2009年6月19日 (金)

高野清弘 著『政治と宗教のはざまで  ホッブス、アーレント、丸山眞男、フッカー』(行路社刊・09.2.25)

 「キリスト教と政治との関係ということ自体は、およそ西洋政治思想を学ぶ者にとって避けることのできない問題」(39P)であるとする著者は、「宗教」と「政治」の基層を往還させながら、その空隙の位相へと深く視角を射し込んで、フッカー、アーレント、ホッブス、丸山眞男らを論じている。著者が本書のなかでモチーフとする「政治」は、国家や政府による統治の有様を指すだけはなく、公的世界、あるいは共同体社会といった拡張させた概念をも視野に入れている。もとより、中世・近代の時間軸から社会の発展段階を捉えようとするならば、必然的に西欧世界を鏡として措定せざるをえなくなる。それは同時に、宗教つまりはキリスト教世界と政治が深く繋がっている時代を透徹していくことにもなるのだ。神学が政治学・統治学として機能していた時代といえば、もっと明確化していえそうな気がする。
 それでは、著者は政治と宗教の同一化を指向しているのだろうか。ホッブスに関する単著を持ち、フッカーをこれから本格的に論究していこうと表明する著者にあっては、そのような表層的な方位を想起しているわけではない。「はざま」であり、わたしなりのいい方では「空隙の位相」ということになるそのことこそが、問題の所在の深遠さを指し示していることになるからだ。
 そもそも、「政治」も「宗教」も、人間の観念が創出したものだとわたしは考えている。「宗教」者にとって「神(あるいは仏)」は人間が生まれる以前にあって、人間は「神(あるいは仏)」が創造されたものだというだろう。しかし、そこには「神(あるいは仏)」を「神(あるいは仏)」として認知すべきものが介在していなければならず、ではあれば人間が認知・認識しないかぎり「神(あるいは仏)」が存在しないものになってしまうというアンビバレンツな様態を示すことになる。だからといって、わたしは、「神(あるいは仏)」を信ずる人たちの存在や、信仰心というものを否定したいのではない。「政治」も「宗教」も、中世・近代を経て、現在に至り、「人間」という存在性を置き去りにしてきたのではないかといいたいだけなのである。だから、「はざま」や「空隙の位相」へ視角を入れることは、「人間」という存在性へ視野を射し込むということを意味しているのだとわたしは理解したいのである。それは、「宗教的なるもの」も、「政治的なるもの」も、ますます「人間的なるもの」から離反していこうとしているのが現在なのだ、といい換えてもいいかもしれない。
 幾分、敷衍したいい方になってきたが、本書の核心へと分け入っていきたい。集中、丸山眞男に対する批判、「私の丸山眞男体験」の論稿の結語に著者が置くアーレントの言説はこうだ。
 「アーレントは、『精神の生活』において、後期ハイデガーは、『思考(thinking,Denken)は感謝(thanking,Danken)と同じで(語源上の理由からだけではない)ある』と結論づけていたと語っている。そして、次のようにも述べている。『自己はいまや「裸の事実」が少しでも与えられていることへの感謝を表現する思考にたちもどる。存在に直面して人間の態度は感謝であるべきだ』(略)『思考は感謝である』。この言葉を私が『贋ものの自我』から脱却するよすがとしたい。そしていつしかは、私も『存在』に『安住する』ことをえたい。」(128P)
 「リチャード・フッカーの思想的出立」という論稿での、フッカーへの著者の共感の表明はこうである。
 「(略)フッカーにおいては人間はいわば全宇宙に対して責任を負う存在として把えられる。このような人間理解にもとづいて、フッカーは人間の尊厳の神学の確立へと向かう。その努力の結実としての『教会政治理法論』は神が平和と秩序の神であることを強調し、ピューリタンに対して、『あなたがたも人間だということを考えよ』と訴える序文によって開始されるのである。」(211~212P)
 これらにある著者の真意は、自身の「宗教的なるもの」への揺らぎをなにか無意識のうちに表明しているかのようにも思えるのは、「神(あるいは仏)」を人間が認知・認識するものなのだと考えるわたしだけの思い込みだろうか。そうではないような気がする。まったく異論の差し挟むことのない著者による丸山眞男批判が、丸山信仰からの自身の脱却であるとするならば、もうひとつの信仰者としての著者はどうなのだろうかと、どうしても関心が向かわざるをえないのだ。
 ならば、わたしの関心は、アーレントの言説に添いながら、西欧近現代の全体主義が、「キリスト教」も「一つの不可欠な要因として成立したことになる」(53P)と著者が述べていく時、「あなたがたも人間だということを考えよ」と訴えたフッカーが指向する「人間の尊厳の神学の確立」の行く立ては、可能なのかどうか、著者のフッカー論の今後を見てみたいという思いに向かうことになる。

(『図書新聞』09.6.27号)

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2009年6月16日 (火)

「無頼(やくざ)」映画・断想―『仁義の墓場』を中心に

 「無頼」というものを、「やくざ」と同義に捉えるのは、いささか強引な視線かもしれない。組織になじまず単独者として行動することを、「無頼」たるゆえんであるとするならば、「やくざ」者は、必ずしも単独者とは限らず、徒党を組んで振舞うといったイメージがあるからだ。
 六〇年代末から七〇年代中期にかけて、主に東映、日活で一連の任侠(やくざ)映画群といわれる作品が作られ、わたし(たち)を熱狂させたものだった。東映に関していえば、映画産業の衰退とともに、時代劇から、股旅映画へと推移し、そして明治・大正期を時代背景とした任侠映画、さらには『仁義なき戦い』シリーズを象徴とした現代やくざ映画(実録やくざ映画)なる括りで作られた作品を量産したのち、『仁義』シリーズの菅原文太を主演にして、東映の寅さんシリーズと揶揄された『トラック野郎』シリーズをもって、いわゆるヤクザ映画と訣別していった。
 やや堅苦しいいい方で述べてみれば、わたしが、一連のやくざ映画群に魅了されたのは、そこに「個」と「共同性」の確執を通した様々な難題(アポリア)を感受できたからであり、当時(もちろん、依然、現在までも)の情況的態様との往還の通路を模索しうる方位と見做しえたからであった。
 実録やくざ映画群のなかでも、一際、異彩を放っていた作品があった。75年に封切られた深作欣二監督、渡哲也主演の『仁義の墓場』(東映―脚本:鴨井達比古・松田寛夫・神波史男、撮影:仲沢半次郎、『映画芸術』誌75年度日本映画ベストテン・第四位、『キネマ旬報』誌同・第八位)である。津島利章の音楽による京琴の音色が、鮮烈な印象を与えながら、物語はひたすら救済のない破滅の先へと向かっていく。
 渡哲也演ずる石川力夫は、戦後の混乱期を疾走した実在の人物である。石川は、直情的で暴力的な若者として描出される。しかし、それは、ある意味、純粋で繊細な資質が反転したかたちで表れたものだ。敵対する組の人間が、自分たちの縄張りで大きな態度をしているのに我慢がならず、抗争に発展することも顧みず、その場で、暴力的な制裁を加え瀕死の重傷を負わせる。自分の組長(河田組組長・ハナ肇)や幹部(室田日出男)から、直情的な行動を叱責されてしまう石川は、組のことを思ってやったにもかかわらず、なぜ叱責されてしまうのか理解できないのだ。
 本来、やくざ組織という共同体は、組長という絶対的存在によって共同体の成員(組員)を完全統治下に配置させているものだ。天皇制の本源をどう解するかによって、対照化の構造は差異を含むことになるのだが、わたしは、天皇制とどこかで通底する位相をそれは内包していると考えている。ただし、絶対的な強固な支配円環構造を指示してのことではない(天皇制は、ひとつの社会構造だけに収斂させて存立しているわけではない。下部構造が非資本主義制を採っていても、それは成立すると思えるからだ)。それはつまり、垂直的な共同体は、いつでも横からの共同体の侵入によって、内的変換(転換)が可能となっていくことを意味している。映画で描出されるやくざ組織は、そのような内実を孕んでいる。だから、敵対も親交(親近)も、表裏性にあって、ぎりぎりの共同体的せめぎ合い(これは、いうなれば政治性の発露といっていいかもしれない)が、必要となってくる。
 石川にとって自分が属する共同体は、自己を充足させてくれる唯一のものとしてあるのだ。だから、そこでは、敵対する組も親交(親近)ある組も自分にとって異和なもの以外、なにものではないという反政治・非政治的な思い(情緒的、情念的な思いといい換えてもいい)が強く働くことになる。河田組組長の兄貴分にあたる野津組組長(安藤昇)に対する反意も同様である。腹いせに野津の車に放火したことを、河田に厳しく断罪され、石川は逆上して河田を刺してしまう。これは、後に、少年院で知り合い兄弟分として契りを交わした今井(梅宮辰夫)を殺してしまうことと同じ衝動によるものだ。親近性は、いつでも憎悪に転化しうることは、関係性が濃密になればなるほど、生起することである。家族間での生々しい事件が、頻出する現在、人間の精神の底部を問題視していくこともひとつの方途かもしれないが、わたしは、共同性の基層にある発露していくしかない感性の必然性のようなものを思わないではいられない。
 ありうべき共同性を希求していけば、いくほどに共同性との軋轢を発生していくアンビバレンスな様態を示す石川力夫の生き方と死に方は、「個」を「共同性」と同位させようとするイノセント性を表出しているといってもいい。
そのような象徴が、情婦・地恵子(多岐川裕美)との関係性であり、今井との齟齬を生んでしまう関係の有様だといえる。自分の親分を刺すというやくざ社会における絶対的な禁忌に抵触したことによって一年八ヶ月の懲役で出所後、十年間の関東所払いの処分を受けた石川を、様々に手を差し伸べてなければいけなかったはずの今井は、一家(組)を構えたことによってやくざ共同体社会に包括された一組長といった存在に転換していき、石川を大阪へ放置したまま、石川との距離を置くようになっていた。そのことを敏感に察知する石川が、自分の側へと引き寄せたいという感情の発露として今井と対峙してしまうのは、忌避できないものとしてあったといえる。
 今井を殺した後(二度も襲撃して止めを刺すという執拗さであった)、地恵子の身を粉にした犠牲によって、仮釈放となって戻ってきた石川は、さらに惨憺たる様態になっていた。
 地恵子との関係は、ほとんど言葉らしい言葉を交わすことなく、黙契と沈思する有様を示している。「個」と「共同性」のなかで、もがき苦しむ石川にあって、地恵子との有様だけが、心意的充足を得るものであった。
所払いで大阪に暮らしていた時に、知ったヘロインをうっている石川の傍らで地恵子が見詰めながら臥せっている。恍惚とした石川の表情のアップ、そして、窓外には赤い風船のショット。地恵子はそんな石川の姿を、寂びしけに見据えながら、やがて吐血する。朦朧とした状態で、血を拭ってやる石川に対して、「ありがとう」と言って泣き崩れる地恵子。画面はその後、手首を切って自死する地恵子を俯瞰で映し出す。ナレーションは、地恵子の自死の一週間前、石川の籍に入ったことを告げる。
 二人の関係を、ほとんど詳細に描写しているわけではないにもかかわらず、深作にしてはめずらしいほど、情緒的映像を二人の場所に対して採っているから、荒んだ破壊的な生き様が、奇妙に無垢で繊細なものとして映ってくる。地恵子と今井と自分の三人の墓石を作る費用を捻出するために、河田のもとを訪れ、骨壷から地恵子の骨を取り出して齧りながら、ただ、河田の前で黙している石川の像は鬼気迫るものがある。
 墓石には、“仁義”の文字を刻んだ。
 今井殺しの残りの刑期(懲役十年の判決に対する上告が棄却されたため)で再び収監された石川は、地恵子の死から三年後の同じ日に、刑務所の屋上から飛び降りて二十九年の生涯を閉じる。独房に、遺書にあたる文字が刻まれていた。

 大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ

 遺句といえば、そういえるかもしれない。五七五にしっかりと収まっているそれらの言葉を発したのが、狂気、凶暴な無頼者であることは、自虐的な悲しみを醸し出しているといってもよい。わたしは、当時、リアルタイムでこの作品を見たとき、石川の遺句にどうしても共感を抱くことができなかった。俳句という形式に妙な異和感があったからかもしれない。いくらか親しんでいた短歌ならよかったのだろうか。しかし、映画『駅』(81年、東宝、監督・降旗康男)で根津甚八演ずる殺人犯が、死刑執行時前にしたためた、恩義になった刑事役の高倉健へ宛てた手紙のなかで短歌が書きしるされていて、それをナレーションとなって詠み上げられた時、わたしは、気恥ずかしさしか沸いてこなかった。倉本聡の脚本の限界性を示す一例だと、今ならいえそうな気がするが、それならば短詩型は、映像的ではないのだろうか。
 だが、いまあらためて、『仁義の墓場』を見直して、余韻を持って、「大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ」を諳んじてみるならば、不思議なことに、いいようのない切実な気分が湧き上がってくることに気づいてしまうのだ。つまり、“三十年”を“五十年”とか“六十年”に置き換えてみると、実感して、時の重層性が了解されていくことになるからだ。それゆえ、石川力夫像は、当時、感じた以上に、そのイノセントさに、率直に共感する自分を確認していくことになってしまう。無垢と狂気・凶暴はいつでも、表裏にあることを、わたし(たち)は、いま一度、実感すべきことのように思える。
 この作品は、渡哲也、久しぶりの映画出演であり、東映初出演・主演映画でもあった。六十年代後半、日活でこの作品と同じ藤田五郎原作による『無頼』シリーズがあった渡は、さらに遡っていえば、傑作『東京流れ者』(66年、日活、監督・鈴木清順)という作品も持っている。しかし、この作品で、三十代に入った渡哲也は重厚で存在感溢れる見事な演技をしたといえる。『仁義の墓場』は、翌年に封切られた『やくざの墓場 くちなしの花』(監督・深作欣二)とともに、渡哲也の代表作となった。
 本来、「無頼」映画とか「やくざ」映画、あるいは「股旅」映画といったものが、屹立してあるわけではない。「無頼」映画と括られるすべての作品が、「無頼」の深層を切開して、鮮烈な劇性を提示していたわけではないし、「やくざ」映画といわれる作品ならすべてわたしたちが感応していたのかといえば、そうではない。結局は、一つ一つの作品を前にして、共感を得ることができるのかどうかだけが、わたし(たち)には、切実だったのだ。

(『塵風』創刊号・09.6)

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2009年6月12日 (金)

塚本邦雄 著『歌集 水葬物語(復刻版)』            (書肆稲妻屋刊・09.1.23)

 戦後短歌史において、岡井隆とともに多大な影響力を及ぼした塚本邦雄(1920~2005年)の衝撃的で記念すべき第一歌集の復刻版が刊行された。

  革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ

 鮮烈な一首で開巻される歌集『水葬物語』は、いわば幻の歌集、あるいは伝説的な歌集といってよく、例えば、『現代歌人文庫 塚本邦雄歌集』(国文社・88年9月刊)や、『現代短歌大系7 塚本邦雄・岡井隆・葛原妙子』(三一書房・72年10月刊)などには、抄録としてそれぞれ20首、105首収められているだけだった(どちらにも、開巻の一首はない)。わたしは未見だが、書肆季節社から75年2月に、新装版歌集として刊行されたようだが、かなりの高額本だったと記憶している。他には『塚本邦雄全集 第一巻』(ゆまに書房・98年11月刊)に収載されているが、出版時の雰囲気を精緻に伝える本書は、見事な活版印刷と「袋綴じ一丁一丁へ入紙をほどこす」という和装仕立てを再現したことで、ひとつの“事件”だといいたくなるほどの出来栄えとなっている。
 原本は、51年8月の発行で、印刷者は、俳人高柳重信の十一歳年下の弟高柳年雄である。重信の第一句集『蕗子』(1950.8刊)とまったく同じ装幀、和装本で、百二十部限定版であった。発行所名は、伝説の同人誌『メトード』と同じメトード社となっている。扉には、「亡き友 杉原一司に獻ず」とある。『現代短歌大系11 新人作品・夭折歌人集・現代新鋭集』(三一書房・73年6月刊)に収載している杉原一司の略歴には、「一九二六年鳥取県(略)に生れ(略)歌誌『オレンジ』を経て(略)のち塚本邦雄ら、ごく限定されたる同志と『メトード』に拠り、鮮烈な方法論を展開したが、病のため一九五〇年初夏生地に夭折した。唯一の追悼文は塚本邦雄によって書かれた『定型幻視論』に収録」と記されている。
 寺山修司によれば、塚本と杉原の間で数多く交わされたであろう「文章体の書簡」に、初発の「方法論」が模索されていて、その結果、「言葉の錬金術師としての面を強調していた一詩人の出発」がこの第一歌集に表出されていると見ている。作家(表現者)にとって、〈初期〉の持つ意味は、大きい。その作家における〈初期〉性は、その後に展開されていく、表現水位を敷衍させる内実を持っているからだ。どんなに、大きな変遷を辿ったとしても、必ず、その〈初期〉へと視線を向けてみれば、到達したものとの繋がりが胚胎していることがわかるはずだ。
 そして、さらにいえば、『水葬物語』が、たんに第一歌集と括ること以上のものを有しているのは明らかである。以後の塚本邦雄の世界をみていくうえで重要な作品性が内在しているからだ。
 塚本邦雄については、例えば、次のような捉えかたが、最も象徴的であるとわたしには思える。
 「比喩や音数律をはるかに自在に操れることによって、短歌表現を近代の歌人たちが考えていたものより一段高次な次元に高めた。」「浪曼派の短歌から情緒的なところを排除して、それを技術的にとても高度なイメージの短歌にまで高めた。」(吉本隆明『現代日本の詩歌』)
 「彼が戦争時に信じていた一つの神話の崩壊は、同時にはじまった『戦後』という新しい状況にも易すくはまきこまれまいと身構えざるを得なかった……という自明の理の大前提にならねばならない。/一つの眠りから覚めるように醒めようとするあまり、べつの眠りに易すくおちこんでいく人たちを身近に見ながら、彼は『反抗者』の列に加わったのである。」(寺山修司「塚本邦雄論」)
 「未來史」という聯題のもと、「平和について」と題して始まる、巻頭の一首や、「墓碑に今、花環はすがれ戰ひをにくみゐしことばすべて微けく」という歌は、まさしく「『戦後』という新しい状況にも易すくはまきこまれまい」とする強い意志が込められているといっていい。師の前川佐美雄は、プロレタリア歌人として出発し、やがて保田與重郎らと親交を深め、日本浪漫派へと傾斜していき、戦争賛歌の作品を発表していった。終戦時、二十三歳の塚本が、「易すくおちこ」むまいとしたのは、当然であろうし、そのことの方法論として、吉本が述べているように、「浪曼派の短歌から情緒的なところを排除し」、「高度なイメージの短歌」を作り上げていったことは、この第一歌集から充分に、窺い知ることができる。

  黑き旗・旗 はためける荒地より深き睡りを欲りて巷へ(「鎭魂曲」)

  炎天の河口にながれくるものを待つ晴朗な僞ハムレット(「水葬物語」)

  ひとでらは昔抱きし軍艦のかの黑き腹戀ひつつ今日も(「寄港地」)

  割禮の前夜、霧ふる無花果の杜で少年同志ほほよせ(「LES POEMES
  DROLATIQUE」)

  夕映の圓塔からあとつけて來た少女を見失ふ環状路(「環状路」)

 巻末の自身による「跋」文で「この『水葬物語』九聯二百四十五首は、彼(引用者註=杉原一司のこと)が發見した種々の方程式による、僕のまづしい實驗の結果の一部にすぎない」と述べている。しかし、「まづしい實驗の結果」が、戦後短歌史に屹立する歌集になったことはいうまでもないだろう。

(「図書新聞」09.6.20号)

【書肆稲妻屋(リンク先参照)・定価4200円(税込)、梱包送料代300円】

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2009年3月27日 (金)

『思想の科学』五十年史の会 編                  『「思想の科学」ダイジェスト1946~1996』          (思想の科学社刊・09.1.30)

 『思想の科学』という雑誌は、四六年に鶴見俊輔、丸山眞男、都留重人、武谷三男らによって創刊された。戦時下の抑圧された言論統制から解き放れた人たちにとって、ある意味、自由な思想表現活動への闊達化は、必然的なものだった。最も、精力的な活動に決起したのは、〈左翼的〉勢力と称される一群だった。しかし〈左翼的〉と称される人たちのほとんどは、戦時下において体制へ順応した自らの思想と行動を、まったく糊塗して、何事もなかったかのように切断し、論壇に登場している。やがて党派性を露にし、党的コントロールのもと変種の言論統治を推し進めていったということになる。そして、スターリン批判に始まって、六〇年反安保闘争を経て、ようやく党的神話の呪縛から解き離れていくようになっていくのだ。
 一方、党派性に与しないリベラル(リベラルという概念ほど、曖昧模糊としたものはない。とりあえずここでは、戦前の戦争遂行に対し一貫して自省する立場を持っているという意味で、便宜的に総称しておく)な表現者たちが結集する動きもあった。『思想の科学』に結集した人たちは、そのひとつと捉えられていい(厳密にいえば、党シンパの面々も混淆していた)。
 本書に収録されている「創刊の趣旨」には、「本誌は、思索と実践の各分野に、論理実験的方法を採り入れる事を、主な目標とし、之に伴う方法論的諸問題を検討したい」と明言しながら、「本誌は、読者よりの寄稿批評と、これに対する執筆者の応答との為の欄を設ける。かくして、読者と執筆者との活発なる論議に依り、本誌の代表する思想が、漸次敷衍され進化して行くことを希望する」とも付言している。読者(寄稿者)に対して雑誌が、“開かれている”ということが、ここでは重要なことである。執筆者にしても、編集委員のうち一人でも推挙したものは、掲載するという「多元主義」を採っていたと、巻末に収載されている「『思想の科学』六十年を振り返って」(聞き手・黒川創)で、鶴見俊輔は述べている。いうなれば、鶴見俊輔という存在があったからこそ、『思想の科学』は創刊できたし、五十年という長きに渡って続けられてきたといっていい。鶴見が、『思想の科学』誌の中心にいたのは確かではあるが、だからといって、鶴見が単独で編集権を振るっていたわけではない。執筆者たちを望見してみれば、緩やかに誌面は開かれていたことが了解できる。そこが、自身を「私はマルクス主義と関係ない。アナキストなんだから」と語る鶴見らしさといえるのかもしれない。
 ただし、わたしの『思想の科学』への接し方は、幾らか距離感があるものだった。それでも、関心の方位はそれなりにあったつもりである。リアルタイムで知ったわけではなかったが、「天皇制特集」問題(中央公論社版が断裁され、思想の科学社を興して、六二年四月に再発刊する)がそうであり、六〇年代末から七〇年代初頭にかけてのべ平連運動との連関性に注視してもいた。また、「思想の科学研究会」を象徴する大きな達成として『共同研究・転向(全三巻)』(59~62年刊)を真っ先にあげることができる。
 本書は、四六年五月創刊号から、九六年五月号の終刊号(正確に記せば、第八次終刊号であり、以降休刊というかたちになっている)までの全五三九冊のうちから、約二〇〇〇件の論文・記事を抄録したものだ。膨大な抄録を望見してみれば、分かることだが、実に多様、多彩な執筆陣がいた。埴谷雄高、吉本隆明、谷川雁、網野善彦、中上健次、高橋和巳、寺山修司、つげ忠男、林静一と、恣意的に数人挙げただけでも、“開かれた”思想雑誌としてあり続けたことが傍証できるはずだ。
 なによりも、創刊号の巻頭論文が、武谷三男の「哲学は如何にして有効さを取戻しうるか」と題した西田幾多郎批判であったことは、『思想の科学』誌を象徴している。西田哲学として戦後、称揚されていく過程を苦々しく感じていたわたしにしてみれば、いち早く、大東亜宣言の理念的支柱となった西田の国家観を俎上に乗せていたことは、瞠目する思いだ。さらに見ていけば、五三年六・七月合併号(誌名は『芽』であった。第二次にあたる五三年一月号から五四年五月号までの期間が、その誌名で通している)でも、竹内良知が詳細な批判をしているようだ。
 六〇年反安保闘争のさなか、六月号に、竹内好による農本主義者・橘孝三郎へのインタビューが、掲載されているのに目を引かれた。また、六八年九月号には、鈴木志郎康の「つげ義春の魔術」が掲載されている。これは、つげ義春周辺(雑誌『漫画主義』に集う批評家)以外での、最初のつげ義春評価ではないかと思われる。抄録によれば、こうだ。
 「詩人である鈴木志郎康は、つげ義春の語りくちを『読んでいる私らを意識としての存在に限定し、さらに言葉の様相を通過させて、最後に実在的な自覚へと導いて行く』ものだと定義する。」(141P)
 つげ作品の「語相」に着目したのは、実に卓見だと思う。
 さて、わたしが、『思想の科学』誌を最後に手に取ったのは、終刊の前年、九五年七月号であった。吉本隆明、加藤典洋、竹田青嗣、橋爪大三郎による座談会「半世紀の憲法」(本書・420Pに抄録掲載)を読むためだった。吉本は、九条に込められた理念を敷衍させながら、「国家を絶対化しない」という意味において、「国家として軍隊をもたない」ことで「国家を開く」ということを主張していく。それに対して、竹田や橋爪は、軍隊を有することを念頭に置いて発言し、加藤は、その間を右往左往するといった様相を露呈していた。わたしは、ほぼ同世代に近い彼ら(加藤、竹田、橋爪)に、些か幻滅を感じてしまったことを覚えている。
 この吉本との座談会が、象徴しているように、時代情況は混迷を深めた段階に差し掛かっていたというべきかもしれない。たかだか十数年前とはいえ、現在に引き寄せて思えば、思想雑誌というものの立ち位置の困難さは、既に、その頃から始まっていたということになる。

(『図書新聞』09.4.4号)

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2009年3月21日 (土)

笠原伸夫 著『銀河と地獄―西川徹郎論』           (茜屋書店刊・09.1.15)

 西川徹郎に対し、よく冠せられることとして、異端の俳人とか、俳壇の異端者という言辞がある。わたしには、西川の場合、異端という称揚は、何か似つかわしくなく、釈然としない思いがしてならなかった(この場合、異端を前衛と置き換えても同じ感慨を、わたしは持つ)。確かに、俳句的世界、あるいは俳壇というものを前提に捉えれば、西川に対して異端の俳人とか俳壇の異端者と称することは、まったく見当違いのことではないと思うのだが、そういう視線には、必ず正統な俳人(俳句)というものに対する異端、あるいは俳壇という確固たる体制に対してのアウトロー的に位置しているといった考え方が潜在していて、ほんらい異端性が有しているはずの思想(表現という言葉と置き換えてもよい)の深度というものを度外視しているように感じられてならないのだ。
 かつて吉本隆明に『異端と正系』(1960年刊)という評論集があった。この場合の“と”は、対立軸としての“と”ではないのだ。吉本は、このように述べている。
 「わたしが(略)もっとも格闘したのは、異端と正系という問題であった。そして、ついに到達したのは、正系なくして異端もなく、異端なくして正系もないということ、また、アプリオリな正系も異端もなく、両者は、一つの契機があれば相互転換する相対的なものに外ならないということであった。」
 この吉本の言説にならっていえば、西川を異端と称するのは、けっして称揚したことにはならないということになる。当然、そのことを一番、了解しているのは西川自身であるはずだ。俳壇の異端者とか、異端の俳人といった狭量な位相に、自らの表現領域を押し込めているわけではないはずだ。異端も正系も相対化し、それらを俯瞰した地平からの自己表出だけが、確たる表現水位なのだという、切実たる思いを根拠としていると、わたしは西川俳句を捉えている。だからこそ西川は、どんな集団的背景をも拠所とせず、単独で〈存在性〉を基層に〈世界文学としての俳句〉を指向しようとしてきたわけだし、してきたのだといっていい。
 本書の著者は、そのような西川徹郎の屹立した作品世界の相貌を、第十三句集『銀河小學校』を中心に据えながら、その他の既刊句集とともに、「抒情的清冽さ」、「映像喚起力」といった角度で渉猟し、多彩なキーワードに収斂させながら縦横に論じている。
 ところで本書は、単著としての『西川徹郎論』としては五冊目にあたる。そのことが、多いのか、少ないのかといったことにわたしの関心はない。全冊を詳細に望見したわけではないが、「暮色の定型」、「虚構の現実」、「世界詩としての俳句」、「極北の詩精神」、そして本書は「銀河と地獄」というように、それぞれが多様なテーマを持って論及している。それはつまり、いかに西川俳句における作品の奥深さがあるのかを指し示しているということになるといってもいい。
 わたしが、考える本書の核心部分は、次に引く箇所になる。もとよりこれは、西川俳句の基層となるべき場所を真っ芯に照射していることにもなるのだ。
 「すくなくとも西川徹郎が人間存在の根底に視座を据え、〈自己〉の究明に的を絞って〈俳句〉の製作を推し進めてきたことに変わりはなく、それを自ら〈実存俳句〉と呼んだとしてもなんの問題もないはずだ。/彼は早くから〈口語〉を用いてきたし、〈定型〉の意味も問いつづけてきた。有季定型か、無季非定型か、といった単純な二者択一ではない。かれは〈反定型〉であっても〈非定型〉とはいわないのである。(略)〈反〉とは〈正〉があっての〈反〉であって、〈非〉は〈正〉との確執、葛藤ではなく、あくまで無関係、無関心なのである。(略)しかし〈反〉というかぎりつねに〈正〉への激しい叛意が内在する。西川徹郎の立場は定型を選びつつ反定型を主張し実行する。〈反定型の定型詩〉というわけだ。」(83P)
 著者の捉えかたに対して、わたしもまたほとんど同意したい思いだ。だが、わたしが、どうしても拘りたいのは、異端や前衛、そしてここで論及されている〈反〉という措定のしかたに対する理解の有様にだ。確かに、初発の西川俳句は、そのような理解の地平にあったといっていい。だが、現在、あるいは、著者も引いている雑誌「國文學」に、「反俳句の視座―実存俳句を書く」を西川が発表した時(2001年)は、遥か彼方の地平へと超え出ていこうとする宣明だったと思う。個人編集誌『銀河系つうしん』(現在は「銀河系通信」に改題)を創刊したのが、1984年のことだ。〈銀河〉というのはそういう意味でいえば、西川にとって最も核心的な詩語であったことは、間違いない。その〈銀河〉を句集名に冠したのは、ようやくにして第十三句集『銀河小學校』(2002年刊)においてだった。このことは、西川の現在を捉えることにおいて、非常に重要なことだという気がする。
 西川が〈銀河〉や〈反〉に込めたものは、親鸞が提示した〈横超〉に近いものだと、わたしなら考える。〈反〉は、たんに〈正(実は擬似なるもの)〉に対峙するものではない、“超えゆく”ものでなければならないのだ。〈銀河〉とは、まさしくそのことの代象であるといっていいのではないかと思う。

(『図書新聞』09.3.28号)

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2009年3月19日 (木)

劇画という言葉の基層へ

  劇画という言葉を、いつ、どのような時に知ったのかは、遠い記憶の彼方にある。ただ、その劇画という言葉が発する鮮烈さに大いなる衝撃を受けたことだけは覚えている。「劇画」という言葉が、貸本マンガの一つの系譜から発生したことを理解したのは、衝撃を受けた、もう少し後になってからであり、単純な二元論に絡めとられていたわけではないが、商業誌マンガは、「漫画」、『ガロ』系マンガなどを、「劇画」と腑分けして捉えてもいたことは確かだった(近年は、そういう腑分け自体、意味をなさなくなっているといってもいい)。
 わたしの場合、貸本マンガ体験(ネギシ読書会といった、新本も含む貸本店は除外)は、そんなに長くはない。小学六年生から中学一年生頃にかけて、集中的に白土三平の作品を中心にして一連の忍者マンガやその他のアクションマンガを読んでいた。いまにして思えば、たまたま知った貸本マンガから受けた面白さの感受は、当時の子供向け商業漫画誌の作品からの離別とやや大人向け作品(マンガに限らず小説などの活字作品)への志向へと、わたしの関心が向かった契機になったような気がする。
 劇画という言葉の持つ基層へと視線を傾けてみるならば、描線のリアルさや物語構造の斬新さといったことが、漫画ではなく、劇画という概念へと峻別させる根拠となったことは、当然だとしても、もう少し別様のことが、いえそうに思える。作家の側からいえば、自分の描きたいものをある程度、自由に(子供向けということを意識せずにと、いっていいかもしれない)描けるということであり、読者側からいえば、ただ漠然と、面白いマンガというものに魅せられていただけだったのを、一人の作家とその作家性へと関心を向けられていくことが、劇画をマンガから分岐した契機なのではないかと、わたしは考えている。読者側からの視点でさらにいえば、幾度となく記してきたことなので、重複することになるのだが、『忍者武芸帳・影丸伝』を読み切った後、類似した忍者マンガ作品を渉猟していったが、わたしの場合、ほとんど無意識のうちに、やはり白土三平作品に拘らざるをえなかった。この時、つげ義春の『忍者秘帳』に接見していたのかどうかは、無論、記憶していないが、ただ、白土三平という作家名とその作品群だけが、わたしの心奥に深く刻み込まれていった。少年期のマンガ体験のなかで、商業誌に名を連ねていた手塚治虫や横山光輝(『サスケ』などを発表していた白土三平も同列にしていいが、わたしの場合、掲載誌『少年』を購読しておらず、後年、単行本によって知った)には、それほど継続的な共感を抱かなかったから、不思議だ。たんに嗜好の問題に還元したくはないが、『ガロ』が創刊(64年9月)されて一、二年後には、断続的とはいえ『ガロ』を購読しだしたのは、白土三平の『カムイ伝』が掲載していたからだった。わたしのマンガ体験歴などという大げさないい方はしたくはないのだが、中学生時は、ある意味、空白期だったのが、再び、マンガへと関心が向いていったのは、高校生の時であり、その時、『ガロ』を中心としたものだったのは、現在から振り返ってみれば、偶然ではなかったと、いっていいと思う。そして、『ガロ』に接していなければ、つげ義春やつげ忠男、林静一といった作家たちとその作品に出会うことがなかったのだから、わたしにとって、僅かな期間の貸本マンガ体験は、その後の、マンガだけではない表現全般への方位に大きな影響を与えたくれたことだけは、明白なことだったといえる。
 ところで、つげ義春が、『四つの犯罪』(完全復刻版・小学館刊)の挟み込みインタビュー(聞き手・権藤晋)で、「『生きていた幽霊』もそうだったようですが、編集部からなにも反応はないんですね」という問い掛けに対して、次のように応答していた。
 「(劇画が)青少年に悪影響があるとかなんとかマンガにたいして世間の目が厳しくなっているので、『あまり過激なものを描かないように』という手紙は若木(引用者註=若木書房)から来たことがありますよ。でも、若木はほかとくらべておおらかというか、さほどうるさくなかったですね。」
 昭和三十年代に、「悪書追放」運動なるものが起き、その最も苛烈な対象となったのが、「劇画」であったことを、わたしは、当然のことながら、当時、認知できる年齢ではなかった。もちろん、わたし(たち)のような戦後生まれでも、現在のように、マンガを読むことに没頭することは、いいことだとは、誰も考えていなかった時代にマンガと接していたのだ。親たちは、子供に悪影響を及ぼす(どう悪影響を与えるかということは、この際、明確な理屈と根拠があるわけではなかったはずだ)低俗なマンガから、いかに、早く引き離して、高尚で、学習に適した名作小説や伝記小説を読ませようとして腐心していたのかを、子供心に圧迫感となって理解できていた。
それにもかかわらず、わたし(たち)が、マンガ、そのなかでも「劇画」というものに魅せられていったのは、極めて、象徴的な事象だったといえる。
 繰り返していえば、白土三平を基軸として、つげ義春やつげ忠男、林静一といった作家たちを知り、共感をし、様々なことを喚起されていったことは、「劇画」という言葉が持っている基層の力だといってもいい過ぎではない。
 わたしは、現在、表現全般に対して、どんなカテゴリーも設けずに自分の関心が向かう方位だけを確信して視線を射し込んでいる。映画・絵画・音楽・文学・思想といった表現領域に、同列なものとして「漫画(劇画)」というものを位置づけることを、なんの迷いもなく可能とする視野をわたしは持っているつもりだ。
 表現それぞれに対し予見を持って差異や優劣を設定することは、転倒した思考でしかない。
ただ、わたし(たち)を喚起させる力があるのか、ないのかということだけが、表現力の問題なのである。

(『貸本マンガ史研究20号』09.3)

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2009年3月15日 (日)

彷徨する思惟

     ★

 「あなたはどんな方ですか、と問われるのはうんざりだと、何度も言っておられますね」と聞き手は、述べる。そして、「それでも敢えてお尋ねします。あなたは歴史家と呼ばれるのをお望みですか」と問い掛けていく。それに対して、歴史家の仕事には関心はあるが、自分がやろうとしていることは、もっと別のことだと応答するのは、ミシェル・フーコーである。聞き手は続けて、哲学者と呼ぶべきでしょうかと、重ねて問うと、自分がやっていることは、いかなる意味でも哲学ではないと答える。たまらず、聞き手は、ではどう呼べばいいのでしょうかと、執拗に問い掛けていく。フーコーは、こう答えていく。

  「わたしはいわば花火師(アルティフィシェ)です。」

 フーコーが発語する思惟の断片は、鮮やかだ。歴史家でも哲学者でもなく、自分は「花火師」であるという時、凡百の、あるいはわたしたちなどが、気取って職人気質を称揚していう場合とは違う断面を切り取って見せている。フーコーが、ここでいう「花火師」というのは、「私のディスクールは一つの武器のようなものなのです。あるいは火薬の詰まった袋のようなもの、火炎瓶のようなものです」という思いを込めた「爆破技師」に近いのだ。夜空に上がる煌びやかな「花火」をイメージしてはいけないのだろうか。もちろん、イメージしてもいいのだが、花火を「打ち上げる」ということは、煌びやかなものとは反転したものを実は内在しているのだということを了解すべきなのだ。つまり、ただひたすら「火薬」を仕掛けるということであり、それは、戦争で武器を発火することと大差はないといえることなのだ。パラドキシカルなアルティフィシェというタームは、フーコーらしい言説の立て方であり、フーコーが「花火師」もしくは、「爆破技師」と自分をなぞらえるとしたならば、それは、既存の言説を無化して、いわば、煽動家として立ち振る舞うことを潔よしとすることであるに違いないと思っている。

       ★

 権力を網の目のように遍在するものとして捉えたのはフーコーだが、わたしは、このことを、権力論を超えた権力論だと思っている。マルクス主義者からアナキストまで、あるいはブルジョワ権力から反権力まで、権力の可否を問う喧しい論議は果てることなく続いてきた。わたしは、どれも駄目、これも駄目と思い続けてきた。一見、解答不能、絶望的認識に近い、フーコーの権力論だが、わたしには、そうは思わない。「『権力は必要なのか、それとも不要なのか』と問うべきではないと思います」とフーコーはいう。「権力は非常に遠いところまで及ぶものであり、きわめて深い場所にまではいりこむものです。権力は毛細血管のようなごく細い管で構成されたきわめて密なネットワークで運ばれるものなので、権力のない場所などあるだろうかと問いたくなるものです」と述べていく時、権力なるものへの透徹した認識をそこにみることができるのだ。なぜなら、フーコーの権力分析は、そこに知への反措定というべきことを意思表示しているからだ。わたしが、フーコーの権力論に論拠を得たいと思うのは、「知」を「権力」と同位相として括って、そこに権力の本源があると見做していることにある。わたしたちは、何かを他者に対して指向しようとする時、例え善意という意識をもってしたとしても、それはいつでも悪意に転位することがあることを知るべきなのだ。他者に何かを強いるということは、無意識下においてもありうることであり、人と人との関係性というものは、対峙した段階においてある種の権力関係が生起することを了解すべきなのである。そして、そのことの了解領域からしか、権力関係を切開し、無化していく方途はないのだという思いを、わたしは抱き続けている。

      ★

 木村カエラの歌『どこ』を聴いた。何か懐かしさを喚起するメロディーに乗って、刺激的な詞(ことば)(作詞・渡邊忍)が響いてきた。「感情」、「恋情」、「実情」、「温情」。これらが、断続的に、いい切りで唄われる。特に、「レンジョウ」と「オンジョウ」には、不思議な響きを湛えていた。いったい、この混沌とした「情」とは何だろうかと聴きながら思った。「感情」と「恋情」は、詞(ことば)としてはそれほど奇異ではない。だが、「実情」と「温情」となれば、幾らか違うイメージが付加されてくる。それは、わたしたちを取り巻く現況において、最も遠い言葉のような気がするのだ。「実情」とはなにか。弁明される現実なのだろうか。あるいは、現在を糊塗するための言い訳なのか。「温情」とはなにか。容赦することの善意か。そんなのは、もうないといい切れない何かを喚起するための方便か。わたしは、カエラの声に聴き入りながら、何処か彷徨する気分でいることに気づいていた。そして、彷徨いながらも思惟の底に貼り付いたカエラが発する言葉を転倒させたらどうなるかと思いついたのだ。「感情」を「情感」に、「恋情」を「情恋」に、「実情」を「情実」に、「温情」を「情温」と反転させた時、奇妙な語感がやってくることに気づき、戸惑ってしまった。そしてやがて、「情恋」と「情温」の狭間に何かが、あるかもしれないと、思い起こしたのは、この思惟の断片を刻む直前のことである。

(『走馬燈 Φ2』09.3)

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2009年2月13日 (金)

小林善彦 著                           『「知」の革命家ヴォルテール 卑劣なやつを叩きつぶせ』        (つげ書房新社刊・08.11.20)

 ヴォルテール(1694~1778)は、十八世紀を代表するフランスの啓蒙思想家である。しかし、名前は、よく知られているのだが(本書によれば明治期の教科書に、その名は既に登場し、紹介もされているようだ)、同時代人のルソー(1712~78)に比べてみれば、わが国において、それほど深く受容されてきたとはいい難い。小説、詩、戯曲、哲学、歴史書といったように、その著作活動は多岐にわたって、しかも膨大な量となっていることもあり、フォーカスして紹介するといったことが困難だったからかもしれない。
 ラテン・アメリカ文学の代表的作家ボルヘスは、自ら編纂した幻想文学全集『バベルの図書館』(邦訳は国書刊行会より発売)のなかの一冊にヴォルテールの『ミクロメガス』を入れている。ボルヘスとヴォルテールという組み合わせに、やや意外な思いを抱くのは、わたしだけではないはずだ。ボルヘスがリスペクトするヴォルテールということだけでも、ヴォルテールという思想家像が、なにか魅力溢れるものを湛えているように思えてくるのだが、本書は、まさしく「八十四年の生涯を精一杯、思う存分に」疾走したヴォルテールの評伝として、わたしたちに十八世紀の革命前夜におけるフランスの啓蒙思想家像を明らかにしてくれる。
 著者はまた、ルソーに関した著作・翻訳書を多く持っている。それゆえに、当然のことながら、ルソーとの対比を処々に叙述していて、闊達なヴォルテール像をさらに際立たせてもいる。
 「ヴォルテールがその生涯をかけて主張し、戦ったさまざまな価値、自由、人間の誇り、平和は確保されて、ヴォルテールは歴史の伝説となる時代になったかと思われた。しかしながら、戦後半世紀以上を経たいま、近年の動きを見ると、いわゆる戦後民主主義が実現した価値は、徐々に後退しつつあるように思われる。」
 著者が、「はじめに」で、このように述べながら、「ヴォルテールが必要な時代に戻ったように思われる」として本書執筆の事由を記している。
 1789年のフランス革命によって、旧王朝体制(アンシャン・レジーム)を廃止し、最初の共和制が成立したわけだが、その基層には、ヴォルテールやルソーら啓蒙思想家たちの大きな影響力があったことは周知のことである。王権力とその基盤を確証させる宗教(カトリック派一教支配)権力が、専制政治としてのアンシャン・レジームを形成していたのだが、ヴォルテールとルソーは、「動」と「静」といった対照的なかたちで、旧体制に対峙していったのだ。各々の時代比較は、それ自体、あまり意味がない。いまでは、当たり前の主張も、時代を遡れば、過激な反体制的言説として弾圧されるのだ。ヴォルテールたちが疾走した時代は、まさしくそうだった。
 ヴォルテールが反骨の“「知」の革命家”にしては、幾らか異彩さを放っていたのは、決してアンダーグラウンドの場所から発信しようとしなかったことにある。つまり、アンシャン・レジームという円環のなかにいながら、反抗と抵抗を表明し続けたのである。もうひとつ、通例の“革命家”像とは異なる像を持っていた。それは、類まれな錬金術によって豊富な資産を有していたことだ。そのことは、度かさなる国外追放や収監の経験がありながらも、自身の主張を後退させることをしなかったことの根拠でもあった。豊かな生活に裏打ちされた著述が、すべからく体制的になっていくとは限らないのだ。著者は、現実主義的で合理主義の面があることを指摘しているが、むしろ安定した生活の場所からでなければ、頑強な旧体制とは対峙できないという絶対王政の時代であったことの証左でもあるような気がする。富を蓄積していっても、一貫して宮廷や教会の擁護者にならなかったところが、“「知」の革命家”たる所以なのかもしれない。
 そして、決定的な出来事が、ヴォルテールに生起する。自身の名声を得ることにもなったカラス事件である。権力的な宗教支配によって捏造されたこの事件は、ヴォルテールによって刑死したジャン・カラスの名誉を回復させるという衝撃的なものであった。
 「この世にはあまりに多くの不幸と、悲惨と、苦しみがありすぎる。それを観察し、経験し、思いめぐらすに、楽天主義的な予定調和説では、とても説明できないとヴォルテールは考える。むしろ問題は、そのような説を単純素朴に信じこむ無知と、偏見と、狂信とにあるのではないか。『ガンディード』(引用者註=ヴォルテールの小説作品)の結論は『われわれの庭を耕さなければならない』であるが、やがてヴォルテールはそれをさらに超えて、世の無知と狂信とに対して、積極的に戦いを挑むようになるのである。」(128P)
 六十代から最晩年まで、さらに旺盛な著述活動をしていったヴォルテールは、1778年5月30日、八十三歳の生涯を閉じる。だが、パリの教会に反抗して、パリで埋葬されることは許されず、「パリの東百七十キロほどのトロワ近くの」、「荒れ果てた教会の中に埋葬された」そうだ。
 やがて、フランス革命中の1791年にパリのパンテオンに棺は移送されている。

(『図書新聞』09.2.21号)

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2009年1月30日 (金)

日本カント協会 編『日本カント研究9 カントと悪の問題』(理想社刊・08.9.30)

 わたしたちが、「悪」という問題を考える時、当然のことながら、そこでは対峙する概念として「善」という問題が生起してくる。だが果たして、「善」と「悪」は、二項対立、あるいはカント的にいうならばアンチノミー(二律背反)といった相反する概念として定立させることができるものなのだろうかという疑問を、わたしなら抑えることができない。
 ここ数年の加速化された欧米を軸としたグローバリズムの拡張は、先進社会を「善」、後進社会を「悪」とする転倒した二元論を瀰漫させている。“後進社会”とは、いうまでもなく、欧米的キリスト教圏域(ユダヤ的世界も包含させていい)と絶え間なく衝突を繰り返しているアラブ・イスラム文化圏域を主に指し、先進社会的「善」を絶対値として、疎外と圧制を、欧米諸国は教唆している。このことは、まさしく「善」と「悪」が、渾然とした情況を露出していることを示しているといっていいように思う。その限りでは、もはや「善」も「悪」もないということになる。
 本書は、日本カント協会の年一回刊行の機関誌である。第9集の主題は、「悪の問題」であるが、もちろん、これはあくまでも、カント研究ということが主眼であって、現況を視野に入れた論稿というわけではないが、論者の意識するしないにかかわらず、現況に対する多くの示唆を含んだ力論が掲載されていると、わたしは受け取ることができた。
 巻頭の三論稿、北岡武司「意志の原理とされた自己愛―カントにおける悪の問題―」、保呂篤彦「根本悪の克服―個人における、また人類における―」、石川文康「根本悪をめぐるカントの思考」のそれぞれが、主題「カントと悪の問題」に沿ったものとなっている。
 北岡の論稿は、道徳的善悪を軸に展開させていき、「心ね」という人格、理念、性格に連動する領域へと視線を這わせながら、「自己愛」を基準にした善悪の概念を切開している。
 保呂と石川の論稿とも、「根本悪」をモチーフに、その克服する方位を論及している。カントによる「根本悪」とは、「道徳法則に反する動機を道徳法則への尊厳という動機に優先するものとして『格率〈Maxime〉』のうちに採用してしまう『性癖〈Hang〉』であって、これが人間の『心術〈Gesinnung〉』の根底にある」ということだと、保呂は述べていく。とすれば、これはそもそも克服・超克不可能性を内在していることになるのだが、保呂は宗教的な「恩寵」概念をもって、不可能性を可能性へと道程付けしていく。
 石川は、「いわゆる悪への性癖は根絶不可能ではあるが、しかし克服可能とされる場合(略)、その克服努力こそ道徳なのである。このことは、カント哲学全体が根絶不可能なものに対する克服の努力とその可能性を開拓する試みだったということを、よく反映している」と叙述する。この示唆は、様々なことを包含している。わしの関心事からいえば、ニーチェの「善悪の彼岸」との関連で考究していく素地を残しているような気がする。
 主題に沿った三論稿に続くものが、哲学翻訳の問題性を指摘した注目すべき提言がなされている鈴木直「カントの翻訳と『輸入学問の功罪』」だ。本集の主題と関連したものではないが、鈴木の提言に反論するかたちでなされた押田連「翻訳出版における編集者の役割」と牧野英二「カント研究と翻訳者の使命」とともに、わたしにとって刺激に満ちたものとなっている。本集の評をしながら、いささか矛盾した言説を述べることになるかもしれない。特に、本集のような哲学的分野において顕著なことなのだが、なぜ、学際論文というものは、解読しにくい文体(難解という意味ではない、極端にいえば、日本語の文脈として破綻しているということに近い)で展開しているのだろうかという疑念が、わたしには常日頃ある。これは、鈴木が提示している哲学翻訳の問題とも通底していることだといっていい。鈴木は、「いまだに逐語訳的拘束のために不必要に難解になっている訳文が散見されることを」問題視し、「わずかな工夫を妨げている原因は、個々の訳者の力量不足ではなく、むしろ『哲学の訳文はかくあるべし』と信じ、あるいは信じさせられ」ている「制度」にあると述べていく。わたしは、この鈴木の指摘をほとんど同意する思いで、受けとめていった。「逐語訳」の是非を、ここでは留保しておくとして、「哲学の訳文はかくあるべし」という制度は、そのまま、「(哲学的)学際論文はかくあるべし」というもう一つの制度へとリンクしていくような気がする。哲学的言説も論理的言説も、一人の論者によってなされる時、それは、その論者の自己表現であるというのが、わたしの基底的な考えである。例え、テクスト解読という主題があるとしても、解読それ自体の内実が自己表現を含まないものは、解読したことへ到達したことにはならないと思うからだ。ただ、テクストをなぞっただけのものを解読とはいわないはずだ。
 もちろん、本集がそうだといっているのではない。絶えず、そういうことの陥穽を引き寄せてしまう可能性が、研究誌(紀要、学会誌)論稿というものにはあるということを、念頭に入れておくべきではないかと、指摘したいだけである。
 さて、本集は他に、市毛幹彦「カントの超論的自由」、佐藤慶太「『区別(Unterscheidung)』と『混同(Verwechselung)』」、千葉清史「『純粋理性批判』諸アンチノミー導出の統一的構造」、田原彰太郎「行為の道徳的判定の基準」、宮本敬子「『後見人』批判としての『理性の公共的使用』」の諸論稿と書評、海外学会報告などが収載されていることを、最後に付言しておきたい。

(『図書新聞』09.2.7号)

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2009年1月23日 (金)

つげ義春 著                            『生きていた幽霊』(小学館クリエイティブ 刊・08.7.29)   『四つの犯罪』(9.29)『恐怖の灯台』(11.29)

 新作を発表しなくなって二十年以上経っているにもかかわらず、08年になって、つげ義春のヴァリアント本が、相次いで刊行されている。93~94年に出版された『つげ義春全集(全八巻・別巻一)』の文庫版『つげ義春コレクション(全九冊)』(筑摩書房)、03~04年に出版された『つげ義春初期傑作短編集(全四巻)』、『つげ義春初期傑作長編集(全四巻)』の文庫版・全八冊(講談社)、そして本書の初期貸本漫画時代の単行本の完全復刻本(全三冊)である。『全集』刊行時、初期貸本漫画作品の多くを収録しなかった理由として、つげは「稚拙で未熟な過去を晒すのは気がすすまぬ」とし「粗末な作であるのは生活苦による乱作のためばかりではなく、マンガ全般のレベルが低かった時代」だったからだとなんの衒いもなく述べているが、わたしたちは、そのようには見ていない。わたし自身、つげ義春の一群の〈初期〉作品を、まさしくつげ義春という作家的膂力の源泉として捉えている。どんな事情や時代背景があろうとも、作家の作品歴は地続きなものであり、〈初期〉を抜きにしては、その作家の世界像を語ったことにはならないからだ。
 あらためて、本書全三冊を読み返してみて、その思いをさらに強くしている。既に、この三冊に収められた作品は、「選集」(77年、81年)や文庫(76年)で刊行されているのだが、完全復刻版となれば、当時の息吹きが伝わり、作品に対する視線も幾らか心新たなものになってくるといっていい(それぞれに「著者4年ぶりの肉声を伝える」、権藤晋によるロングインタビューが挟み込みとして付いており、つげ自身が語る〈初期〉を知ることができる)。
 よく知られているように、つげ義春の漫画家としての出立は、十七歳の時、メッキ工場で働きながら投稿し続けて採用され、雑誌「痛快ブック」に掲載された四コママンガであった。本格的なデビューは、十八歳の時で、一二八頁の貸本漫画単行本『白面夜叉』(55年5月)である。その後、七冊の貸本漫画単行本を刊行し、「痛快ブック」や「冒険王・増刊」などに次々と作品を発表していく。そして復刻版化された三冊は、十九歳から二十一歳にかけて発表されたものだ。
 『生きていた幽霊』(56年11月―以下、すべて若木書房刊)は、それまで発表されたものとは一転してシリアスな作品となっている。「探偵漫画シリーズ」と銘うたれたもので、  当時、江戸川乱歩が関わっていたこともあり、評判になっていた探偵小説雑誌「宝石」の影響下による企画と思われる。
 『つげ義春漫画術』(上・下巻、93年刊―ワイズ出版)のなかで、聞き手の権藤晋が、『生きていた幽霊』では、「絵柄がガラッと変わ」ったと指摘している。それに対して、つげは、「手塚治虫から脱皮したい気持ちが出ていた」からだと応答しているが、十七歳から描き出して、十九歳となっていたつげにとって「子供向きであきたらなかった気持ちがあ」り、「自分の年齢のレベルのものを描きたくなった」(挟み込みインタビュー)という思いが、作品形成に大きく、影響しているとみていいし、そのことこそが、“作家性”の発露であり、作家における初期世界の重要性を意味していることになるのだ。
 『生きていた幽霊』は、五つの短編によって構成されている。冒頭の「に来た男」では、温泉地を舞台としている。そのことだけを見ても、つげ的世界の初源性といったことが、いえそうだ。またシリアスな推理劇のなかにも、どこかユーモア性を湛えていることにも、そのことはいえる。
 集中、「罪と罰」は、ある意味オーソドクスな復讐譚である「に来た男」に比べて、悲哀に満ちた復讐劇となっている。交際に反対されていたとはいえ、恋人に父を殺された娘が、同じ方法で恋人を殺すという暗い終わり方は、人間存在の悲しみが率直に描出されている。それは物語を構成する膂力が、既に萌芽していたということでもある。そしてまた、どの作品もまったく異なったシークエンスによって展開している多彩さは、十九歳にして、溢れる才能を持って表現していることの証左だといえる気がする。
 『四つの犯罪』(57年6月)は、同じ「探偵漫画シリーズ」の一冊であるが、その間、共著として単行本が一冊と、雑誌作品三編という、少なさである。さらに、その後は、雑誌の仕事は途切れなくしているのだが、若木書房の仕事は、『恐怖の灯台』(58年3月)までしていない。その間のことを、履歴的に視線を向けてみれば、青春期における必然的な私生活の変容と無縁ではなかったようだ。
 『恐怖の灯台』は、簡略化した顔の描写に象徴されるように、全体的に絵柄のタッチにやや拙速さが感じられる。「これはひどかった。絵も荒れちゃっているし、めっちゃくちゃ描き飛ばしている」(前出『つげ義春漫画術』)と、つげは回顧しているが、それでも、〝六さん〟の像型、海中の場面などは、やはり出色なものがある。
 『四つの犯罪』は、構成力、画像の濃密度、どれをとっても、この時期のつげ作品のなかでは、傑出したものとなっている。後年の旅もの作品のなかにしばしば見られる、主人公(作者自身と思わせる人物)のモノローグによって物語を進めていく手法が、既にこの作品には表れているのだ。
 「のぞき見奇談」という挿話では、主人公の柘植(挿話中では辻)が、漫画家仲間の円戸(遠藤政治)と、漫画論議をする場面がある。
 円戸「辻君きみはあいかわらず芸術だのなんだのといってるのかい」「くだらん くだらん」「それよかうんと売れるやつをかいて人気をとる事だ」
 辻「きみは出版社のまわしものかっ 売らんかな主義は大きらいだ」「人気がなんだ」「ボクはいいものさえかいてりゃそれでいいんだ」
 おそらく実際に、これ近い遣り取りを、四歳年上の遠藤と、やっていたのかもしれないとしても、この場面の前段で、辻が、ひとりで、「おれの漫画はそこらにころがってるオモチャ漫画とちがって芸術なんだ」「漫画文学なんだぞ」と高らかに宣言していることの方に、わたしたちの関心は向いていかざるをえない。「漫画術』のなかで、「『芸術』だとか『文学』だとか言ってごましていたのかもしれない」とか、「カッコつけて逆らっていただけかもしれない」とつげ自身は、述べているのだが、作品に潜在するモチーフからいえば、強い作家意識の表れと見るべきであるし、当然、この時期のつげは、クラシック音楽にも関心を向け(作品中にも名曲喫茶「らんぶる」が登場している)、小説にも無関心ではいられなかったはずだ。だから、「漫画文学」とは、けだし名言というべきである。わたし(たち)が、後年の「ガロ」掲載作品群を、その深層において、なんの矛盾もなく文学性を持った作品として捉えていったこととそれは、通底していく。
 こうして、作家の〈初期〉作品を辿ることによって、その作家の世界像が露わになるということは、まぎれもなく、それが、つげ義春の作品世界だからだといっていい。

(『図書新聞』09.1.31号)

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«寺田俊郎・舟場保之 編著                   『グローバル・エシックスを考える―「九・一一」後の世界と倫理』(梓出版社刊・08.10.20)