2020年1月18日 (土)

構 大樹 著『宮沢賢治はなぜ教科書に掲載され続けるのか』(大修館書店刊・19.9.10)

 宮沢賢治を、漱石や太宰以上に世代を超えたかたちで知らない人はいないといっていいはずだ。詩作品と童話作品というジャンルにもかかわらず、いや、だからこそ、小学生から大人までという幅広さで「賢治受容」というものが戦争期を挟みながら持続されてきたといえる。それは、賢治作品が途切れることなく教科書に掲載され続けてきたからだというのが、著者の捉え方で、その深層を切開していくことが本書のモチーフということになる。著者は次のように述べていく。
 「〈宮沢賢治〉が肯定/否定を問わず言及され、語られるときの枠組みを析出し、どのような意味づけがなされたのか、それを成立させた環境とはどのようなものだったのかを、歴史的に解き明かそうとするものである。そうした検討を賢治受容の活性化と、将来的な展開をうながす糸口にしたい。」(「はじめに――賢治受容の不思議」)
 わたしは、「なぜ教科書に掲載され続けるのか」という問い掛けを起点として、ひとつの賢治論は成立しうるのだろうかと、書名を見たとき理解できなかった。だが本書の著者の力点は、継続性、持続性の解明だけにあるのではなく、戦時下から、敗戦後の「教科書」における賢治受容の有様にかなりの焦点を当てていることで、「受容の活性化と、将来的な展開」というあらたな賢治理解の位相を提示していくことに、新鮮さをわたしは感受したことになったといっていい。
 媒介軸として著者は、没後発見された遺作を契機に「「雨ニモマケズ」的な人間性への評価」をあげる。さらにいえば、「〈宮沢賢治〉が肯定/否定を問わず言及され」るのは、まさしく、「雨ニモマケズ」に生起したことだといっていい。わたしは、小学低学年時(一九五六、七年頃)に近所の友人宅に行った際、居間の壁側に手書きした「雨ニモマケズ」が貼られていたことを鮮明に記憶として刻まれてしまったといえる。ミヤザワケンジという名前とともに怪しげな詩篇が七歳の子どもにどう影響を与えたかは思い出すことはできないが、後年、賢治の世界に親近性を抱いてからは、「雨ニモ」の世界をできるだけ避けて通ることになったのは間違いない。
 「一九四二年に大政翼賛会文化部が編纂した『詩歌翼賛』第二輯への「雨ニモマケズ」採録がある。(略)同冊子に採られたという事態は、「雨ニモマケズ」から当時の総動員体制に資する文学的価値が、さらには賢治に「日本精神」を代表する詩人としての価値が、文壇/政治の思惑が複雑に絡み合った組織としての大政翼賛会文化部に見出され、承認されたことを意味する。」(「第二章 「雨ニモマケズ」という生き方」)
 戦時下において戦争賛美の詩篇を数多く表現した高村光太郎とともに収められているのだが、「雨ニモ」は、戦時下に発表されたわけではないから、戦争協力詩と理解することはできない。吉田司に『宮沢賢治殺人事件』(一九九七年刊)という苛烈な著作があり、そのなかで国柱会との関わりをもって戦争推進派に賢治を入れるのは無理がある。
 「肯定的な評価が一方的に集約される環境のなかに〈宮沢賢治〉はあった。だからこそ「雨ニモマケズ」と賢治を積極的に称揚する機運が、総動員体制の長期化にあっても、着実に高揚していったに違いない。そして、このとき「雨ニモマケズ」の〈宮沢賢治〉の図式が大きな力を持ったのだ。」(「同前」)
 そして戦時下に、「満州開拓青年義勇隊訓練本部編『国語 下の巻』(冨山房、一九四三年)という準公的な教科書」に「雨ニモマケズ」が掲載されたのだ。その頃の「〈宮沢賢治〉は、〝滅私奉公〟の文学的形象化を達成した詩人として、また優れた農業実践者の模倣像として、強い公共性を帯びていた」(「第三章 「雨ニモマケズ」教材化の前夜」)と、著者は捉えていく。そして、そのことはある意味、戦後へと繋がっていくことにもなるのだ。
 「戦後国定教科書は(略)新たな教材を選び、GHQの検閲を経た上で、一九四六(略)年度の授業に間に合せ」るという時間的な逼迫があったから、「賢治作品に光を当てたのではなかったか」と著者はみる。
 「ストックされた文学的遺産から戦後の今・ここで意義づけられるものを教材にしようとしたとき、「雨ニモマケズ」や賢治童話から読み取られた「時局」との距離(略)は、選定にあって有利に作用しただろう。(略)共同体を維持させるのに有用であることは、(略)「雨ニモマケズ」で十分印象づけられていた。」(「第四章 「どんぐりと山猫」と民主主義教育」)
 その後、「やまなし」や、「注文の多い料理店」、「永訣の朝」など、多くの作品が教科書に採用されていく。
 「賢治受容の持続にとって国語教科書に採られることは、賢治作品の多くの潜在的な享受者の前にひらかれるだけでなく、そこで〈宮沢賢治〉のアクチュアリティの更新が行われるという点でも重要だと、さらにいい直すことができる。国語教育で扱われるということは、今、ここの価値の更新作業そのものと言ってよい。」(「第七章 「グスコーブドリの伝記」の再創造」)
 著者は、八六年生まれ、現在、清泉女学院中学高等学校の教諭であり、本書は博士論文を基にしたもので、初めての単著ということになる。
「賢治受容」という視線によって、鮮鋭な賢治像が描出されたといっていい。

(『図書新聞』20.1.25号)

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2020年1月11日 (土)

丸山健二 著『丸山健二 掌編小説集 人の世界』       (田畑書店刊・19.8.30)

 掌編小説の掌を〝てのひら〟と読む。だから、掌編はてのひらほどの短さという意味を持たせている。かつてわたしは、川端康成の『掌の小説』(七一年)を読んだだけだから、掌編小説に通底しているわけではない。だから訳知り顔に語ることはできないが、丸山健二の掌編小説集とは意外な思いを抱いたが、丸山健二的ではあるなと確信したといっていい。それは、丸山健二の『生きることは闘うことだ』(朝日新聞出版刊・一七年三月)を読んでいたからだ。こちらは、全四行の短いエッセイ集とでもいえるものだが、そこに込められた激しい言葉の表出は、『人の世界』に連結していくと感受できたといっていい。
『人の世界』は、『われは何処に』(一七年、求龍堂刊)と『風を見たかい?』(一三年、同社刊)を「組み方を替え、加筆・修正を施したもの」だという。
 「風をみたかい?」は、「風人間」を象徴化して、物語っていく連作集といえなくもない。
 「おれは世を避ける者などではない。/世のほうがおれを避けることはあっても、その逆は断じてない。/おれこそがまさに自由の第一人者であるというれっきとした事実は、永遠の始まりを想わせてくれそうなこの風が見事に証明している。」「「風人間」を自認してやまぬおれは、口笛をやめて鼻唄に切り替える。人に明かしてはならぬ一身上の事柄など皆無だ。」「「風人間」にとって社会を保全する義務はなく、国家は無益であり、国境は無用な代物でしかない。」「生は死を減殺し、死は生を減殺することで、不朽性が失われずに済み、ために、永劫に滅びない存在という形がしつかりと保たれるのだ。」
 「国家」、「生」と「死」、これらの言葉は通底音のように丸山健二の発語の場所として横断している。例えば、『生きることは闘うことだ』のⅡ章「家族や国家を過信してはならない」のなかの「国家とは」には、次のような言説が展開されている。
 「国家を当たり前なものとして、空気や水や食料のようにしてありがたがるのは、明らかな誤りで、また、それなしでは一日たりとも生きてゆけず、たちまちにして混乱の極みに投げこまれてしまうという伝統的な考えに無意識にしがみついていると、自我にまつわる基盤が根底から覆され、自己を失ってしまう。」「国家はひとつの悪だ。それも巨悪だ。その悪に比べたらやくざの悪など実にちっぽけなものでしかない。(略)民主国家の神話なんぞにけっしてだまされてはならない。」「国家なんて幻だ。」
 わたしは、丸山のこれらの発語を苛烈とは思わない。なぜなら、わたしもまったく同じ考え方、捉え方、認識の仕方をしていると感受できるからだ。
 「われは何処に」を見てみよう。「無害な分だけ面白味に欠けた人々が、どんな風の吹き回しなのか、突如としていっせいに、(略)荒くれた発想がもたらす叛逆の方向へと、半ばやけ気味に舵を切った」は、何気ない記述のように読めるが、「叛逆の方向へ」と惹起していく様態は、想像できる、いや、正確に述べれば想像したいのだ。
物語は、多様に表現できる、しかし、直截に表現する作家、思想家は極めて少ない。丸山健二は、芥川賞受賞後数年、二十代半ばで、文壇世界に囲い込まれることなく、信州で自立した表現活動を続けてきたのだ。
 「雑魚は見逃してやるからさっさと消えちまえと、そう事もなげに言って澄ましている、定年間近の情のこまやかな刑事は、それでもまだわずかばかりの誠実さが残っている素行不良者どもの後ろ姿を見送りながら、なんとも複雑なため息をそっと漏らし、さほどの理由もなしに世を拗ね、死をもってちっぽけな罪を贖おうとする若者の急増に心を痛め、(略)家路を辿る足どりは重くもなければ軽やかでもなく、(略)二十年も前の夏の真っ盛りに病死した妻の位牌の前に座ってからは、いつものように長いこと動かずに時間を忘れ、言うならば、湯冷めにも似た心境をずっと保ちつづけた。」
 集中、最も惹き込まれた世界だ。定年間近の刑事は、世情に抑えがたい憤怒を抱いている。だが、帰宅して待っているのは、二十年前に病死した妻の位牌だ。「長いこと動かずに時間を忘れ、言うならば、湯冷めにも似た心境をずっと保ちつづけ」てきた心情は、凄いと思う。「国家なんて幻だ」と言い切る丸山健二だからこそ、描出できる世界だといっていいはずだ。

(『図書新聞』20.1.18.号)

 

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2019年10月19日 (土)

八木幹夫 著『郵便局まで』(ミッドナイト・プレス刊・19.9.1)

 八木幹夫の詩篇に接するといつも、いいようのない心地いい感慨に浸ってしまうことになる。例えば、「こどもを抱いた/こぶりのスイカのような重さだ」で書き出される詩篇「西瓜のひるね」は、次のような言葉が、わたしを未知の時空間へと誘っていく。
 「みずみずしいスイカの香りと/ミルクの匂いが/部屋いっぱいに広がる/笑顔のしらが頭が/スイカを抱いている/(略)/発熱する/子供のあたまよ/団扇の風に/冷やされて/ねむれ スイカよ/いっしょに わたしも」
 「こども(孫)」を抱きながら、「こぶりのスイカ」へとイメージを拡張していく、「しらが頭」の「わたし」は、自らが慰安する場所を「西瓜」へと象徴化していく。別様にいうならば、詩語を重層化させて不思議な物語を生起させていくのが、八木幹夫詩の魅力だ。だから、「ねむれ スイカよ/いっしょに わたしも」と発せられる時、「西瓜のひるね」という寓話的表象は、一気にイノセンスな空間をかたちづくって、わたし(たち)も慰安の場所に立つことになる。
 「草がやさしいというのは嘘だ/(略)/旅人のころもに/飛びついて/旅をする/世界の果てまで/海のある断崖まで」(「くさ」)
 「くさ」という詩篇の書き出しは「草は凶暴なものだ/アスファルトをひっくり返し/文明を数百年で滅ぼし/鬱蒼とした森をつくる」である。逆説的などという皮相ないい方はしない。なぜなら、八木の視線は、無条件に自然的なるものに信仰を抱くことへの疑念だといえるからだ。文明信仰も自然的なるものへの信仰も心性としては等価だ。文明は人間が長い時間をかけて作り出したものだ。自然もまた人間の共感性なくして永続的な時間を有することはできなかったといっていい。本来、対立するものではなく共生していくものでなければならない。
 「昶さん 娘たちがこよなくあなたを愛していました/あなたの詩など一篇も読んだことのない娘たちが/それはあなたの人柄だった/詩人という構えを脱ぎ捨てて/我が家で娘たちにお話をしてくれた姿が今でも浮かぶ/「男っていうのはねえ とても怖いものなんだよお」/さよなら 決然と去っていった昶さん/詩人はいつも格好よくなくてはならない/明日 世界が滅びるとしても」(「時代の季語となった清水昶」)
 「男っていうのはねえ とても怖いものなんだ」と語る、やさしい清水昶の像が、八木の詩篇によって再生される。追悼詩としても、わたしの深奥を突く。
  「指は/鍵盤の上で/せせらぎのようにながれた/指は/鍵盤の上で/夕日のようにかがやいた/指は鍵盤の上で/恋人同士のように/はげしく踊った」(「ショパンのゆび」)
 「指」が、「せせらぎのようにながれた」り、「夕日のようにかがやいた」り、「恋人同士のように/はげしく踊った」りする。もちろん、ショパンのピアノ曲を想起すれば、そういうイメージは可能だが、言葉で表出できるのは詩人(八木幹夫)しかできないといいたい。「ショパンのゆび」は、一四年、ロシアのウクライナ侵攻に抗議して、無名のピアニストが軍隊の前でショパンの曲を演奏したことに想を得たと八木は記している。
 「路面はふんわりと雪につつまれた/誰も通らない道を戻ってきて/郵便局にむかう足跡に気付いた/(さっきここを過ぎたワタシのものだ)/振り返るまでもなく/雪は往路と帰路の痕跡を消していく/それがとても嬉しいことに思えた/雪よ ふれ」(「郵便局まで」)
 詩集名となっている詩篇は、山口県岩国市の知人から詩集が送られてきて、その礼状を出しに郵便局に向かったことをモチーフにしたものだ。「雪は往路と帰路の痕跡を消していく」ことに詩篇の作者は「嬉しいことに思えた」と発する。あまり人の通らない雪道を歩いて戻り、自分の足跡に視線を射し入れるということは、東北出身のわたしにとって、日常化したことで、どんな思いを抱いたのかは、いまでは記憶が消えている。この詩篇に接して、詩人の佇まいも含めて、率直に感嘆したことを記しておきたい。
 「また噓をついて一日を過ごしてしまった/また本当のことから遠ざかる/私は長い長い小説を書いて/赤の他人のように署名をする」(「冬のうた」)
 最後に置かれた書き下ろしの詩篇である。
 詩は一篇一篇がひとつの作品だ。だが、詩集に纏められた時、一篇一篇は、長篇小説の一章のように長い物語性を胚胎していく。八木幹夫の詩集は、わたしとって、特にそのことを強く感受させてくれる。それはたぶん、八木幹夫の優しさや淋しさといった感性が詩語のひとつひとつに潜在しているからだといいたい気がする。

(『図書新聞』19.10.26号)

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2019年9月25日 (水)

吉本隆明・北川太一、そして光太郎へ

 吉本隆明は私家版詩集(『固有時との対話』、『転位のための十篇』)の後、武井昭夫との共著『文学者の戦争責任』(五六年九月)を刊行する。集中、巻頭に配置されたのが「高村光太郎ノート―戦争期について―」であった。翌年七月、初めての単著『高村光太郎』を飯塚書店から上梓する。この著作は「この国で高村光太郎について書かれた、最初の単行本」(北川太一)であった。さらにその翌年十月、五月書房版が、六六年二月、『決定版』が春秋社から、そして七〇年八月、同じく春秋社から『増補決定版』が刊行されてくというように、吉本の高村光太郎論の書籍のかたちでの足跡を辿ることができる。
 わたしにとって、高村光太郎とのはじまりは彫刻家であった。小学生時代、光太郎の最後の彫像作品となった十和田湖の乙女の像を見ている。詩作品に初めて接したのは、中学一年生の時だった。自分で意識して接したわけではない。担任の教師が、黒板の上方に額に入れ「道程」の一篇を掲示したのだ。漫画(劇画)しか読まなかったわたしにとって、残念ながら毎日見る光太郎の詩は退屈な言葉としか受け取れなかったといっていい。『智恵子抄』の詩人だったことに繋がったのは、それから数年は経ている。
 吉本の著作は高校生の時に、江藤淳の論稿を読みたいため、購入した『われらの文学 22』(六六年、講談社刊)で初めて知ったことになる。その後、六十年代後半から、吉本の著書のほとんどすべてに随伴していった。
 わたしは、戦争期の光太郎の詩群を切開していく吉本や、「暗愚小伝」に鋭く切りこむ秋山清に対して、異論はないものの、そこから滲み出てくるものは、光太郎の孤絶感ではなかったのかと思わないではない。父光雲との潜在する確執、そしてその死、妻智恵子の死を経ての、戦争期から戦後の時空は、光太郎にとって悲痛の日々だったはずだが、むしろ自らの立ち位置を徹底していくことだったといっていい。吉本の『高村光太郎』はそのようなことを濃密に放射していったといえる。
 何十年も前に、花巻の高村山荘を訪れて思ったことは、まさしく「暗愚」ということの不可思議さが想起されたことだった。敗戦時、二十代前半の年齢だった吉本、北川太一に導かれるように光太郎の世界を理解したつもりであったが、どうしても賢治や啄木とは違って、光太郎の紡ぐ詩群との間隙には埋めようもできない深い暗渠があることに、わたしは諦念のような思いを抑えることができないでいた。
 「昭和二十年四月、智恵子と共に半生を生きた思い出深いアトリエは、空襲によって炎上する。六十二歳、寡にして孤。彫刻刀と一束の詩稿の他、一切を失った光太郎は、彫刻の材を求めてする東北放浪を夢み、さそいによって、岩手県花巻の宮沢清六方にうつる。肺炎臥床。東北の人と自然の中で回復する光太郎に再び戦災。そして終戦がくる。(略)光太郎を取巻くのは、北方の美しくもまた厳しい自然のみではない。/その一つは戦時の行動への、さまざまな形での弾劾である。(略)光太郎は書く。『小生の戦時中の詩について摘発云々の事はいささかも驚きません。……小生の詩は多くの戦争によつて触発された人間美をうたつたものですが此際釈明などしたくもありません。若し招喚などうけるやうな事があつたら、語るべき事を語る機会を得たやうなもので、それも亦可なりと存ぜられます。』(佐藤隆房宛)」(北川太一「評伝 高村光太郎」)
 光太郎は自らの理に反して戦争詩を書いたわけではなかった。だから、「摘発云々の事はいささかも驚きません」と述べ、「小生の詩は多くの戦争によつて触発された人間美をうたつたもの」だと強調していく。吉本は、そのような光太郎の揺るぎない表明を、例えば、戦後に書かれた、「死はいつでもそこにあつた/死の恐怖からわたし自身を救ふために/『必死の時』を必死になつて私は書いた。/その詩を戦地の同胞がよんだ。/人はそれをよんで死に立ち向つた。」(「我が志をみて人死に就けり」)を引きながら、次のように述べていく。
 「戦後、高村をほんとうに苦しめたのは、天皇(制)の問題と、このじぶんの詩をよんで人は死んでいったという問題だけであった。天皇(制)の問題は高村を駆りたてて、青年期にあれほどまで反抗した庶民的な家の情感のなかにひっぱってゆき庶民的な天皇尊崇をうけいれさせた原動力の問題であった。(略)たしかに、二年余をついやして高村は天皇(制)の重圧を意識のそとに追い払ったが、けっして意識のなかで扼殺したのではなかった。天皇(制)に戦争責任はなく、天皇(制)の名をかりて、残虐をおこない、侵略をおこなった官僚権力、軍隊に責任があるというところに社会問題は転化されたのである。高村は、自分の意識のなかをおおった天皇にたいして自省をくわえずに、天皇を担いだ自己意識の退化に批判をくわえておわった。」(『高村光太郎』)
 わたしは、いま、明仁から浩宮(徳仁)へ譲位され、改元も行われた現在、光太郎の戦争期から戦後期への心象は、なにかということが、沸々と湧き出てくることに、悲哀の思いしか感じられない。天皇及び天皇制は空虚なものだということが、どうしてわからないのだろうかといいたくなる。なにもない、なんの意味もないものが、この国の王制の核心なのだ。そこには神なんかではない人間の天皇がいるだけだ。だから、官僚権力、軍隊と同じ様に戦争責任があるのは自明のことなのだ。
 高村光太郎にとって、父光雲がもう一人の天皇であったことが悲運だったのだと思う。

(『トンボの眼玉』No.9---19.9.20)

 

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2019年9月 7日 (土)

吉本隆明 著『ふたりの村上――村上春樹・村上龍論集成』( 論創社刊・19.7.10)

 吉本隆明の仕事の軌跡を望見してみる時、雑誌「作品」に連載された文芸時評を『空虚としての主題』(八二年刊)として、わたしたちの眼前に提示された時から、「現在」という視線を起点に多様な方位を切開していく批評を濃密に持続させていったといっていい。そして『マス・イメージ論』(八四年刊)から、『新・書物の解体学』(九二年刊)、『ハイ・イメージ論』(全三巻・八九年~九四年刊)によってそのことはさらに結実していくわけだが、作家論、作品論の中心は、村上春樹と村上龍というふたりの村上の表現世界であった。
 村上春樹は、七九年、群像新人文学賞受賞作『風の歌を聴け』が最初の作品で、以後、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』と続く。わたしは、村上龍よりは、村上春樹の方を比較的読んだと思うが、初期の三作品は、リアルタイムではなく数年経過してからだった。
 村上龍は七六年、『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞、そして芥川賞を受賞。作品は、大きな話題を呼んだが、数年後、わたしは読んでみたが途中で挫折した。わたしにとって村上龍は、エッセイやインタビュアー(例えばテレビ番組の「カンブリア宮殿」など)の仕事の方に魅力を感じる。
 わたしは、村上春樹の長編小説は、『羊をめぐる冒険』と『スプートニクの恋人』以外、あまり共感した記憶はない。むしろ中編的な作品や短編的作品に魅力を感じる。なかでも短編集『螢・納屋を焼く・その他の短編』(八四年刊)は最も感応した作品集だと言っておきたい。その、「螢」という作品に関して、吉本は次のように、わたしたちを誘っていく。
 「それは根源的にいえば「腕」とか「温もり」とかいう言葉が〈依るべき男の腕〉とか、もたれあっているときの〈体温の温もりの感覚〉とかのフィジカルな「概念」だけではなく、〈依るべき本体〉とか〈温かい親愛〉のような、いわば生命の像ともいうべきものをふくんでいるからだ。この生命の像ともいうべきものの姿は、言葉の「概念」に対応する[意味]によって喚起される像ではなくて、[意味]にむかって直交する「概念」のなかに折り畳まれた生命の糸が、「概念」から融けだすことで得られるのだ。(略)この生命の重畳量の豊富さが、とりもなおさず作品の頂点をつくっている。それがこの「螢」という作品をいいものにしているおおきなわけになっている。」
 概念と像[イメージ]を折り重ねるように「螢」論を展開していく吉本は、「生命の像」ということを抽出していく。「生命の糸」、「生命の重畳量の豊富さ」といういい方も含めて、吉本の「螢」論は、わたしに、大きな像[イメージ]を喚起してくれたといえる。
 村上龍の『走れ! タカハシ』をめぐっては、次のように切開していく。
 「話体が走る速さは、太宰治に酷似している。もっと具象的な像をふくんだうえでいいなおすと、走行する歩幅(対象撰択力)と繰り出す速さ(流力)とが似ていて、散文話体としては極限にちかい速さをつくりあげているといえる。ではどこが異っているのか。太宰治の文体が屈曲によって像をつくりだしているとすれば、村上龍の文体は展伸のところで像をつくりだしている。(略)太宰治の成熟期の作品の話体は、屈折を折りかさねることによって回帰する場所の所在を暗示しているのだが、村上龍の作品は話体が意図的にも無意識的にも屈折を拒否しているために、走ってゆく行方を指示しないままに、どこまでも延びてゆくことだ。いわば欠如としての空虚ではなく、この過剰としての空虚ともいうべきものが村上龍のおおきな現在的な意味でもあり、また謎だともいえる。(略)そしてこれが、文学の新世代がもたらしてきた新しい未知、わたしたちの現代文学ではかつてなかった未知のようにおもわれる。」
 「欠如としての空虚ではなく、この過剰としての空虚」というものを、「村上龍のおおきな現在的な意味」だとする吉本の村上龍論の確信は、『マス・イメージ論』、『ハイ・イメージ論』という大きな達成に照応していくといっていい。
 本書の成立に関して述べておきたい。八六年九月、大和書房から『吉本隆明全集撰』(全七巻・別巻一)が刊行された。「『全集撰』は過去の吉本著作とはいささか性質のちがう異例の刊行物である。(略)全体の構成や採択をも意図的に自らに課し、(略)シリーズ全体が、吉本氏の一篇の著作と言えないこともないほどの緊密性、有機的な統一性に貫徹されるのではないかと期待される」と第一巻の「解題」で川上春雄は述べている。しかし、第二巻『文学』と別巻が未刊のまま中断した状態となってしまった。本書で全集撰の担当編集者だった小川哲生が次のように述べている。
 「第二巻『文学』の巻には「ふたりの村上」という書き下ろし稿一五〇枚が収録される予定となっていた。(略)しかし、予定通りには脱稿に至らず、またそれと並行してわたしが個人的な事情から大和書房を退職したため、結果として全集撰の企画自体が結局中断のやむなきに至ったという事情があった。」(「編集後記にかえて」)
 長年、『吉本隆明資料集』を発行し続けてきた松岡祥男(本書では「解説」を執筆)の勧めで、『ふたりの村上』がこのようなかたち(十六年間で執筆された二〇篇の論稿を収録)で実現したことになる。
 近年の、村上春樹の長編作品が衰退した物語性を表出していることを思えば、『ねじまき鳥クロニクル』や『アンダーグラウンド』に対する根底的な批判を加えて本書を閉じているのは、〈予兆〉を孕んでいたというべきかもしれない。

(『図書新聞』19.9.14号)

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2019年9月 1日 (日)

山田勇男・著『白い夢』の世界へ

 何年か前に、山田勇男が漫画作品を久しぶりに描き始めることになったと聞いた。映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』(2014年)の後に来る作品として、わたしは、待ち続けた。ようやく、届いた『白い夢』のカヴァーを開いてみると、扉には、次のような献辞といっていいものが記されている。

  おお、動け、妄想(ヒメーラ)―。
           埴谷雄高『死霊』

 山田勇男から埴谷雄高の名を聞いたことがあったのかどうか、覚えていないが、こうして『白い夢』を手にとってみると、なんの異和感もない。いや、むしろ埴谷的世界は、ある意味、山田勇男の世界、そのものではないかと確信する。
 開巻、見開き頁に海岸の全景。桟橋に煙をはきながら停泊している船。遠くにも一隻の船が航行している。海岸の手前で少女が自転車を止めている。右側に桶をふたつ担いで歩いてくる男が配置されている。男は何気なく少女の方へ視線を向けているかのようだ。少女はこの画像だけに配置されていて、以後、描かれていない。

  小学五年生のとき/理科の時間に宇宙の/話を聞いていると、まるで/自分が
  地球から宇宙のなかに/放り出されたような感覚になって、/汗ばんだ手で机に
  しがみついたことが/あった。

 このような書き出しから始まるモノローグを鮮烈な陰影の画像に重層化させながら物語化していく山田勇男の『白い夢』の世界に、わたしは思わず惹き込まれていく。それは、かつての“瑠璃シリーズ”とは、幾らか位相の違うイメージを喚起してくれたからだ。賢治的宇宙、足穂的宇宙から超え出て、埴谷的世界、そしてつげ義春的世界へと、山田勇男の視線が凝集していったからだといいたい気がする。
 五頁の三コマの画像、上段右の画像は、一本の樹が細く高く延び、遠くに小島のようなものが描かれ、男が樹を見つめるように立っている。そして、埴谷的言辞。

  虚空。/日の沈んだ/ウツロナソラ。/孤影。//夜に/溶けてゆく。

 上段左の画像は、三本の樹の脇の小道を男が歩いていく。「ふらりを/辿りゆく」には、“傍点”を付しているのは、そこにつげ的世界を山田勇男は託したいからだと思う(註・引用では、傍点は略)。

  虹を渡るように、/ふらりふらり。ふらりを/辿りゆくのだ

 下段は、三本の樹を後方に、“白い道”を男が歩いてくる画像だ。
ここまでの静謐が画像から山田勇男の〈幻視〉は、苛烈化していく。それは、「初めての目暈の年/一+一が二ではない」という確信が喚起されたからだといってもいい(六頁)。
わたしも、長く長く、そしていまだに《一+一が二ではない》という感覚に拘泥し続けている。ロジカルなものへの批判・否定ということもあるが、考え方や大げさにいえば生き方のようなことは、“一+一は二である”というような割り切り方で捉えることはできないものなのだといえるからだ。

  どうして そう思ったのか、/自分でも よく解らない。/総てに対して信じき 
  れ/ない覚えたてのような、/納得いかない不条理/を了解してしまった/のか
  も知れない。

 山田のモノローグでは、そのように語られていく。
 次頁で、骸骨体が、帽子を被った男に向かって、「今晩わ。/ボヘミアの/旦那!」と語りかけて、物語は、《深淵》へと向かっていくことになる。
そして、九頁に林檎が描出される。帽子を被った陰影の男が林檎を手に取って、皮を剥き出してから、急変していくことになる。
やがて、終景(十六面)では、“うじ虫と骰子”だ。うじ虫を手から離し、“ハッハッハッハハハッ”という声とともに、水面へと落とすと骰子となって浮かびあがり、“六ツ目”の面に、中黒が一点付されて、“七ツ目”が現われる。

  とうとう/七ツ目の/骰子が出たぞ、/―無惨な。

 〈七ツ目の骰子〉は、この作品の中心だ。“六ツ目”ではなく、“七ツ目”とはなにか。それが、まさしく、《一+一が二ではない》という山田勇男的宇宙観なのだ。“無惨な”としながらも、可笑しみを湛えていることによって、山田勇男の世界は、“一+一は二である”という現況を解体していくことになるのだ。

  何んといじらしいこと。/悟りとは絶望するちから、か。

6a

※山田勇男・著『白い夢』(虹霓社・A4判・20頁・19.4.3発行)
本体1,500円(税抜)+送料185円。
虹霓社のネットショップ、タコシェほかでも販売。

 

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2019年8月10日 (土)

追悼・梶井純

 梶井純(本名・長津忠)さんが、七月二三日午前三時、虚血性心疾患で急逝された。七八歳。梶井さんとわたしが初めてお会いしたのは、権藤晋(高野慎三)さんが紹介するかたちで歓談した時で、七一年頃だったと思う。梶井、権藤両氏が、石子順造さんと菊地浅次郎(山根貞男)さんとともに、漫画評論誌『漫画主義』を創刊されたのは、六七年だったから、梶井純という名前は、ある種の憧憬感を抱いていたが、太平出版社の編集者の長津忠さんにたいしては、わたしが『性の思想』(六九年刊)、『われらの内なる反国家』(七〇年刊)を既に購読していて、たぶん、そのことを話したような記憶がある。わたしが二十代前半、梶井さんは三〇歳前後の頃になる。
 漫画評論家としての梶井さんは、貸本マンガ(『戦後の貸本文化』・七九年刊)と戦時下マンガ(『執れ、膺懲の銃とペン 戦時下マンガ史ノート』・九九年刊)に関心の方位が向けられてきた。一方で、骨董趣味があり、『骨董紀行』(九二年刊)、『骨董遊行』(九六年刊)の二冊の著書がある。そういえば、梶井さんから骨董について、いろいろ教えてもらったことを思い出す。また、『トキワ荘の時代 寺田ヒロオのまんが道』(九三年刊)という著書が、近々、文庫化の予定で進行中だった。
 つげ義春編『山野記』(八九年刊)に、梶井さんは「古董旅日記」を、わたしは、「高遠行」という論稿を寄せたのだが、梶井さんに、わたしと君の論稿が趣旨から外れるのではないかとつげさんは心配していると思うよと言われて、確かにそうだなあと考えてしまったが、刊行後、特に厳しいことをつげさんから言われることなく、ほっとしたことを今でも覚えている。ちなみに、梶井さんの論稿のなかに、わたしが撮った近江八幡の「家並」と「掘割」の二枚の写真が使われている。
 九九年、権藤晋、三宅秀典、三宅政吉、ちだ・きよし、吉備能人(この筆名は、梶井さんが考えたものだ)諸氏と「貸本マンガ史研究会」を設立。会誌『貸本マンガ史研究』を発行。わたしは会誌には、何度も寄稿させていただいた。近年は、アナキスト詩人・秋山清さんを偲ぶ「コスモス忌」でお会いする機会が多かった。だんだん、足腰に不安があり、奥さんのサトノさんとの同伴が多かったけれど、ここ二年ほどは欠席が続いていた。
 梶井さんは、『秋山清著作集』の「月報」に次のような文章を書かれている。
 「秋山さんは、かけ出しの編集者だったわたしたちにやさしかったように、無知なわかものには、だれにでも心やさしかったのではないか。しかし、いまでは秋山さんを知るわたしたちにはわかっている。そんな秋山さんのやさしさが秘めていたものが、慄然とするような思想的なきびしさを同伴するものであったにちがいないことを。」
 秋山さんをこの文章の書き手の梶井さんに置き換えてみれば、なんの異和感がないことに気づいてしまう。やさしさのなかに、「慄然とするような思想的なきびしさを同伴」していた梶井純(長津忠)さんが、いま、鮮明に浮かび上がってくる。

(『図書新聞』19.8.17号)

 

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2019年8月 5日 (月)

開かれた思考が伝わってくる

 情況誌、思想誌というものが、ほとんど見かけることがなくなったここ数年、いや十年近い時間性を見通してもいいかもしれないが、16年2月創刊の『フラタニティ』は、意欲的に情況的なるものに対峙し続けている。わたしが関わってきた『アナキズム』は、15年5月発行以降休眠中である。『フラタニティ』は創刊以降、季刊ペースを維持して、切実なる情況に視線を投射してきたことを、わたしは驚嘆しながら望見してきたことになる。第14号の、「特集:沖縄を自分の問題として考える」は、表題に感心した。沖縄が置かれている情況や政治的、思想的、歴史的な事象に関して、政治的な運動体の方向性に制約される立場ではなく、まず、自分自身の問題として捉えていくということを、最も切実なことと思うからだ。ひとつだけ例示してみれば、次のようなことだ。
 公明党が自民党と連立政権を組んで二十年になる。それは、かつて非自民の細川連立政権の一角を担っていた公明党とは、まったく別様の政治政党に変容したこと示している。第二次安倍政権になって、皮相な九条改憲を進めることに加担していることを、もはやなんの痛痒も感じないまま、ついには、沖縄の人たちを見放している創価学会=公明党の罪過は大きい。だから、創価学会員の野原義正氏の「三色旗を掲げデニー勝利に貢献」の寄稿は、様々なことを伝えてくれたといっていい。
 わたしたちは、そもそもイデオロギーや考え方、信の有様で生きているわけではない。もちろん、様々な指針の契機として綱領的な思考を根拠にすることを否定はしない。しかし、人と人との関係性は、僅かな重なりでも繋がることができることを忘れてはならない。個々は、みな共通の考え方を確認できるとしても、百パーセント同じことはありえないということを前提にすべきだ。多様な考え方のなかで、繋がることを模索することは切実なことではないかと、わたしなら思う。だから関係性は閉じてはならない、開いていくべきなのだ。『フラタニティ』をみればわかる。多様な考え方に開いていることを。

(『季刊 フラタニティ』No.15---2019.8)

 

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2019年8月 3日 (土)

坂本俊夫 著『おてんとうさんに申し訳ない 菅原文太伝』  (現代書館刊・19.5.20)

 俳優・菅原文太(一九三三~二〇一四)は、その最後の場所も含めて、わたしにとって最も大きな存在としてあり続けている。わたしが十代後半の時、つまり六十年代後半から七十年代にかけて、情況的なるものに切迫しながらも、東映の任俠映画(それ以前の股旅映画や日活の清順映画は再映で観ている)をリアルタイムで観て共感していた。そして、当然のごとく高倉健、鶴田浩二、そして藤純子の有様に魅せられてもいた。だが、七〇年三月に封切られた『緋牡丹博徒 お竜参上』(監督・加藤泰)での、青山常次郎役の菅原文太は、静謐ながらも、鮮烈に今戸橋の上でお竜(藤純子)に語りかけていく姿が、わたしには強く刻まれてしまったといっていい。
「やはり川はあるんですよ。クニです。北上川という川に。その川上の貧しい小さな村です。山も見えるんですよ。岩手山が。その山の見える林の陰の墓地におやじとおふくろが眠っているんですよ。」
 妹の亡骸をそこに埋葬するために、クニ(故郷)へ帰る青山とお竜の別れのシーンは、ひとつのラブシーンではあるが、わたしには、俳優・菅原文太の静かなる宣明とも思えた。そこでは、宮城県出身の菅原文太が東北へと視線を馳せるイメージを秋田県出身のわたしが共振していったからかもしれない。この青山の役は、高倉健にも鶴田浩二にもできない。菅原文太だからこそできるのだ。高倉健の二歳年下の菅原文太が以後、任俠、実録といったジャンル(境界)、さらには硬質、破天荒といった固定化された役柄を無化していくかのように、東映映画の秀作群を牽引していったとわたしは捉えている。
 本書では、『緋牡丹博徒 お竜参上』について、「『ぼく自身は、ひとがいうほど残っていない』と振り返る。『菅原文太が菅原文太として生きていないという感じが、いまだにぼくはしている』というのだ」と記述されていく。もちろん、あの役は思い入れのある役だったなどと語ったら、それは俳優としての有様を否定することになる。加藤泰作品の初出演は、『男の顔は履歴書』(松竹・六六年)の朝鮮人ヤクザの役で、静謐さとは程遠い役柄だった。加藤泰、最後の劇映画作品『炎のごとく』(東宝・八一年)の主役は菅原文太である。
 本書によれば、菅原文太にとって「印象深い作品」として、『現代やくざ 血桜三兄弟』(監督・中島貞夫、七一年)を挙げている。
 「『現代やくざ 血桜三兄弟』では、単なる演じ手としてだけでなく、程度はわからないが、意見を言って内容に関わることができた。中島とそういう関係ができていて、文太はそのような映画づくりに意欲を示していたのだった。だから、『緋牡丹博徒 お竜参上』では関わったという感が薄かったのである。」
 深作欣二は三歳上、鈴木則文とは同年、中島貞夫は一歳下ということで、同志的な連携が可能だったといえる。わたしは、中島貞夫との作品なら、『木枯し紋次郎』、『木枯し紋次郎 関わりござんせん』(七二年)と『総長の首』(七九年)を挙げたい。
 本書では、父親の事がかなり詳しく書かれていて、私には、未知のことが多かった。母親のことも含めて、妹の事にもう少し触れてくれればと思わないではない。しかし俳優・菅原文太の足跡が、さまざまな資料を丹念に辿りながら、見事な〈像〉を描出していく。
 本書の中で、最も印象深いのは松竹時代のことで次のように記述している箇所だ。
 「暇なときは、よく動物園に足を運んだ。『孤独をまぎらわすために檻の中のチンパンジーやライオン、クマなどを見ては独り言を言っていた』のである。/檻の中にいる動物たちを見ながら、文太は、『こいつらは一生、檻の中で生きるのか。その点、オレは幸福だ。まだまだ自由があるな』。それに比べると、『人間の孤独感なんかたいしたことないな』と思って、孤独感から立ち直っていた。」
 もちろん、本当に孤独感から解放されることは、難しい。それでも、そこで立ち止まるのではなく、少しでも歩を進めることは意味がある。動物たちに比べたら、「人間の孤独感なんかたいしたことないな」と思う菅原文太の方位に、わたしは共感する。人間も動物も孤独な生き物だ。だが、少しだけ違うことは、大きな群れ(関係性)でなくても、小さな群れ(関係性)で、慰藉されるのが、人と人の関係性といえるからだ。
 「文太が言う『おてんとうさん』は、『お天道様が見ている』で使われるようなすべてを見通す存在という意味も込められているかもしれないが、楽なことだけを、自分の楽しみだけを安穏と生きていったら、これまで有形無形に世話になってきた、任俠映画風に言えば、『世間のみなさんに申し訳ない』、あるいは、今日まで生かしてくれた社会に対して、何かしなければ申し訳ないという思いが、文太にはあったのだろう。」
 著者は、そう述べながら、「『おてんとうさん』は、まず『世間の人』なの」だと述べていく。わたしたちが、自分自身も含めて大衆とか民衆と見做しているものは、茫漠としている。「世間の人」もそういうことになるかもしれない。だから菅原文太の視線の先にあるのは、クニ(国家)ではなく、クニ(故郷=共同体)だと思う。沖縄の人たちにとって、本当のクニ(故郷=共同体)を手にするために、最後まで菅原文太が随伴したのは、青山常次郎の故郷への思いと通底していくのではないのかとわたしなら思いたい。

(『図書新聞』19.8.10号)

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2019年6月 8日 (土)

村松武司 著『増補 遥かなる故郷―ライと朝鮮の文学』  ( 皓星社刊・19.1.29)

 詩人、評論家、編集者である村松武司(一九二四~九三年)のことは、旧知の暮尾淳と黒川洋から、しばしばその名を聞いていた。どこかですれ違いのかたちで接近していたかもしれないが、わたしは一度も会ったことがないと思い続けていた。だが、本書の年譜に、八九年一月、秋山清追悼会にて司会を務めると記されていて、そうかあの時の司会者が村松武司だったのかと、思い起こしたことになる。村松は、秋山清と、五六年一一月、石川三四郎の葬儀の際が出会いのようだったから、長い時間を共有していたことになる。
 京城(現・ソウル)で生まれた村松は、四三年、京城中学卒業、四四年、召集され朝鮮・満州・ソ連国境に従軍。四五年一〇月、「一家で下関へ引き揚げる」、二十年以上、朝鮮での暮らしをしたことになる。村松は、自らを植民者と名乗る。引揚者、帰国者ではなく植民者と立ち位置を表明する村松の一貫した態度は、ライと朝鮮という場所に象徴されていく。
 「現在までの他の多くのライ文学に一貫して流れている思想は、さまざまな文字でありながら、二つの言葉に集約されるような気がする。すなわち、自殺と望郷である。いまようやく、自殺が自らの文学から消えようとしている。残るのは望郷の一語。日本文化の近代化路線で放棄され続けてきた言葉である。むしろ近代の文化は、故郷を捨てる、『脱郷』を敢えて行うことによって獲得されたといっていい。(略)過去において、放棄され、脱出された側のアジア地域の人々は、わたしたち日本の弱さと矛盾を知らないはずはない。きわめて覚めた眼で、わたしたちを見ているにちがいないのである。」(「脱郷と望郷」・七七年)
 不治の病であり感染するということで、隔離政策をとられたライ患者たちは、自殺を考えるほどに未来は閉ざされていた。故郷から断絶されて遠く離れた異郷の地での療養生活を強いられるということは、特に半島出身者には、確かに「脱郷」に違いない。しかし、村松は安直に共感という視線をとらず、ただ、自分が立っている場所を問いつめていく。「日本の弱さ」、つまりそれは、這い出せずにいる「暗渠」といっていい場所なのだ。
 本書と同じ書名で、七九年、皓星社創業時の最初の出版ということで刊行された。著者にとっては生前、唯一の評論集であった。没後、九四年に暮尾、黒川の協力を得て、『海のタリョン』が出される。二冊の著作を再編集されたかたちで、皓星社創業四十年の今年、村松武司の批評集成が結実したことになる。そして、わたしにとっては、三十年という時の流れのなかで、ようやく村松と再会したといえる。
 「この時代、彼らは『日本人であらねばならない朝鮮人』であった。彼らの生活――風俗・礼儀・言語・歴史・政治経済・商工業、すべての生活において、日本はつねに外側にあり、彼らは不思議なことに外側の一部分として生存しなければならなかった。彼らは自分の生活および生き方を意識するときに、外側にある日本という国家にみずからを貼りつけねばならない。そういう『皇民』であった。(略)わたしたち日本人の『皇軍』の過去は解け、朝鮮人『皇軍』の過去は解けない。」(「戦前三〇年、戦後三〇年」・七二年)
 「ライを切りすてることによって、日本はライをのがれてきたからである。/やはり、ライはアジア・アフリカなのであろう。しかしそのとき、非ライ者、非アジア・アフリカという立場が何を意味するのであろうか?」(「ライの歌人」・七三年)
 「日本人の『皇軍』の過去は解け、朝鮮人『皇軍』の過去は解けない」とする松村の視線は、日本人の皮相さを突いているのだ。例えばここ一、二年の情況を見るだけでもいい。醜態は相変わらず不変に持続させている。つまり解決済みの日韓問題を、また、韓国側は蒸し返してくると批判する政府・与党、保守メディアは、「日本はライをのがれてきた」のは、脱アジアから非アジアへと、その足跡を刻んで来たことに通底していく。松村は朝鮮植民者という立ち位置を手放すことはない。それは、七九年版『遥かなる故郷』の「あとがき」で、「ライと朝鮮という、二つの中心をもった楕円形が、じつはわたしにとってほぼ円に近くなっている。つまり二つの中心は、ひとつと思っている」と記していることに共振していく。過去の時間は、現在という時間に重層化する。あるいは現在という時間は過去という時間を見通すことができるといいかえてもいい。過去も現在もひとつの時間として繋がったものだからだ。
 村松にとって自分自身もライも朝鮮もひとつの円のなかにあることを自覚して生き抜いたことになる。それが、植民者としての真摯な有様を示しているのだ。

(『図書新聞』19.6.15号)

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