2018年10月 1日 (月)

映画『菊とギロチン』・考

 わたしにとってギロチン社とは、中濱鐡ではなく古田大次郎であった。六十年代後半の対抗的運動の中で、ともすれば情念が直截に奔出する時、既知の理念に仮託することの疑義を払拭できないでいた自分自身の感性が、『死の懺悔』や、啄木の詩篇「ココアのひと匙」へと傾斜していったからだ。中島貞夫監督の『日本暗殺秘録』(69年・東映)で、オムニバスの一篇として古田大次郎(高橋長英)の小坂事件に焦点をあて、『死の懺悔』のモノローグとともに描像していく〈風景〉の秀逸さに共感したことも大きかったかもしれない。山田勇男監督の『シュトルム・ウント・ドランクッ』(14年)では、旧知の廣川毅が演じた。そして、『菊とギロチン』では新人俳優・寛一郎である。
 「恋愛だけではなく、人との距離の取り方などは自分と少し通ずる部分があるのではないかと思うと、日常の古田が少し垣間見えて来るような感覚を覚えました。」(廣川毅「古田大次郎を演じみて、幾つか思うこと」―『アナキズム 17号』13年11月)
 「大次郎の葛藤は、役者一年目の僕自身の葛藤と重なっているところが多かったので、自分に寄せつつ、悩みながら、感情を出し切って演じた部分が多かったです。」(寛一郎、東出昌大との対談「一瞬の三時間半を僕らは活きた」―『映画芸術 464号』18年夏)
 わたしは、二つの作品を対比しようとしているわけではない。また、二人のどちらが古田像に近いのかといったことをいいたいのでもない。「人との距離の取り方などは自分と少し通ずる部分がある」、「大次郎の葛藤は、役者一年目の僕自身の葛藤と重な」るといったことは、関東大震災、そして大杉栄、朝鮮人虐殺後の閉塞的な時代情況のなか、自らの思念を表出することの困難さを抱える古田大次郎の有様を、時間と空間を変容させて、3.11以後へ視線を射し入れてみるならば、息苦しさを抱えるわたしたちの有様に通底していることを意味している。
 映画『菊とギロチン』というタイトルは、確かに菊は天皇の、ギロチンは、ギロチン社つまりアナキストたちのメタファーだとしても、菊の花が好きだという古田大次郎が花菊(木竜麻生)という女相撲の力士に対して共感と恋情を抱き、〈対なる関係性〉をかたちづくろうとしたことの表象だといっていいはずだ。もちろん、もう一つの〈対なる関係性〉、つまり、十勝川(韓英恵)と中濱鐡(東出昌大)の有様も照応させて捉えてもいい。
 中濱と古田が住む舟屋の前には砂浜の海岸が続いている。そこで、「鳥追い女や願人坊主、被災民たち」、そして女相撲の力士たちはもちろん、花菊や十勝川とともに、中濱も古田も一緒に、太鼓や三味線の音に乗って踊っているシーンがある。恐らく、この映画を観た多くの人に強い印象を与えた場面だと思う。そこで、中濱が十勝川に向かって話す。
 「俺の夢はな、満州に行って自分たちだけの国を作る。そこじゃ何もかも平等で。(略)共存共栄の理想郷だ。」
 十勝川は、ただ笑いながら「ホントにできるのかい、そんな国」と応答する。太宰治に「冬の花火」(46年)という戯曲がある。その中でヒロインに「ねえ、アナーキーってどんな事なの?あたしは、それは、支那の桃源郷みたいなものを作ってみる事ぢゃないかと思ふの」と語らせている。瀬々敬久と相澤虎之助の思いは、敗戦後の暗澹たる情況のなかで書かれた「冬の花火」のヒロインに繋がっていくものだ。この海岸での踊る場面で、中濱と十勝川にフォーカスしながら、「中濱鐡と十勝川」というテロップが入る。後段、三治と勝虎が逃避行しようする場面にも「三治と勝虎」というテロップが入る。そして、古田が、花菊を連れ戻しに来た夫・定生を爆弾で脅し花菊を諦めさせる場面。古田と別れたくない花菊が古田に抱きつき口づけをする。そこで、大きく「菊とギロチン」のテロップ。菊は女相撲の力士・花菊であり、ギロチンは心優しきテロリスト・古田大次郎なのだ。
 〈個と個の関係性〉から、〈未知なる共同性〉へとかたちづくることができるだろうかと、いまあらためてわたしは考えている。

(『アナキズム文献センター通信』第44号-18.10.1)

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2018年9月 1日 (土)

栗原康 著『菊とギロチン――やるならいましかねえ、いつだっていましかねえ』(タバブックス刊・18..7.11)

 女相撲と大正期のアナキスト集団・ギロチン社を重層化させた映画『菊とギロチン』(監督・瀬々敬久、脚本・相澤虎之助、瀬々敬久、現在上映中)のノベライズ本である。わたしは、これまで、ノベライズ本なるものを読んだことがない。つまり、オリジナル脚本の映画作品なら、確認する意味で後に、活字化された脚本(映画誌や『シナリオ』誌に掲載されもの)は読むことはあっても、わざわざノベライズ本を読む必要はないからだ。当たり前のことだが原作本と映画化された作品は必ずしもイコールではない。そもそも活字による表現と映像表現は位相が違う以上、別々の作品だと見做す方がいいのだ。脚本は何稿か改稿するので、最終稿ではない限り、実際の作品とかなりの違うものとはいえ、原作とは違い、それほど大きな異同はないといえる。
 著者は、一年前に脚本を入手し、そこからノベライズ本を書き始めたようだ。その間、映像化作品をたぶん観ていると思うが、映画ではナレーションや文字で説明している部分を援用しながらも、著者の熱い思いや思考の先をかなり苛烈に凝縮させて、もう一つの『菊とギロチン』という鮮烈な作品を現出させたといっていいと思う。
 本書は、脚本で記された話し言葉を太文字にして引用し、ト書きにあたる部分は膨らませて、著者が紡ぎだす物語とアナーキーへと向かう思考を発露させていく。例えば、次のように。
 「(略)日本はシベリア出兵。革命のどさくさにまぎれて、ロシアを侵略しにいったのだ。戦争はどれもムダだとおもうが、そんななかでもマジでムダな戦争である。しかも、このとき国内じゃコメがたりなくて米価が高騰し、みんなメシが食えねえよってさわいでいた。そんなときに、シベリアに兵糧をおくっていたわけだ。そりぁ、民衆は大激怒。ふざけんなっていって、一〇〇〇万人規模の大暴動がまきおこった。(略)警官隊もけちらして、交番という交番をなぎたおし、百貨店という百貨店のショーウィンドウをたたきわった。いいね!一九一八年、米騒動だ。」
ギロチン社が結成される場面はこうだ。
 「一瞬できまった。オレたちの手で、ヒロヒトをギロチンにかけてやろう。菊の御紋をギロチンにかけてやれ。(略)この日から、中浜たちはギロチン社を名のるようになった。あっ、ギロチン社っていっても、ガッチガチの組織じゃないよ。宣言文もなけりゃ、綱領もない。とちゅうでやめたくなったら、いつやめたっていい。いざやるときにやりたいやつらでやっちまおう。そういうあつまりだ。(略)いくぜ、兄弟!菊とギロチン」
『菊とギロチン』という物語をかたちづくっていく大きなモチーフは、女相撲の力士たち、なかでも花菊と十勝川の存在だ。女相撲の歴史は古いが、興行的に成立したのは江戸時代中期以降のことのようだ。明治期になって石山兵四郎一座が全国を興行するようになり、女相撲は昭和三八年まで続いたという。物語の玉岩興行は女力士十二名の一座だ。花菊こと、ともよは、姉の死によって後添えとなった先は貧しい農家で、しかも暴力をふるう亭主だった。家出し、「おら、つよぐなりでえ!」といって頼ったところが、玉岩興行だった。十勝川ことたまえは、「朝鮮の忠清北道ってとこでうまれた」のだが、貧しい農家ゆえ、「一六歳のときにくちべらしのために」遊郭へ売られた。「どうせ日本人にヒデエ目にあわされるなら」と日本へ渡ってきたのだ。関東大震災後の最中で起きた朝鮮人虐殺の蛮行。たまえも逃げた先が女相撲だった。
 十勝川と中浜哲、花菊と古田大次郎というふたつ対なる関係性が、女相撲とギロチン社を連結し、閉塞する社会へ必死に対抗しながら生きていくことの切実さを描像していく。終景近く、ともよの夫が一座に現われ、ともよを連れて帰ろうするのを古田は必死になって止めようとする。
「花菊が好きだーぁ‼好きなおんな一人たすけられなくって、なにが革命だァ――ッ‼」「花菊はだれのもんでもねぇ・・・、花菊は、花菊だァ!」
 古田は自分が持っていた爆裂弾をともよの夫に投げつける。大怪我をしたともよの夫に向かって、ともよを諦めるなら医者に連れて行くといって、花菊を断念することを迫る。
 「そうだ。爆弾をつかって、ひとを殺すことがつよさじゃない。人間が爆弾みたいになることが、ホントのつよさなんだ。だれにも制御できない力。女だからああしろだの、妻だからこうしろだの、そんなことをいってくるやつらをパンパンーンッてふっとばして、自分の生きかたを自分でつかみとることがつよさなんだ。(略)女力士、花菊。なめんじゃねえ!/そんな古田の意図がつたわったのか、花菊が泣きじゃくっている。きっと、古田が死を決意してなにかをやろうとしているってのもわかっちまったんだろう。」
 「菊とギロチン」は、天皇とアナキストたちが対峙するメタファーなのかもしれないが、わたしには、瀬々版『菊とギロチン』も、栗原版『菊とギロチン』も、菊は、花菊のことであり、ギロチンは古田大次郎のことだと思う。この対なる関係性は、本書の巻末に書き下ろされた瀬々敬久の「小説・その後の菊とギロチン」でさらに深化させている。
 わたしは、かつて、著者の『大杉栄伝 永遠のアナキズム』の巻頭に配置された大杉の米騒動論を苛烈に論及した「蜂起の思想」から大いなる喚起を受けたものだったが、本書もまた、著者の真摯なる言葉の表出に胸打たれたといっておきたい。

(『図書新聞』18.9.8号)

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2018年8月10日 (金)

長濱治 著『写真集 創造する魂―沖縄ギラギラ琉球キラキラ100+2』(ワイズ出版刊・18.6.23)

 一九七二年五月、長濱治は写真集『暑く長い夜の島』(芳賀書店)を刊行している。数カ月前に生起した連赤事件の衝撃が消えずにいたわたしにとって、この写真集は、残念ながら未見である。七二年五月といえば、四五年、沖縄上陸戦を開始した米軍を主体とする連合国軍に対して日本帝国軍の無謀な抗戦によって二十万人近い戦死者(住民犠牲者は九万人以上)を出した沖縄戦以後、アメリカ国家の統治下にあった沖縄と周辺の諸島が、いわゆる施政権返還によって日本国へ復帰した時であった。しかし、周知のように、復帰とはいえ、現在でも米軍が駐留を続け、地位協定によって統治下と変わらない、米軍が沖縄住民より遥かに優越な立場にある状態が依然、持続されているのだ。
 『暑く長い夜の島』刊行前後のことを、本書の巻頭で著者は手書き文字で次のように記している。
 「(略)返還前の四年余り、私は沖縄行脚を繰り返した。ベトナム戦争只中の沖縄は最前線基地として異様な活気に満ちていた。(略)沖縄復帰日、私は初の写真展『オキナワはアメリカ』を開催、同時に写真集『暑く長い夜の島』を出版する。(略)復帰後も私は度々沖縄に足を運んでいる。概ね仕事旅ではあったが、私の眼に映る沖縄は、半世紀昔と差程変わりがない。(略)アメリカの従属から未だ脱し得ない“負の日本”の貌が重なる。」
 写真家・長濱治の名前は、サブ・カルチャー誌などのグラビア写真で知っていた。四十六年後に二冊目の沖縄をモチーフにした写真集を刊行した著者の思いに、わたしの関心は注がれていくことになる。
  「沖縄の若き創造表現者を撮りたいと思い始めたのは五年前から」だったという。学生時代からの友人で、「沖縄美術界のアウトロー」で、「沖縄現代アートの礎を築いた」真喜志勉の「手を借り、四十数名を撮り終えた一年後、二〇一五年二月半ば」、彼の訃報が届く。本書は、「生きることが表現だ、その先に創造はある」とする「若き表現者」を讃えた写真集であるとともに、真喜志勉へ捧げる書であるといえる。
 本書の扉の後に「天国の酔人/TOM・MAXへ」と献辞した右頁にガスマスクを付けた男(たぶん真喜志勉)の写真を配置。そして直筆の言葉書きが四頁、真喜志勉の顔、続いて染色家・真喜志民子の穏やかな顔、以下、百人の多様多彩な創造表現者たちの顔が映し出されていく。肩書は、実に様々で出色だ。任意に引いてみれば、「兼業造形アーティスト」、「宮古島ジュニアオーケストラ」、「琉球舞踏家、写真史研究所研究員」、「現代美術家、子供絵画教師」、「HSTI骨格調整所『月の庭』所長」、「調理師」、「闘牛カメラマン」、「石彫家」、「沖縄民謡アーティスト」、「菓子企画・広報」、「音楽家[むぎ(猫)]」、「元ミス宮古、三線奏者」、「彫刻家」、「『Bar天井桟敷』オーナー」、「泡盛杜氏」、「空手女子全国チャンピオン」、「三線職人」、「養豚農家」、「宮古の海人」、「紅型作家」、「コーヒー豆焙煎士」、「琉球史芸人」、「主婦」、「ぬちまーす工場長」、「農家民宿経営者」、「琉球舞踏家」、「沖縄民謡歌者」、「郷土玩具制作卸小売業」、「ペーパージュエリー・デザイナー」、「畑人ミュージシャン」、「廃品回生業者」、「虫使い」、「焼鳥職人、養鶏家」、「カスタムメイド・ジーンズ縫子」、「農家」、「筆文字アーティスト」、「漆喰シーサー職人」、「田芋生産者」などである。著者の映像フォーカスは、「表現の奥底に、深く根を張る“琉球魂”の健在」を漂わせている百二人の像を真っ芯で捉えている。何頁かで、米軍基地周辺の写真や街中を闊歩している米軍兵(黒人がやや多い)、オスプレイらしき飛行物体が飛んでいる沖縄の空の写真を挟んでいるが、抗議行動やデモの写真はない。しかし、本書のやや後半部に、「戰歿/沖繩縣知事島田叡/沖繩縣職員/慰霊塔」と記された碑を映し出している。四五年一月、官選最後の知事として沖縄に赴任してきたヤマトンチューの島田叡と県職員四五三名の沖縄戦で亡くなったことへ慰霊碑である。数カ月とはいえ、渾身の思いでウチナンチューを助けたことへの敬慕から、五一年に建立されたものだ。この碑もまた、琉球魂によって創造されたものだといっていいと思う。そして、それは、ウチナンチューとヤマトンチューが深遠に繋がっていることの象徴であり、琉球・沖縄の「現在」は、まぎれもなく、わが列島の「現在」であることを示しているといえるのだ。

(『図書新聞』18.8.18号)

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2018年7月20日 (金)

「映画」をめぐる共同性の場所                 ――新宿昭和館、文芸坐終夜上映他

 いま、思い返してみると、わたしにとって、映画館とは、「映画」を観に行く場所であるというよりも、なにか不思議な感覚を共有する場所であったといってもいい。スクリーンに映し出される「映画」という物語に喚起されて観客(わたし)たちは、ひとつの共同性をかたちづくるかのように、そこでは、もうひとつの物語を生成させていくといえば、いいだろうか。といっても、大それたことが起きるわけではない。つまり、観客(わたし)たちが、スクリーンに向かって騒然と応答することを述べているに過ぎないからだ。
 そのことを、描出していく前に、わたしが、最も数多くの「映画」を観ていた時期と作品について触れていくべきかもしれない。時間性でいえば一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけて、年齢としては、十代後半から二十代前半が、「映画」というものを親近なるものとして感受していた頃になる。
 情況的なことと、年齢的なことが、重層化していくことによって、「映画」は、もちろんのこと、感受するあらゆるモノ、コトが、わたし自身の立ち位置のようのものを決定づける契機になったのは、いうまでもない。振り返ってみるならば、モノの見方や感じ方は、その時期から、あまり変わっていないように思う時がある(要するに、たいして成長しないまま、年齢だけは重ねてきてしまったということになる)。だから当時、感動して観た映画を、いまだに、DVDで繰り返して観ては、同じ場面で感性を刺激されているのだ。例えば、加藤泰の『遊俠一匹 沓掛時次郎』(66年)や、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』(日本公開・59年)は、映画館、VHS、DVDを含めて、何十回となく観ている。
 レンタルビデオ店が活況を呈するようになった頃、「映画」は、映画館で観るものだと公言する人たちが多くいたが、わたしは、すこし違う思いを抱いていた。観たい封切作品が、だんだん少なくなってきたこともあり、映画館へ行って、高い料金を払ってまで観たいと思わなくなっていたからだ。それに、「映画」を、映画館でしか観ることができなかった時代に比べたら、自分たちの部屋が、もうひとつの小さな映画館(思い起こせば、しばしば通った、新宿にあった蠍座という映画館は、試写室と変わらない小さな画面であったから、大きなスクリーンを有しているのが映画館だと、わたしは考えていない)になるわけだから、それ自体、凄いことだと素直に思えたといってもいい。
 当時、わたしが、熱狂的に観ていたのは日本映画で、東映任俠映画(再上映された股旅映画も含む)と一部の日活作品、そしてピンク映画の作品群が中心だった。監督を特化していえは、加藤泰、鈴木清順であり、さらに若松孝二ということになる。もちろん、外国映画作品も観ないわけではなかった。ワイダを別格にすれば、ゴダールやヴィスコンティ、パゾリーニ、フェリーニ、アントニオーニ、トリュフォーといった監督たちの作品もそれなりに観ている。それでも、加藤泰やマキノ雅弘、山下耕作、石井輝男、中島貞夫、鈴木則文以外の監督作品(深作欣二の作品は、やや遅れて七二、三年頃から観るようになった。さらに、日活ロマンポルノの監督たち藤田敏八や、神代辰巳、田中登、加藤彰、曽根中生を挙げてもいい)で、決して傑作とはいえない東映任俠映画であっても、ゴダール作品よりは、素直に感応できたといっていい。
 加藤泰が、任俠映画について次のように語っている。わたしが、なぜ、加藤泰映画に、東映任俠映画に魅せられていったのかという事由のようなことを、直截に提示されているので引いてみたい。

  「任俠映画の世界については、今度皆さんに見ていただいたのは『遊俠一匹 沓掛時次郎』(一九六六)と『緋牡丹博徒 花札勝負』(一九六九)の二つなんですが、『遊俠一匹』のほうは日本がまだ徳川政権で治められていた時代、(略)『花札勝負』は明治のころで、徳川政権と代わった薩長政府が日本を治めていた時代です。どちらの時代も日本は法治国家で、法律で安全な暮らしなり何なりをちゃんと守ることを約束された国でした。ところが、何かがあって普通の社会からはじき出されちゃったとか、やむにやまれぬことで犯罪をおかして、(略)国が定めた法律のもとで安全に暮らす普通の社会がいやだと、そこからはじき出された人間たち、アウトローの世界がある。(略)ところがどっこい、アウトローの世界に逃げ込みますと、そっちの掟があるんですね。/そのアウトローの世界というのは、完全な男社会です。(略)男も女も全部、男でなければいけない。(略)親分の言うことはいっさい聞かなければならない世界です。その中でもし恋愛してごらんなさい。アウトローの世界では恋愛は成り立ちません。(略)恋愛しますね。男は女を愛しくてたまらなくなります。子どもも生まれます。そのとき、(略)親分から『お前死ね』と言われても、これは死ねなくなります。その世界の掟が守れなくなるんです。ですから恋愛は成り立たない。ところが、(略)掟では許されない恋愛、男と女のいちばん美しい瞬間にどうしても突入してしまう。掟にそむいて、そこへ突入した男も女も苦しんだり悩んだり、それにぶつかってじたばたする。そのとき、いちばん美しい顔をします。僕はそう信じる。いちばんいい姿をしてくれます。僕はそう信じる。その瞬間をなんとか見つけて、画にしてみたのが『遊俠一匹』であり、そして『花札勝負』である。」(「人間がいちばん美しい瞬間」―『加藤泰、映画を語る』)

 加藤泰は、アウトローの世界を通しての「男―女」という〈対〉なる関係性に拘泥することを、ここでは鮮明に述べているわけだが、わたし(たち)は、「アウトローの世界」を、たんに任俠的な共同体の枠組みだけで、物語を見ていたわけではない。共同体を、もう少し拡張させて、現実の社会や世界を想起しながら、そこでの統治性と拘束性を通した禁忌の象徴として捉えていたといっていい。
 わたしが、東映任俠映画を初めて映画館で見たのは、国分寺東映(封切館ではなく、二番館だった)での『俠客列伝』(監督・マキノ雅弘、68年)だった。上京して初めて住んだ場所が国分寺であり、いままた、巡り巡って国分寺に住んでいるが、当時、二軒あった映画館はもちろん、いまはない。上京後、欠かさず購読する紙誌は、高校時代から手にしていた漫画誌「ガロ」を別にすれば、「試行」(吉本隆明・個人発行誌)と「映画芸術」(編集長・小川徹)、週刊発行の書評紙「日本読書新聞」(以下「読書新聞」と記す)だった。「読書新聞」の最終面には、映画評や演劇評が掲載されていて、たまたま独文学者の片岡啓治(一年後、個人的に親しくなる)の『俠客列伝』評を読んで、個と共同体をめぐる軋轢や葛藤という視線で論及していることに鮮烈さを感じ、偶然にも国分寺東映で、上映されていたので、すぐさま観に行ったことを覚えている(翌年、『花札勝負』もここで観ている)。わたしは、映画を観て感動して泣いてしまうという経験をそれまでしたことがなかったが、不覚にも、初めてみた東映任俠映画で泣いてしまったのである。客は、五、六人しかいなかったし、暗い場所だから、恥ずかしがる必要なかったとしても、やや、衝撃感を覚えたといってもいい。年齢を重ねると涙もろくなるものだというが、そんなことはない、若くても、泣くときはあるということだ。住んでいた長屋のようなアパート(みんなは、勝手に野人舎と称していた)の住人で、わたしより一、二歳年長の友人は、任俠映画を観て、つい泣いてしまうと、その頃よく話してくれていたから、内心、ほっとしたものだった(もちろん、恥ずかしくて、わたしもそうだと相槌をうたなかったのはいうまでもない)。
 ただ、いま思うと、どうして、『俠客列伝』なんだという感慨は残っている。その後、二度ほど、見直す機会があったが、どの場面で涙したのか、まったくわからなかったからだ。
 ただし、わたしは、『遊俠一匹 沓掛時次郎』や山下耕作の『関の彌太っぺ』(63年)を何度見ても、いまだに同じ場面で涙していることを告白しておきたい。
 池袋・文芸坐と新宿・昭和館という映画館は、わたしにとって、最も切実なる共同性の場所だったと断言できる。ほんとうは、この二つの映画館に特化して述べていくことが、わたしの「映画」をめぐる物語ということになるのだろうが、残念ながら、記憶は時間とともに希薄になり、詳細に語るべき残滓を集積することができなかったといっていい。ひとまずは、ひとつのテクストから二つの映画館について引いてみたいと思う。

  「昭和館(開館時定員570)は昭和七年(一九三二)一二月二二日に松竹・パラマウント作品を上映するSPチェーン封切館として開館した。(略)戦時中の昭和一九年(一九四四)四月、(略)空襲対策で(略)取り壊された。再建は昭和二六年(一九五一)で、(略)始めは洋画を上映していたが新東宝の封切館となり、(略)昭和三七年(一九六二)頃(略)から任俠物と喜劇の組み合わせ番組になり、次第に任俠映画が主体となった。(略)昭和館はこの界隈の空気に馴染むように存在していた。(略)任俠映画ファンに混じって、その日の仕事がなかったと思われる労働者らしき人たちが映画を観ずに座席で寝ていた。客層にも場所柄があらわれており、女性の単独客などは見たことがなかった。(略)平成一四年(二〇〇二)四月三〇日、建物老朽化により地下劇場と共に閉館となった。」(青木圭一郎『昭和の東京 映画は名画座』)

 昭和館で、どんな作品(東映任俠映画であることは間違いないが)を観たのかは、もう覚えていない。後に触れる文芸坐のオールナイト五本立ての作品群で観ていたもの以外ということになると思うのだが。ちなみに、地下劇場は1956年に開館したという。わたしが、知っている頃は、成人映画専門の上映館だったが、成人映画以外の作品を二回ほど地下劇場で観た記憶はあるが、自信はない。もしかしたら、文芸地下と記憶が混同しているかもしれない。
 「昭和館はこの界隈の空気に馴染むように存在していた」のは確かだ。わたしにとって、昭和館近くの飲食店が並ぶ路地の飲み屋に度々通っていたし、喫茶店名は忘れたが、片岡啓治氏と初めて会った時に指定された喫茶店が気に入り、頻繁に通っていたものだ。要するに、わたしは、昭和館の界隈が、新宿の中でも特に気にいっていたことになる。だから、歌舞伎町やゴールデン街は、銀座と同じ様に、遥か遠い場所であったといえる。
 「任俠映画ファンに混じって、その日の仕事がなかったと思われる労働者らしき人たちが映画を観ずに座席で寝ていた。客層にも場所柄があらわれており、女性の単独客などは見たことがなかった」という記述に対して、昔なら、感情的になり徹底的に批判の言葉を投げつけていたかもしれない。
 だが、わたしとは、同年の記述者に向けて、憤ってみたところで、自分自身が空しくなるだけだ。当時の、文芸坐のオールナイト五本立て上映の際も、満員席のほとんどが、学生たちや、けっしてスーツが似あうような人たちではなかったし、任俠映画や股旅映画の時は、女性客をほとんど見かけなかったといっていい。同世代で、任俠映画や成人映画を観るのは、映画好きの中では少数派だったといえるからだ。日本映画なら東宝や松竹の封切作品で、後は、洋画ファンが圧倒的に多かったといっていい。
 もう少し、踏み込んでいうならば、いまになって、回顧的に全共闘世代に支持された任俠映画といういい方があるが、それは、正しくはない。「全共闘世代」という世代の括り方が間違っているからだ(団塊といういい方にも、わたしは首肯しない。出生数が多い世代ということでいいと思うのだが)。全共闘を学生運動や対抗的な渦動のなかに身を置いていることの象徴として述べるならば、同世代でそのようなかたちで関わっていた者たちは、おそらく、一割にも満たないはずだ。そして、誤解のないようにいえば、任俠映画ファンがすべて、対抗・抵抗的な渦動の中に身を置いていたわけでは、もちろんない。運動に関わるだけの熱意はない、真面目に勉強し、単位を取って卒業して、それなりの会社に就職するといったイメージを抱くことができないといった学生たちの方が、多くを占めていたかもしれないからだ。やるせない感性を任俠映画の世界の中で慰藉されていくことは、わたしにはわかる。「その日の仕事がなかったと思われる労働者らしき人」たちと、わたしは形容して述べることに同意したくはないが、その「労働者らしき人」たちだって、任俠映画の世界に慰安を求めていたのだと、わたしには思われる。

 日々を慰安が吹き荒れて
 帰ってゆける場所がない
 日々の慰安が吹きぬけて
 死んでしまうに早すぎる
 もう笑おう、もう笑ってしまおう
 昨日の夢は冗談だったんだと
       (吉田拓郎「祭りのあと」)

 結局、けっしてハッピーエンドではない任俠映画に慰藉や慰安を求めても、ただ「吹きぬけて」しまうだけなのだ。わたしは、その頃、その時、どんな感性をもって、映画を観るために映画館へ出かけていったのかと思う時がある。わたしもまた、慰藉されたり、慰安を求めていたのだろうかと、振り返ってみるが、加藤泰のいい方に倣っていえば、「掟にそむいて、そこへ突入した男も女も苦しんだり悩んだり、それにぶつかってじたばたする。そのとき、いちばん美しい顔をします。僕はそう信じる。いちばんいい姿をしてくれます。僕はそう信じる」ということの地平を確認することにあったのではないかと、いまなら、いい切れるような気がする。そして、「掟」とは、いうなれば「共同幻想」であるといった捉え方を可能にしていると考えていたといっていい。

  「人生坐(引用者註・昭和四三年七月、閉館)の系列館として地下の文芸地下劇場は昭和三〇年(一九五五)の一二月二七日に既にオープンしていたが、地上にある文芸坐はやや遅れて翌昭和三一年(一九五六)の三月二〇日に開館した。(略)観客は常連が多く、タイトルに贔屓の出演者名が表れたり劇中に登場すると、拍手や『ヨォーシ』と言う学生集会のような声が掛った。(略)平成九年(一九九七)三月六日、建物の老朽化により閉館となった。(略)跡地に(略)新しいビルが建築された。(略)三階には平成一二年(二〇〇〇)一二月一二日に新文芸坐(266席)がオープンした。」(『同前』)

 わたしは、なぜか新文芸坐には、一度も行ったことがない。文芸坐での映画的熱気を記憶のなかに、残存させていたいからといえば、聞こえはいいかもしれないが、単に、池袋まで出かけていく気分が、なかなか湧いてこないからだ。
 文芸坐の土曜日終夜上映(五本立て興行)が、いつから始まったのか、前著によれば、1968年5月の石井輝男監督作品『網走番外地』シリーズの第一作から第五作までのオールナイト興行だったという。以後、『日本俠客伝』シリーズや『昭和残俠伝』シリーズなどが上映され、「毎回大入りとな」ったが、「地元の東映系の映画館からの反対によって昭和四六年(一九七一)二月までで終了した」という。ただし、「昭和四七年(一九七二)頃から日活映画のオールナイト上映が始まっ」たと記している。
 わたしは、69年から70年にかけて、もしかしたら71年も含めて行ったのかもしれないが、はっきりしたことはいえない。ただ、『番外地』や『残俠伝』シリーズを観に行ったことは、覚えているし、『鈴木清順大会』、『大島渚大会』(『日本の夜と霧』と『日本春歌考』だけを観たいために行ったから、他の三本の時は、ほとんど寝ていたと思う)、加藤泰作品を観たいために『中村錦之助大会』などに行っている(〝大会〟と称していなかったかもしれないが、わたしたちは勝手にそう捉えていた。『錦之助大会』とは別に『加藤泰大会』もあったと思うが記憶は曖昧だ)。
 ところで、「観客は常連が多く、タイトルに贔屓の出演者名が表れたり劇中に登場すると、拍手や『ヨォーシ』と言う学生集会のような声が掛った」と記されているが、わたしが観ていた時とは、かなり違う印象があるから、もう少し詳細に述べてみたい。まず、「観客に常連が多い」から、画面に向かって拍手したり声を掛けたのではないと思う。ほとんど、自然発生的に湧き上がってくるといった感じといえばいいだろうか、タイトルが出ると、まず歓声と拍手、そしてスタッフ・キャストのクレジットが始まり、高倉健や藤純子という文字が表れると、当然、大きな拍手が起こる。だが、特に加藤泰や鈴木清順の時は、タイトルクレジットの最後に監督名があらわれるとさらに大きな拍手が起きて、感動的であった。
 誰もが、初めはそうだったのかもしれない。あるひとつの映画作品を観たいと思う契機は、物語に惹かれたり、好感する俳優が出演しているからということが多いに違いない。わたしは、映画に対して、監督主義あるいは作家主義的に作品を追いかけていくということを、この時期に感得したといっていい。だから、監督名がクレジットされた時、大きな拍手と歓声(鈴木清順の時は、「セイジュン」と声が掛る)が湧き上がることに、わたしは感嘆することになるのだ。
 もちろん、タイトルクレジット時だけに応答があるわけではない。映画という物語との往還のなかで、観客たちは、たえず共同性をかたちづくっていくのだ。
 例えば、『昭和残俠伝 血染の唐獅子』(監督・マキノ雅弘、67年)では、殴り込みを決意した高倉健を藤純子が泣きながら止める場面にたいして、観客席からいっせいに、「めそめそするな」と声が飛ぶ。殴り込みに行って、高倉健が、「死んで貰うぜ」という台詞が出ると、「ヨォーシ」や「異議なし」の声がかけられる。
鈴木清順の『けんかえれじい』(66年)では、タクアン(片岡光雄)がステッキで桜の樹を叩くと、はらはらと桜の花が散る場面に、「セイジュン!」と声が放たれる。あるいは、終映の“終”や“完”の文字が表れると、いっせいに拍手が鳴り響くのだ。
 歌舞伎というものを、わたしは観劇したことはないが、芝居の中で役者の通称名が客席から発せられるようだが、むろん、当時の文芸坐や昭和館の観客たちは、誰も歌舞伎を観劇したことはないと、いい切っていいと思う。例え清順映画に、歌舞伎的様式美があったとしてもだ。
 わたしたち観客の応答は、街頭での示威行動や“学生集会”のなかで発せられる応答とは、似て非なるものだ。情況的なるものの同時性はあったとしても、「映画」をめぐる共同性の発露は、あくまでも、「映画」という物語から喚起されたものだからだ。そして、これだけは、強調しておきたいことだが、観客それぞれは、映画を見終え、劇場を出ていけば、ふたたび、会いまみえることもなく離散していくことになるとしても、共同性をかたちづくったことの事実は不変だといえる。それは、いわゆる反抗と対抗の渦動の時代だったからこそ、映画になにがしかの思いを仮託していたための応答だったからだといいたい。

(『塵風 第7号』18.7.15)

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2018年6月 9日 (土)

矢崎秀行 著『つげ義春 「ねじ式」のヒミツ』          ( 響文社刊・18.1.15)

 一九六八年という〈場所〉から、五十年という〈時間〉を刻んだことになる。十年刻みでメモリアルな想いを込めることに、わたしの感性は動かないし、わたしにとって、六七年も六九年も同じ様に地続きな時間としてあるから、六八年だけを特化して捉え返すということはしたくないと思っている。つまり、全国的な学園闘争が惹起したことや新宿を中心とした国際反戦デー闘争、あるいは三億事件を、六八年を象徴するものとして見做すことはしないということをいいたいだけなのだ。後年、〈六八年革命〉などという大仰な捉え方をすることに、わたしは明確に否といいたい。わたしにとって、最も大きな事件は、吉本隆明の『共同幻想論』(十一月下旬刊)を読んだことだ。もうひとつ、付け加えるなら、つげ義春の『ねじ式』(『ガロ』六月増刊号)が発表されたことになるのだが、つげ作品から受けた衝撃度としては、高校生の時にリアルタイムで読んだ『沼』(『同前』六六年二月号)の方が大きかったし、『ねじ式』の直ぐ後に発表された『ゲンセンカン主人』(『同前』七月号)も『ねじ式』と同等の評価をされるべき作品だと思っている。
 本書の著者は、わたしより七歳ほど年少で、「『ねじ式』を初めて読んだのは19歳の時、1975年」だったという。七五年といえば、作品集『夢の散歩』(北冬書房)が刊行された時ということになる。わたしが本書に対して率直に感受できたのは、『ねじ式』をテクストとして、著者の思考の根拠を全篇にわたって透徹させていると思ったからだ。『ねじ式』論であるとともに、著者による思想論であるということに、わたしの心性は大いに刺激されたといっていい。
 もちろん、『ねじ式』の解読、つまり、〈ヒミツ〉の解析は、十人の読者がいれば、十通りのアプローチがあって当然だと思うし、どれが正解などというのは、まったく埒外にあるといっていい。著者の視線を、わたしなりに収斂させて述べるならば、〈死生観〉への真摯な論及ということになる。
 「『ねじ式』の冒頭のコマ絵は、死と重苦しい敗戦・占領の雰囲気に満ちている。それでは全面的にマイナスのイメージに覆われているかというと必ずしもそうではないと思われる。それはページの下半分に『海』が描かれているからである。あたかも海の彼方から到来してくるように主人公が、つまりつげ自身がこの漫画に登場してくるからである。戦火に傷ついた《マレビト》のように痛めた左腕を押さえて彼が到来してくるからである。」「『ねじ式』の本筋は、《日本人の死生観の変容》であり、(略)《その死生観の劣化》である。(略)お手軽な死生観(生き方死に方)に、彼は本気で強い違和感を底流では表明している。」
 このように述べていく著者の鮮鋭な『ねじ式』論に敬意を表しながらも、一九六八年時、十八歳(誕生月は十一月)で、『ねじ式』に接した立場から、少しだけ異和を述べておきたい。わたしもまた、冒頭の飛行機にベトナム戦争の〈影〉を見たのは確かだが、だからといって著者が「つげ義春にもこうした米国のアジアのベトナム戦争軍事介入に対する《義憤》があり、それに基づく反米感情があったと感じる。それがこの1968年に創作された『ねじ式』にも底流に流れていると強く感じる」と述べていくことには首肯できないといっておきたい。表現者つげ義春にとって《義憤》や「反米感情」は、最も遠い感性だと思うからだ。だからこそ、『ねじ式』という作品に普遍性があるのだ。著者が、作品から反戦、反米といったことを感受することは否定しない。だが、作者がどういう意図を持って表現したかは、別問題であり、作者の感性の深層まで切開していかなくても、作品論は成立するものだといえるはずだ。
 スパナ男は、木村伊兵衛が撮ったアイヌの教育者・言語学者の知里高央を引用したものだという論及から、アイヌの「他界と現世を往還する」死生観に着目していくのは見事だと思う。そして、次のように導いていく著者の論旨は、あらたな『ねじ式』論の達成を象徴しているといっていい。
 「生死が連続する循環的な死生観、私たち日本人の本来の死生観においては死と生は通路でつながっており、再生の回路が確固としてあるという意味なのである。そこを《ニライ・カナイ》と呼ぼうが、《根の国》《常世の国》、あるいは《アフンルパルの他界》と呼ぼうが、どう呼んでもいいと思うが、私たち日本人の魂の根源の国は、再生のない死穢の黄泉の国ではなく、命の再生がある点が最大の特徴の聖所だということである。つげはそうした意味で『それほど死をおそれることもなかったんだな』と言っている。」
 わたしもまた、つげ義春という表現者の作品には、絶えず、「死」というものの陰影が潜在していると見做してきた。『ねじ式』は、確かに死と生が往還する物語と捉えることを可能にしていると思う。それは死を救済することによって、生を根源化して表出することを意味するからだ。

(『図書新聞』18.6.16号)

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2018年4月21日 (土)

吉本隆明 著『吉本隆明質疑応答集 ③ 人間・農業』          (論創社刊・18.2.25)

  『質疑応答集』の本巻は、「『受け身』の精神病理について」、「異常の分散――母の物語」、「言葉以前の心について」、「自己とは何か」など〈人間の心身〉をめぐってなされた講演後の質疑応答をⅠ、Ⅱ章に配置し、安藤昌益についての講演も含む〈農業〉をめぐる講演後の質疑応答をⅢ章として、編まれている。
 時として、当日の講演をさらに深化させていくかのような言葉を発しながら、吉本の、どのような質問にたいしても、真摯に切実に応答する姿勢は、本巻でも、貫かれている。
 例えば、「『生きること』と『死ぬこと』」(八〇年六月)の講演後では、当時、六十三歳の男性の質問者が、「『生きること』と『死ぬこと』というような抽象的なことではなく、政治的なことで」質問があると述べ、「今の憲法にたいして全然批判的ではない。実績は評価している」としながらも、「今の憲法を立派にするためには、軌道修正する必要がある」と思うが、「どう思っておられますか」と聞く。吉本は、こう答えていく。
 「あなたと僕とでは、『新憲法は立派じゃない』と思ってるところがちがうと思うんです。たとえば、『天皇は国民統合の象徴である』というところがあるでしょう。僕はああいうところが立派じゃないと思うんです。(略)とにかく僕は、そこでは不満をもっている。(略)とにかく、そこがガンだと思っています。」
 わたしの記憶のなかでは、吉本が明快に第一条の象徴天皇条項に触れた記述に接したことがなかったから、即座にこの発言に惹かれたといっていい。第九条に込められた理念を積極的に評価する吉本にたいし、同意するとともに、やや逡巡してきたわたしにとって、ようやく共感できる位相に出会ったことになる。この国の〈憲法〉が、九条の前に、一条(「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であってこの地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」)から八条まで天皇条項が配置されることに、わたしは、まったく首肯できないでいたからだ。「主権の存する日本国民の総意に基づく」と記述されるわけだが、いったい、いつどこで、国民の総意がかたちづくられたのかといえるからだ。不満だ、ガンだという、吉本の裁断は極めて先鋭だと強調しておきたい。
 もうひとつ、わたしが本巻に収められている質疑応答のなかで、特に視線を注ぐことになったのは江戸中期の思想家・安藤昌益をめぐるものだ。
 「(略)日本の思想家は近世ならたいてい儒教の影響を受けています。安藤昌益だけはそういう影響を身につけてはいますが全部排除するというか否定するというか、そういうことを徹底してやっている人です。何はともあれ安藤昌益のいちばん根本的な思想は何かというと、『直耕』という概念です。」(講演「安藤昌益の『直耕』について」九八年九月―『吉本隆明〈未収録〉講演集〈3〉』) 
 そして、その講演で昌益の思想をシモーヌ・ヴェイユや親鸞へと敷衍していくのは、吉本らしいといえる。だが昌益を最初に発掘したのは、E・H・ノーマンだと述べているのだが、狩野亨吉という漱石の友人だったことだけでも知っていて欲しかった。質疑応答のほうでは、「直耕」という概念を『母型論』のなかの重要なモチーフとなった贈与へと連関づけていることに、わたしは重視したことを記しておきたい。
 さて、ここからは、『質疑応答集』の校訂と解説を担当している詩人・批評家の築山登美夫氏が論述している「『劇(ドラマ)』としての人間」と題した本巻の解説に触れたい。静謐な文体から滲み出てくるのは、解説文という枠を超えた鮮烈な吉本論である。なぜなら、徹底して吉本の有様に、築山氏自らの心性を注ぐように言葉を紡ぎ出しているからだ。
 講演「農村の終焉――〈高度〉資本主義の課題」(八七年十一月)の後の質疑応答では、国鉄の分割・民営化に反対して労働運動を指向していくとする質問者にたいして、「それはちがう」と激しく応答する吉本を捉えて、「口調はしだいに急き込んで、激流のようにとどまることを知らなくなり、たぶん途中からは質問者を含めた会場を凍らせるようだったのではないでしょうか」と記していく。そして、次のように述べて、この文章を閉じていく。
 「この応答の場面では、最後にいたって吉本さんの口調は我に返ったかのようにやわらかくなり、質問者へのいたわりを見せます。考え方の相違とはべつに、彼もまた無名の民衆の一人として、時代の波に翻弄されながら自分の運命をつくって行くほかない。そのことに例外はないのであって自分もまたそうしてきたのだ。そのかなしみが吉本さんを襲ったのだと、私には思われるのですが。」
        ※
 築山登美夫氏は、わたしの親しい友人である。彼からは、かなり前の段階で『質疑応答集』の企画を聞いていた。そして渾身の思いをかけていたことは、校訂作業に入ってからの彼の言葉のひとつひとつから伝わってきていたといっていい。だが、昨年末、彼は急逝した。突然の訃報に、わたしは、いまだに哀しい寂しいという言葉が直截に出てこない状態が続いている。彼の不在を確信したくない自分がいるからだ。
 彼の〈死〉によって、『吉本隆明質疑応答集』の四巻以降の刊行は、暫くの延期となっている。

(『図書新聞』18.4.28号)

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2018年3月 3日 (土)

赤澤史朗・北河賢三・黒川みどり・戸邉秀明 編著       『触発する歴史学―――鹿野思想史と向きあう』             (日本経済評論社刊・17.8.12)

 かつて、鹿野政直(一九三一~)は、「ひとはだれも、時代のもつ拘束性から自由ではありえません。それだけに、自己のうちに潜む非拘束性を自覚しつつ、それと格闘するとき、思想主体はもっとも耀き、そこで生みだされる思想は、時代を超えて光を放ちます」(『近代日本思想案内』九九年刊)と述べていた。わたしは、鹿野の心意を直截に表出している論述だと思っている。なぜなら、いわゆる歴史学というものは、最も「時代のもつ拘束性から自由ではありえ」ない領域だと、わたしは見做してきたからだ。「時代」を「情況」や「イデオロギー(マルクス主義)」と置き換えてみれば、理解は明白になるはずだ。わたしにとって、そのような「拘束性」と格闘した歴史学者は、鹿野の他に、網野善彦しか思い浮かばない。学際的な場所からは、他にもっといるだろうと声が出るに違いない。家永三郎、色川大吉、さらには政治思想史としての丸山眞男というように。だが、わたしが考えているのは、歴史的事象だけが歴史学の対象ではないということになる。人々の暮らしや生活から滲み出てくる経験相へと、開かれた視線を持って、自在な思想性を析出することが、「拘束性から自由になる」ことだと捉えたいのだ。だからこそ、二人に共通のものがあると見做したいと思う。
 さらにいえば、「思想という言葉を、もう少しひろい意味に用いたい」として、「あらゆる作品が思想性を湛えている」と述べながら、「思想の角度は、歴史を、可能性や構成力の欠落や陥穽から洗い直してゆく効用をも」(『同前』)っていると述べていく鹿野の視線は、なによりも鮮鋭だといいたいのだ。
ところで、わたしが、鹿野の著作に初めて接したのは、堀場清子との共著『高群逸枝』(七七年刊)だったが、高群に深い関心を抱き始めた頃ということもあるが、「あらゆる作品が思想性を湛えている」ということでいえば、必然的な出会いだったといえるかもしれない。
 さて、本書のようなかたち(恐らく、初めての鹿野政直論集だと思う)で、鹿野政直がこれまで論及、論述してきた「作品世界」を対象に、「日本現代思想史研究会」に参加する会員による「共同研究にもとづく論文集」が出されたことへ驚きとともに、感嘆の思いを抑えることができなかったといっていい。
 諸論稿は、どれも力論である。「序説」も含めると全十一章を九人の執筆者によって構成している本書に対して、全てを俯瞰して論及する余裕がないことを、いささか弁明しながら、わたしが共感する、鹿野政直が紡ぎ出す「思想」の表出を照らし出している論稿を以下、任意に援用してみることにする。
 「鹿野は、あらゆる場に成立する“権威”に抗うことを求め、『うちなる奴隷性』(略)を見つめ、疎外されている人びとの声を拾い上げ、日本の現実的な問題に“正対”してきた研究者である。鹿野の学問研究の手法は、学会の主流に身を置かず、主として作品そのものをとおして読者に直接はたらきかけるというものであった。」(黒川みどり「鹿野思想史と向きあう――『近代』への問い」)
 「うちなる奴隷性」とは、まさしく「時代のもつ拘束性」に通底するいい方だといってもいい。そして、そのことを見通し切開していくためには、「学会の主流」とは相対する立ち位置にいることが必然になるといえる。さらに付言してみれば、「あらゆる場に成立する〝権威〟に抗う」ことは、一人の、つまり、個としての存在性(それを思想性といい換えてもいいはずだ)を確信していなければ、できないことなのだ。
 「そもそも鹿野がことば遣いに注目するのは、ことばを通して、その『根』にあるもの・思想が『発酵する土壌』に思い致すからである。それは書き手・語り手や芸術作品の制作者の姿勢すなわち精神に眼を向けることであろう。」(北河賢三「触発する歴史学――鹿野思想史の特徴と性格について」)、「『初年兵哀歌』をめぐる議論の焦点ともなる被害と加害の問題についても、鹿野は両者の関係性、いわばダイナミクスが一人の表現者の主体においてどのように作動しているかを問題とした。(略)鹿野自身の経験と共振させながら、日本軍兵士だった作家の精神構造と戦後日本への異議申立てを絵の中に読み解き、絵画から照し返されるようにして言葉を紡ぎ出していく。」(小沢節子「鹿野政直『浜田知明論』の深度と射程――歴史家が絵画を読むということ」)
 表現されたもの、つまり作品というものに向きあう時の鹿野の姿勢を、二人の論者は述べている。北河が、ことばの「根」にあるものを「思想」と見立てて、それを「発酵する土壌」だと見通すことで、後段において、「科学的歴史学」に対し「文学的歴史学」というものを対置させながら、鹿野の歴史的視線の方位へと言及していく。小沢は、「共振」といういい方をもって、鹿野の思想の表出を見事に照射しているといえる。二人の論者の衒いのないいい方は、鹿野が発する言葉から率直に喚起されているからだといっていいはずだ。
 「一九八〇年代にかけて、鹿野の著作活動のなかに沖縄の『戦後』が一気に前景化する。(略)一九八七年、書き下ろしも含めて『戦後沖縄の思想像』(略)にまとめられた。(略)今日に至るまで、これほど綿密に史料分析に裏づけられた沖縄の戦後史はない。(略)本土戦後史という枠組みの解体を促す『沖縄の戦後』の発見は、手慣れた自己の思想史分析を応用する場所ではなく、鹿野自身の思想の見方の根底的な組み替えを要請した。」(戸邊秀明「いのちの思想史の方へ――鹿野民衆思想史にとっての沖縄」)
 鹿野政直の思想・思考の方位は、極めて「現在的」だと思う。「現在的」というのは、今を生きている人々の暮らしへと「共振性」をもって視線を向けていくことである。だから、鹿野は絶えず歴史思想というものを触発し続けているといっていい。

(『図書新聞』18.3.10号)

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2018年2月24日 (土)

新居 格 著『杉並区長日記――地方自治の先駆者』    (虹霓社刊・17.10.20)

 恐らく、戦前期の社会主義運動やアナキズム運動に関心を持っていたとしても、本書の著者、新居格(にいい・いたる、一八八八年~一九五一年)を知っている人は、極めて少ないと思う。
 例えば、アナキスト詩人・秋山清は、新居について「啓蒙的社会評論家として、アナキズム思想家として、文芸および文化批評家として、またユニークな短編小説家として、最後に、太平洋戦争後に東京都杉並区の戦後第一回の区長選挙に当選し(略)一個の知識人として多面的すぎるほどの特長を身につけた生涯」(「反骨の自由人 新居格」・七一年一〇月)を送ったと述べている。わたし自身、秋山の新居論に誘われるようにして、機会があれば、新居の著作に接してみたいと思ったのだが、いつのまにか閑却してきたのだ。それには、幾つかの事由があるのだが、たぶん戦時下でも情況とは距離を置いていたため、戦後直ぐに旺盛な執筆活動を開始し、ついには、一年間だったとはいえ四七年に杉並区長として、その任にあったことに、不思議な感慨を抱きながらも、なぜか、積極的に接近しようという思いが湧かなかったからかもしれない。だから、長い時間を要して、ようやく、いま新装版(五五年刊の『区長日記』を底本とし、七五年刊の『遺稿・新居格杉並区長日記』を適宜、参照)の本書を読むという僥倖を得たことになる。
 そして、読了後、わたしは率直に驚嘆したといいたい。新居格という人物像や、その著作活動を熟知していなくても、本書は、副題にもあるように、地方自治、あるいは行政というものはなにかということを、ほとんどリアルな視線で、〈現在〉を見通していることになるからだ。
次々と軽佻な知事に変わる東京都や排他主義の知事を生んだ大阪府の有様、さらには国会議員の劣化が、そのまま、地方議員にも汚染しているかのような、皮相な不祥事の頻出を思えば、杉並区長・新居格を、〈鏡像〉とすべきだと、わたしは、いいたくなってくる。
 「天下国家をいうまえに、わたしはまずわたしの住む町を、民主的で文化的な、楽しく住み心地のよい場所につくり上げたい。日本の民主化はまず小地域から、というのがわたしの平生からの主張なのである。/美しくりっぱな言葉をならべて、いかに憲法だけは民主的に形作っても、日本人の一人々々の頭の中が、相変わらず空っぽであり、依存主義であり、封建的であるのでは、なんにもならない。わたしは、日本中のあちこちの村に大臣以上に立派な村長ができたり、代議士以上に信用のできる村議会議員がぞくぞく出てくるようでなくては、本当の民主主義国家の姿ではないと思っている。」「彼らはいう。――君は理想主義者だから現実を知らぬ、と。だが、わたしはそれに対してこう抗弁することが出来る。/わたしが現実を知らぬというのは間違っている。ただ、君等と現実の認識に相違があるだけだ。そしてわたしは昂然といい放った。/君等の現実の認識とは、旧態依然たる現実が対象ではないか。それに反してわたしのは、進行形においてなされるのだ、と。」「首長は、外部にたいしましては全的に責任を負うものではありますが、内部的には各自がそれぞれに全責任を負うわけになるのであって、わたしたちの職場ではだれもが誰をも支配していないのでありまして、あるものは分担の相違だけなのであります。」
 当時、杉並区は人口三十万人だった。区長とはいえ、地方の県庁所在地の市と同じ規模を有していると考えてみれば、新居の首長としての構想は、大胆で斬新過ぎたといえるかもしれない。新居が杉並区長だった時から、七十年経ったことになる。だが、新居の地方自治の構想からは、大きく後退・停滞しているのが、現在的な様態だといっていい。
 「わたしたちの居住地区では区議会議員がある。そのうちで、都議会議員に可能性があると思うものは、この次には都議会に出るという気になるのだ。(略)次には国会ということにする。そこに根本的な誤謬があるので、その連中は初めから自治体の意義を知らず、小地域ながら自治体のためにつくすことがいかに尊貴なことであるかを弁えないのだ。」
 そもそも、〈政治家〉は、パブリックサーバントであるべきである。しかし、いつの間にか、自らの地位に権力という媚薬があることに酔いしれていく結果、たんなる上昇志向という病に罹っていくことになる。
 地方行政が、国からどれだけ多くの予算を配布してもらうかということに汲々としている限り、地方自治というのは幻想態に過ぎない。国から村へと至る現在の垂直的な構造を考えてみれば、新居が描く、「まず小地域から」というベクトルの可能性は、明らかに至難なことに思えてくる。「政治力とは、他の区を出しぬいて都からより多くの交付金(略)をせしめることなのか」と新居は憤怒する。選挙の度に住民のためといいながら、当選してしまえば、自らの地位に連綿としている〈政治家〉たちがゾンビのように蔓延っていては、〈政治〉は、わたし(たち)の〈生活〉と相反する位相でしかないと断定していい。
 持病であった腎臓疾患が悪化せず、少なくとも、数年、杉並区長を続けて、新居格の〈理想〉の落葉でも残してくれていたならと思わずにはいられない。

(『図書新聞』18.3.3号)

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2018年2月17日 (土)

五十嵐勉 著『破壊者たち』(アジア文化社刊・17.9.7)

 五十嵐勉が著した本著を読み終えて、真っ先に思ったことは、なぜこれほどまでに苦悶する物語を、著者は描出しようとしたのだろうかということだった。
 物語(小説作品)というものは、現在と未来をどのように見通すことが出来るのだろうかというモチーフを有していると、わたしは理解してきた。だからといって予定調和的な展開であるべきだとは思わないし、押し付け的な未来像を見せられることを求めてきたわけではない。例えば、高橋和巳がかつて著した『邪宗門』(六六年刊)という小説を、救済のない、ただ破滅していくだけの物語だと、当時、多くの批判にさらされていたのだが、共感していた読者であるわたし(たち)は、けっしてそうは捉えてはいなかったのだ。なぜなら、マイナスの位相を集積していくこと(つまり、“敗北の構造”を徹底的に感受することで理解しうる道筋というものがあるのだという思い)によって、必ずどこかでプラスの位相へと転化していく可能性があるはずだと考えていたからだ。
 本書の物語は、三つの場所からの視線を交互に描きながら展開していく。「マネキン破壊のアルバイトという現在の東京」、七十年代中頃から生起したクメール・ルージュ(カンボジア共産党)に参加している一兵士の独白に添って描像していくカンボジア、四五年八月、ヒロシマに向かって原爆投下を任務とするエノラ・ゲイの機内というそれぞれの場所は、ひたすら大量破壊と大量殺戮へと向かっていく場所でもある。
 著者は、本書のなかに挟みこまれている冊子のなかで、次のように述べている。
 「原爆を落とす側、虐殺をする側には、何か共通するものがあるのではないか、という考えが以前からありました。大量破壊、大量殺戮に通底するものを小説という方法で探ることです。人間の意識には、戦争や集団の機能行為を通して出現してしまう危険なものが潜んでいる。それを抽出してみるという作業です。それは遠いできごとや行為ではなく、日常生活や普通の市民生活の中に、潜んでいる。」(「『破壊者たち』をめぐって」)
 破壊や殺戮をしながら、あるいは、これから膨大な無辜の住民の命を奪うため原爆を投下しようとしていながら、どこかで逡巡しつつ、自らの行為を正当化していく像をそれぞれ次のように著者は描出していく。
 「マネキンたちは、大きな群れとして僕と対峙し、(略)声は複数になり、そして不意打ちのようにあちらこちらから投げかけられてくる。(略)反感や非難は僕の体や頭や手足を打つが、僕はひるまない。むしろそれと闘うことによって、僕のパワーは大きくなり、よりいっそう熱い力が残酷さを増してマネキンの群れに向かっていく。」「いったんある線を越えてしまうと、人間は何か別なものになっていく気がします。それは人殺しの機械として機能していくことでもあり、何か麻薬のように、それをしないと落ち着かなくなるのです。(略)すでに私たちには大義はなく、(略)我々の生活とは死刑執行であり、首を打って穴の中へ投げ込むことが、仕事だったのです。」「おれはただ、『この作戦が成功すれば、終戦を早められる』という言葉を信じた。おれはそれをスチムソン陸軍長官からもじかに聞いた。おれは信じた。そのためだったら、どんな孤独にも耐えられる。おれは耐えた。だからこそこの空の青さが美しく思えるのだ。」
 破壊や殺戮をする行為を狂気性として捉えるとして、では、その狂気の始原つまり、狂気の母型とはなにかと考えてみる。誰にでも、狂気性は潜在しているのだと捉えていくならば、人間という存在そのものが、狂気の母型といえるのかもしれない。しかし、それでは堂々巡りでしかない。どこかで、それを転化する契機はあるはずだ。著者も、「日常生活や普通の市民生活の中に、潜んでいる」と述べるように、夫婦、親子、兄弟間であっても、命を奪う行為はあるし、突然、なんの関係もない人たちに襲い掛かって殺傷する事象も多くあることを考えてみれば、戦争や内戦だけが殺戮の場所ではないことは、自明のことである。しかし、それでもなお、〈死〉より〈生〉のほうが、「美しく思える」場所を紡ぎ出すことを、微力ではあっても、一人ひとりが日々想起していくことからしか、マイナスをプラスへと転化できないといいたい気がする。
 「集団の機能行為を通して出現してしまう危険」性と著者が述べているように、個が共同性のなかに置かれた途端、個の屹立性を喪失していくことを、わたし(たち)は知っている。だからこそ、まず一人ひとりが母型からの再出発を試みることだと、『破壊者たち』という物語を通して、わたしが喚起されたことだ。

(『図書新聞』18.2.24号)         

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2018年2月10日 (土)

吉本隆明 著『吉本隆明質疑応答集 ② 思想』        (論創社刊・17.9.25)

 吉本隆明の講演後の質疑応答をテーマ別にまとめて全七巻で刊行するという画期的な企画の第二巻が本書だ。このような企画が成立するのは、吉本隆明が絶えず切実に情況的課題や思想的課題に真正面から向き合い続けてきたからだといっていい。特に、本書の前半部に配置された1967年10月12日から11月26日にかけて中大、早大、国学院大、関大の四カ所で行われた質疑応答は、白熱化するというよりは、いわゆる67年10.8羽田闘争直後の対抗的運動の高揚が投射されて、国家や権力の所在をめぐって吉本と学生たちとの拮抗と離反していく言語の応酬が苛烈だ。読みながら、わたしは、同世代であった学生たちへ、ある種の痛ましさを感じないわけにはいかなかった。吉本の『共同幻想論』が刊行されたのは、68年12月であったし、その前半部は雑誌「文藝」に66年から67年まで連載されたものだが、もとより、わたしもそうだったが、雑誌「文藝」を手に取るはずのない学生たちは、吉本が展開していく「共同幻想」の概念を、未消化のまま誤解していくのは無理がないかもしれない。だが、66年10月に刊行された『自立の思想的拠点』には、『共同幻想論』のモチーフを込めた論稿が幾つか収められていたから、それらを了解していれば、もう少し冷静な質疑応答が成立していたのかもしれないが、10.8以後の高揚は、論議を皮相な情況論的な場所へと押し込んでしまったといえる。
 四大学での講演から一年半後、つまり、10.8以後、全国的に拡がっていった大学闘争(高校での闘争もあった)は、東大安田講堂の攻防を頂点として、さらに苛烈なかたちで続いていったわけだが、吉本は、学生運動をまるで革命闘争のように鼓舞していった歴史学者・羽仁五郎を次のように述べて、断じている。
 「いったいこの老人は、安田講堂に赤旗がたち、都庁に赤旗がたち、つぎにまたどこかの都市や地域自治体に赤旗がたつという具合に拡がれば、国家が覆滅するなどと本気でかんがえているのでしょうか。(略)羽仁五郎の『エキストラポレイション』(引用者註・「外挿」)の論理は、いかように学生や労働者に実践的に蔓延しても、政治的国家の本質に一指も触れられないということは申すまでもないことです。この老人は、本質的には社会的な運動の課題でしかない問題を、政治的な運動の課題と滅茶苦茶に混同しているにすぎないのですが、こういう馬鹿気た論理が、現在急進的な学生たちに受けいれられる基盤があるとすれば、そこにたちどまって考えてみるだけの問題がひそんでいるにちがいありません。」(「情況への発言」69年3月)
 後年、70年前後の学生運動に大きな影響を与えた思想家として吉本を称揚する文章を多く散見することになるが、それは、記号化すればわかりやすいという安直な捉え方に過ぎない。たとえば、国学院大と中大では、運動の主体的な担い手たちの党派性は、両極端といえるし、わたしが、当時の情況を想起してみれば、吉本を読んでいるのは、運動の主体的な担い手というよりは、その周辺にいる学生たちの方が多かったはずだ。70年6月に結成された共産同叛旗派の集会で、吉本はしばしば講演をしているが、叛旗派にシンパシイを寄せているからではなく、六十年代から関係が続いている三上治(味岡修)の依頼に応じているにすぎないのだ。
国学院大での応答を引いてみる。
 質問者「一般の大衆は意識しないでも国家の共同性に対立しているとしても、彼らにたいしてたんにイデオロギー的な先験性を打ち出していくのじゃなくて、大衆そのものを止揚していく立場に立たなければだめだと思うんです。」
 吉本「(略)大衆というのはね、あなたのいうようにイデオロギーをそこに注入すべきものだというような、そんなものとはまったく反対なんですね、(略)僕はその大衆というものを全体として把握するばあいには、その裏面というものを考えるわけです。つまり、大衆はいったんある契機というものがあるばあいには、かならずあらゆるイデオロギー的抑圧をくつがえしていくものだということ、ある契機さえあれば、転化しうるものだということですね。大衆は国家の共同性にそう易々諾々として服従しているとは考えない。」
 大衆をよくいえば啓蒙、要するに組織(コントロール)していこうとする学生たちと、大衆の側にたって情況的な位相を見通していこうとする吉本との間には、大きな障壁が横たわっているかのようだ。わたし(たち)は、革命運動を領導する前衛なんかではない、大衆の一人一人であることを彼らは理解できないのだ。その後、質問者たちは、「あんたはな、大衆の反体制的な後退的な意識に依拠しているんですよ」「あなた自身がね、現実的な階級闘争をどう必然的に高めていくか、そういう立場こそ問題なんですよ」と畳みかけていく。吉本は、「何いってるんだい、僕は少しも依拠なんかしてないよ」「何いってるんだ、それはあなたの問題だよ」と述べながら次のように応答していく。
 「私らはね、安保闘争以後ね、独立ですよ、独立、自立ですよ。そして、私たちはやってきているんですよ。宣伝、啓蒙から、理論的建設の過程まで全部やってきてるんですよ、一貫して。」
 本書では、後半部、柳田国男、竹内好、〈アジア的〉な問題など重要なモチーフの講演後の質疑応答も収められていて、そのことに触れることはできなかった。しかし、『共同幻想論』が、わたしたちの前に現出する前夜、吉本の「独立」、「自立」、「一貫して」といった言葉の発露に、思想の根源からの熱視線を感じないわけにはいかなかったといっておきたい。

(『図書新聞』18.2.17号)

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