2021年12月 4日 (土)

榎本了壱 著『幻燈記 ソコ湖黒塚洋菓子店』          (而立書房刊・21.7.17)

 本書の帯に、〝水と螺旋の寓話集〟と記され、中表紙を開けると表題の右側に〝セルロイドフィルムが カタカタ回って映し出す 明滅幻燈機のあやかし譚 奇想迷宮異界の十七篇〟の文字群が置かれている。そもそも書名の、〝幻燈〟にわたしの視線は引き寄せられていたから、〝寓話〟とともに、高ぶる思いを抑えながら本書の頁をめくっていったことになる。十七篇の作品には、著者による挿画(一作だけ、表紙デザイン担当の坂口真理子との合作)を配置し、巻頭に置かれ、副題となっている「ソコ湖黒塚洋菓子店」のみ書き下ろし作品となっている。他の十六篇は、『かいぶつ句集』という定期刊行誌に発表されたものに加筆、再構成したと巻末に記述されている。
 「瀧街の人々はソコ湖で水遊びしたりはするものの、決して中程にある湖穴には近づこうとはしない。ここに入るのは故人ばかりで、棺舟に乗せられてレイクホールに送り出される水葬儀を、この街では湖穴斎事と呼んでいる。だから瀧街には墓地がない。」「ソコ湖黒塚洋菓子店は、ソコ湖の湖畔にあった。黒塚緒似女という83歳になる老婆が珍しく経営する洋菓子店である。」(「ソコ湖黒塚洋菓子店」)
 そして、なぜか「ヘンゼルとグレーテルがソコ湖畔にやって来」て、「たまたま見つけた」ソコ湖黒塚洋菓子店に、「潜り込んだ」。黒塚のお婆さんとヘンゼルとグレーテルとの不思議な物語が語られていく。だが、この作品の最後の三行は、次のように述べて閉じられていく。
 「ヘンゼルとグレーテルは、お父さんと継母の4人で出かけた瀧街シネコンで、自分たちと黒塚お婆さんが登場する「ソコ湖黒塚洋菓子店」という奇妙な映画を、ポップコーンとコーラを飲みながら見入っている。」(「同前」)
 わたしが、惹かれるのは夢か現実かといった二律背反的なことではない。〈生〉と〈死〉の境界を無化することはなにかという問いに繋がることに関心があるのだ。あるいは、無化といった直截的な捉え方ではなく、ソコ湖には湖穴があるという設定によって、「瀧街には墓地がない」というイメージをいかに捉えるかということに繋がっていくかもしれない。
 だから、二百年以上前の『グリム童話』のなかの、「ヘンゼルとグレーテル」が、ソコ湖に現われる意味を問いたいとは思わない。むしろ、黒塚お婆さんは、「ソコ湖のレイクホール冥界管理人」であることに物語の中心はあるといいいたい。
 「玩具レンズの向うで粗悪な光源がパラパラまばたき、暗い幻燈機の明滅は、切りなく落下するパラフィン紙を映し出している。(略)ミヤザワケンジの電信柱男が傾きながら、送電してくる青い幻燈機の回転音だろうか。」(「黒いソンコ」)。「マキオは慌てて歩を早めて径を行くと、少女は同じ姿勢のまま径の中程にいた。しかしマキオとの距離が離れたわけでもないのに、小さくなったように見えた。その分背中の瘤が大きく見える。カメラの液晶画面を覗いているうち、また少女の姿は消えてしまった。」(「巻貝圖象学」)。「春の芽吹きの精気にやられてしまったのか、覚醒出来ないでいる幻燈機の曖昧な映像の中で、やたら暗くて眩しい世界に目を細めながら、確認しがたい奇体な獣たちの動静を窺う。」「ちょろの鰹節削り箱が、笑いながら瓢を口元に運んでくる。森の木立の葉陰の中の多くの奇体な影がざわざわ揺れ出し、それは大きな風音となって、私の全身に降(ふ)りおりてくる。」(「ちょろの鰹節鬼」)。
 「幻燈機の明滅」、「少女」の背中の瘤と「カメラの液晶画面」、「幻燈機の曖昧な映像」といった「幻」の様相は物語(寓話)を豊穣な装いへと醸成していく。異形なものであっても、そこには美醜の位相を無化していくことを漂わせていく。だから、〈幻燈〉記は鬱屈している現在を解きほぐしているといっていいかもしれない。
 一九七五年、本書の著者・榎本了壱は、萩原朔美とともに、雑誌「ビックリハウス」を創刊したことは、よく知られている。わたしは、店頭で「ビックリハウス」を手に取って見た記憶はあるが、内容的なことは、ほとんど覚えていない。関心の方位が交錯することがなかったからだといえば、やや不遜ないい方になるだろうか。いまこうして、榎本了壱が紡ぐ寓話集に接して、サブカルチャーがメインカルチャーを凌いでいく時代を疾走したことが、いい意味で投射しているといいたい気がする。

(『図書新聞』21.12.11号)

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2021年10月16日 (土)

大野光明・小杉亮子・松井隆志 編               『社会運動史研究 3 メディアがひらく運動史』(新曜社刊・21.7.15)

 本号の特集は、「メディアがひらく運動史」である。「社会運動は、ビラや機関紙、ミニコミ、映画、絵画、音楽、雑誌など、多様で個性的なメディアを生み出し、その存在や主張を社会に示し、体制的な主流メディアには対峙してきた歴史を持つ」と述べながら、「社会運動とメディアのより多義的な関係性を歴史的に再検討する」と編者たちは特集の意図を示しながら、「運動の中で生み出されたメディアの集積は、それ自体が別の運動的な営みにつながっていく」と記していく。確かに、それが例えビラや機関誌紙であったとしても、内包されている言語の集積は、思念の有り様を潜在させているといっていい。
 巻頭に配置されたのは、清原悠「出版流通の自由への模索――初期模索舎における自主流通・社会運動・ジェンダーへの問い」である。七〇年一月に開店した「模索舎」を、もちろん、わたし自身も利用していたし、関わっていた機関誌や刊行書を委託していた。ただ、それ以前からの神田ウニタ書房、同時期の国分寺アヴァン書房、吉祥寺ウニタなどがあり、果たして模索舎は継続できるのかと疑心暗鬼であった。だが、創設者の一人、五味正彦(敬称略)と面識はあるが、本人はわたしと違って〝明るい人〟だった印象(もちろん、わたしの勝手な思い込みだ)があるから、難局を乗り切っていくだろうとは思っていた。
 「様々なミニコミを一ヵ所で売買交換―流通を可能とする模索舎という空間自体も重要であった。特に対立する諸運動の情報が模索舎という同一の空間に留め置かれたという点は、特筆すべきだろう。新左翼セクト間の対立や、ウーマン・リブのグループ同士の確執は模索舎にも持ち込まれ、敵対するグループの発行物を置かないように圧力をかけられたこともあったが、模索舎は「出版流通の自由」の理念を押し立てることでそれらの介入を許さなかった(略)。」
 わたしは、その頃の模索舎よりは、ここ十四、五年の現在の模索舎に親近感を覚える。運動関連の紙誌、書籍が必ずしも売れ行きがいいわけではない情況の中で、遙か年少の人たちによって運営されている模索舎の今後を期待したいし応援したいと思っている。
 三橋俊明「日大闘争は、何を「経験/記録」したのか」では、日大全共闘書記長の田村正敏と七三年に、「「無尽出版会」を設立して『無尽』に自らの経験を執筆し、日大闘争の「記録」づくりに取り組み」、四号まで刊行し、以後の「記録」づくりをめぐって述べていく。わたしが、当時、『無尽』創刊号に関心が向いたのはいうまでもない。
 「創刊号は巻頭に私の拙文が置かれ、秋田明大とアナキスト詩人秋山清の対談「何が続くか」をトップに、田村正敏の「出発することの意味(1)」、山本義隆の「加藤一郎公判調書」などを掲載して刊行された。」
 秋山は、日大予科入学という経歴はあるが、なによりも田村の熱心な誘いが大きかったと思われる。
 わたしは、日大闘争、東大闘争等を、全共闘運動といった総称で語られることに、幾らか逡巡する思いを抱き続けてきた。三橋の論稿のなかに、次のような箇所がある。
 「日大闘争の行方は不透明になったが、バリケード生活に定着していた「愉快な時間」は維持され変わっていかなかった。日大闘争の方針や展望は重要だったが、私には自らの意思と力で手に入れた「愉快な時間」とでも名づけたい、自由で解放感に溢れた生活時間が何よりも大切だった。この「愉快な時間」を、いつまでもいつまでも持続させたかった。」
 わたしは、この文章に接して、いまだからいえる感慨がある。三橋が「時間」という認識なら、わたしは、「関係性」という感覚があったと思い返している。「愉快な関係性」と、いまだからいえるのかもしれないが、一人一人の考え方が違っていても、何かわかりあえる関係性というものが、生起していたことを思い出すのだ。
 最後に、古賀暹インタビュー「雑誌『情況』の時代――火玉飛びかう共同主観性のなかで」に触れておきたい。わたしは、創刊して一年後に『情況』の事務所を何度か訪れている。たんに、所属していた大学新聞に出す広告の版下を受け取りに行ったに過ぎない。その後、七三年頃、友人と創刊した雑誌への広告の件で何度か訪れているが、古賀氏と話した記憶がない。もっぱら柴田勝紀氏と会話をした。今回のインタビューで二人の関係性のようなことが窺い知れたといっていい。
 古賀氏は、七〇年前後の『情況』誌を次のように述べている。
 「表面的にはセクトの方は「政治闘争」を主眼に考え、ノンセクトの方は学内のことを主体に考えるから。しかし、それが、相互に刺激し合ってきたから、あの運動は発展してきたというのもまた事実なんですよね。問題はこの二つが交錯する場を構築するにはどうするかということだったわけ。『情況』は思考が交錯する「場」だったから、ある程度この二つをつなぎ合わせることができた。しかし運動の場ではできなかった。両者は次元が違うんだね。」
 今回の特集に拘泥して述べれば、〝メデイアがひらく運動〟というベクトルはありうると思う。つまり運動自体における共同性を開いていくことは、可能だと思う。だが、セクトの運動が閉じていく方向にある限り、永続的な交錯はありえないということになる。
 他に、秋山道宏他「社会運動とメディアの連環」、熊本一規「闘争終盤に東大全共闘になった」等に着目した。

[付記]本書には、李美淑「境界を越える対抗的公共圏とメディア実践――画家・富山妙子の「草の根の新しい芸術運動」を中心に」という力論が収載されている。富山妙子は八月一八日に逝去された。享年九十九。

(『図書新聞』21.10.23号)

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2021年10月 1日 (金)

『虚無思想研究』20終刊号の発刊

 『虚無思想研究』は、八一年十二月に創刊。『虚無思想研究』編集委員会の発行で、編集長は大月健。年に一、二冊刊行からやがて間隔を空けての刊行が続き、第十九号が〇五年二月に発行された後、休刊となる。大月健は個人誌『唯一者』を九七年四月に創刊し、第十二号を一二年五月に発行。だが、一四年五月十七日、大月健は逝去。『唯一者』は、一四年十月に刊行された第十三号が終刊号となった。本誌には、『唯一者』総目次が挟み込まれていて、そこにはわたしの二人の友人の名前があった。第二号にちだきよしの名前があり、驚いた。第十二号は、うらたじゅんから送られてきた。二人とは、もう会うことは出来ない。
 本書は、十六年後に終刊号として刊行されたことになる。辻全集未収録作品を再録し、大月が創刊号に発表した「マックス・スティルナーと辻潤」をはじめ、寺島珠雄の「辻まことさんとの断片」など、六編が再録されている。さらに巻末には横組みで大月健「辻まことからみた父親 辻潤」、下平尾直の大月健『イメージとしての唯一者』の書評など他誌紙で発表された論稿を収録している。
 わたしは、幸徳秋水や大杉栄より、辻潤に関心があった。それは、十代後半(時期的には六十年代後半)に、秋山清の『ニヒルとテロル』に接したからだ。
 「巨大な国家権力やそれを支配する組織、これらの、到底及びもつかぬ相手に手袋を投げて、辻は退却したのである。自分の滅亡を覚悟して束の間の惰眠をむさぼることに意義を見いだしたのは、勇ましい改革者たちの夢を軽蔑したのではなく、その最大のものは、自分自身であったであろう。その自覚が辻潤の一切の生き方を支配したと私には見える。」(「ニヒリスト辻潤」)
 辻潤の死は、〝餓死〟である。そのことになにがしかの意味を、わたしは見出したいとは思わない。ただ、辻潤は自分自身を凝視続けていったといいたいだけだ。
大月は、次のように述べていく。
 「(略)「唯一者」が「唯一者」として生きる時、それなりに似た部分が生ずる。「唯一者」は「万物は己にとって無だ」といいきることの出来る者である。国家を否定し、宗教を否定し、そして、社会をも否定する。こういう「唯一者」が現実の世界と関わりをもつ時、それは悲惨な生涯を送るしかない。しかし、「唯一者」自身にとって、それが悲惨と意識されているかどうか判らない。自分自身を生きる、それがどのように過酷であろうとも後悔することはない。」(「マックス・スティルナーと辻潤」)
 確かに、「後悔する」ことこそが悲惨なのだ。だから例え重苦しい様態であったとしても、あるいは小さな通路かもしれないが、そこから明るい兆しが見えるときがある。いやあるはずだとわたしなら思い続けたい。

※発行・浮游社[〒八一四-〇〇二三福岡市早良区原団地十一棟一〇一号室(浮游庵)・郵便振替00970-6-47825・定価二〇九〇円(税込)]

―――月刊情報紙『アナキズム』第十九号・21.10.1

 

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2021年8月 1日 (日)

平手友梨奈試論

 平手友梨奈とは誰か。いや、具体性を帯びない言い方をすれば、「何か」と言ったほうがいいかもしれない。「何か」とは、〈有様〉ということを含むとして、まずそのことから、分け入ってみたい。
 平手友梨奈は、一五年、欅坂46の一期生オーディションに乃木坂46のファンであった兄に勧められて応募し、八月、合格。平手は、〇一年六月生まれだから十四歳、中二だった。一期生のなかでは最年少である。その頃の映像を見ると、顔はふっくらとして、よく笑っている。プロデューサーの秋元康はなぜか、最初から平手をセンターに置き、AKBグループや乃木坂とは明快な差異化をし、激しいダンスと意思表示を込めた苛烈な詞を乗せた歌を唄わせていく。安倍晋三に接近し親近なる関係を築いた秋元康とは思えない詞の世界なのだ。
 秋元は、八五年、アイドルグループのおニャン子クラブをプロデュースした。その解散後も、いくつかのグループを作ったが、成功していない。二十年近い年月を経て、〇五年、AKB48を登場させる。わたしは秋元の持っている才能を評価していたから、必然的にAKBに関心を抱くことになる。その後、AKBをいくつかのグループに派生させていきながら、坂道グループを表出。一一年に立ち上がった乃木坂46は白石麻衣(二〇年、乃木坂を離れる)を中心にして、独走していく。AKBグループは乃木坂の後塵を拝するようになる。
乃木坂46以後に位置づけられる欅坂46は、平手の存在、有様を据えて異彩な展開をしていく。
 デビューシングル『サイレントマジョリティー』(一六年四月)は、ややおとなしいが、AKBグループや乃木坂46に比べれば斬新さは感じられた。上半身を動かし、列の真ん中を手前に歩いてくる平手は微かな笑顔を瞬間、垣間見せながらも、動きには乱れがなく、堂々としている。まだ、十五歳になる前だとは、とても思えない。歌詞のもつ世界が、平手の登場によって、いい意味で変容したといえる。それは手の動き、顔の表情、身体から発せられる鮮鋭さによって、秋元の考えを超え、リアルなものとして、表出されている。
 『サイレントマジョリティー』リリースの一年後、『不協和音』(一七年四月)では、さらに苛烈化していく。拳が突き出される。平手の表情が違う。前髪が額を覆うようにしている。視線の鋭利さが違う。拳を突き出したまま立っている平手の所に他のメンバーが駈けてきて集まる。
 「僕はYesと言わない/首を縦に振らない/まわりの誰もが頷いたとしても/僕はYesと言わない/絶対   沈黙しない/最後の最後まで抵抗し続ける//叫びを押し殺す/見えない壁ができてた/ここで同調しなきゃ裏切り者か/仲間からも撃たれると思わなかった/僕は嫌だ」(作詞:秋元康)
 平手だけが突出してダンスの苛烈さが際立っている。そして、「僕は嫌だ」と叫ぶ平手の声が耳から離れない。時空間を一気に飛翔したかのようにわたしには感じられた。香港の活動家・周庭が留置所で何度も『不協和音』を歌い続けたと報じられたのは、昨年の八月のことである。
 後年、欅坂のキャプテン・菅井友香は、次のように語っている。
 「『不協和音』の時、目を合せてくれなかった。」「いままで出会ったことのない天才的な子だから、感情が豊かだから、人の心とか、空気感を敏感に察するのかなと思います。」(『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』)
 菅井友香は、平手より六歳年長だから、平手を冷静に見ていると思うが、平手が抱え込んだものまでを見通すことはできないだろう。『不協和音』の平手のダンス表現は、他のメンバーとは明らかな次元の違いを漂わせている。視線はカメラの方を見ているようで、実はその先を凝視している〈意思〉を感じないわけにはいかない。その先には何があるのか、混沌、混乱、あるいはアナーキーか。平手以外の他のメンバーからは残念ながら、なにかを感じ取ることはできないのだ。
 『不協和音』から一年後、『ガラスを割れ!』(一八年三月)を放たれる。ここまでくれば、平手は行き場がなくなるのではと、わたしなら思わないわけにはいかない。
 「川面に映る自分の姿に/吠えなくなってしまった犬は/餌もらうために尻尾振って/飼い慣らされたんだろう/(略)/今あるしあわせにどうしてしがみつくんだ?/閉じ込められた見えない檻から抜け出せよ//Rock you! /目の前のガラスを割れ!/握りしめた拳で /やりたいこと やってみせろよ/おまえはもっと自由でいい 騒げ!」(作詞:秋元康)
 映像で見る平手を、わたしは〈少年〉のようなイメージで捉えるつもりはない。むしろ、〈性〉を超えた〈有様〉として見做したい。そこではなにが胚胎しているのか。苛烈さを、単に「ラディカル」なこととしてしか受け取れない人たちには見えてこない、この先を見通す確かな潜勢力こそがそこには潜んでいるのだ。
 だから、平手が、今後、わたし(たち)に見せてくれるものは、まったく未知の〈世界〉かもしれない。
 だが次のような応答に接すれば平手の欅坂以後の〈有様〉と〈立ち位置〉のようなものが伝わってくる。
 「自分は何事もそうなんですけど、自分一人で決めることってほとんどなくて、(略)自分の意見は持ちつつ、周りの人の意見を聞いた上で決めることが多いです」「何を伝えたいか、何を届けたいか、というのは毎回考えていますね」「最終的にあるゴールや目的をちゃんと把握してからじゃないと私はやれないです」(『朝日新聞』二一年五月二二日付夕刊)
 二十歳になった平手友梨奈は、間違いなく〈個〉への確信と〈共同性〉への共感力を獲得しつつあるように思われ、関心が尽きることはない。

―――月刊情報紙「アナキズム」第十七号・21.8.1

 

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2021年7月 1日 (木)

『試行』について―――「戦後アナキズム紙片」

 わたしが、アナキズムという考え方に関心を抱いた契機は一人の小説家との出会いだった。高校一年生の後半、高橋和巳の『憂鬱なる党派』に接した。現代小説を読むことはほとんどなかったから、大きな衝撃を受けたことになる。遡って、『悲の器』、『堕落』(「文藝」掲載)、『散華』などを読み、六六年秋、『邪宗門』上下巻を一気に読み通し、混沌とした思想(観念)の領野をめぐっていったことになる。高橋和巳を通して、埴谷雄高を知り、高校の図書館にあった近代生活社版『死霊』を借りて読み、後に、『幻視のなかの政治』へ辿り着き、明確にアナキズムの内奥を見通すことになる。その後、六八年秋に刊行された吉本隆明の『共同幻想論』は、わたし自身が国家や権力の問題を開示していく確定的な論拠となった。この時に至っても、秋山清や内村剛介、大正時代の労働運動社とギロチン社の面々、そしてバクーニンには惹かれたが、それ以外のアナキズム的な思想家、運動家には関心がなかった。
 さて、紙片(紙誌)について述べてみる。十代後半から、欠かさず購読して読んでいたのは、『日本読書新聞』、『映画芸術』、『無名鬼』、『現代の眼』、『ガロ』、そして『試行』だ。『試行』は、六〇年安保闘争の翌年、谷川雁、村上一郎、吉本隆明の三人が創刊同人として発行し、十号で同人制を終え、吉本単独編集の雑誌となる。七四号(九七年一二月)で終刊。
 ひとつの時間を区切って誌面を見てみる。二六号(六八年一二月)から二八号(六九年八月)までの三号には、宍戸恭一「三好十郎」(六回から八回)、内村剛介「コングロメラ・デ・リュス(九)」、吉本隆明「心的現象論」(一二回から一四回)などの連載があり、毎号巻頭に配置されているのが、「〈情況への発言〉」である。内村剛介「呪縛の切断」、内村剛介/吉本隆明「二つの書簡」、吉本隆明「書簡体での感想」。特に「二つの書簡」で展開された吉本の羽仁五郎批判は、十九歳のわたしにとって痛快で刺激に満ちていたことを忘れることができない。
ーーー(月刊情報紙「アナキズム」第十六号ー21.7.1)

 

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2021年6月19日 (土)

能登恵美子 遺稿集『増補 射こまれた矢』           ( 皓星社刊・21.3.7)

 本書の著者は、八五年、皓星社入社。『海人全集』、『ハンセン病文学全集』の編集を担当。一一年三月七日、逝去。享年四九。一周忌に刊行した遺稿集の増補版である。「二〇〇一年五月二十一日から二〇〇二年七月二十四日まで、能登恵美子が皓星社ホームページの「ハンセン病文学全集編集室」内で記していた編集日誌を、増補に際して収録した」と記されている。本書のほぼ半分に近い頁数を占める「編集日誌」は、真摯に関わっている『ハンセン病文学全集』刊行に向けての日々の心情を吐露していく。読みながら、切なくなってくる。
 「今回の粗選で、頭を抱えていたジャンルを順に示すと、短歌の選、俳句の選、詩の選だ。(略)短歌は、編集協力者でもある冬敏之さんに頼んだ。しかし、俳句[と詩]は誰に頼もうかと悩んでいたら、藤巻さん(引用者註・現、代表取締役会長)が詩人の清水昶さんに頼んでくださった。/清水さんは、皓星社のほうへ来て作業をしてくださるということで、今日から一緒にお仕事です。」(二〇〇一年六月四日)、「毎日清水さんは通ってきてくださる。梅雨に入ったようで、ご足労おかけいたします。」(同年同月七日)
 詩人、清水昶が、〝仕事〟で皓星社に行っていたのは本人から直接聞いて知っていたが、このように書かれて、わたしは、やや安堵している。しかし、後段の方で、清水昶が、「公明新聞」〇一年十一月四日付日曜版文化欄に発表した「ハンセン病文学の彼方へ」という文章に対して、能登は厳しく批判している。清水の錯誤した発語が確かに多々散見されているが、能登が最も強く異を唱えていたのは、「ハンセン病の長い歴史において記録文学として貴重な価値を持つ」という捉え方に対してだった。
 「私は文学者ではありません。おこがましいとは思いますが、清水さん。記録文学という言い方が私は良く理解できません。「私がこの場所で、私が生きている時代の中で、生きていることをありのままにしるす(刻む)」ことは文学ではないのでしょうか。」(〇一年十一月七日)
 清水昶は、能登の数か月後(五月三〇日)に逝去。
 「『ハンセン病文学全集』は文学全集として成立するのか。と思われる方々も多いでしょう。ある意味、『ハンセン病文学全集』が成立するという背景がハンセン病が抱えている問題点ともいえるのではと思います。明石海人の有名な『白描』に「(略)――深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない――そう感じたのは病がすでに膏盲に入ってからであった。(略)」とあります。人はなぜ物を書くのでしょう。海人は病を得、病み重ねてゆく。不治といわれた病と闘いながら書きぬきました。」(「みみずく通信」創刊準備号…掲載日不詳)
 能登は、編集者ではあるが、ここで明石海人の言葉の表出へ、同化していくかのように述べていく時、彼女もまた表現者となってハンセン病文学を体現していこうとしているといっていい。それは、記録を超えた文学という表現の水位へと言葉を刻んでいることになるのだ。
 「能登は、二〇〇三年の九月二九日うつ病と診断されてから「むくろじ」と名づけたインターネットの掲示板を開設し俳句を書き続けた。その句は千句以上になるが折に触れて改作し、自選句としてまとめていた」という。何句か引いてみたいと思う。
 「無患子やいのち絶つなと秋の声」「寒冷や谺となりて魂が」「ゆっくりと色無き風を抜け歩く」「枯れたなら木枯らしとなり雪花となれ」「いのちの底から眺める冬の月」「眼底の底の底の白魚よ」「なれぬならただ一群の鬼芒と」「だれかれに与たうる命たれの物」「骨片をまきし谷底雪ましろ」「生きようとする心ありトマト切る」
 けっして、心地よく読める作品とはいえないが、作者の心象を少しでも理解したいと思わせるものを選んだつもりだ。懸命な眼差しとでもいえることが、この短い詩型に満ちている。分っているよとひと言、いいたい欲求を抑えることができない。
 本書の「序文」として鶴見俊輔(一九二二~二〇一五)は次のような文章を寄せている。
 「ハンセン病のことに打ちこむ人は、矢を射こまれたようにこのことに打ちこむ。英国から熊本に来て、全財産をこのことに投じ、生涯を捧げたリデルがおそらく最初の人で、その後、日本人からそういう個人が現れた。能登さんは、そういう人の一人だ。/この矢を抜いてくれと叫びたいときはあっただろう。しかし、矢を抜いてもらわない生涯を生きた。」
 確かに、「ハンセン病のことに打ちこむ人は、矢を射こまれたようにこのことに打ちこむ」のかもしれない。書名の「射こまれた矢」は、この鶴見の一文から採られたはずだ。しかし、「矢を抜いてもらわない生涯を生きた」は、わたしは鶴見のいい読者ではないから、わからないが、少しきついいい方のように思える。
 俳句作品を読む限り、けっして能登恵美子は強い人ではない。関係性を拒絶するような独歩の人でない。人と人の関係性のなかにひとつの慰藉を求める人であると、わたしならいいたいと思う。

(『図書新聞』21.6.26号)

 

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2021年6月 1日 (火)

『侯孝賢と私の台湾ニューシネマ』を読む

 九〇年に公開された映画『悲情城市』は、わたしが初めて観た台湾映画だった。冒頭、ヒロヒトの玉音放送が延々と流れるなか、出産間近で苦しむ妊婦の声がかぶってくる。そして、男の子が産まれましたと産婆の声。画面は基隆港が映し出され、S.E.N.S.の鮮烈な音楽が流れる。物語は台湾の、つまり、日本の敗戦後、東アジアの混沌としていく情況を映し出していくことになる。この作品を契機に、わたしは侯孝賢[ホウ・シャオシェン]作品を、それ以前のもの、それ以後のものを観てきたことになる。また、侯孝賢(四七年~)の盟友、エドワード・ヤン(四七~〇七年)の『牯嶺街少年殺人事件』(九二年公開)は、さらなる衝撃を受けた作品だった。台湾ニューシネマとは、この二人の映画監督が切り開いた領野だった。本書の著者、朱天文[チュー・ティエンウェン](五六年~)は作家であり、脚本家として、侯孝賢作品の『風櫃の少年』(八三年)から『黒衣の刺客』 (一五年)までの作品に参加している。
 「まえがき」で、「三十九年前のこと、私は初めて侯孝賢に出会った」と朱は述べている。会った場所は、明星珈琲館の三階であった。表紙に配置された写真は同じ場所での、翌年、『冬冬の夏休み』の脚本をめぐって話しているところだ。撮影者は、エドワード・ヤンだという。
 「もし『風櫃の少年』が雰囲気と趣で、ドラマというより散文的な映画であるなら、『冬冬の夏休み』はひたすら語り続ける小説的な映画だ。『風櫃』のすっきりして味わい深い個人主義的なスタイルから、『冬冬』になると、侯孝賢は意欲的に個人主義を突破し、台湾独特の風土と情感を背景としたスタイルを確立したように見える。(略)侯孝賢が私たちに自信を与えてくれるのは、彼がいつも男らしく明るいからだ。宗教家の悲壮な心情で芸術の殿堂に向かって巡礼するのではなく、また革命家のように孤独で熱狂的に、この二年来の台湾ニューシネマを推し進めることに身を捧げているのでもない。(略)しばしば躓きもするが、彼はすぐに起き上がり、いつもまた嬉しそうに歩き出すのだ。」(「初めての侯孝賢論」)
 作家であることが、視線を揺らぐことなく侯の立ち位置を見通すことができると、わたしなら朱の言葉から素直に受けとめたくなる。
 わたしは、加藤泰にしても鈴木清順にしても、脚本を第一主義的に考えて、映画を撮る映画作家ではないことを知っている。侯もまたそうではあるが、朱たちと議論をしながら作り上げているわけだから、撮影中の停滞はありえない。本書の後段で、〇四年の、映画『珈琲時光』をめぐっての二人の対話を掲載している。そこには、侯が無意識のうちに隘路のような場所で停滞していることを、朱は柔らかく指摘しているが、応答は交差することはない。小津安二郎生誕百年を記念して作られた作品とはいえ、侯孝賢は小津作品に影響を受けて映画の世界に入っていったわけではないし、それほど、小津作品を知っていたわけではないことを本書では触れている。むしろ本書で知ったことだが、侯と朱たちは、小川紳介と通交していたのだ。本書の中で朱は「小川紳介監督とは一度しかお会いしたことのない私、朱天文がペギー・チャオと侯孝賢に代って筆を執り、小川監督とともに夢を追い奮闘してきた友人たちに向けてこの手紙を書いている。映画の世界では、私たちはすでに互いをよく知り、強いきずなで結ばれている。」(「小川紳介監督を悼む」)と述べている。
 『黒衣の刺客』から長い空白期を経て、ようやく次回作『舒蘭河上』が今年の後半にクランクインするようだ。期待したいと思う。

[朱天文著、樋口裕子・小坂史子編訳、竹書房刊]

―――月刊情報紙「アナキズム」第十五号―21.6.1

 

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2021年5月29日 (土)

堀江朋子 著                             『西行の時代――崇徳院・源義経・奥州藤原氏~滅びし者へ』(論創社刊・21.1.20)

 『西行の時代』という書名に、著者の溢れる思いが込められている。周知のように歌人、西行は鳥羽天皇の時代、北面の武士・佐藤義清として、平清盛とともに仕えていた。迷妄する天皇位継承と藤原摂関家の政治力の衰退がやがて、平家、源氏という武門、武家勢力の台頭によって、大きな転換期に向かっていく時期に、西行の生きた時代、歌人として生きた時代が照応していたということになる。わたしは、かつて歌人、西行という存在を国語教科書的に認知していただけだったといっていい。七六年に文芸誌『海』で吉本隆明の「西行」論が始まった。「僧形論」の後、「武門論」として連載が引き継がれていった時、西行は武士だったが出家したのかと、やや大げさにいえば衝撃を受けた。それは、たんに無知が露呈したに過ぎないのだが。
 「西行の出家の理由は具体的に追求していけば、どこかで立ち消えてしまう。だがこういう歌(引用者註・「出家した直後の体験を背後にひかえた歌」をさす)でたどった西行の心の劇をみると、歴史に加担するか宗教に加担するかの帰路にあって、宗教感情に就いたことは確かなようにみえる。(略)でも出家を決意し、実行することはどんなことで、どんな心の葛藤に出会い、周囲の人々とどんな疎隔に見舞われるものか、あたうかぎり複雑な陰影をこめて表現してみせた。それができるほどの力量ある歌人は西行のほかなかった。」(吉本隆明「西行論」)
 わたしは、吉本の西行像は、著者が想い描いた渦動する時代のなかで真摯に思考していく西行像と通底していると捉えてみたいと思う。
 著者は、若き義清(西行)と清盛の対話を次のように描いて見せている。
 「「目に見えぬ、それでいて人々を畏怖させる力。神や仏に近い力。永遠に続く力。それが欲しい」清盛は重ねて言った。/ややあって、義清は言った。/「目に見えぬ力? 永遠に続く力? そうだ民の力だ。民の力。それこそが永遠に続く力だ。畑を打つ、土を耕す、木を切る、猪を射る、機を織る、人が生きるために使う力だ。そして、この力は永遠に受け継がれる」/清盛は、義清の言っていることの意味が理解できずに、興ざめたような顔になった。」
 やがて出家する義清(西行)に、このように語らせる著者の思いは、深い。「人々を畏怖させる力」を求める清盛と、「人が生きるために使う力」は、「永遠に受け継がれる」と述べる義清(西行)の間には、大きな懸隔がある。思いを寄せる侍賢門院とその子崇徳天皇のことを心の奥に仕舞い込み、妻と三歳になる娘と別れ、西行は出家する。二十三歳の時だ。
 西行は佐藤家の祖にあたる奥州藤原家を訪れ、あらためて思う。「都の摂関家の浮き沈み、皇位争い、陰で天皇、上皇をあやつる女院たち。平家をはじめ、武者たちの勢力争い。在地の領主たちの土地を巡っての争い。平泉が孤塁を守ることはできないだろう、それが現世のさだめだ」と。西行が向かう先は、次のような世界だ。
 「その現世が厭わしくて出家したのではない、と改めて思った。人の生が愛おしいと思ったから出家したのである。滅びの予感があっても、負け戦であっても人は戦う。その生が愛おしい。」
 そして、〈時代〉は大きなうねりをもって、進んでいく。清盛の死を契機に、源氏再興の旗揚げをした源頼朝が平家と対峙していき、平家は滅亡した。「平家の栄華の時を知っている西行には、そのすべてが幻と思えた」のは、当然のことだった。西行は思う。
 「現世は幻なのだ。幻に縋って私たちは生きている。今という時も、桜の花びらのように儚く消えていく。」
 頼朝と義経の対立が、奥州藤原家を巻き込むかたちで露出していく。義経の死、奥州藤原氏滅亡。
 「秀衡の死に急かされるように、西行は生まれ故郷紀ノ川に近い河内国葛城山にある弘川寺に草庵を構え、嵯峨野から移った。やはり故郷は懐かしい。/ここで死を迎えたい。西行は七十歳を迎え、体力の衰えをしみじみと感じていた。」「歌を詠むことは、権威や武力、いや仏法思想をも超え、人間が造りだしたこの世の理すべてを超えた場所に、自分の魂を置くことだった。」「頼朝は「敵対する者、敵として滅んで行った人々、その縁者にも、情けの心を持って下さい」という西行の言葉を思い出していた。」
 著者が描く「西行の時代」は、けっしてこの国の中世だけを描出しようとしたわけではない。中世の時代を照らし出しながら、〈現在〉を開いているといっていいはずだ。西行に込めた著者の思いは、鮮烈だ。
 揺らぐことのない明晰な視線を持って、コロナ禍が拡がり、政治というものの空洞化が進む、〈現在〉の深層を捉えているといいたいと思う。

【付記】堀江朋子さんは、一月二日に亡くなられた。わたしが、最後に堀江さんとお会いしたのは、一昨年の十一月のコスモス忌(秋山清さんを偲ぶ会)の会場でだった。堀江さんとは何度も酒席を共にして楽しく歓談させていただいた。思い出は消えることはない。

(『図書新聞』21.6.5号)

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2021年3月20日 (土)

富岡幸一郎 著『古井由吉論  文学の衝撃力』          (アーツアンドクラフツ刊・20.9.23)

 古井由吉(一九三七~二〇二〇年)が逝去して一年経った。享年八十二が早すぎるのか、そうではないのか、判然としないが、やはり、やや早すぎるのかなと思う。わたしは、古井作品を熱心に読んできたわけではないが、『野川』(〇四年)までは、競馬エッセイも含めて断続的に接してきたつもりだ。それ以降は、やや遠くなったといっていい。だが、古井由吉なら単著での作家論が、何冊かあってもいいはずだ。しかし作品論や作品評は数多くあると思うが、本書が初めての古井論の単著ということになる。敢えて末端の読者の一人として述べてみれば、おそらく、やや晦渋な文章(文体)が古井論を表出することを困難にしているといっていいかもしれない。本書は、巻末に、著者と古井との対談二篇(八九年、一五年)が収録されていて、古井論を補完していることを強調しておきたい。
 ほぼ全作品に渡って解読していく著者の視線は、精緻にしかも深遠に射し入れていく。
 「「杳子」という作品の出現は、近代小説で描かれてきた「恋愛」の空間を新たな次元へと変容させつつ、そこでこれまでにない小説の可能性を示した。それは、恋愛という関係性を男女の心理や意識の領域から解き放ち、内面的な(自我と関わる)出来事として描くことの限界を超えていったことである。」
 著者が、このように「杳子」を捉えていくことに異論はないが、古井の作品世界を、「「恋愛」の空間を新たな次元へと変容させつつ、そこでこれまでにない小説の可能性を示した」といわざるをえないことに、古井論の難しさがあるといっていいかもしれない。だが、著者は、大胆に切開してく膂力をこの古井論のなかで示していく。
 「古井由吉は、(略)現代世界の実相を小説というジャンルによって最も先鋭に描き続けた作家である。硬質かつ緊密な抽象度の高いその文体の特異な小説空間は、一見すると現実を映し出すリアリズムとは異質のように思われる。しかし、現代世界の、その現実と社会の微細な流動を、これほど稠密に根底的に作品化した作家は他にいないのである。古井文学は、文学史の名称で「内向の世代」の文学などといわれたが、その作品はむしろ逆に、現実の外界の正体を描き出すところに最大の特色があるといってよい。」
 「現実の外界の正体を描き出す」といいきることによって、わたしなどが思い込んでいた古井由吉の世界を解体していく。代表作のひとつとして称揚される『槿』は、さらに脱構築していくかのように述べていく。
 「家族の親和性や血縁の桎梏が崩れ去り、社会の慣習性や伝統の秩序がことごとく無化され、人間が剥きだしの「個」として晒される虚無の地平が、この作品の真の舞台なのだ。」
 もちろん、わたしは古井由吉を「内向の世代」の作家として読んできたつもりはない。当たり前のことだが、古井由吉は、作家・古井由吉として屹立しているのだ。三七年十一月生まれの古井は、敗戦時、七歳であった。自分が七歳から八歳といえば、小学一年から二年にかけてということになるが、それなりに記憶は残っている。戦後生まれのわたしには、大きな様態が横たわっていたわけではないから、平凡な幼少期ということになる。戦禍のなかであれば、やはり大きな衝撃として記憶は残存し続けることは当然のことだといっていいかもしれない。
 古井は著者と一五年に行った対談の中で「今の作家が最も苦しんでいるところは、歳月というのが実につかみがたいということです。これは僕のような年寄りも、中堅どころの作家も、新人もそうだと思う。いま戦後七十年と言うでしょう。はたしてその七十年が長かったのか、短かったのか。(略)三七年には日華事変が始まった。それから間もなく総動員令が出て、それから四〇年に大政翼賛会ができた。その四年後には、僕なんかは無差別空襲の下を走っているわけです。あげくに原爆が落ちた」と述べている。
 古井の七歳時の記憶が、その後の作家活動のなかで、大きな源泉となったことを、著者に誘われるように了解することになる。
 「戦時下の災厄のなかに平穏があり、平和な日々のなかに残虐な破壊がある。いや恐怖と陰惨、安寧と快楽は同じ地平にあって、内は外であり、外は内となる。(略)古井作品の「可能性感覚」はさらに研ぎ澄まされはじめる。それは視覚の記憶にうちにひそむ、聴覚と臭覚の感受が驚くほどの密度をもって言葉で掬され作品を覆いつくしていくからである。」
 「視覚の記憶」が古井文学のひとつの核としてあることは理解できる。理念や理屈で理解することではない。感覚や視覚が記憶を濃密なものにしていく。そこにわたしたちが読むべき物語が開かれていくことになるといっていいはずだ。

(『図書新聞』21.3.27号)

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2021年3月 1日 (月)

「アイヌの手仕事」をめぐって

 わたしは、工芸家・芹沢銈介に長年、関心を抱き続けてきた。芹沢の仕事は、琉球・沖縄からの影響を見て取ることができる。一方、アイヌの仕事にも深い関心を寄せていた。
 「アイヌは古く日本から渡った工芸品を家宝として子孫に伝えてきたが、蒔絵のある漆器類をはじめ太刀、劔など内地では神社にしか見られぬほどの、中には鎌倉期にもさかのぼるものがあった。これらはアイヌの造ったものではないが、一般にアイヌ工芸として扱われてきた。一方その信仰、行事生活に根ざしてつくられた数々の木工品、太刀鞘、マキリ、ヒゲベラ、食器、道具類があり、織物刺繍による衣料のようにどこへ出してもひけをとらぬ真個のアイヌ工芸があった。」(芹沢銈介「北方の着物」、七一年十一月)
コロナ禍のなか昨年、久しぶりに日本民藝館を訪れた。「アイヌの美しき手仕事」展を見に行ったのだ。日本民藝館では四一年に柳宗悦と芹沢が企画して、「美術館で最初のアイヌ工芸展とな」(「手仕事」展チラシ)った「アイヌ工藝文化展」を開いた。今回、その時の展示を一部再現している。
 アイヌの切伏刺繍衣装には、独特の〈美〉がある。その文様が放つものは、「美しいのみならず、立派でさえあり、神秘でさえあり、其の創造の力の容易ならぬものを感じる」(「アイヌへの見方」)と柳が述べているように、ただただ、圧倒されるといっていい。二階奥の大展示室に掛けられた数多くの切伏刺繍衣装は、圧巻だ。柳は、さらにユニークな視線を放っていく。
 「なぜアイヌにあんなにも美しく物を作る力があるのだろうか。今も本能がそこなわれずに、美を作りだす働きがあるのであろうか。なぜ彼らの作るものに誤謬が少ないのであろうか。どうして不誠実なものがないのであろうか。」(柳「同前」)
 わたしは、宗教的なるものを信じたり、何がしか仮託することを一切しないが、宗教やそれらにまつわることを信じる人たちを批判したり否定したりすることはしない。アイヌの人たちのなかに神観念が中心にあるのは周知のことだが、なぜかわたしには、意識的にそのことを考えることなく、受け入れていることに気づいてしまう。まだ、明確な視座を持っているわけではないが、アイヌの共同体のなかに、自然との結びつきのなかから発生する〈カミ〉があるというのが、とりあえず、わたしなりの入り方となる。切伏刺繍衣装の有様は、ひとつの芸術作品のように見ることを可能にしているが、やはり、アイヌの暮らしという共同性が生み出した手仕事の象徴としてあるといいたくなる。そして、刀掛け帯、首飾り、煙草入れ、椀といった手仕事によって生起した生活用品は、見事にひとつの作品としてそこにあったといっていい。「アイヌ婦人は、幼時から針の運びを見習い、野でも浜でもそらんじた模様を砂の上に描いて確かめたり、また葉を編み結び文をくふうしたといわれる」(「同前」) と芹沢は、述べていることに納得する。

(月刊情報紙「アナキズム」第十二号―21.3.1)

 

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