2020年7月 1日 (水)

映画『半世界』、溢れる関係の物語

 監督・脚本の阪本順治にとって、「世界」という言葉は、覇権主義国家の為政者たちの使うものとなっているという考えがある。だから「半世界」は、〝もう一つの〟、あるいは〝別の〟、〝ほかの〟世界ということを込めているのだ。直截にいえば、「反(もしくは叛)世界」がいいかもしれない。作品の後半で、父親の仕事を自分の意志で継いでいる炭焼き職人の高村紘(稲垣吾郎)が、自衛官を辞め、妻子とも別れて八年ぶりに帰郷した沖山瑛介(長谷川博己)に向かって、「こっちも世界なんだよ」と言い放つ場面がある。
 これは、それ以前に、「おまえらは、世間しか知らない、……世界を知らない」と瑛介にいわれたことに対するものだった。瑛介のいう世界とは何を意味するのか。それは、海外派兵にまつわる世界のことである。彼らにはイラクと南スーダンから帰還後、五十六人もの自死という現実が、その世界には含まれている。もう一人、父親が経営している中古車販売を姉とともに手伝っている岩井光彦(渋川清彦)を含めた三人は小中学校が一緒という幼なじみの友人で、まもなく四十歳という年齢だ。
 作品は阪本の言(「映画芸術」四六六号)に添っていえば、〝土着の共同性(関係性)〟を照射していくことになる。もちろん、〝土着〟といっても、ひとつの象徴性を含ませているのだが、紘の仕事からいえば、わたしなら柳田國男の『山の人生』を想起したくなる。そこには孤独できつい手仕事のような様態がある。紘は、瑛介を喚起する気持ちで自分の仕事を手伝わせる。やがて、少しずつ慰藉されていく瑛介の心性が伝わってくる。「世間しか知らない、……世界を知らない」と言ってしまったことをどこかで押し込めておきたいとするかのように、表情も緩やかになっていく。しかし、ある日、光彦の販売店で客とトラブルになっているところに、紘と瑛介が乗っていた車が通りかかる。瑛介は急にそのなかに入って客と殴り合いになる。瑛介が〈狂気〉を表出した場面だ。瑛介の世界がついに破砕したのだ。それは瑛介の知っていた世界は世界ではなかったことになる。
 この作品では、もうひとつの世界も描かれる。紘と妻・初乃(池脇千鶴)と中学生の息子・明(杉田雷麟)の家族という世界だ。しかし、穏和で親和性に満ちた家族とは違う、危うい関係性が織りなしていくのだが、初乃の存在がこの映画では大きな有様として描かれていることに、わたしは阪本順治の物語力を感受した。
 物語は三カ月という短い時間性が横断している。しかし、紘の炭焼き小屋での突然死によって溢れる三人の関係性は閉じることになる。
 瑛介は、紘の死をかみしめるように「こっちも世界」かと呟く。
 息子の明は、一人で炭焼き小屋にやってくる。ランチボックスとグローブを持ってきている。小屋に吊り下げているサンドバックめがけてパンチを激しく撃っていく。
 もうひとつの「半世界」が始まる。

(月刊情報紙「アナキズム」第四号―20.7.1)

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2020年6月27日 (土)

大野光明 小杉亮子 松井隆志・編               『社会運動史研究 2「1968」を編みなおす』             (新曜社刊・20.4.20)

 本書は、昨年の二月に創刊された『社会運動史研究』の第二集である。編者たちは、巻頭で次のように述べていく。
 「一九六八年は世界同時多発的に社会運動の高揚が見られた年であり、日本でも、大学闘争やベトナム反戦運動をはじめとして、社会運動史にとって重要だと思われる出来事がさまざまに起こった。当時のグローバルな現象は、「1968」と象徴的に呼ばれる。(略)「1968」の言葉が指し示そうとする出来事は、確かに歴史的・社会的に重要である。しかし、いささか粗雑な「1968」のイメージは、その重要性を理解するためにこそ、いったんほどいてみるべきだ。運動史のディティールに立ち返って再検証し、これまでのイメージや理論を書き換えていくことが、一九六八年から半世紀以上が経過した今だからこそ、必要だと私たちは考えた。」
 確かに、パリ五月革命と呼ばれた運動の中心にいたダニエル・コーン=バンディはアナキストだった。全共闘運動が広く生起していったのは党派が主導していった部分もかなりあるが、ノンセクト学生の多くが参加したことによって、可能となったことを忘れてはならない。運動論的な視線だけでは、必ずしもすべてを捉えていくことができないのは、自明のことである。
 嶋田美子の「矛盾の枠、逆説の華――名づけようのない一九六〇年代史をめざして」は、通例の運動史的視線ではみえにくくなる思想や文化、芸術といった側面を丹念に辿っている。そのうえで、六〇年から七〇年という流れをさらにそれ以後までを透徹しているといってもいい。
 嶋田は、「現代思潮社・美学校」(六九年二月創設)の研究を通して、その前史ともいうべきことに視線を射し入れていく。六〇年安保闘争時にかたちづくられた「六月行動委員会」(吉本隆明や埴谷雄高他、美術関係の人たちが多くいたことを強調しておきたい)、その後の「後方の会」、「犯罪者同盟」そして、六二年の「自立学校」、六五年の日韓闘争時の「東京行動戦線」、六七年の一〇・八より一年前に決起した「ベトナム反戦直接行動委員会」などを照射していく。
 「笹本雅敬はその後、早稲田の学生らとベトナム反戦直接行動委員会を組織し、六七年(引用者註・嶋田の記述は間違いである。正しくは六六年である)にはベトナム反戦の直接行動として当時ベトナム向けに自動小銃を製作していた田無の日本特殊金属工業を襲撃しました。」
 このべ反委の闘いに未成年だった斎藤和が参加している。彼は、後に「東アジア反日武装戦線による日本企業爆破事件」にかかわり、七五年、逮捕時に自死した。
 最後に、嶋田は次のように結んでいく。
 「六〇年代を通底し、1968年の全共闘運動に影響を与えたのは、一握りのイデオローグや大きな政党政治の動きではなく、これらの小集団や個人による、これまでの枠を超える自由への希求、「名づけようのない人間になるための」数々の試みではなかったのではないでしょうか。(略)個々の断片が積み重なり、つながり、鳥瞰図からは見ることのできない時代のうねりを作り、地下水脈となって現在に続いているのです。」
 かつて絓秀美は、一連の六八年革命論のなかで、七〇年の華青闘による七・七集会を高く評価していたが、同時期に望見していたわたしには、まったく首肯できない見方だった。そもそも、六八年を「革命」として捉えること自体、荒唐無稽といっていい。
 山本崇記は、「運動的想像力のために――1968言説批判と〈総括〉のゆくえ」のなかで、絓の華青闘への評価の言説を一蹴する。
 「第一に、切断の思想の典型であるという点である。そして、第二に、セクト(新左翼)主義的な歴史観であるということである。(略)マイノリティが「7・7を契機として、一挙に歴史の「主体」として浮上してきた」ということは考えにくいことであり、それまで「不可視だった存在」でもなかった。」
 「切断の思想」とは、「運動的想像力を喚起しない」歴史的時間を切断した論理ということになるわけだが、それは、やがて破綻していくしかない。例示するまでもないが、小熊英二の『1968』も、まさしく「切断の思想」といっていい。
 『東大闘争の語り』(二〇一八年)を著した小杉亮子は「〝1968〟の学生運動を学びほぐす――東大闘争論の検討」と題して、「二〇〇八年前後から、(略)一八年前後までに、当事者や研究者によって刊行された東大闘争論」を取り上げて論及していく。そして、『東大闘争の語り』のなかでも提示した「予示的政治」について述べていく。
 「予示的政治とは、遠い理想や目標を設定せず、運動のなかの実践や仲間との関係性のつくりかたによって望ましい社会像を予め示そうとする運動原理である。この予示的政治への志向性は、ノンセクト・ラディカルを中心とする東大全共闘派の学生たちが、新旧左翼政党・党派の運動原理である「戦略的政治」を批判し、それとは異なる運動を追求したことから形成された。」
 運動というものは、主導者がいて、共感していく人たちが連動していくことではない。そこにひとつの関係性、つまり開かれた共同性を形成していくことが切実なことなのだ。
 本書の特集は、他に、阿部小涼「拒否する女のテクストを過剰に読むこと」、山本義隆「闘争を記憶し記録するということ」、古賀暹「『情況』前夜」(聞き手・松井隆志)がある。特集のみに触れただけだが、一号に比べてさらに重厚な一冊になったことだけは、強調しておきたいと思う。
 三号は、来年の七月刊行予定である。

(『図書新聞』20.7.4号)

 

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2020年6月13日 (土)

雨宮処凛 編著                            『ロスジェネのすべて――格差、貧困、「戦争論」』          (あけび書房刊・20.2.20)

 〝ロスジェネ〟、つまりロストジェネレーションとは、日本において、バブル経済崩壊後の就職氷河期世代のことを指し示し、七四年から八四年生まれをカテゴライズして総称している。わたしが、もっとも印象深く感じたのは、フリーターという言葉が、かつての旧左翼が好んで使用した労働者と等価な、あるいはそれ以上に拡張した意味で使われ、フリーター労組が結成されたのは、〇四年だった。〇五年から、メーデーの時期に、「自由と生存のメーデー」を始めていく。わたしは四七年から四九年に生まれたベビーブーマー世代(堺屋某が命名したダンカイと一括りするような捉え方に異議を持っているから、わたしは使用しない)の最終年生まれだが、なにか隔絶した時間の流れを思わないわけにはいかなかった。なぜならわたしたちの世代は、多様性があった。わたし自身も含めて積極的に就職しようとしなかった(あるいは、様々な事由で就職できなかったといいかえてもいい)人たちが多くいたから、就職氷河期ということに悲惨さよりなにか空しさのような思いを抱いたといっていい。
 それでも、当時わたしは、本書の編著者、雨宮処凛や対話者の一人、松本哉が様々なかたちで発信したことを鮮烈な印象を持っている。その時から、十五年以上の時間が経過した。
 本書での雨宮処凛(七五年生まれ)との対話者は、倉橋耕平(八二年生まれ、立命館大非常勤講師)、貴戸理恵(七八年生まれ、関学大准教授)、木下光生(七三年生まれ、奈良大教授)、そして松本哉(七四年生まれ、「素人の乱5号店」店主)だ。
 雨宮は、かつて右翼団体に入った後、そこから離脱し、現在を堪えず見通す立ち位置を持続させている。
「私が23歳の頃、小林よしのり氏の『(略)戦争論』(略)が出版された。/『戦争論』は、多くのロスジェネにとって「初めての政治体験」となった。そうして『戦争論』以前から小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言』(略)の熱心な読者だった私は、その時、右翼団体に入っていた。/ロスジェネは、もしかしたら「右傾化第一世代」ではないだろうか。」
 さらにいえば、若い世代の右傾化を象徴する言葉としてネットウヨ(ネット右翼。もちろん若い世代だけではなく、たんにネットにはまってしまった、わたしと同世代の人たちもいるだろう)があるが、そのことも、ロスジェネとリンクしていくといっていいはずだ。倉橋は次のように注目すべき発言をしている。
 「日本(=祖国)を考えること自体に自己啓発性があり、自分に喝を入れる作用もすごくある。それは、日本という国家と自己を同一化させるアイデンティティへの志向がそうさせるものだと思います。実際に90年代は、自己啓発本がブームになり始めた時期でした。」
自分と国家は絶対同一化しないと考え続けてきたわたしにとってみれば、愕然とする事態を倉橋は切開している。
 「難しいけど、一つ言えるのは、自分の中だけの問題にしないで、関係性のなかに問題を開いていってほしい。脳内で暴走しないで、実際に付き合うなかで生身の相手に触れてみてほしい。」(貴戸)、「(註・雨宮のどうしたら「自己責任」論を超えられるかという問いに対して)講演会とかで、歴史をふまえたうえで、日本社会これからどうするの?みたいな話を最後にするわけです。で、どうしても「自己責任」が大好きで、なおかつ社会を壊したくないなら、もう江戸時代に戻るしかないぞ、と言っています。」(木下)
 貴戸が述べる「関係性のなかに問題を開いてい」くということは、凄く切実なことだ。これは、「自己責任」論にも通底していく。〇四、五年頃、フリーターの孤独死(自死)を知って言葉が出なった。「貧しいのも、不安定なのも、正社員になれないのも結婚できないのも将来の見通しが立たないのもすべて自己責任。おそらく、ロスジェネはその価値観をもっとも内面化している世代だ」と雨宮は述べている。そんな皮相な自己責任という幻想は拭い払うべきだと声高に叫んでも、自死していく若い人たちには、残念ながら届かないのだ。
 「ちゃんとして生きるのは無理ですよね。うちらの世代というのは、成功してる人もいるし、困っている人もいる。あるいは本当に勝手なことをやって、金はないけどすごい自由にやっている人もいるし、いろいろいると思うんです。(略)今更ね、そんな真面目に生きようなんて考えたって意味ない。(略)適当に勝手にやって、ざまあみろって最後に言って死ぬのを目指したらいいと思うんですよね。ざまあみろって言える生き方を、皆ですれば。」(松本)
 松本は一見苛烈に述べているようだが、関係性を開きながら生きていくことをシンプルに言っているのだと思う。自分を責めて関係性を閉じていくことは、暗渠に入っていくことになるからだ。暗渠は国家や国家に準じた社会が作り上げた幻想でしかない。そういう幻想は解体すべきだと言っても、残念ながら、彼ら彼女らにはなかなか届かないかもしれないが、本書をぜひ読んで欲しいと思う。

(「図書新聞」20.6.20号)

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2020年6月 1日 (月)

吉本隆明との〈通交〉をめぐって

 詩人の清水昶は、かつて「青年期につよい影響を受けたひとに出会うのは、いまでもわたしには怖い気がする。埴谷雄高、吉本隆明、谷川雁、この三人には、わたしは会いたくなかった。(略)『鮎川信夫著作集』完結記念講演会で大それたことに司会などをやったとき吉本さんが講演した。そのときわたしはボーッとあがってしまった。吉本さんとはひとことも口を利かなかった」(『詩人の肖像』八一年刊)と述べていたことがある。わたしは、昶さんより、ひと回り後の世代だから、谷川雁からは、ほとんど影響を受けていないので、埴谷、吉本となる。埴谷さんには十代後半に初めてお会いし、その後、友人とインタビューをした。吉本さんの講演は何度も聞きに行っているし、学生時代、講演録を起こしたこともあるが、直接会って話したいと思ったことは一度もなかった。昶さんのように、「怖い」ということではなく、著作世界に接し続けるだけで充分であり、そのことに共感性を抱き続けることでいいと思っていたからだ。
 八三年頃に、吉本さんの長女で漫画家のハルノ宵子(多子)さんと親しくなり(いまでも、交流は続いている)、どうしても、多子さんに伝えなければならない用件があり、電話をして、もし吉本さんが出たらどうしようと思いながら、ダイヤルを回したところ、お母さんの和子さんが出て、ほっとしたことを思い出す。
 その後、〇五年に『秋山清著作集』(ぱる出版)の編集にかかわることになり、吉本さんに推薦文をお願いすることになった。万事休すである。電話をかけ、多子さんに取りついでいただき、初めて、声を交わす。終わってみれば、著作世界だけでと固執していたことは、けっして声高に言うべきことではなく、粛々と関係性は開いていくべきだと思うようになった。わたしの妻が、俳句を通して和子さんと手紙のやり取りをしていたこともあり、その年の吉本家の忘年会と、翌年の花見の会から二人で参加することになった。
 九六年夏、吉本さんは水難事故に遭った。奇跡的な回復後、精力的に執筆活動を続けた。わたしがお会いしたころは、足腰が大分弱くなったころではあったが、変わらず、いろいろな話ができたのは、貴重な体験をしたといま思っている。
 『秋山清著作集』[全十一巻・別巻一]が完結し、「現代詩手帖」で特集を組むことになり、巻頭に吉本さんへのインタビューを掲載することを発案し、吉本さんに快く引き受けていただいた。〇七年六月五日のことである。自宅に伺い、わたし一人で吉本さんと五時間ほど話したと思う。二人だけで会っていたことに、特に緊張することもなく、中程からは、本題から離れて様々な話題を横断するかたちで談笑したといえる。もちろん、掲載するのは、詩の雑誌なので全部を収録できなかったが、なかでも、わたしにとって深い印象を抱いた吉本さんの発言を紹介したいと思う。
 「詩のほうで二十代、三十代の人たちの作品を読むと、なんかこれから後のことを考えたりすることが、お年寄りと同じで、億劫で億劫でしょうがないという感じなんですね。(略)それなら、いい詩を書くために踏ん張ったという作品を出してくれればいいですが、そういうものもないんですね。(略)詩を考えるみたいなところで、難しいことしか言えないなら、それはそれでいいから、詩らしくしてくれと思うんですが、そういうものもない。」(「現代詩手帖」〇七年一〇月号)
 これは、詩の世界のことだけではなく、若い世代の混迷様態を切開しているといっていいと思う。
 その後、〇八年五、六月に春秋社の仕事で、『第二の敗戦期』という本を進めて、吉本さんに起こした原稿を提示したが留保されてしまった。その頃、なぜか数多くの留保された本があったようで、吉本さん逝去後、次々と刊行された。多子さんは、父が引き受けたものはすべて刊行するという判断をされて、わたし(たち)の『第二の敗戦期』は、一二年一〇月に刊行した。
 「気心の知れた友達同士で同人誌を作るみたいな感覚を持ち、三人以上いればしっかりした集団ですので、そこでいろいろなことをやってみる。つまり、ここだけはすこし自由・平等なんだという、三人ぐらいでそういうものを作っていく、ということがたくさんできていけばいいと思っています。」(『第二の敗戦期』)
 吉本さんの優しい視線は普遍性を有しているのだ。

(「トンボ 10号」20.6.15)

 

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2020年5月23日 (土)

ドナルド・キーン 著                           『新潮選書 日本文学を読む・日本の面影』           (新潮社刊・20.2.24)

 ドナルド・キーンは七〇年前後に、三島由紀夫を評価するアメリカ人研究者として、その名を意識したのが、最初だったと思う。だが、わたしは三島に耽溺するほど愛読することはなかったから、キーンについても、それほど近接してこなかったといっていい。それでも、日本国籍を取得して最後の場所としてわが列島に居を構えた時は、素直に驚嘆した。そして一九年二月、九十六年の時間を閉じたわけだが、日本人以上に、〈日本的〉なるものを愛惜してやまなかった心性は、鮮鋭なものだったと、思わないわけにはいかない。
 「日本人には「ぼかし」の趣味がある。はっきりしたものより、ちょっとあいまいなものを面白がります。はっきりしたものならば意味は一つしかありません。しかし、ぼかした意味や、二つの意味にとれるような文章には、より深みがあり、より楽しみがある。」「戦争がはじまっても作家活動をやめませんでした。おそらく太平洋戦争中の四年間にもっともいい作品を書いた作家は太宰治だったでしょう。」「三島さん(引用者註・三島由紀夫)は、太宰の文学は嫌いだ、自己憐憫の文学だと何度も私に言っていました。三島さんの立場はそうでしたが、もし彼が意識的に太宰とは別の文学を目指していなかったとすれば、太宰文学と同じようなものを書いただろうと思います。」(「日本の面影」)
 「日本の面影」は、一九九二年、NHK教育テレビ「人間大学」での十三回分の講座テキストである。単行本、著作集いずれにも未収録である。最初の引用箇所は、「『徒然草』の世界――日本人の美意識」からだが、「「ぼかし」の趣味」といういい方が、文学的ではないところがいい。キーンは、文学的な視線を向けていながらも、そこに日本人像のようなイメージを潜在させているといえるような気がする。「ぼかし」は表現論としては優れたものなのかもしれないが、資質や感性といった位相をイメージすれば、「あいまい」といった負の様相を湛えてしまうからだ。さらにいえば、後段の箇所(「日本文学の特質」)で、「日本文学は〝余情の文学〟だ」と述べていくことに、それは通底していくといっていいはずだ。
 「近代の文学3――太宰と三島」から二カ所、採った。太宰治と三島由紀夫を並立させるところがいい。どちらも自死した作家といえるかもしれないが、キーンはそういうところに拘泥してはいない。三島と親しかったキーンならではの捉え方だと思う。
 集中、次のような箇所に惹かれる。「戦争中、谷崎先生は軍部に全く協力しませんでした」、「荷風は戦争には全く非協力的でした。あれほど戦争に協力しなかった日本人はほかにいなかったと思います」と述べていくキーンは、太平洋戦争開戦時、海軍の日本語学校に入学する。日本軍の書類の翻訳や、捕虜収容所の捕虜の尋問にかかわる。さらに戦地にも向かう。日本軍撤退後のアリューシャン列島のアッツ島(アナキスト詩人、秋山清の詩「白い花」によって、わたしは知った)とキスカ島、そして最後は沖縄だ。
 「日本文学を読む」は、四十九人の作家論と「現代の俳句」の項目を含む文学史的視線からの論集である。一九七一年から七七年まで雑誌「波」に連載されたものを纏めたものだ。敢えて、大岡昇平をめぐる論述を見てみたい。一九四五年三月、キーンはレイテ島の日本兵俘虜収容所へ向かった。ジープの運転手が「あいつらは仕合せだ。フィリピンのゲリラに捕まった日本兵はなかなか収容所まで着かないんだ」と言ったことに対して、キーンは次のように述べていく。
 「「仕合せだ」という気配は何処にもなかったが、私は生が死よりましだと単純に信じていたので、運転手の言葉に頷いた。俘虜の一人が大岡昇平であったことを何年か後で知った時、感無量だったが、その時は、柵の中に立っている兵士に特別の関心を示さなかった。(略)大岡の『俘虜記』を読んだ時、その頃のことが目の前に浮かんで来た。そして外国人である私は、現在の若い日本人よりも当時の大岡の心境を理解できるのではないかと思った。(略)私は人間のさまざまの醜態の中で戦争ほど嫌なものはないと信じ、心から反戦主義者であるつもりだが、戦争の体験を忘れようとはしない。(略)私が大岡の文学を読む時、戦争の犠牲者同士として感情移入できると思う。」
 このキーンの言葉は、日本人以上に、〈日本的〉なるものへ心情を仮託できることと通底していくと、わたしならいいたくなる。キーンが十八歳の時に、『源氏物語』と出会って、〈日本的〉なるものへと傾注していくが、まもなく、日米開戦となる。「大岡の文学を読む時、戦争の犠牲者同士として感情移入できる」からこそ、日本文学を通観する膂力を培っていったのかもしれないし、わたしたちが未知に思う様相に対して、共感しうる豊饒な感性を絶えず湧きたたせることができたからだといえるかもしれない。
あらためて、ドナルド・キーンの世界の広大さを思わないわけにはいかない。

(『図書新聞』20.5.30号)

 

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2020年5月16日 (土)

つげ義春 著『つげ義春日記』                  (講談社文芸文庫、講談社刊・20.3.10)

 『つげ義春日記』は、「小説現代」誌上で、一九八三年三月号から十二月号まで断続連載(七五年十一月から八〇年九月までの日記)の後、同年十二月、講談社から刊行された。刊行当時から三十七年近い時間が経過したことになる。しかし、「沼」や、「西部田村事件」、「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」、「夢の散歩」、「窓の手」、「別離」といった多くのつげ作品は、いまだに、〈現在性〉を有していると、わたしは捉えているから、久しぶりに装いを新たにした『つげ義春日記』(ただし、本文に訂正をした箇所がある)を眼前にして、近接な、リアルなこととして、わたしの中では奔出している。なぜなら刊行後どれぐらいの時間性が経過したかの記憶は薄れているが、突然、つげ自身の判断で絶版にしたからだ。さらに、わたしの友人・石川淳志監督が映画化を試みたが、絶版によって叶わなかったということが、強く印象に残り続けてきたという、もうひとつの時間性を持っている。
 つげ義春にとって、先行する日記に「夢日記」がある。周知のように、島尾敏雄の夢作品を契機にしているといってもいい。しかし、『つげ義春日記』は、通例、見られる日記文学のカテゴリーに入るとしても、つげ義春の表現者としての独特の視線があることを前提にして読み進めていかなければならない。始まりは、昭和五十(一九七五)年十一月一日。同月十八日深夜、正助、誕生。NHKで「紅い花」がドラマ化される。文庫版作品集(小学館、講談社、二見書房)が次々と刊行され、増刷を重ねる。しかし、妻のマキが、昭和五十二年八月、子宮癌の手術。この時期は大きなうねりのようなことが、続くわけだが、日記は書き手の個的心性の表出である以上、書き出された言語の集積は、時には変容しながら形成されていくことになる。意識的か無意識的かということではなく、つげの表現者としての資質が、そういう世界性をかたちづくっていくのだということを強調しておきたい。
 「今日も正助のうなり声で熟睡できず、子供のために生活のすべてを混乱させられるようで憎悪を覚える。そのことをマキに云うと泣き出した。」「夜「紅い花」放映。(略)出来栄えには失望。新しい技法も陳腐に思える。原作には無い戦時中の空襲場面を挿入したのは反戦思想を示し、専門家筋への受けを考慮したとの由。私の作品に反戦思想とは表現の次元がまるで違う。」「マンガで生活できなくなった忠男のことを想うと胸が傷む。忠男のマンガを評価しないマンガ界に激しい怒りを覚える。」「雨の中を、正助を抱いて三人で飯野病院まで出かけた。結果はやはり癌だった。診察室から出てくるなり、マキはその場にしゃがみ込んで泣いた。私は少し離れ正助を抱いて窓の外を通る電車を眺めていた。」「夜、入浴中、石子順造さん死亡の連絡があった。マキが電話を聞いた(享年四十八歳)。予期していたことでもあるのでとくに感慨はない。実感もない。それより一年間も病人に付添い献身的な看護を続けた石子夫人の努力には感動せずにはいられない。」「今度神経症となったのは、風邪で寝ているときいろいろな現実的な心配ごとを考え過ぎ、それが発端であったが、根源はこの漠とした(存在の不安)が原因だったのではないだろうか。」「夜、床に就いてからひどい孤独感に襲われた。深い深い、たとえようもない孤独感だ。(略)なんといったらよいのだろう。生の孤独感とでもいうのだろうか。」
 「あとがき」で、「好んで読むのは「私小説」」であり、「日記や年譜も熱心に読む」と、つげは述べている。本書は、日記ではあるが、確かに、ひとつの「私小説」というかたちの表現といってもいい。子どものうなり声に憎悪を覚えると妻に云う。妻は泣き出す。妻は自分が癌だと分かったから泣くというよりは、夫や息子のことを思えば、「しゃがみ込んで泣」くしかないのだ。私小説というものは、例えば、島尾敏雄の『死の棘』を想起してみる。つげ的に述べれば、「主観」を拡張して物語化したものだといえる。では、そもそも「主観」とは、どれほど強固なものだろうか。わたしは、「主観」や「私」という有様は絶えまなく揺れ動くものだといいたい気がする。そもそも、「主観」や「私」は、確たるものではないのだ。そのことを、誰よりも知っているからこそ、つげ義春や島尾敏雄が表出する物語は、わたし(たち)の深奥へと刻み込まれていくことになるのだ。
 だから、『つげ義春日記』が放つ「世界」は、「生の孤独感」を慰藉するために、わたし(たち)は、生きていくのだということを鮮鋭に語っているといっていいはずだ。

 【付記】わたしが、つげ義春さんと初めてお会いしたのは、本書にも記述されている昭和五十三(一九七八)年十二月二十三日の北冬書房忘年会の席上だった。秋山清さんや鈴木清順さんたちが参加。わたしは遅れて参加したのだと思う。後方に座ったら目の前がつげさんだった。「自分は酒も呑めず、緊張して物も食べられず、話もできなかった。知識人の前に出ると畏縮してコチコチになる」と本書には書かれている。つげさんが、「知識人」という時、ある種の無意識のアイロニーが含まれていると思う。どういう話をしたか、もう覚えていないが、図々しくサインをお願いしたら、快く引き受けてくれた。しかし、色紙のようなものは持ってはおらず、失礼とは思ったが、手帳の白紙の部分を切って渡し、書いてもらった。
 「眠い! つげ義春」
 つげさんは四十一歳、わたしが二十九歳の時だ。

(「図書新聞」20.5.23号)


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2020年4月 1日 (水)

映画『ジョーカー』が放出する〈暗渠〉

 ホアキン・フェニックスの快演が、〈ジョーカー〉という〝バットマン〟シリーズの悪役を、下層民衆のたぎる力を象徴する存在として屹立させた。そして、監督・脚本のトッド・フィリッピスの多彩な映像力によって深い物語性を湛えた作品が提示されていくといってもいい。病弱な母(実は遺児を養子にした関係)の面倒をみながら、コメディアンを目指す青年アーサー・フレックの苦闘の時間を追っていく物語は、疎外され、最底辺の生活を強いられながらも、やがて憤怒の様を纏っていくことになる。映画『ジョーカー』は、社会を安直に包摂していく国家という〈暗渠〉を、わたしたちに指し示しているといえる。
 ゴッサムシティが、頽廃化していく現況を打破するために市長選挙に立候補するウエイン産業のトップ、トーマス・ウエインは、下層民衆を徹底的に蔑んでいく。アーサーは、地下鉄の車内で女性に理不尽な絡みをする証券マン三人を、仕事仲間に手渡された拳銃で殺す。証券マンはウエイン産業の一員だった。ウエインが犯人をピエロと罵ったことによって、下層民衆はピエロの仮面を被って抗議行動を生起させていく。
 テレビの人気番組「マレー・フランクリン・ショー」に呼ばれたアーサーは、そこでジョーカーと名乗り、証券マンたちの殺人を告白する。
 「僕にはもう失うものはない/傷つける者もいない」「僕の人生はまさに喜劇だ」「自分を偽るのは疲れた/喜劇なんて主観さ」「この社会だってそうだ/善悪を主観で決めてる」「僕が歩道で死んでも踏みつけるだろ/誰も僕に気がつかない/だがあの三人はウエインが悲しんでくれた」「誰も他人のことを気にかけない/こう思うだけさ〝黙っていい子にしてろ〟〝狼にはなれない〟」
 独白しながらマレーを銃で殺す。
 街中でさらに、ピエロの仮面を被った群衆が決起している。ピエロの男にウエイン夫妻が殺される。一人残された少年のブルース・ウエインが、後のバットマンとなるわけだが、この物語との連続性があるわけではない。そこが、この映画を特異にしているところだ。フランクリン殺しで逮捕されたジョーカーを乗せたパトカーが路上を走っていく。そこにトラックが追突する。運転していたのはピエロの仮面を被っていたものたちだ。彼らは、ジョーカーを引きずり出して車の上に横たえる。やがて蜂起した群衆の前で立ち上がりゆっくりと踊り始めるジョーカー。そこで終景かと思ったが、一転、ジョーカーの笑う顔のアップ。カウンセラーと会話するジョーカーの手には手錠。その後、ジョーカーは廊下を真っすぐ、光り輝くような窓の方へ歩いて行く。突き当たりの横の廊下を人が左右に走っていき。物語は閉じていく。
 長い石段を登り降りし、石段の途中で踊ったりするアーサー、街中を懸命に走るが、不思議な可笑し味を漂わせるアーサー。映画『ジョーカー』の救いは、もしかしたらそういうところにあるのかもしれない。

(月刊情報紙「アナキズム」創刊号―20.4.1)

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2020年3月 7日 (土)

岡本勝人 著                                   『詩的水平線―萩原朔太郎から小林秀雄と西脇順三郎』    (響文社刊・19.9.10)

 「詩的水平線」とは、なかなか意味深い書名だと思う。詩的なるものや、思想・文学表現の位相は、様々に繋がっていくものだと思う。ひとつの系列が縦割りのように繋がるのではなく、幾重にも折り重なって拡張されていくのが、表現の水位といえるはずだ。著者が本書で指向していくのは、萩原朔太郎を起点として小林秀雄と西脇順三郎の表現の有様における詩的水平線(地平線)を切開していくことにある。
本書の開巻、萩原朔太郎の詩「夜汽車」が引かれる。「抒情詩を唱える朔太郎の反自然主義態度は、象徴詩運動にみる音楽性に詩的優位をおくものであった」と述べた後、次のように繋いでいく。
 「詩はひとりで書くものであるが、大正期の北原白秋、室生犀星、山村暮鳥、萩原恭次郎という「無名にして共同なる社会」の一員として、詩作に精力をついやしていたころである。」
 本書では、このように「無名にして共同なる社会」という捉え方が、基調となって流れていく。後段において、西脇順三郎と小林秀雄の「青春の時代は、大正期に重なっている。大正期の教養主義の坩堝のなかに、二人の教養があったことはいうまでもない」と述べながら、著者は直截に記していく。
 「二人はとても近い関係にあった。小林秀雄や西脇順三郎にも、確かな時代の空気である深層に、「無名にして共同なる社会」があった。」
 この、「無名にして共同なる社会」という視線を、著者は、「鮎川信夫が起草したといわれている「Xへの献辞」の文章」に拠っていて、「「閉じた社会」から「開かれた社会」への転換をはたし、詩を書くうえでの生活の上によみがえってくるのである」と述べている。しかし、わたしなら、「社会」を前提として措定するのではなく、鮎川信夫が『戦中手記』のなかで記しているように、「思想は精神たちをあつめた無名にして共同のものであ」るということのほうが、共感できるといいたい気がする。「思想」は、「文学」、「芸術」に置き換え可能なのはいうまでもない。
 さて、本書の中心へと向かってみる。
 「小林秀雄の「中世古典論」から戦後いち早く発表された『モオツァルト』を執筆する散文(エッセイ)の幅と、西脇順三郎の『Ambarvalia』から戦後いち早く発表され発行された『旅人かへらず』の詩のエクリチュール(書記)の幅をひとつの軸とすれば、そのように時代の転換期を通過した小林秀雄と西脇順三郎のふたりのタイムラグの幅に、文化の幅と文化を架橋する現代的可能性が仄みえるといえるだろう。(略)ふたりのクロスする戦中から戦後という「戦争期」の文化の詩的地平線をとらえ、日本文学の、特にテクノロジーによる革命を内在させる近代を通過した現代社会にたいして、「戦後」というものを超える詩的現代の問題性が、文化を架橋する層として存在してみえてくると言えるだろう。」
 「萩原朔太郎は、故郷との葛藤のなかで、自らの言語の構造に無意識裡に目覚めている。精神のうちから、文語調をつきあげている。そこに朔太郎の故郷のイメージも、結ばれていた。(略)近代の運命のなかに生きた萩原朔太郎にたいして、故郷への帰郷を果たし、死に水をとられる西脇順三郎は、文語調ではない言語のネットワークの自由な詩をつむぎ、それはある意味で、空や無のような無色で幸せな帰郷をしたと言わなければならない。」
 小林秀雄の戦前期のドストエフスキー論から『モオツァルト』へと至る軌跡と西脇順三郎の『Ambarvalia』から『旅人かへらず』への軌跡は、ともに戦時下を通過していくにもかかわらず、確かに、そこでは詩的水平線(地平線)を架橋していると見做すことができる。それは、二人の表現者が一貫して自らの立ち位置を、情況的な事態に絡めとられることがなかったからだといいたくなる。
 朔太郎と西脇は、「故郷」という原像に、複雑に絡み合っている。二人の詩人にとって、「故郷」は、詩魂が宿る場所なのである。だから「故郷」も詩的水平線を架橋していくといっていい。
 著者の論旨に誘われながら、戦前期から八〇年代初頭にかけての詩魂の地平は豊饒なものだったことが、確認できる。最後に著者は、「詩的現代の問題性について考え、論ずることは、とりもなおさず、詩について考えるヒントを明示することであろう。詩を書くことを欲望論とするために、もういちど、現代社会のなかで、孤立し、社会的効用から切り離された詩そのものへと立ち返りながら、詩の実態とその存在の意義について、考えてみようと思う」と述べている。むろんそのことに、わたしは率直に同意したいと思う。

(『図書新聞』20.3.14号)

 

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2020年1月18日 (土)

構 大樹 著『宮沢賢治はなぜ教科書に掲載され続けるのか』(大修館書店刊・19.9.10)

 宮沢賢治を、漱石や太宰以上に世代を超えたかたちで知らない人はいないといっていいはずだ。詩作品と童話作品というジャンルにもかかわらず、いや、だからこそ、小学生から大人までという幅広さで「賢治受容」というものが戦争期を挟みながら持続されてきたといえる。それは、賢治作品が途切れることなく教科書に掲載され続けてきたからだというのが、著者の捉え方で、その深層を切開していくことが本書のモチーフということになる。著者は次のように述べていく。
 「〈宮沢賢治〉が肯定/否定を問わず言及され、語られるときの枠組みを析出し、どのような意味づけがなされたのか、それを成立させた環境とはどのようなものだったのかを、歴史的に解き明かそうとするものである。そうした検討を賢治受容の活性化と、将来的な展開をうながす糸口にしたい。」(「はじめに――賢治受容の不思議」)
 わたしは、「なぜ教科書に掲載され続けるのか」という問い掛けを起点として、ひとつの賢治論は成立しうるのだろうかと、書名を見たとき理解できなかった。だが本書の著者の力点は、継続性、持続性の解明だけにあるのではなく、戦時下から、敗戦後の「教科書」における賢治受容の有様にかなりの焦点を当てていることで、「受容の活性化と、将来的な展開」というあらたな賢治理解の位相を提示していくことに、新鮮さをわたしは感受したことになったといっていい。
 媒介軸として著者は、没後発見された遺作を契機に「「雨ニモマケズ」的な人間性への評価」をあげる。さらにいえば、「〈宮沢賢治〉が肯定/否定を問わず言及され」るのは、まさしく、「雨ニモマケズ」に生起したことだといっていい。わたしは、小学低学年時(一九五六、七年頃)に近所の友人宅に行った際、居間の壁側に手書きした「雨ニモマケズ」が貼られていたことを鮮明に記憶として刻まれてしまったといえる。ミヤザワケンジという名前とともに怪しげな詩篇が七歳の子どもにどう影響を与えたかは思い出すことはできないが、後年、賢治の世界に親近性を抱いてからは、「雨ニモ」の世界をできるだけ避けて通ることになったのは間違いない。
 「一九四二年に大政翼賛会文化部が編纂した『詩歌翼賛』第二輯への「雨ニモマケズ」採録がある。(略)同冊子に採られたという事態は、「雨ニモマケズ」から当時の総動員体制に資する文学的価値が、さらには賢治に「日本精神」を代表する詩人としての価値が、文壇/政治の思惑が複雑に絡み合った組織としての大政翼賛会文化部に見出され、承認されたことを意味する。」(「第二章 「雨ニモマケズ」という生き方」)
 戦時下において戦争賛美の詩篇を数多く表現した高村光太郎とともに収められているのだが、「雨ニモ」は、戦時下に発表されたわけではないから、戦争協力詩と理解することはできない。吉田司に『宮沢賢治殺人事件』(一九九七年刊)という苛烈な著作があり、そのなかで国柱会との関わりをもって戦争推進派に賢治を入れるのは無理がある。
 「肯定的な評価が一方的に集約される環境のなかに〈宮沢賢治〉はあった。だからこそ「雨ニモマケズ」と賢治を積極的に称揚する機運が、総動員体制の長期化にあっても、着実に高揚していったに違いない。そして、このとき「雨ニモマケズ」の〈宮沢賢治〉の図式が大きな力を持ったのだ。」(「同前」)
 そして戦時下に、「満州開拓青年義勇隊訓練本部編『国語 下の巻』(冨山房、一九四三年)という準公的な教科書」に「雨ニモマケズ」が掲載されたのだ。その頃の「〈宮沢賢治〉は、〝滅私奉公〟の文学的形象化を達成した詩人として、また優れた農業実践者の模倣像として、強い公共性を帯びていた」(「第三章 「雨ニモマケズ」教材化の前夜」)と、著者は捉えていく。そして、そのことはある意味、戦後へと繋がっていくことにもなるのだ。
 「戦後国定教科書は(略)新たな教材を選び、GHQの検閲を経た上で、一九四六(略)年度の授業に間に合せ」るという時間的な逼迫があったから、「賢治作品に光を当てたのではなかったか」と著者はみる。
 「ストックされた文学的遺産から戦後の今・ここで意義づけられるものを教材にしようとしたとき、「雨ニモマケズ」や賢治童話から読み取られた「時局」との距離(略)は、選定にあって有利に作用しただろう。(略)共同体を維持させるのに有用であることは、(略)「雨ニモマケズ」で十分印象づけられていた。」(「第四章 「どんぐりと山猫」と民主主義教育」)
 その後、「やまなし」や、「注文の多い料理店」、「永訣の朝」など、多くの作品が教科書に採用されていく。
 「賢治受容の持続にとって国語教科書に採られることは、賢治作品の多くの潜在的な享受者の前にひらかれるだけでなく、そこで〈宮沢賢治〉のアクチュアリティの更新が行われるという点でも重要だと、さらにいい直すことができる。国語教育で扱われるということは、今、ここの価値の更新作業そのものと言ってよい。」(「第七章 「グスコーブドリの伝記」の再創造」)
 著者は、八六年生まれ、現在、清泉女学院中学高等学校の教諭であり、本書は博士論文を基にしたもので、初めての単著ということになる。
「賢治受容」という視線によって、鮮鋭な賢治像が描出されたといっていい。

(『図書新聞』20.1.25号)

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2020年1月11日 (土)

丸山健二 著『丸山健二 掌編小説集 人の世界』       (田畑書店刊・19.8.30)

 掌編小説の掌を〝てのひら〟と読む。だから、掌編はてのひらほどの短さという意味を持たせている。かつてわたしは、川端康成の『掌の小説』(七一年)を読んだだけだから、掌編小説に通底しているわけではない。だから訳知り顔に語ることはできないが、丸山健二の掌編小説集とは意外な思いを抱いたが、丸山健二的ではあるなと確信したといっていい。それは、丸山健二の『生きることは闘うことだ』(朝日新聞出版刊・一七年三月)を読んでいたからだ。こちらは、全四行の短いエッセイ集とでもいえるものだが、そこに込められた激しい言葉の表出は、『人の世界』に連結していくと感受できたといっていい。
『人の世界』は、『われは何処に』(一七年、求龍堂刊)と『風を見たかい?』(一三年、同社刊)を「組み方を替え、加筆・修正を施したもの」だという。
 「風をみたかい?」は、「風人間」を象徴化して、物語っていく連作集といえなくもない。
 「おれは世を避ける者などではない。/世のほうがおれを避けることはあっても、その逆は断じてない。/おれこそがまさに自由の第一人者であるというれっきとした事実は、永遠の始まりを想わせてくれそうなこの風が見事に証明している。」「「風人間」を自認してやまぬおれは、口笛をやめて鼻唄に切り替える。人に明かしてはならぬ一身上の事柄など皆無だ。」「「風人間」にとって社会を保全する義務はなく、国家は無益であり、国境は無用な代物でしかない。」「生は死を減殺し、死は生を減殺することで、不朽性が失われずに済み、ために、永劫に滅びない存在という形がしつかりと保たれるのだ。」
 「国家」、「生」と「死」、これらの言葉は通底音のように丸山健二の発語の場所として横断している。例えば、『生きることは闘うことだ』のⅡ章「家族や国家を過信してはならない」のなかの「国家とは」には、次のような言説が展開されている。
 「国家を当たり前なものとして、空気や水や食料のようにしてありがたがるのは、明らかな誤りで、また、それなしでは一日たりとも生きてゆけず、たちまちにして混乱の極みに投げこまれてしまうという伝統的な考えに無意識にしがみついていると、自我にまつわる基盤が根底から覆され、自己を失ってしまう。」「国家はひとつの悪だ。それも巨悪だ。その悪に比べたらやくざの悪など実にちっぽけなものでしかない。(略)民主国家の神話なんぞにけっしてだまされてはならない。」「国家なんて幻だ。」
 わたしは、丸山のこれらの発語を苛烈とは思わない。なぜなら、わたしもまったく同じ考え方、捉え方、認識の仕方をしていると感受できるからだ。
 「われは何処に」を見てみよう。「無害な分だけ面白味に欠けた人々が、どんな風の吹き回しなのか、突如としていっせいに、(略)荒くれた発想がもたらす叛逆の方向へと、半ばやけ気味に舵を切った」は、何気ない記述のように読めるが、「叛逆の方向へ」と惹起していく様態は、想像できる、いや、正確に述べれば想像したいのだ。
物語は、多様に表現できる、しかし、直截に表現する作家、思想家は極めて少ない。丸山健二は、芥川賞受賞後数年、二十代半ばで、文壇世界に囲い込まれることなく、信州で自立した表現活動を続けてきたのだ。
 「雑魚は見逃してやるからさっさと消えちまえと、そう事もなげに言って澄ましている、定年間近の情のこまやかな刑事は、それでもまだわずかばかりの誠実さが残っている素行不良者どもの後ろ姿を見送りながら、なんとも複雑なため息をそっと漏らし、さほどの理由もなしに世を拗ね、死をもってちっぽけな罪を贖おうとする若者の急増に心を痛め、(略)家路を辿る足どりは重くもなければ軽やかでもなく、(略)二十年も前の夏の真っ盛りに病死した妻の位牌の前に座ってからは、いつものように長いこと動かずに時間を忘れ、言うならば、湯冷めにも似た心境をずっと保ちつづけた。」
 集中、最も惹き込まれた世界だ。定年間近の刑事は、世情に抑えがたい憤怒を抱いている。だが、帰宅して待っているのは、二十年前に病死した妻の位牌だ。「長いこと動かずに時間を忘れ、言うならば、湯冷めにも似た心境をずっと保ちつづけ」てきた心情は、凄いと思う。「国家なんて幻だ」と言い切る丸山健二だからこそ、描出できる世界だといっていいはずだ。

(『図書新聞』20.1.18.号)

 

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