなら、関係性とか共同性という言葉を使いたくなる。わたしたちの現在は、世代間を超えていうならば、「自己」と「他者」、「自己」と「社会」、さらにいえば、「自己」と「世界」を繋ぐものが見えない場所(時空間)であると、わたしなら捉えてみたいからだ。しかし、著者は、「世界と自己は分離しつつも相互浸透する融合的一体性をなしている」と見做していく。わたしは、吉本隆明の『共同幻想論』から喚起されて、自己幻想(個体幻想)と共同幻想(国家や宗教、あるいは法や社会規範を包含する)は、「逆立」すると考えていた。だがここで、著者が述べていく、「世界」とは、国家群が構成する世界ではない、位相の事なる様態を示しているといっていいかもしれない。
 つまり、「自己は自然によって存在せしめられているのであり、自己の存在の意味は宇宙そのものの時間から派生したもの」と捉えながら、「『存在の時間』は自己と世界、この私と全宇宙の双方に張り渡されている」と述べているように、自然―世界―宇宙は、ひとつの環界として見做すことのできる視線を提示しているといっていい。もう少し、著者のいう「世界」に拘泥してみるならば、次のような箇所に収斂させることができると思う。
 「過去と現在と未来はそれぞれ分離した個別の領域をもつのではなく、一つの生成的事態のなかで相互浸透的に統合しているのである。また、世界は物ないし粒子の集合体ではなく、出来事の集積体である。しかも、その集積性は過程的連続性という性格を帯びている。それゆえ、過去の出来事は現在の出来事ならびに未来の出来事と過程的連続という相互浸透的統合性をもっているのである。」
 「世界は物ないし粒子の集合体ではなく、出来事の集積体である」とするならば、「世界」とは、わたしたちの「存在」と「時空間」の集積されたもの、つまり、生きていることの「証し」といっていいはずだ。
 わたしは、「現在」というものは、「過去」から連続したものであり、「未来」へと続く通路であると思っている。だからこそ、やがて訪れるであろう「死」は、「生」との繋がりによって生起するものであるといいたい。
 著者は、「存在の時空」と「生命の時空」を鏡のように捉えていると思われる。つまりそれは、「生きていること」と「存在していること」は同じ位相を有しているということでもある。だから、わたしは、難解な哲学書の装いを持ちながらも、極めて、シンプルに「生きていくこと」の切実さを宣明していると見做してみたいのだ。
わたしは本書を読み終えて、大正期を疾走したアナキスト・大杉栄が、次のように苛烈な文章を記したことを、唐突に想起した。
 「さればわれわれの生の必然の論理は、われわれに活動を命ずる。また拡張を命ずる。何となれば活動とはある存在物を空間に展開せしめんとするの謂にほかならぬ。(略)かくして生の拡充はわれわれの唯一の真の義務となる。」(「生の拡充」・1913年)
 こうして、わたしは、「存在の時空」とは、「現在」における「生」を凝視することであると、いま、考えている。

(『図書新聞』17.1.1]号)

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2016年12月 3日 (土)

井川博年 著『夢去りぬ』(思潮社刊・16.10.15)

 六年ぶりの新詩集に接し、ほとんど行変えせず、長いセンテンスで息継ぐこともできないまま終景へと至る井川博年、独特の詩作品四篇のうちの一篇、「新宿の唄」という作品に、わたしは、真っ先に魅せられた。
 「私はその頃二十歳になったばかりで、お誂え向きの失業者だった。古着屋で買ったバンドマンが着るような赤いコール天の上着を着て、学生ズボンに靴だけは新品の革靴。全財産の入った(中には詩の原稿も)ボストンバックを手にさげ、高田馬場での同人誌の会合に出て、帰りに一杯呑んだおかげで、懐中無一文に近く、終電車に乗りそびれたあげく友人にも逃げられ、深夜ひとりとぼとぼと線路に沿って歩き、ようやく新宿に辿り着くと、かねてから目をつけていたドヤ街の、一番奥にある一番安そうな宿の玄関に立った。」
 「昭和三十六年頃(略)の年末」とその前に記されているから、わたしたちは、「赤いコール天の上着」、「学生ズボンに靴だけは新品の革靴」に、作者の像を想起させながら、新宿の「安そうな宿」に辿り着くまでの時間を、誰もが通過するアドレッセンスの象徴的な情景として共感することになるはずだ。同じような体験をしたかどうかではない。センテンスの長さに、性急さ必死さのような思いを、生きていることの証しとして描像しているからなのだ。
 もう一篇、行変えを精緻にし、刻むようなリズム感を滲みだしながら、紡いでいく極私的物語詩とでもいいたくなる作品がある。
 「綱は始めはゆっくりと次は大きく揺れる。/一年後の東京は六〇年安保騒動の真っ最中で/学生詩人連中は大興奮の様子だったが/大阪にいるこちとら新米の人生サーカス団員は/下駄履き作業服の造船所の工員さん。(略)/私こと人生サーカス団員も二十歳になっていた。/何の感動もなかった。/人生で初めて手がけたといっていいこの工事を終わらせ/待望のボーナスを手にしたらそれを元手に/詩集を出そうとそればかり考えていた。/詩集の題は『見捨てたもの』と決めていた。/何もかも見捨てるつもりだった。二十年しかない過去など捨てて悔いはない。」(「人生サーカス――二十歳の履歴書)
 六二年に第一詩集『見捨てたもの』を井川は出している。「見捨てたものよ さようなら」という書き出しで始まる表題詩からは、「昼は明るく ぼくは好きだ」、「ぼくには涙もないのだ」、「見捨てたことで強くなろう」といった言葉に、わたしは惹きつけられたものだ。
 五十年以上という長い時間を遡及させ、自らを「人生サーカス団員」として、アドレッセンスを描出する作者の現在ということに、わたしなら拘泥してみたい。もちろん、誰もが十代から二十代という時期には悔恨を含みながらも郷愁のような思いを払拭できないことはわかる。それにしてもと思う。父母や祖父母のことを描像した作品があるかと思えば、「二百年」という「二百年後の人々は/まだこの日本の東京と呼ばれた辺りに/かたまって住んでいるだろうか。」という作品もある。
 前詩集から後のことを、井川は「あとがき」で次のように記している。
 「その間に、娘の死あり、(略)清水昶が、二〇一一年五月に急死するという、私にとっては同い歳の詩人の死として、忘れられない出来事があった。」
 さらに、岩田宏の死にも触れている。そして詩集名の「夢去りぬ」には、「すべては過ぎ去って行く」という思いが込められていることが、わかってくる。だが、「過ぎ去って行く」ものは、還り路のようにして、わたしたちの心奥に潜在してくるといってみたい。往ったものは、また、還ってくるというように。
 「東京に降る雪は/いつもはやさしく時に激しく/すべては夢であったよう……//失ったものはかえらない/子供たちとの食事の時に決まって/変なことをいいだして突然怒りだし/せっかくの雪の夜をだいなしにした……」(「東京に雪が降る」)
 家族とのひと時を描出する一篇は、切ない情感が滲み出ている。悔恨。それは、もうひとつの悔恨を思い起こさせていくことになる。時間は、切断して感受出来るものではない。絶えず、連続したものだ。この先の時間もそうだと思う。そのなかに、往きて還ってくるという人と人との生きる場所があるのだと、『夢去りぬ』という詩集は、わたしに語ってくれている。

(『図書新聞』16.12.10号)

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2016年11月12日 (土)

澤村修治 著『敗戦日本と浪曼派の態度』            (ライトハウス開港社刊・15.12.20)

 わたしにとって、日本浪曼派並びに保田與重郎という存在を知ったのは、十代後半の時で、時間性でいえば六十年代後半であった。情況的には反抗と対抗的渦動のなかにあって、思考の方位を迷路のような場所で浮遊していたといえる。国家の有様と天皇制の擬態を撃つことに腐心していたわたしは、権藤成卿や北一輝といった異貌の思想家を通過した後に、保田與重郎に辿り着いていったといっていい。ただし、本腰を入れて読解へと至ったのは、それから十数年後ということになる。
 「日本浪曼派の中心人物が『敗戦』という決定的事態をどう受け止めたのか」ということが、本書の核心的なモチーフとなるわけだが、それは、同時に、ここで取り上げられている保田と伊東静雄、そして、雑誌『コギト』の発行人・肥下恒夫の思考と感性の有様を照射していくことでもある。
 表現者や主義者、研究者たちだけではなく、多くの人たちにとって、戦時下と敗戦後は大きな価値転換を強いられたといえる。だが、強いられたものだったとしても、彼らの戦時下における様態は、天皇制という統治システムを順守し、戦争を肯定していったことは事実である。例えば、詩人の三好達治は戦争賛美の作品を数多く書き上げながら、敗戦後、吐露した言葉が天皇は退位すべきだということだった。それはそれで、間違った視線ではないが、自身の内省はどうしたのだということをわたしならいいたくなる。「転向」という概念がある。昨日まで、急進的な考え方をしていたものが、強制されて保守的な考えに変わることを意味するわけだが、強制力が緩和された途端、何ごともなかったように、つまり、「転向」はなかったかのように、また、急進的な物言いをすることを、「転向」とはいわないことに、「転向」問題に内在する難渋さがあるのだ。ならば、保田たちは、どうなのかということが、本書が突きつける重大な提示ということになる。
 保田も肥下も戦地から帰ってくると、農耕作業を通した生活に入っていく。著者に倣うなら、「帰農者」ということになる。
 「ともに『百姓』となった肥下と保田であった。旧制高校時代からの友情は戦後社会にあっても変わりなく、同志のような連帯感を感じさせる。ふたりは『コギト』を『協同の営為』として刊行し続けることで、昭和前期(二〇年八月以前)、日本的な浪曼主義を発信した。もっとも、日本主義を宣したとはいえども、彼等は軍国日本の与党ではない。彼等は独立運営の雑誌、保田のいう〈孤城〉を拠点に自立して表現活動をおこなったのだ。軍国日本は仕舞にはむしろ彼等を危険視した。/そして敗戦後、今度は新時代が彼等を忌み嫌った。軍国日本の亡霊のような存在だと見た。(略)戦争終結時点の前でも後でも、彼らは反時代的であった。ゆえに孤立した。しかし本来、文学も思想も、そういった地点からしか本物はあらわれないというなら、彼等はむしろ本物への有資格者だといわねばならない。」「戦争時代、〈屍〉になるかもしれぬ戦場へ行く友を送り、残された身として〈さびしいやうな気〉に包まれていた伊東は、拠るべき確乎としたものを持たぬまま、戦後社会に投げ出された。(略)伊東は〈傷ついた浪曼派〉として在り続けたのである。(略)戦後の伊東にも心からの安息はない。かれは人間社会の暗澹を前に矛盾に引き裂かれていたのだ。」
 敗戦後の時空間を、ある種の解放として率直に受け入れることを、わたしは否定したいわけではない。しかし、人は、簡単に価値観の転換というものができるのだろうかと、思う。保田たちの敗戦後の態度を見事だといえるとしても、それは、やはり、彼等の、いや、敢えて特化していえば保田與重郎の思想と感性を横断するものを理解しない限り、本当に見事だといい切ることはできない。戦後憲法が施行された三年後に上梓された保田の『絶対平和論』は、朝鮮半島の内戦に際し警察予備隊が創設された情況を俎上にのせながら、九条の平和理念の空洞性を鋭く突くものであった。保田にあっては、平和憲法という欺瞞を切開していくことは、明治近代天皇制と地続きの中で、論断していくものであったのだ。なぜ、「みやびあはれ」ということに保田が拘泥するのかといえば、近代天皇制は、古代的時間を変容させた擬態の有様でしかないからなのだ。「帰農者」としての数年間、農本主義者の像を持って保田は生命の有様を示したといえる。
 「彼等は実のところ、日本に託した己のうたを、己の生命をうたったのである」と著者は述べる。さらに、「近代」とは、「人びとから『型』と『劇』を失わせたもの」だと断じていく。わたしたちは、いま一度、日本浪曼派、そして保田與重郎たちの“声”を現在という場所へ反照させるべきだと思う。

(『図書新聞』16.11.19号)

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2016年10月15日 (土)

角田忠信 著『日本語人の脳――理性・感性・情動・時間と大地の科学』(言叢社刊・16.4.15)

 わたしが、初めて角田忠信を知り、その著作『日本人の脳』(78年)、や『脳の発見』(85年)に接したのは、吉本隆明の『母型論』(95年)を介してだった。吉本の膨大な仕事のなかで、時間列でいえば後期に位置する著作であるが、『アフリカ的段階について』(98年)とともに、最重要のものとして、わたしは理解しているから、引かれているテクストに対しても、関心の方位は必然的に向けられていったということになる。三木成夫や柳田國男とともに角田の名前が引かれ論及されていく『母型論』の中の一章「大洋論」は、実に刺激に満ちていた。吉本は、角田の仕事に触れて、次のように述べている。
 「角田忠信の研究によれば(角田忠信『脳の発見』)、母音『あ』の音声を聞かせた場合、日本人は左脳(言語脳)優位の状態で聴いており、たとえば米国人は右脳(非言語脳)優位の状態で聴いていることが確かめられている(略)。」「日本人はポリネシア語族と旧日本語族(縄文語族)を象徴し、米国人は、ひろく西欧のインド=ヨーロッパ語族と、もっと拡大して旧日本語族とポリネシア語族以外の語族を象徴するとかんがえてよいことを著者角田忠信は確定している。」
 この角田の研究が、思わぬ反発を受けていたことを、本書の「序にかえて――私の研究の歩み」で、記されている。角田の考えは、言語的文化性からの視角であって、日本人ではなく日本語人(あるいは旧日本語族)というカテゴリーであったにもかかわらず、「欧米諸国からも猛反発があり、ドイツ誌は日本人優越論を主張する超愛国主義者でナチスの再来とまで非難され、私の説は理解されずに非難を浴びせられた」という。そして、「世界は一つという新理念に背くという攻撃が延々と続いた」というのだ。そもそも、「世界はひとつ」とか、「人間はみな同じ」といった理念ほど陥穽に満ちたものはない。世界を構成する諸共同体は、多様性であるということを前提に、そこでの共通項を見出しながら連携していくべきであって、はじめから、〝ひとつ〟と括るのは傲慢なことでしかない。同じように、左脳と右脳の働きが、みな同じとすること自体、科学性の転倒でしかないと、わたしならいいたくなるのだが、角田は、大きな障壁の前に、孤高な営為を続けてきたことになる。
 後半に収められた対話の中で、角田は、「アメリカの学問も随分と政治に影響されているように見えます。初めは少数民族を理解すべきだという相対論を掲げる人たちが頑張っていたものが、いまでは一変して、ある種の普遍論を押し付けようとしているのではないですか。違いは許さないという非寛容が感じられる」と述べている。学問が、「政治に影響されている」と危惧感を吐露する角田の立ち位置に、わたしは感応せざるをえない。何度でもいいたいが、「世界はひとつ」とか、「人間はみな同じ」という間違った普遍性は、欧米至上主義でしかないのだ。角田理論に対して、「超愛国主義者でナチスの再来」といういい方自体が、政治という亡霊に絡めとられたものでしかない。
 本書は、77年から04年までに発表された諸論稿と対話二篇、書き下ろしの「序にかえて」と「おわりに」を付して構成されたものだ。著者は、「日本人の脳の研究から、脳センサーの研究に到る詳細な知見と結論、結果」を紹介できたと、「おわりに」で記している。わたしが、本書で、角田の研究とのあらたな出会いが、「脳センサー」という考え方だ。
 「人間は太陽系の一部として、完全に同調する宇宙とは切り離すことの出来ない無力な存在であることを痛切に感じる。こうして、見えない足下の地殻に異常なストレスが溜まると、その強度に応じて脳センサーには歪みが生じ、地震発生によってストレスが解消されると脳の歪みは消失して正常に戻る現象が見出された。」「人間の中心脳には太陽系の運行と同期するセンサーがあり、宇宙の縮図が私たちの脳幹に記憶されていることは、ほぼ間違いありません。」
 人間(脳)と太陽系(宇宙)同期化し、「完全に同調する宇宙とは切り離すことの出来ない」という捉え方、「宇宙の縮図が私たちの脳幹に記憶されている」という見方に接し、わたしは直ぐに、三木成夫の「生命記憶」、「内蔵波動」という視線から開示されていく「原初の生命球を介して宇宙と臍の緒で繋がる」、「生の波は、どの一つをとっても、宇宙リズムのどれかと交流する」(『胎児の世界』)といった生命形態論に通底していると想起したといっていい。
 脳の世界は、まだまだ、未知の領野を多く湛えているといえる。それは、人間が、国家や政治といったカテゴリーから離れて、真摯に生命の繋がりを見通していくべきであることを示唆しているのだと、わたしなら考えていきたい。角田理論の長い間にわたる試行の集大成である本書は、間違いなく、わたしたちに鮮烈な刺激を与えてくれることを最後に強調しておきたい。

(『図書新聞』16.10.22号)

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2016年8月27日 (土)

北井一夫 著『写真集 流れ雲旅』(ワイズ出版刊・16.5.28)

 つげ義春・大崎紀夫・北井一夫共著『つげ義春流れ雲旅』(朝日ソノラマ・71.6、以下『流れ雲旅』と記す)が刊行されたのは、いまから、四十五年前のことだ。つげ義春は三四歳、北井は二七歳の時だった。つげは、「もっきり屋の少女」(『ガロ』、68年8月号)を発表以後、いわゆる沈黙期(作品は発表しなかったが、水木プロの仕事に専従していた)に入る。その間、「アサヒグラフ」で断続的に紀行文のようなものが連載されていることを知る(わたしが、当時、実際に手にとって見たのは一、二冊だったように思う。この連載が後に、『流れ雲旅』として結実する)。つげ作品に出会えない枯渇感のようなものを、わたしが抱いていたことを、昨日のことのように思い出すことができる。70年に、「蟹」(雑誌掲載時は未見で、後、『ガロ増刊号 つげ義春特集2』に収載されて知ったことになる)、「やなぎ屋主人」(この作品が、『ガロ』掲載、最後の作品となる)の二作品を発表。そして、翌年刊行された、『流れ雲旅』を手にした時、わたしは、「ねじ式」の時とは、また違った意味で、あらたなつげ義春の世界に出会ったという衝撃を受けたといっていい。それは、柳田國男や宮本常一への共感の時間を持ち始めていたわたしにとって、つげ義春の世界が、そのまま重層化されて感受できたことを確信したからだった。
 さらにいえば、『流れ雲旅』によって、北井一夫の写真に出会ったことは、大きかった。以後、ひそかに、北井写真を追いかけていくことになる。そして、写真集『村へ』(76年)によって、柳田や宮本と重層化する、もう一つの世界をわたしたちに北井は見せてくれたのである。
 『流れ雲旅』のなかで、北井が担当したのは、「下北半島村恋いし」、「篠栗札所日暮れ旅」、「国東半島夢うつつ旅」であった。本書『写真集 流れ雲旅』には、数点の再録はあるものの、ほとんど未収録写真(全作品、モノクロ・フィルムで撮ったものだ)を掲載している。他に、「東北の湯治場」、「四国室戸」、「天竜川/山形」、「藤原マキ」(「朝日ジャーナル」に依頼されて、「久しぶりに舞台に立つという」マキ夫人を撮った写真、六点)と題した70年から73年にかけて撮影された写真が収められている。北井は、「あとがき」で次のように述べている。
 「その頃私は、つげさんのマンガとそっくり同じような写真を撮っていた。つまり私の写真の被写体になった人たちは、いつも決まってカメラに向かって凝視しているという写真だった。私はこうして凝視する関係性こそがドキュメンタリーだと思うようになっていた。」
 北井は、「凝視」というやや硬質な言葉を使っているが、収載された写真の子供たちや、大人たちは、男女を問わず、和やかな表情を湛えている。つまり、カメラを構えている北井に対し、親近なる情感を発しているといえばいいだろうか。時代性や場所性にそのことの起因を求めて分析しようなどとは、わたしは思わない。見知らぬ人が、自分たちの共同性の場所に来訪しても、閉じていくのではなく、開いて受容する感性を胚胎していることに、感応するとともに、わたしは、北井の写真に関係性の拡がりとでもいえるものを喚起する膂力があるといっておきたい。
 つげ義春を撮った写真(表紙にも使われている)が、『流れ雲旅』に収録済みのものも含め、十点、本書には掲載されている。なかでも、「福岡篠栗」での穏やかな表情をしている石仏大小二体の脇で、カメラを持ちながら、うつむきかげんで笑っているつげ義春を捉えている写真(本書・140P)がいい。本書の帯に、「デジカメ時代になっても/北井作品だけは/やはりフィルムがふさわしい」という文章を寄せるつげとの関係性が、四十六年前の石仏二体の脇で笑っている写真に象徴して表れているといいたい気がする。
 本書収載の多くの写真に感応したわたしだが、敢えて、人と風景の写真を一点ずつ挙げるとすれば、「秋田泥湯温泉 1970」(47P)と「長野高遠 1973」(113P)だ。「泥湯」は、けっして広くはない共同浴場に年長の男女六人が浴槽のまわりを囲んで、談笑しているような写真だ。左側に座っている男性の表情に、わたしは、なぜか魅せられていく。「高遠」は、左側に中学生ぐらいの男子二人が、やや下りの坂を降りてくるのをとらえているから、風景写真とは厳密にはいえないかもしれないが、むしろ、少年たちの表情が伝わり、話し声が聞こえてきそうだから、ひとつの風景であると、いってみたくなる。右側に遠慮ぎみに写っているのは、桜のような気がする。高遠の桜をこのように写し撮る北井の感性に刺激される。もちろん、高遠の見事な家並の風景は、鮮烈だ。
 こうして、北井写真は、見るものに多様な物語をイメージさせてくれるのだ。

(『図書新聞』16.9.3号)

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2016年8月20日 (土)

夢幻なる場所―水木しげる作品私論

 水木しげるの作品との、最初の出会いが、『ガロ』誌だったのか、少年誌だったのかは、よく覚えていない。貸本誌での作品は、見ていたかもしれないが、作者名を記憶することはなかったから、断定はできない。白土三平やつげ義春の作品との出会いは、明快に覚えているのに、水木作品との邂逅が、判然としないのは、たぶん、『悪魔くん』などのテレビドラマ化された作品との契機があったからだといえるかもしれない。
 水木作品との出会いが判然としないことに落胆はしない。手塚作品に、共感することなく少年期を過ごしていたわたしが、どういうかたちであれ、手塚的画風とは無縁の水木作品を親近なものとして感受したのは、必然的なことだったと、いま、思っている。ただし、これまで、水木作品を系統だって読んだり考えたりしたことがなかったことに、不思議な感慨を抱いている。だからといって、けっして、作品性を疎かに見てきたわけではない。NHKテレビの朝ドラと大河ドラマを熱心に観てきたわけではないが、『ゲゲゲの女房』(2010年放送・脚本、山本むつみ・演出、渡邊良雄他)は、ほとんど、欠かさず毎日観ていたから、わたしのなかで、水木しげるという表現者は、大きな存在としてあったということになるはずだ(詳細は、省くが、生前、一度だけ、たまたま、電話で応答したことがある。いまから、四十年以上前のことである。だから、面前で、会話したことは、まったくない)。
 同じ作品名でも様々なヴァリエーションがあるから、研究者のような視点で論述することはできないのだが、膨大な水木作品のなかから、愛読者の一人として共感を抱いてきた作品を挙げるとすれば、『悪魔くん』と『鬼太郎』のシリーズということになる。他に『河童の三平』や、『ガロ』誌掲載作品を中心に、幾つか作品を挙げることは可能であるが、ささやかな追悼の想いを込めての作品論としては、『悪魔くん』(東考社版)と、『悪魔くん千年王国』、『鬼太郎夜話』(『ガロ』連載版)、そして初期作品の『怪奇猫娘』をめぐってのものとしたい。
 『悪魔くん』(復刻版は、全一巻で73年、北冬書房より刊行)が、東考社から貸本マンガとして刊行されたのは、63~64年にかけてであり、当初の予定では全五巻であったが、売れ行きが悪く全三巻で完結となったようだ。白土三平の『忍者武芸帳 影丸伝』を意識して構想されたという説もあるようだが、わたしは、その説を留保する。水木作品で最もわたしを刺激してやまないのは、悪魔くんや鬼太郎、ねずみ男に象徴される、登場人物(妖怪たちを人物として括るのは無理があるかもしれないが)たちの異貌なる像型である。しかも、異貌、異様であるにもかかわらず、どこかユーモラスな雰囲気を滲み出しているから、作品世界へなんの抵抗もなく誘われていったともいえる。
 『悪魔くん千年王国』は、東考社版『悪魔くん』を改稿して、70年3月から10月まで「週刊少年ジャンプ」に連載したものだ。六十年代後半に生起した苛烈な反抗・対抗的渦動は、70年になってからも、依然、列島を横断していた。表題を、『悪魔くん』から『悪魔くん千年王国』としたのは、ある意味、理想社会を希求していたといっていい70前後の渦動を意識したと思える。
 「ぼくの力で/この世界に/戦争も貧乏も/たいくつも/ない/千年/王国を/つくる/ために…」「人類の/だれもが ねがい/だれもが/はたしえな/かった/万人が/しあわせに/なれる/王国を/いま つくるときが/きたのだ」「きたるべき時代に 神童があらわれ 悪魔を呼びだし その力で世界国家をつくる!/そして 世界の善意をもった賢者たちが 人類のしあわせのために団結し 万人が兄弟となる王国があらわれる…『現世は夢となり 夢は現世となる』といった!」(ちくま文庫版『悪魔くん千年王国』88年刊)
 「千年王国」というものが、アジア的な理想社会(夢幻なる場所とでもいうべき「社稷」や「桃源郷」という考え方もある)をイメージされたものだとするならば、西欧的なイメージとしては、「ユートピア」に敷衍することができる。
 いずれにしても、未知の未来へ希望を託す感性というものを、わたしは、皮相なことだと安易に断ずるつもりはない。だが、例えば、「国境も/考えて/みりゃあ/人間にとって/公害の/ひとつかも/しれない」「これから/世界を/あいてに/戦わなければ/ならない」という悪魔くんの言葉を引き継ぐかたちで、物語の最後で蛙男に次のように語らせていくことに対し、逡巡する思いを抑えることができない。
 「むかしから/心ある人びとは/病気の/人や 老人や/さまざまな/不幸な人びとも/おなじように/生活できる世界を/つくろうと/した……」「世界が/ひとつになり/貧乏人や/不幸のない/世界を/つくる/ことは……/おそかれ/はやかれ/だれかが/手をつけ/なければ/ならない/人類の/宿題では/ないのか/………」「不浄にみちた/悪魔の支配する/世界を/フンサイ/するために/戦うのだ」(『同前』)
 逡巡する思いとは、いうなれば、気恥ずかしさのような感覚ともいえる。七十年前後の渦動のなかから発語された幾つかのスローガンに、「世界一国同時革命」や「世界革命戦争」というものがあった。当時、幾らかでも、それらに刺激された自分を思い起こすとき、太宰治が、『冬の花火』(46年作)という戯曲作品で、数枝という人物に「ねえ、アナーキーってどんな事なの? あたしは、それは、支那の桃源境みたいなものを作ってみる事じゃないかと思うの」と語らせながら、やがて、「桃源境、ユートピア、お百姓、(略)ばかばかしい。みんな、ばかばかしい。これが日本の現実なのだわ。(略)さあ、日本の指導者たち、あたしたちを救ってください。出来ますか、出来ますか。(略)落ちるところまで、落ちて行くんだ。理想もへちまもあるもんか。(略)あたしのあこがれの桃源境も、いじらしいような決心も、みんなばかばかしい冬の花火だ」と吐露させていく心情にも共感する自分がいたからだ。「万人がしあわせになれる王国」「万人が兄弟となる王国」というとき、「万人」と括られるものは、いったいどのような存在なのか、なぜ、「王国」なのかという疑念を、わたしのなかで払拭できずにいる。多様であるべき人びとをすべて「万人」とすることによって世界を「ひとつに」してしまうのは、理想とは逆行していく道筋なのではないのかというのが、さしあたって、「千年王国」に対する、わたしなりの感慨である。
 だが、白土三平の描く影丸も、太宰が、敗戦後のやるせない心情を託した数枝も、そして、わが悪魔くんも、理想社会に想いをよせながら、なぜか孤立感のようなものを胚胎していたからこそ、わたしは、惹きつけられるのだと思う。

 「現世は夢となり 夢は現世となる」という、いわば、夢でもあり、現世でもある場所は、鬼太郎が「生」から「死」、「死」から「生」へと往還する場所に通底いくといえるはずだ。
 「鬼太郎」シリーズに先行する作品に「墓場鬼太郎の誕生」(貸本版、『ガロ』改稿作掲載)がある。
 その誕生譚のなかで、鬼太郎の育て親になる水木という男に、鬼太郎の父親が語る「幽霊族」をめぐる物語は、鮮烈だ。
 「幽霊とい/われ きらわ/れてきた/われわれ/あわれな種族/について/同情と理解/をしていた/だきたい/のです/われわれは/大昔/………/人間のいない時代/から この地球/に住んでいた/のです/人類という/わるがしこい者/が出現するまでは/とてものんびりした/くらしでした………/われわれの生活が/絶頂になったころ/でしょうか『人/間』という/われわれに似た/ものがどこか/らともなく/あらわれて/まるで/ネズミのように/地球に/ひろがって/いったのです/争いごとを/好まず/おとなしい/われわれ幽霊族/はだんだん/人間にあっ/ぱくされ/やがて穴のなかにすむよう/になりました/(略)/ときたま寝/しずまった/夜 人間界/にでてたべ/物をあさ/ったもの/です/昔の人は/びっくりし/て幽霊だ/とおそれた/のです」(貸本版「墓場鬼太郎の誕生」―『ゲゲゲの鬼太郎 誕生編』・講談社コミックス、96年11月刊)
 この物語は、「幽霊」という「種族」、つまり「幽霊族」というものを措定することによって、人間界を相対化していくことを胚胎させている。それは、「幽霊」と「人間」のどちらが、「現世」の存在なのか、「夢」の存在なのかということをグレーゾーンのなかに置換していくことに他ならない。生者であった人間が、「死」を迎えることによって、幽霊(死者)となって現われるという時間性を、鬼太郎の父親の語りによって、転倒させながら、「おとなし」く、「のんびりしたくらし」をしていた「幽霊族」が、「人類というわるがしこい者」たちによって制圧された時間性を強いられてきたことを露わにしていく。この鬼太郎誕生譚は、水木しげるの死生観を、実に、色濃く投影させていると、わたしは見做してみたい。つまり、「生」と「死」は絶えず裏腹なものであるという、深い思考の源泉を湛えているということになる。もう少し、敷衍していうならば、人類以前の幽霊族の出自を、人という種以外の生命あるもの、つまり、すべての動物、生物、植物に暗喩化していると捉えることを可能にしている。
 だが、ここで誤解してならないのは、鬼太郎的世界を安直に、反文明主義や自然主義に連結してはいけないということだ。虚構性を顕在させながらも、奇妙なリアリズム的世界を放出させているのが、『鬼太郎』シリーズの世界だからだ。そして、奇妙なリアリズム的世界を最も象徴的に表出させているのが、「ねずみ男」だといっていいはずだ。ところで「墓場鬼太郎の誕生」は、貸本版と『ガロ』誌再掲載版で、大きく違うのは後段の描き方である。貸本版では目玉親父の誕生と水木が鬼太郎を育てていく決心をした後に、補篇のようなかたちで、「チャンチャンコ」と「ねずみ男」のエピソードが描かれている。
 鬼太郎がねずみ男を指して、「お父さん/この男 人を/ケイベツした/ような笑/い方を/しま/すヨ」「虫のすかな/い男だナ」「お父さん/この男/はりたお/していい」というのに対して、ねずみ男は、「ケイベツ/?」「ボクはただ/サンビした/だけだ」と応答して、次のように述べていく。
「俺をだれだ/と思ってる/んだ」「オシャカさま/より偉い/んだ」「学の/ほうだって/この/ヒゲの/ように偉い」「ただひたすらに/怪奇なものを/もとめて/いきて/きた/怪奇/文化の/真の功労者/なのだ」
 ねずみ男の大言壮語に目玉の親父は、圧倒されて、「せがれの/鬼太郎を/怪奇界の/名士にし/たてようと/おいでなさっ/たんですね」とすっかり信用してしまう場面で、貸本版「墓場鬼太郎の誕生」を閉じている。

 69年6月に、わたしは、吉本隆明の講演を直接、聞いている。講演のなかで、突然、「ゲゲゲの鬼太郎」と「ねずみ男」という名前が出てきて、驚いてしまったことを、いまだに忘れることができない。
 「太宰治の『右大臣実朝』における実朝と公暁は、水木しげるの漫画でいえば、『ゲゲゲの鬼太郎』と『ねずみ男』というような感じなんです。『ゲゲゲの鬼太郎』という作品のおもしろさの半分は、『ねずみ男』の存在に依存しています。実朝が『ゲゲゲの鬼太郎』で、公暁は『ねずみ男』というふうになります。ぼくはいまでもあざやかに思いうかべるんですが、公暁が由比ヶ浜の海辺で、朽ち果てた船に寄ってくるカニをつかまえて、それをピシャッと叩きつけて、ムシャムシャたべる印象的な描写があります。公暁はどうも『ねずみ男』的に描かれているとおもいます。」(講演「実朝論」―『展望』69年9月号、掲載)
 周知のように、戦時下に書下ろしで出版された太宰の『右大臣実朝』(1943年9月、錦城出版社刊)は、実朝の側で使えていた近習が、実朝の死後、二十年経って、振り返りながら語っていくかたちを採った作品である。合間に、実朝が語る言葉を片仮名書きにして入れ、『吾妻鏡』の原文を適時、入れていく構成となっている。「平家ハ、アカルイ。」、「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」という、作中、実朝に語らせた言葉は、あまりにも鮮烈な印象を残し続けているといっていい。吉本が指摘する、カニを食べる場面は、異様さを湛えていながらも、どこか可笑しみがあって、確かに太宰が描く公暁が、「ねずみ男」だといえないこともない。そもそも、実朝を暗殺した公暁像には、絶えず不分明さが付き纏っているから、「ねずみ男」と形容することによって、見えてくる様相というものがあるだろうし、「ねずみ男」の捉まえどころのなさを、太宰的公暁へと類推していく時に、なにか、像というものが明示されてくる気がする。
 『鬼太郎夜話』では、ねずみ男が、その本領を発揮して、鬼太郎親子が絶えず翻弄される様相を描かれていく。
 わたしは、水木と鬼太郎親子が二階の部屋を借りて住んでいる、東京・谷中初音町の天保時代から続くという、三味線作りの店「ねこや」の描写に惹かれる。そこでは、次のような言葉が付されていく。
「おばあさんと孫が/むかし おじいさんが/三味線を作った/残りかすの ねこの頭などを/売っていたが/いまどき こんなものを/買う人もいない/そこで 二階を人に貸したのだ」
鬼太郎は、「ねこや」の孫娘・寝子と一緒に小学校に通うことになる。昼食時、鬼太郎持参の弁当に入っている“どぶねずみ”に寝子が感応し、“猫”に変貌してしまう。そして、寝子は、「わたしね/魚だとか/ねずみに/弱いの/いいにくい/けど/ねこに/なって/しまうの」と鬼太郎に打ち明ける。そして、ねずみ男を見つけ、襲いかかり、頭をかじる場面は、寝子の悲痛な宿運とは裏腹に痛快さを喚起させる。この寝子こと猫娘は、初期の貸本漫画作品『怪奇猫娘』(58年6月刊)に登場する“みどり ”と同じキャラクターといっていい。異貌な存在として排除され追いつめられていく猫娘みどりの有様は、そのまま、『鬼太郎夜話』の寝子にも繋がっていく。ねずみ男と連携するにせの鬼太郎によって「死」の世界へ行ってしまった寝子を、目玉親父に誘われながらにせの鬼太郎は、「生」の世界へ連れて帰ろうとするが、「わたしは/どうせ/ねこ娘です/ふたたび/生きて/帰った/からって/みんなに/いじめられ/はずかしい/思いをする/だけです/わたしの/安住できる/ところは/ここ/だけです」といって寝子は、そのまま「死」の世界に留まることになる。
 『鬼太郎夜話』は、猫娘譚によって重層性をもった物語として屹立していると、わたしは、捉えてみたい。

(『貸本マンガ史研究 第2期4号・通巻26号』16.8)

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2016年7月23日 (土)

青木圭一郎 著『昭和の東京 映画は名画座』           (ワイズ出版刊・16.4.15)

 映画は、映画館でしか観ることができないという時代があったことを、実感としてわかる世代は、五十代以降の人たちということになるはずだ。レンタルビデオ店が普及し出したのは82年頃からだといわれているからだ。本書で取り上げている名画座は、象徴的にいえば現在のレンタルビデオ店にあたるといっていいかもしれない。
 著者は、「名画座」というものを次のように述べている。
 「ホームビデオ機器の普及もあって、古い映画を安く観ることが出来た名画座も昭和の終わりまでに次第になくなって行った。それまでは名画座が映画の学校であり、その後の人生観を形成したのも学校より映画館で得たものの方が大きいような気がする。」
 わたしは、著者と同世代だから、「学校より映画館で得たものの方が大きい」というのは、まったく同感である。しかも、学生の身分で、高い料金の封切映画や、洋画のロードショーには、とても行けなかったから、いわゆる二番館(特に邦画だが、封切から何か月か遅れて上映する映画館)や、旧作を魅力あるラインナップで上映する映画館(当然、料金は安価だ)を友人や先輩から得た情報(既に休刊したが、「ぴあ」や、Netでの情報がなかった時代だ)で、出掛けたものだった。本書の著者と違って、洋画をほとんど見なかったわたしだが、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』(日本公開・59年)は、映画館を探しては、何度も観たことを思い出す。
 いまこうして、本書を前にすると、様々なことが湧き上がってくる。同世代とはいえ、東京在住の著者と東北出身のわたしとは、明らかに映画の傾向が違っているのがわかる(著者が観ることができなかったという『新諸国物語』シリーズは、幼少期、しっかり観ている)。つまり、洋画上映館が少なかったから、当然、洋画に馴染むことなく上京したわたしとは、その本数に歴然とした差があるのは仕方がないかもしれない。とはいえ、本書のように東京限定とはいえ、六十年代から八十年代にかけて活況を呈した「名画座」を詳細に紹介したものが、これまでなかったから、まぎれもなく、本書は画期的な「名画座」事典といっていいと思う。特に、紹介した場所(新宿、池袋、渋谷、銀座だけでなく、東京を広範囲にわたって取り上げている)の地図を74年時のものと、89年時のものを並列して掲載していることで、かつて、何度も観に行っていた「名画座」の場所の記憶を喚起させてくれるのだ。
 本書に掲載されている「名画座」を任意に取り出してみれば、わたしにとっては、池袋・文芸座ということになる。それも、土曜日終夜五本立て上映である。
 「文芸座(註・68年7月に閉館した「人生坐」が先行して終夜上映をしていた)でも昭和四三年(一九六八)五月に石井輝男監督の『網走番外地』シリーズ第一作から五作(一九六五~一九六六)でオールナイト興行をおこなうと、文芸座が満杯となって文芸地下でも上映された。」
 わたしの六十年代末から七十年代にかけての映画体験は、監督としては、加藤泰、鈴木清順であり、ジャンルとしては、東映やくざ映画とピンク映画(本書にも記載されている新宿・蠍座で若松孝二の主要作品を観ている)であった。そして、映画館は、文芸座と新宿・昭和館(02年、閉館)に特化される。だから、文芸座終夜上映は、『番外地』シリーズはもちろんのこと、『残俠伝』シリーズも観に行ったし、『鈴木清順大会』、『大島渚大会』、加藤泰作品を観たいために『中村錦之助大会』などに行っている(〝大会〟と称していなかったかもしれないが、わたしたちは勝手にそう捉えていた。他にもあったと思うが記憶が曖昧だ)。
 文芸座では、映画と観客たちが密接に繋がっている体験もしている。『昭和残俠伝 血染の唐獅子』で、殴り込みを決意した高倉健を藤純子が泣きながら止める場面にたいして、観客席からいっせいに、「めそめそするな」と声が飛ぶ。殴り込みに行って、高倉健が、「死んで貰うぜ」という台詞が出ると、「ヨォーシ」や「異議なし」の声がかけられる。鈴木清順の『けんかえれじい』で、野呂圭介のステッキが桜の樹を叩くと、はらはらと桜の花が散る場面に、「セイジュン!」と声が放たれる。役者名はもちろんだが、加藤泰や鈴木清順の時は特に、タイトルクレジットの最後に監督名があらわれると大きな拍手が起きたものだった。それは、いわゆる反抗と対抗の渦動の時代だったからこそ、映画になにがしかの思いを仮託していたための応答だったのだと思う。
 そんな、わたしの体験の記憶が本書によって甦ったことになる。

(『図書新聞』16.7.30号)

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