2017年6月20日 (火)

白島真・著『詩集 死水晶』を読む。

 本詩集は、著者にとって第一詩集ということになるが、1974年から1995年までに発表された作品(ただし、76年から84年の間に八年間の空白期がある)と、さらに二十一年という時間を経て、2016年に書き下ろされた詩作品によって構成された詩集であるから、わたしは、あえて、“詩集成”といい方をしたいと思っている。
四十数年間という時間の横断のなかで詩人が紡ぎ出した詩作品の集成は、年齢的にいえば、二十四歳から六十六歳までになるわけだが、初期と現在における二作品を象徴的に取り出しながら、『詩集 死水晶』の世界へと近接してみたいと思う。

   生きたままの花の化石になりたい
   という少女がいて
   街は、霞のようにかすかに
   かそけく 輝いているのだった
    (略)
   セカイは思惟と思いに分断された

     浮遊してくる白茶けたちちははの記憶
     抒情はいつだって孤独だ           (「花の化石」2016.7)


   溢れる海の思想(おもい)を
   透いた生命の鼓動にのせて
   ぼくはきみに語りたい
    (略)
   いま冷たい祈りのように
   ぼくの内側から崩れていく海がある    
                           (「ぼくの内側から崩れていく海」1974.8)

  「少女」という詩語から、真っ先に浮かべる詩篇がある。吉本隆明の「少女」(56年)である。しかし、いまから、六十年前の、しかも吉本、三十代の詩篇の中の「少女」を、安易に繋げるのが、わたしの本意ではない。センシティブな吉本の「少女」に比べて、白島真の現在における「少女」は、必ずしも、感傷的な、あるいは抒情的な存在として描像されているわけではないからだ。しかし、そこには、共通の様態を見通すことができるはずだと、わたしには思われる。白島にしても、吉本にしても、「少女」という暗喩に、自分自身の有様を投射しているといっていいはずだ。
  「生きたまま」であることと、「化石」とは、アンビバレンツな表出である。それは、「思惟と思いに分断された」、「セカイ」へと通底していくことになるのだが、同時に四十二年という時間の遡及によって、「溢れる海の思想(おもい)」を透徹していることだと、わたしには思われる。
 そしてまた、父と母の記憶を「白茶けた」ものとしながら、孤独な抒情を噛みしめている現在は、「ぼくの内側から崩れていく海」が重ねられているといっていいのではないか。そのような場所に、詩人・白島真の詩の言葉は時間と空間を鮮鋭に横断させ、わたし(たち)に、回収されずに沈潜した感性の織のようなものを示しているといいたい気がする。思想を「おもい」と表象させる白島にあって、そもそも沈黙期や空白期というものは、ありえないのだ。それらは、時間を横断させながら繋がっていくものだからだ。

   影のように覗きこむ者がいる
   死水晶のきらめき に憑りつかれた
   もうひとつのわたしのかげ

   わたしが捨てた影のため
  涙はその落ちる位置をしらない
  盃はいつも 毒のように吞みほされている    (「死水晶」75.4)

  「死水晶」とは、鮮烈な詩語だと思う。死への鎮魂が込められていたとしても、わたしには、想起しえない言葉だ。「水晶の死」といういい方を誰かがしていたように記憶するが、そもそも、「水晶」に対するわたしの感受のし方が、極めて皮相なものでしかないから、「死」を冠せられる時、「水晶」が、あたかも“水際立ってくる”ように感じられたといっていい。だが、この詩作品が、わたしの心奥へと刻んで入ってくるのは、「もうひとつのわたしのかげ」、つまり「わたしが捨てた影」という暗喩があるからだ。影は死に憑りつかれているとして、やがて、必ず、自分にもやって来る「死」というものは、誰かの「死」を介在させることでしか、感受しえないことによって、哀しみが増幅させられていくからだ。

    (ああ きらびやかな予感の死水晶!)


   光の裏側には
   だれも知らない
   青白い湧水があって・・・・・         (「発寒通信「界川遊行」Ⅱ」90.3)

 だからこそ、十五年後に紡ぎだされた詩作品には、「きらびやかな予感の死水晶」として、自らの有様を投射できるのだといっていい。わたしは、この「きらびやかな予感」という詩語に共感する。

   ああ、瞳が
   瞳が死に向かって光ってしまうよ
   やさしさに崩れていく月夜の晩に
   生まれたばかりの胎児がのそり
   のそりと動いているよ
   そして見えない海のざわめきが
   幾重にも尾をひいて
   枝垂れる俺の内側を
   そんなにもいちずに噛み砕いていくのだよ    (「澱む月夜」74)

  わたしが、集成中、最も感応した詩作品の最後の一連を引いてみた。「瞳(め)」、「月夜」、「胎児」、「海」、そして「死」が、「俺の内側」に貼りついて澱んでいる。本詩集成の詩人は、「詩を書くことは私にとって救済であり、自らのタナトスへの憧憬を断ち切る手段でもあった」「この詩集は私のこれまでの生の全記録とも言える」(「あとがき」)と述べている。澱みは、澱みのまま、人は、どうしようもなく、貼りついたままにしておくのかもしれない。だが、白島真にあっては、生きていくことと、「死」への傾斜は、同時的に時間を重ねていったことなのだ。「詩を書くこと」は、「救済」であったとしても、紡ぎ出す詩世界は、「思惟と思いに分断され」、「抒情はいつだって孤独」であり、「ぼくの内側から崩れていく海があ」り、「海のざわめき」は見えないと、絶えず語られていく。恐らく、いまも、そうに違いない。
 
 本書の巻末に付された福島泰樹による、熱い解説「復活の歌」に誘われながら、詩人・白島真という「物語」を、もう一度、辿る時、わたしには、この詩人が、かつて見ていたであろう情況的なる風景を、どこかで同じように見ていたかもしれないと、感ずるようになった。そのことの、根拠や理由を、いまここでは語らないでおこうと思う。少なくとも、わたしなりの白島真の詩世界から喚起されたことを記したことで、とりあえずは止めておきたい。


※七月堂刊・17.3.7[A5判・176P・本体2000円]

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2017年5月27日 (土)

山本哲士 著『吉本隆明と『共同幻想論』』             (晶文社刊・16.12.25)

 吉本隆明の『共同幻想論』(68年12月刊)をリアルタイムで接したものにとっては、その衝撃の大きさは計り知れないものがあったといっておきたい。七十年前後の抵抗と対抗の渦動のなかに身を置きながら、この国の擬制的な有様を根柢的に〝撃つ〟手立てを見つけられずに彷徨っていた時、「現在さまざまな形で国家論の試みがなされている。この試みもそのなかのひとつとかんがえられていいわけである。ただ、ほかの論者たちとちがって、わたしは国家を国家そのものとして扱おうとしなかった。共同幻想のひとつの態様としてのみ国家は扱われている」「わたしは地面に土台をつくり建物をたてようとしているのである。このちがいは決定的なものであると信じている」という吉本の論述から、わたし自身の立ち位置を確信し得たと思ったのだ。それから、五十年近い時間を経て、その時の感受の有様をわたし自身の思考の初源として、いまだに抱き続けてきたと、なんの衒いもなく、断言できる。
 吉本隆明の膨大な仕事とその思想体系を、現在を見据えながら更新させて、今後どのように自分たちの内奥へと深化させていくことができるかということが、吉本思想から影響を受けてきたものにとっての課題だと、吉本逝去後、わたしは考えてきたつもりだ。本書は、そういう意味において、ひとつの指針を与える画期的な試みだといえる。長年、吉本へのインタビューや対話によって肉声からの思想と表現されてきた思想の間隙を透徹してきた著者だからこそ可能なことだといっていいはずだし、それ故、逝去後、数多く刊行されてきた吉本論とは明快に一線を画している。
 著者は、「普遍的な根源思想へ迫るのが、吉本思想のあり方」だとしながら、本書の論旨を、次のように述べていく。
 「『共同幻想論』を理論生産し『共同幻想国家論』として、国家論との架橋をなす地平をひらきながら、同時に『対幻想と近代家族』との関係を理論生産し、『個人主体と自己幻想』との関係を把捉していき、『高度資本主義』の歴史的現存性へせまります。(略)さらに、幻想と権力関係との関係を解析していきます。(略)それは、〈いま〉〈ここ〉での自分自身をとりまく世界・環界を、自らにはっきりとさせていくことに関わります。」(1章 幻想本質論へ)
 かつて、わたしは、農本的無政府主義者・権藤成卿が展開していく〈社稷〉概念を、「政治的国家と社会的国家を二重の屋根のようにかんがえた」(「自立の思想的拠点」)ものだと捉えていく吉本に逡巡したことがあった。それは、「社会的国家」という概念に困惑したのだ。「社会」を包括していくものとして「国家」はあるのではないか、あるいは、「国家」と「社会」は、その共同性において別位相として考えるべきではないかと思ったからだ。本書の著者は、わたしの逡巡を遥かに超脱して、次のように述べていく。
 「最初のころ、共同幻想論を形成していくうえで、吉本さんは『国家の共同性あるいは社会の共同性』という言い方をよくしていました。ここを、まず識別して、『国家的共同幻想』と『社会的共同幻想』として識別し、『社会幻想』なる概念を構築していかねばなりません。(略)『社会幻想』とは『社会がある』と想定・設定されている幻想です。社会機関や社会制度の具体ではありません。『社会』は想像的に表出されたものです。つまり、国家へ象徴統御されえていないものが、現実界へ実際にこぼれだしている、それを想像的なものとして代理編成して、さらに実定化さえしてしまっているものです。」「共同幻想を国家論へと飛躍させるには、『社会』への統治制を歴史的存在として考慮にいれないと不可能です。」(3章 共同幻想/対幻想/個人幻想の関係構造)
 著者は、明確に、「国家」位相と「社会」位相を識別させながら、吉本の「共同幻想」概念を拡張させて、「理論生産」していく。そして、吉本の「高度資本主義社会」論を補完していくようにして、「高度資本主義社会というのは、国家空間以上に社会空間を拡大かつ緻密化して構造化することによって国家維持をはかっている世界です。つまり統治しすぎないことによって統治効果を十分に発揮しえている国家・社会で」(10章 高度資本主義における共同幻想)あると展開させていく。
 このようにして、著者は、「社会空間の社会幻想」を基軸にして、「共同幻想を国家論」へと架橋させ、「〈場所共同幻想〉に立脚した転換をなすこと」を内在させる「場所革命」という考え方を提起していく。
 「地域ならざる場所環境の実際に立ち、その地域性を時間化して世界史の歴史的段階の歴史性へ転化していくことにおいて、わたしは設定しています。近代国家の生成過程の統合化で蹴落とされ剥奪されてきた地域性の普遍性への転化、それが〈場所〉という意味です。地域革命ではありません。『中央―地域・地方』の関係構造を転移することです。」(終章 幻想ブラチックとパワー関係:国家論と権力関係論の地平―批判意志から可能意志へ―)
 この論述から、わたしを喚起させるのは、次のようなイメージである。
「〈いま〉〈ここ〉での自分自身をとりまく世界・環界を、自らにはっきりとさせていくこと」を胚胎させながら、現在的空間を通底して、吉本が、『共同幻想論』以降、しばしば提起していた「国家を開いていく」ことへ繋げていくことである。

(『図書新聞』17.6.3号)

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2017年5月20日 (土)

河出書房新社編『高橋和巳 世界とたたかった文学』        (河出書房新社刊・17.2.28)

 わたしは、高橋和巳の文学、そしてそこに胚胎する思想に、青春期(高校一年生時の冬、刊行されて三ヶ月後の『憂鬱なる党派』を、一学年上の先輩に薦められて読んだのが、始まりだった)、大きな影響を受けただけでなく、自分自身の思考の原基をかたちづくる契機になったと思っている。以後、五十年以上にわたり、折に触れ、作品や評論等を繰り返し読み直している。作品でいえば、『邪宗門』、『憂鬱なる党派』、『悲の器』、『散華』、『堕落』、『日本の悪霊』であり、評論なら「暗殺の哲学」、さらには、本書で高橋和巳アンソロジーの巻頭に配置した「非暴力直接行動について」である。わたしにとって、高橋和巳の文学と思想は、いまだに、〈現在性〉としてある。
 本書の開巻の「高橋和巳、その人と時代」と題した文章で、「高橋和巳は一九六〇年代から七〇年代はじめにかけてのある時期、最も読まれた作家でした」「かつてあまりに多く読まれた反動と、そのあとの消費社会への流れは高橋和巳を忘れさせようとしたかのようです。しかしこの時代はもう一度、高橋和巳を呼んでいるように思われます。この誠実で、深く人間を見つめた文学者の作品はこれからこそ読まれなくてはならないはずです」と書かれているのだが、わたしには、幾らか留保したい感慨がある。最後の「誠実で、深く人間を見つめた文学者の作品」という結びには、もちろん異論はないし、まったく同意できる見方だ。しかし、「多く読まれた反動」ではなく、七十年前後の対抗と抵抗の渦動のなかで、高橋和巳の作品は、本人の心身の消耗とともに、皮相に消費されていってしまったのだと、わたしは、捉えている。卑近な例を挙げてみる。71年5月、わたしは、所属していた(といっても、活動からは、やや離れていたのだが)、大学新聞に、後輩に頼まれ、長めの高橋和巳の追悼文を書いた。後輩は、〝情況〟的な記事を差し置いて、一面全体を使い掲載した。その時の周りの反応は、実に冷ややかなものであった。高橋和巳の苦闘なる死は、ある意味、〝情況〟的なるものへと還元され沈められたのだと、わたしは思っている。
 河出文庫新装版『憂鬱なる党派 上』(16年7月刊)の帯文に、小池真理子が、「四十六年前。私は『憂鬱なる党派』を手にした男友達と、西日の射すバス停で何台もバスをやり過ごしながら高橋和巳の話をしていた」と記していた。わたしより数年年少の小池もまた、高校生の時、高橋和巳の真摯で誠実なる表現に喚起されたことがわかる。闘争や情況的なものとは、別に、そういう時期に高橋和巳は、感受される存在であったことを、わたしは強調しておきたいのだ。
 本書は、旧稿(三島由紀夫との対談、秋山駿によるインタビュー、埴谷雄高、大江健三郎らの追悼稿)のものも含めて、新たに書き下ろされた高橋和巳をめぐる論稿(杉田俊介、安藤礼二、友常勉、島田裕巳他)と対談、そして、高橋和巳の評論・エッセイを五編収録し、現在から見て、「世界とたたかった文学」を俯瞰できる構成となっている。二編ほど引いてみたい。
 「(略)私が挙げている幾人かの代表者のうち、自己の精神のアナキズムへの傾斜を自覚していったのは高橋和巳ひとりであるが、さて、全共闘運動にかかわった彼は、そのとき、ひとつの極度な困難に直面せねばならなかったのである。」(埴谷雄高「破局への参加」)
 「(略)『邪宗門』は、高橋和巳という作家の個性、さらにはモデルとなった出口なおと出口王仁三郎という『対』でありながらも一なる存在であるという宗教者たちの個性が渾然一体となり、それ以前にも以降にもなかったような、稀有な作品として完成されたのだと思います。列島一〇〇年の歴史を問いながら、未来にひらかれた作品になったのだと思います。」(安藤礼二「『邪宗門』の革命」)
 さて、陣野俊史と小林坩堝との対談「いま、高橋和巳を読むために」は、本書の白眉といっていい。1990年生まれの小林は、かつて「高校一年生になるまえの春休みです。河出書房から出ていた文庫版の『悲の器』を」(山羊タダシとの対談「高橋和巳の現在」―『幻燈 10号』09年11月)読んだのが、初めての高橋和巳との邂逅だったと語っていた。陣野の、「若い人がわりとすんなり入れたんですか」と小林に問い掛けているが、むしろ〝若い〟時期だからこそ、高橋和巳の〝誠実さ〟に共感できるのだ。小林の発言を引いてみる。
 「私がいちばんに挙げるとしたら『憂鬱なる党派』です。高橋和巳の文学はだいたい敗北というか、滅するというところに終局がありますけども、(略)主人公がほとんど餓死みたいな死に方をする。出版したかった原稿が主人公の西村の死後に子どもたちに紙飛行機にされて飛ばされて、それが地面に落ちてという場面があって。(略)私は、これは一つの希望なのかなと思ったんですね。(略)西村が死んでなお残った希望なのかなと考えたんですよね。誰にも手渡されない最後の希望。そこに共感可能性があるのだと。『邪宗門』の場合、餓死した一団にまつわる伝承めいた語りで終るわけですけど、それにも少し近いところがあって、何もかもが潰えたかのような、でもそれも希望なんじゃないかという気がします。強烈な敗北シーンではあるのだけれど、高橋和巳は希望を託したかったんじゃないかなと。無惨な美というか。そこに『精神のリレー』をみることも出来ると思うんです。」
 わたしは、この小林の捉え方は高橋和巳の世界を真っ芯で照射しているといってみたい。
 「すべて権力には、それに触れられれば逆上するにいたる『逆鱗』というものが存在する。」「個々の人間存在は、あるというだけではまだ価値ではないが、すべてが価値可能体である。」(高橋和巳「非暴力直接行動について」)
 これらの言葉は、〝世界とたたかう〟ための矜持でもある。

(『図書新聞』17.5.27号)

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2017年3月11日 (土)

青木孝平 著『「他者」の倫理学―レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む』( 社会評論社刊・16.9.10)

 「他者」という概念は、それ自体として存立できないものだ。つまり、「自己」というものを措定して、初めて、「他者」ということが表象してくるといえるからだ。しかし、本書の著者が思考する「他者」は、「自己」の反照か鏡像のように在ると、わたしは受けとめたことになる。もちろん、著者にあっては、「他者」とは、「自己」を対象化もしくは相対化するものと措定しているのだが。
 「レヴィナス、親鸞と宇野弘蔵という思想の出所も思考の形成過程もまったく異なるものをクロスオーバーさせることで、形而上学的観念論と弁証法的唯物論との障壁をいったん解体し、自我を根源的に相対化しうる『他者』を主体とする思想、すなわち語の厳密な意味での倫理的思考へと向かうことをめざしている。」(「まえがき」)
 ここで著者が明言していることは、「自我を根源的に相対化しうる『他者』を主体とする思想」を構築していく方途として、レヴィナス、親鸞、宇野弘蔵という一見クロスしない思想表現を横断させていこうという試みになるわけだが、「他者」という様相を鏡像のように見做していけば、それぞれのなかで微妙な差異を見せていることに、わたしの関心は引き寄せられていくのだ。その差異の位相を、わたしなりに共感性を滲ませながら述べていくことができれば、本書の深部へと幾らかでも近づくことがでるのではないかと思っている。本書の構成と違い、宇野、レヴィナス、親鸞という順に触れていく。
 著者は、「マルクスが人間主義的立場から資本主義を解明し批判しようとしたのに対して、宇野弘蔵のそれは、全く逆に、ひとまず資本の立場に主語を置いて、徹底的に『人間』を対象化し批判する方法論を貫こうとしたもの」だから、「人間(自己)に対してあらかじめ外的に存在する『他なるもの』を主体とする論理だったというべきである」と述べているのだが、確かに、資本制社会を構成するのは、「市民社会」という人間集団である以上、「人間」を対象化していくことは当然のことだと思う。そのように対象化していく視線が、「『他なるもの』を主体とする論理」となるのかどうか、幾らか逡巡しないわけにはいかない。
 レヴィナスについては、「顔」という概念を軸に「他者」へと敷衍させていく。「私の内にある『他』の観念をはみ出しつつ『他者』が現前する仕方、このし方のことをわれわれは顔と呼ぶ」というレヴィナスの言説を引きながら、著者は次のように述べていく。
 「(略)レヴィナスは、私と顔、それゆえ自己と他者を、鋭角的な非対称性によって切断する。そして自己を超える他者の崇高さ、尊厳さ、無限性を強調する。彼は、(略)無限に超越していく者として他者の『顔』を渇望した。むろん、こうした絶対的他者の肯定は、哲学ではなく宗教学としての『神学』にすぎないのではないかという疑問もありえよう。しかし、レヴィナスにとって、神は現前することない『絶対的不在者』であり、彼の追求したものは、どこまでも自己に対する他者の倫理的関係であった。」
 これはあきらかに、レヴィナスの他者(顔)は、宇野思想から、やや距離を置き、親鸞の「他力思想」により近接していくかのようだ。著者は、当然のことなのだが、仏教史、あるいは、仏教思想という位置づけのなかで、親鸞を捉えていくわけだが、宇野経済学ではなく、宇野思想として著者が見做したように、わたしは、思想家としての親鸞、あるいは親鸞思想という視角で捉えてみたいのだ。
 「(略)親鸞は、称名念仏の行を、衆生の側からする能動的な行(能行)としてではなく、どこまでも諸仏の、さらには阿弥陀仏の側からの大行としてのみ読み替えて捉えることになった。(略)親鸞の『他力』は絶対他者としての仏による無限の能動的救済を指すことばであり、これに、凡夫としての『自己』の、いっさい選択の余地のない徹底的に受動的な信心が対置されることになる。」
 称名念仏を一生懸命唱える、あるいは、俗的にいえば修業して悟りを開くといったことは、能動的信心ということになる。しかし、まったく逆のベクトルで信の構造を切開して見せたのが親鸞であった。著者の論及を援用していくならば、「自己があれこれ心配して手段を講じなくても、阿弥陀仏の側からひとりでに救いの手が差しのべられ」、その「背後に、一切衆生を救おうという弥陀の本願がある」ということになるのだ。そして、「もしかするとそれは、信仰そのものの放棄と紙一重の心境であり、いわゆる『非智』ないし『無知』の思想であったかもしれない」と付言していく、著者の親鸞思想の描出は、同意できる。そうであれば、信というものを徹底的に突き詰めて、やがて解体させていくかのような位相を表出する親鸞における「他者」の倫理思想は、屹立していると、いっていいのではないだろうか。

(『図書新聞』17.3.18号)

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2017年2月25日 (土)

中田豊一、和田信明 共著                     『ムラの未来・ヒトの未来―化石燃料文明の彼方へ』      (竹林館刊・16.11.1)

 著者たちは、長年、「国際協力という分野で仕事を続けてきた」という。つまり、NGOを立ち上げて開発途上国への援助活動を行ってきたのだが、そのことによって、村(共同体)へ恣意的な変容を強いて来た結果、村が村でなくなっていく、あるいは村という共同体が壊れていくという事態を招来させてしまったことを著者たちは、「介入」といういい方をしながら、苦渋を込めて述べている。
 「国際協力とは、相手側の状況への介入である。特に、私たちのように、農漁村、都市のスラムなど、コミュニティ単位で係わることが多い場合、相手が現在置かれている状況を変えるという方向で係わる。(略)私たちは、村に代表されるコミュニティ(共同体)が抱える課題を解決する。解決する主体はコミュニティであり、私たちはそれを支援するという建前になっている。だが実際は、課題の設定もその解決方法も私たちが持ち込むものであり、したがって、文化も生活慣習も、そしてそれぞれ抱える課題も違うはずの世界各地の村で、どこも似たようなプロジェクト、いやまったく同じ内容のプロジェクトを十年一日のごとく行っている。」(和田「序章」)
 著者たちによれば、プロジェクトとは、「貧困削減のための収入プロジェクト」といわれる市場経済の導入を意味する。その結果、「持てる者と持たざる者の境目は曖昧だった」にも拘らず、「持たざる者」たちは、「落伍者として村で暮らすことが難しくなる」と指摘していく。わたしは、途上国援助に関して、もともと好感を持って望見してこなかったが、それでも、著者たちの自省を込めた認識に接して、当然のことだという思いはない。むしろ、開発途上国であれ、先進国であれ、直面している難題は、それほど違いはないということが、言葉のなかに滲み出ていると見做したい。かつて、社会主義体制の崩壊によって、資本主義体制は、消費資本主義という相貌を身に纏いながら膨張し続け、中間層(大多数のわたしたち)が消費という幻想に酔いしれて豊かな社会をかたちづくったと錯覚してから、やがて坂の上から転げ落ちるように消費社会というものは虚構のなかに埋葬され、圧倒的な少数の「持てる者」と、圧倒的な多数の「持たざる者」に分岐してきた超資本主義となったのが、現在だといっていい。
 そこで著者たちは、「化石燃料文明」という概念を鏡像にして、コミュニティ(共同体)の有様を恢復させる方途を模索していく。わたしたちの現在から、時間を遡って類推していけば、ひとつの初源の類型に思い至ると著者たちは考える。つまり、18世紀から19世紀にかけてイギリスを中心に西欧を席巻していった産業革命に注視して、そこでの資本主義の形成や科学技術の進歩は無尽蔵に思えた化石燃料というエネルギー源に動力の根源があったと捉えていく。
 「化石燃料を利用した大量生産、高速大量輸送のシステムが日進月歩で進歩を遂げていく一方で、私たち人間自身は古来より何も変わらない。生身で生きるしかない。そして、生身の体ができることはたかが知れている。私たちの手漕ぎの舟と川自体を流れさせている化石燃料の『物理的』な力の差が、私たちの徒労感と無力感の根底にはある。私たちは、消費の欲望に誘われながら自分の足で歩んでいると思っているが、実際には私たちを動かしているのは、舟底の下を流れる川を動かしている化石燃料の圧倒的な力なのだ。」(中田「第2章 西洋文明でもない近代文明でもない化石燃料文明という枠組み」)
 著者たちは、自分たちが経験し試みてきたことにもとづいて、「思考実験」のように、「化石燃料文明という枠組み」からの逸脱、自立を語っていく。けっして、硬直した発想ではなく、また、イデオロギーから遠く離れて身の丈の考え方で、著者たちは自前の言葉で述べていく。
「私たちが生身の人間である」からこそ、「限りある一度だけの生のなかで自分が生きる道を探るしかない」と、そして、「私たちは、個人でどこまででき他人と共にしかできないことは何であるか」(和田「序章」)を考えるべきであると、綴っていく。 
 かつて本書の共著者・中田豊一は、『人間性未来論―原型共同体で築きなおす社会』・竹林館、07年11月刊)の中で、次のように鮮鋭に述べていた。
 「『市民社会』とは、人と人とが助け合い、協同していくための基盤のことを指す。それは原理的には相互扶助に基づく共同体としての機能を持つことになる。現在、日本でますます深刻化する問題の多くが、このような機能の喪失によるものであることを、今私たちは痛感しているはずだ。」
 ここで触れている「市民社会」を拡張、変換させて語るべきだと、わたしならいいたい。都市でもいい、農村でもいい、そうもっと直截にいうならば、ムラという共同体(コミュニティ)として視線を這わせていけば、個と共同性の問題は、ある普遍性をもって、せり上がってくるはずなのだ。
 「私たちが生活を変えていく、ということは、結局は、土と水に行き着く自然資源をどのように使うか、あらたな仕組みを作っていくかということにほかならない。そのとき、私たちが参照すべきは、やはり村だ。」(和田「終章」)
 かつてのありうべき共同性を、現在時にかたちづくることは難しいとしても、希求していく思いだけは、切実なものとして持ち続けていくべきであると、本書は語ってくれているといっていい。

(『図書新聞』17.3.4号)

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2017年1月28日 (土)

尾関周二、矢口芳生 監修                    『共生社会 Ⅰ 共生社会とは何か』『共生社会 Ⅱ 共生社会をつくる』(農林統計出版刊・16.10.5)

 わたしたちは、敗戦からの奇跡的な復興から、やがて高度成長を経て、いわゆる〝豊かな〟暮らしというものを享受してきたが、ここにきて、様々な矛盾が露呈し、失ってきたものの大きさを思い知るようになっている。ここで、確認しておくべきことは、資本主義的なシステムか共産主義的なシステムかという二元論的なことでは、もちろんない。どちらも、統治システム(例え、資本主義社会が民主主義的な装いを持っていたとしても)である限り、わたしたちに希望を与えるものではないということである。誰もが均等に消費して暮らしを豊かにするという消費社会の様態は、グローバリズムの席巻によって、『21世紀の資本』でトマ・ピケティも指摘するように、圧倒的少数の富める者と大多数の持たざる者の急激な二分化を生みだしたことを、あらためて認識すべきなのだ。
 ここ、何年か、あたかもグローバリズムへの対抗概念のように、「共生」、あるいは「共生社会」という考え方が論議されるようになった。本書は、「共生社会を可能にするような社会システムを学際的に研究するという目的で」、2006年に発足した共生社会システム学会の創立十周年を記念して刊行されたものだという。監修者たちによれば、共生あるいは共生社会とは、次のような捉え方になる。
 「(略)『共生』とは、多様性のなかの平等性や持続可能性を確保・向上するための実践のあり方であり、その前提には、言語・文化・風土等の異質性・多様性の尊重がある。実践の対象には、人間と自然、人間と人間(社会)、人間と文化(風土)との関わりかある。また、『共生社会』とは、持続可能で真に平和で平等な社会の構築のための実践的協働社会のことである。実践の担い手は、異質性・多様性を尊重する自由な諸個人であり、また、諸個人が共同的に結びついた集団・組織である。」(Ⅰ・「はしがき」)
 わたしは自分が拘泥してきた思考の有様のなかに、関係性や共同性ということの問題を汲み入れてきた。だから、「共生」や「共生社会」という考え方に親近性を抱いてきたといっていい。ただし、その前提となるのは、ひとつは民主主義の擬制を超克することと、統治システムに対しては徹底的に抗していくことだと思ってきた。監修者たちがここで述べていることに、ほぼ首肯できるのだが、次のことだけは、付け加えておきたい。関係性(共同体、社会)は、絶えず開いていて、去るものは追わず、来るものは拒まない、また、集団・組織は水平的・横並びであるということだ。そういう有様が、可能かどうかをいま論議すべきことではない。「可能にするような」方途を、まず模索していくべきなのだ。
 そのような、わたしの思いを視線に託して、本書を読み通して、多くの示唆と喚起を受けたことを率直に述べておきたいが、二分冊のなかのすべての論稿に触れるわけにはいかないので、かなり恣意的に幾つかの論稿について述べてみる。
 「“人間の持続”をも含めた真の意味での“持続可能な社会”があるとするならば、われわれに求められるのは、人間というものを理解するための新たな枠組みの提起である。」(Ⅰ・第Ⅰ部、上柿崇英「第6章 持続可能性と共生社会」)
 上柿の直截な言表は、あらゆる現象を切開していく。ただし、この言表を実践することの困難さを上柿は周知のごとくいい切っていることが切実なことなのだ。
 「地産地消」によって地方経済を活性化していこうといわれて久しい。野見山敏雄は、「地産地消を取り巻く日本社会の構造的状況は急速に変貌している。農業生産の担い手が消失し、生鮮青果物の需要が減退する状況下では、大規模農産物直売所を代表とする従来型の地産地消は次第に衰退しつつある。これに代るものとして期待されるのは、人口増加や経済成長には依存しない、脱成長型の地産X消ではないだろうか」(Ⅱ・第Ⅲ部「第4章 脱成長型の地産X消で地域に活力を」)と述べ、農産加工業務を需要に振り向ける「地産加消」、地元食材を農家民宿・民宿に供給する「地産宿消」、給食に食材を提供する「地産学消」、再生可能エネルギーの地産地消を目指す「地産燃消」、地域の互助性や贈与性を活用して食の無駄をなくす「地産完消」を提言していく。親近なる共同体のなかで、多様なかたちで、「地域再生」を図るべきだとする野見山の発想は刺激的だ。
 福田恵もまた、同じ様に本来あり続けたはずの農村共同体の相互扶助的なるものに着目しながら、「『村落』を同質的な者同士の堅固な社会集団として単純に規定するわけにはいかない。むしろ、共生の方途を探るためには、人的揺らぎの中で異質な他者と対話し続ける『村落』の側面に目を向ける必要があろう」(Ⅱ・第Ⅳ部「第5章 集落社会における共生の関係」)と論及している。わたしもそう思う。日本的な共同体(性)の有様というのは、一見、閉じているように見えて、実は、開かれていると捉えることができる。それが、列島的なアジア性の特質なのだ。
 「共生社会」を見通すことは、わたしたちが、在るということ、つまり、「人間」が存在すること、そしてその持続性を問い続けていくことであることを、忘れてはならないといいたい。

(『図書新聞』17.2.4号)

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2016年12月24日 (土)

河村次郎 著『存在と時空』(萌書房刊・16.10.9)

 存在論を基軸とした哲学的思考を前にして、わたしは、一瞬、戸惑いを感じながらも読み進めていった。いったい、息苦しさを潜在させながら迷走する現在において、存在論を展開していくことに、どんな意義や意味があるのだろうかと思ったからだ。
 それでも、書名から直截に受けるイメージからいって、当然、著者は、ハイデガーを意識した先を見据えて論及していくわけだが、一方では、「ライトモチーフ」としてプルーストの『失われた時を求めて』が、「心を捉えて離さなかった」と率直に述べている。わたしは、著者のようにプルーストから喚起されたことはないが、それでも、過去―現在―未来と通底する時間の流れを水脈のように本書全体を貫いていることに共感したといえる。だから、いまここで本書へと視線を降り立たせて、わたしが発語していくことは、著者の本意からは、大きくかけ離れていくかもしれないが、敢えて論述していくつもりである。
 著者は、自己組織化、あるいは自己組織性という概念を援用しながら存在という様態を様々に析出していく。ただし、自己を組織するということは、どういうことなのかは語られていない。にもかかわらず、次のように論述されていくと、おぼろげに自己を組織することのイメージが伝わってくるといっていい。
 「我々は、自己組織化する有機体としての世界のなかで生きる意識生命体である。そして意識生命体であるということは、それもまた自己組織性をもつということを意味する。世界も自己もその存在において自己組織性を核としている。しかるに、世界と自己は分離しつつも相互浸透する融合的一体性をなしている。すなわち、『自己を生かしている場としての世界』と『世界へと関わる能動的な自己』は、渦動的一体性において一つの巨大な生命の自己組織性の一局面を形成しているのである。」
 「自己」と「世界」を繋ぐものとして組織化という概念を援用しているとするならば、わたしなら、関係性とか共同性という言葉を使いたくなる。わたしたちの現在は、世代間を超えていうならば、「自己」と「他者」、「自己」と「社会」、さらにいえば、「自己」と「世界」を繋ぐものが見えない場所(時空間)であると、わたしなら捉えてみたいからだ。しかし、著者は、「世界と自己は分離しつつも相互浸透する融合的一体性をなしている」と見做していく。わたしは、吉本隆明の『共同幻想論』から喚起されて、自己幻想(個体幻想)と共同幻想(国家や宗教、あるいは法や社会規範を包含する)は、「逆立」すると考えていた。だがここで、著者が述べていく、「世界」とは、国家群が構成する世界ではない、位相の事なる様態を示しているといっていいかもしれない。
 つまり、「自己は自然によって存在せしめられているのであり、自己の存在の意味は宇宙そのものの時間から派生したもの」と捉えながら、「『存在の時間』は自己と世界、この私と全宇宙の双方に張り渡されている」と述べているように、自然―世界―宇宙は、ひとつの環界として見做すことのできる視線を提示しているといっていい。もう少し、著者のいう「世界」に拘泥してみるならば、次のような箇所に収斂させることができると思う。
 「過去と現在と未来はそれぞれ分離した個別の領域をもつのではなく、一つの生成的事態のなかで相互浸透的に統合しているのである。また、世界は物ないし粒子の集合体ではなく、出来事の集積体である。しかも、その集積性は過程的連続性という性格を帯びている。それゆえ、過去の出来事は現在の出来事ならびに未来の出来事と過程的連続という相互浸透的統合性をもっているのである。」
 「世界は物ないし粒子の集合体ではなく、出来事の集積体である」とするならば、「世界」とは、わたしたちの「存在」と「時空間」の集積されたもの、つまり、生きていることの「証し」といっていいはずだ。
 わたしは、「現在」というものは、「過去」から連続したものであり、「未来」へと続く通路であると思っている。だからこそ、やがて訪れるであろう「死」は、「生」との繋がりによって生起するものであるといいたい。
 著者は、「存在の時空」と「生命の時空」を鏡のように捉えていると思われる。つまりそれは、「生きていること」と「存在していること」は同じ位相を有しているということでもある。だから、わたしは、難解な哲学書の装いを持ちながらも、極めて、シンプルに「生きていくこと」の切実さを宣明していると見做してみたいのだ。
わたしは本書を読み終えて、大正期を疾走したアナキスト・大杉栄が、次のように苛烈な文章を記したことを、唐突に想起した。
 「さればわれわれの生の必然の論理は、われわれに活動を命ずる。また拡張を命ずる。何となれば活動とはある存在物を空間に展開せしめんとするの謂にほかならぬ。(略)かくして生の拡充はわれわれの唯一の真の義務となる。」(「生の拡充」・1913年)
 こうして、わたしは、「存在の時空」とは、「現在」における「生」を凝視することであると、いま、考えている。

(『図書新聞』17.1.1]号)

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2016年12月 3日 (土)

井川博年 著『夢去りぬ』(思潮社刊・16.10.15)

 六年ぶりの新詩集に接し、ほとんど行変えせず、長いセンテンスで息継ぐこともできないまま終景へと至る井川博年、独特の詩作品四篇のうちの一篇、「新宿の唄」という作品に、わたしは、真っ先に魅せられた。
 「私はその頃二十歳になったばかりで、お誂え向きの失業者だった。古着屋で買ったバンドマンが着るような赤いコール天の上着を着て、学生ズボンに靴だけは新品の革靴。全財産の入った(中には詩の原稿も)ボストンバックを手にさげ、高田馬場での同人誌の会合に出て、帰りに一杯呑んだおかげで、懐中無一文に近く、終電車に乗りそびれたあげく友人にも逃げられ、深夜ひとりとぼとぼと線路に沿って歩き、ようやく新宿に辿り着くと、かねてから目をつけていたドヤ街の、一番奥にある一番安そうな宿の玄関に立った。」
 「昭和三十六年頃(略)の年末」とその前に記されているから、わたしたちは、「赤いコール天の上着」、「学生ズボンに靴だけは新品の革靴」に、作者の像を想起させながら、新宿の「安そうな宿」に辿り着くまでの時間を、誰もが通過するアドレッセンスの象徴的な情景として共感することになるはずだ。同じような体験をしたかどうかではない。センテンスの長さに、性急さ必死さのような思いを、生きていることの証しとして描像しているからなのだ。
 もう一篇、行変えを精緻にし、刻むようなリズム感を滲みだしながら、紡いでいく極私的物語詩とでもいいたくなる作品がある。
 「綱は始めはゆっくりと次は大きく揺れる。/一年後の東京は六〇年安保騒動の真っ最中で/学生詩人連中は大興奮の様子だったが/大阪にいるこちとら新米の人生サーカス団員は/下駄履き作業服の造船所の工員さん。(略)/私こと人生サーカス団員も二十歳になっていた。/何の感動もなかった。/人生で初めて手がけたといっていいこの工事を終わらせ/待望のボーナスを手にしたらそれを元手に/詩集を出そうとそればかり考えていた。/詩集の題は『見捨てたもの』と決めていた。/何もかも見捨てるつもりだった。二十年しかない過去など捨てて悔いはない。」(「人生サーカス――二十歳の履歴書)
 六二年に第一詩集『見捨てたもの』を井川は出している。「見捨てたものよ さようなら」という書き出しで始まる表題詩からは、「昼は明るく ぼくは好きだ」、「ぼくには涙もないのだ」、「見捨てたことで強くなろう」といった言葉に、わたしは惹きつけられたものだ。
 五十年以上という長い時間を遡及させ、自らを「人生サーカス団員」として、アドレッセンスを描出する作者の現在ということに、わたしなら拘泥してみたい。もちろん、誰もが十代から二十代という時期には悔恨を含みながらも郷愁のような思いを払拭できないことはわかる。それにしてもと思う。父母や祖父母のことを描像した作品があるかと思えば、「二百年」という「二百年後の人々は/まだこの日本の東京と呼ばれた辺りに/かたまって住んでいるだろうか。」という作品もある。
 前詩集から後のことを、井川は「あとがき」で次のように記している。
 「その間に、娘の死あり、(略)清水昶が、二〇一一年五月に急死するという、私にとっては同い歳の詩人の死として、忘れられない出来事があった。」
 さらに、岩田宏の死にも触れている。そして詩集名の「夢去りぬ」には、「すべては過ぎ去って行く」という思いが込められていることが、わかってくる。だが、「過ぎ去って行く」ものは、還り路のようにして、わたしたちの心奥に潜在してくるといってみたい。往ったものは、また、還ってくるというように。
 「東京に降る雪は/いつもはやさしく時に激しく/すべては夢であったよう……//失ったものはかえらない/子供たちとの食事の時に決まって/変なことをいいだして突然怒りだし/せっかくの雪の夜をだいなしにした……」(「東京に雪が降る」)
 家族とのひと時を描出する一篇は、切ない情感が滲み出ている。悔恨。それは、もうひとつの悔恨を思い起こさせていくことになる。時間は、切断して感受出来るものではない。絶えず、連続したものだ。この先の時間もそうだと思う。そのなかに、往きて還ってくるという人と人との生きる場所があるのだと、『夢去りぬ』という詩集は、わたしに語ってくれている。

(『図書新聞』16.12.10号)

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2016年11月12日 (土)

澤村修治 著『敗戦日本と浪曼派の態度』            (ライトハウス開港社刊・15.12.20)

 わたしにとって、日本浪曼派並びに保田與重郎という存在を知ったのは、十代後半の時で、時間性でいえば六十年代後半であった。情況的には反抗と対抗的渦動のなかにあって、思考の方位を迷路のような場所で浮遊していたといえる。国家の有様と天皇制の擬態を撃つことに腐心していたわたしは、権藤成卿や北一輝といった異貌の思想家を通過した後に、保田與重郎に辿り着いていったといっていい。ただし、本腰を入れて読解へと至ったのは、それから十数年後ということになる。
 「日本浪曼派の中心人物が『敗戦』という決定的事態をどう受け止めたのか」ということが、本書の核心的なモチーフとなるわけだが、それは、同時に、ここで取り上げられている保田と伊東静雄、そして、雑誌『コギト』の発行人・肥下恒夫の思考と感性の有様を照射していくことでもある。
 表現者や主義者、研究者たちだけではなく、多くの人たちにとって、戦時下と敗戦後は大きな価値転換を強いられたといえる。だが、強いられたものだったとしても、彼らの戦時下における様態は、天皇制という統治システムを順守し、戦争を肯定していったことは事実である。例えば、詩人の三好達治は戦争賛美の作品を数多く書き上げながら、敗戦後、吐露した言葉が天皇は退位すべきだということだった。それはそれで、間違った視線ではないが、自身の内省はどうしたのだということをわたしならいいたくなる。「転向」という概念がある。昨日まで、急進的な考え方をしていたものが、強制されて保守的な考えに変わることを意味するわけだが、強制力が緩和された途端、何ごともなかったように、つまり、「転向」はなかったかのように、また、急進的な物言いをすることを、「転向」とはいわないことに、「転向」問題に内在する難渋さがあるのだ。ならば、保田たちは、どうなのかということが、本書が突きつける重大な提示ということになる。
 保田も肥下も戦地から帰ってくると、農耕作業を通した生活に入っていく。著者に倣うなら、「帰農者」ということになる。
 「ともに『百姓』となった肥下と保田であった。旧制高校時代からの友情は戦後社会にあっても変わりなく、同志のような連帯感を感じさせる。ふたりは『コギト』を『協同の営為』として刊行し続けることで、昭和前期(二〇年八月以前)、日本的な浪曼主義を発信した。もっとも、日本主義を宣したとはいえども、彼等は軍国日本の与党ではない。彼等は独立運営の雑誌、保田のいう〈孤城〉を拠点に自立して表現活動をおこなったのだ。軍国日本は仕舞にはむしろ彼等を危険視した。/そして敗戦後、今度は新時代が彼等を忌み嫌った。軍国日本の亡霊のような存在だと見た。(略)戦争終結時点の前でも後でも、彼らは反時代的であった。ゆえに孤立した。しかし本来、文学も思想も、そういった地点からしか本物はあらわれないというなら、彼等はむしろ本物への有資格者だといわねばならない。」「戦争時代、〈屍〉になるかもしれぬ戦場へ行く友を送り、残された身として〈さびしいやうな気〉に包まれていた伊東は、拠るべき確乎としたものを持たぬまま、戦後社会に投げ出された。(略)伊東は〈傷ついた浪曼派〉として在り続けたのである。(略)戦後の伊東にも心からの安息はない。かれは人間社会の暗澹を前に矛盾に引き裂かれていたのだ。」
 敗戦後の時空間を、ある種の解放として率直に受け入れることを、わたしは否定したいわけではない。しかし、人は、簡単に価値観の転換というものができるのだろうかと、思う。保田たちの敗戦後の態度を見事だといえるとしても、それは、やはり、彼等の、いや、敢えて特化していえば保田與重郎の思想と感性を横断するものを理解しない限り、本当に見事だといい切ることはできない。戦後憲法が施行された三年後に上梓された保田の『絶対平和論』は、朝鮮半島の内戦に際し警察予備隊が創設された情況を俎上にのせながら、九条の平和理念の空洞性を鋭く突くものであった。保田にあっては、平和憲法という欺瞞を切開していくことは、明治近代天皇制と地続きの中で、論断していくものであったのだ。なぜ、「みやびあはれ」ということに保田が拘泥するのかといえば、近代天皇制は、古代的時間を変容させた擬態の有様でしかないからなのだ。「帰農者」としての数年間、農本主義者の像を持って保田は生命の有様を示したといえる。
 「彼等は実のところ、日本に託した己のうたを、己の生命をうたったのである」と著者は述べる。さらに、「近代」とは、「人びとから『型』と『劇』を失わせたもの」だと断じていく。わたしたちは、いま一度、日本浪曼派、そして保田與重郎たちの“声”を現在という場所へ反照させるべきだと思う。

(『図書新聞』16.11.19号)

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2016年10月15日 (土)

角田忠信 著『日本語人の脳――理性・感性・情動・時間と大地の科学』(言叢社刊・16.4.15)

 わたしが、初めて角田忠信を知り、その著作『日本人の脳』(78年)、や『脳の発見』(85年)に接したのは、吉本隆明の『母型論』(95年)を介してだった。吉本の膨大な仕事のなかで、時間列でいえば後期に位置する著作であるが、『アフリカ的段階について』(98年)とともに、最重要のものとして、わたしは理解しているから、引かれているテクストに対しても、関心の方位は必然的に向けられていったということになる。三木成夫や柳田國男とともに角田の名前が引かれ論及されていく『母型論』の中の一章「大洋論」は、実に刺激に満ちていた。吉本は、角田の仕事に触れて、次のように述べている。
 「角田忠信の研究によれば(角田忠信『脳の発見』)、母音『あ』の音声を聞かせた場合、日本人は左脳(言語脳)優位の状態で聴いており、たとえば米国人は右脳(非言語脳)優位の状態で聴いていることが確かめられている(略)。」「日本人はポリネシア語族と旧日本語族(縄文語族)を象徴し、米国人は、ひろく西欧のインド=ヨーロッパ語族と、もっと拡大して旧日本語族とポリネシア語族以外の語族を象徴するとかんがえてよいことを著者角田忠信は確定している。」
 この角田の研究が、思わぬ反発を受けていたことを、本書の「序にかえて――私の研究の歩み」で、記されている。角田の考えは、言語的文化性からの視角であって、日本人ではなく日本語人(あるいは旧日本語族)というカテゴリーであったにもかかわらず、「欧米諸国からも猛反発があり、ドイツ誌は日本人優越論を主張する超愛国主義者でナチスの再来とまで非難され、私の説は理解されずに非難を浴びせられた」という。そして、「世界は一つという新理念に背くという攻撃が延々と続いた」というのだ。そもそも、「世界はひとつ」とか、「人間はみな同じ」といった理念ほど陥穽に満ちたものはない。世界を構成する諸共同体は、多様性であるということを前提に、そこでの共通項を見出しながら連携していくべきであって、はじめから、〝ひとつ〟と括るのは傲慢なことでしかない。同じように、左脳と右脳の働きが、みな同じとすること自体、科学性の転倒でしかないと、わたしならいいたくなるのだが、角田は、大きな障壁の前に、孤高な営為を続けてきたことになる。
 後半に収められた対話の中で、角田は、「アメリカの学問も随分と政治に影響されているように見えます。初めは少数民族を理解すべきだという相対論を掲げる人たちが頑張っていたものが、いまでは一変して、ある種の普遍論を押し付けようとしているのではないですか。違いは許さないという非寛容が感じられる」と述べている。学問が、「政治に影響されている」と危惧感を吐露する角田の立ち位置に、わたしは感応せざるをえない。何度でもいいたいが、「世界はひとつ」とか、「人間はみな同じ」という間違った普遍性は、欧米至上主義でしかないのだ。角田理論に対して、「超愛国主義者でナチスの再来」といういい方自体が、政治という亡霊に絡めとられたものでしかない。
 本書は、77年から04年までに発表された諸論稿と対話二篇、書き下ろしの「序にかえて」と「おわりに」を付して構成されたものだ。著者は、「日本人の脳の研究から、脳センサーの研究に到る詳細な知見と結論、結果」を紹介できたと、「おわりに」で記している。わたしが、本書で、角田の研究とのあらたな出会いが、「脳センサー」という考え方だ。
 「人間は太陽系の一部として、完全に同調する宇宙とは切り離すことの出来ない無力な存在であることを痛切に感じる。こうして、見えない足下の地殻に異常なストレスが溜まると、その強度に応じて脳センサーには歪みが生じ、地震発生によってストレスが解消されると脳の歪みは消失して正常に戻る現象が見出された。」「人間の中心脳には太陽系の運行と同期するセンサーがあり、宇宙の縮図が私たちの脳幹に記憶されていることは、ほぼ間違いありません。」
 人間(脳)と太陽系(宇宙)同期化し、「完全に同調する宇宙とは切り離すことの出来ない」という捉え方、「宇宙の縮図が私たちの脳幹に記憶されている」という見方に接し、わたしは直ぐに、三木成夫の「生命記憶」、「内蔵波動」という視線から開示されていく「原初の生命球を介して宇宙と臍の緒で繋がる」、「生の波は、どの一つをとっても、宇宙リズムのどれかと交流する」(『胎児の世界』)といった生命形態論に通底していると想起したといっていい。
 脳の世界は、まだまだ、未知の領野を多く湛えているといえる。それは、人間が、国家や政治といったカテゴリーから離れて、真摯に生命の繋がりを見通していくべきであることを示唆しているのだと、わたしなら考えていきたい。角田理論の長い間にわたる試行の集大成である本書は、間違いなく、わたしたちに鮮烈な刺激を与えてくれることを最後に強調しておきたい。

(『図書新聞』16.10.22号)

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