2019年2月 2日 (土)

末永史 著『猫を抱くアイドルスター』              (ワイズ出版刊・18.11.17)

 本書は、一八年一月に急逝した末永史の遺稿集である。わたしが、末永史という漫画家を初めて知ったのは、『COMICばく』(No・3、八四年一〇月~No・15、八七年一〇月)という漫画誌に掲載された作品によってだった。既に、『ヤングコミック』で、七一年から七三年にかけて作品を発表していたことは、しばらくして知ったことになる(漫画家としてのデヴューは、本書に収録した、六七年、『りぼんコミック』誌に掲載された「ハロー仲間たち!」)。
 それよりも、わたしにとって末永史といえば、「いま、吉本隆明25時」と題した二十四時間連続講演と討論集会(主催者、中上健次、三上治、吉本隆明)のことが、真っ先に想起される。このイベントは、八七年九月十二日から十三日にかけて東京・品川区寺田倉庫で行われたのだが、わたしは、夜通し行われた、この試みに仕事の都合で行くことができなかった。後に記録集や音源集(カセットテープ)によって、その内容に接することになるわけだが、イベントのスタッフのなかに、末永史の名前があり驚いたことを忘れることができない。しかし吉本隆明と末永史という繋がりに、意外性よりも、世代的にいえば、わたしもそうだが、必然的なものの方が、強く感じたのは確かだった。
 わたしと末永史との通交は亡くなられる前の数年間という短いものだったが、不思議な空気感を漂わせる人だったと、いまふりかえって思う。「いま、吉本隆明25時」のスタッフだったことについて尋ねたことがある。大学の先輩の味岡修(三上治)さんに頼まれて手伝ったけれど、あまり役に立たなかったと屈託なく述べてくれたことが、いまだに淡い印象として残っている。
 本書の編者でもあり末永史のパートナーである齋藤英二(敬称略)が本書の「あとがき」で、「武蔵野美術大学に進学するも(略)三ヶ月で(略)中退。翌年中央大学文学部国文科に入り、(略)当時は全共闘運動の盛んなときであり、彼女も中大全共闘(引用者註・ただしくは中大全中闘)に参画した」と記している。ほぼ、同時期にわたしは、末永史と同じ場所にいたことになる。
 末永史が、齋藤史子名義で小説を書いていたことは、もちろん本書によって知った。吉本隆明の『マス・イメージ論』、『ハイ・イメージ論』の雑誌連載時の編集担当者だった根本昌夫の小説講座に五年間、通っていたという。本書には、漫画家としての貴重なデヴュー作「ハロー仲間たち!」、『ヤンコミ』、『ばく』誌から三作品、エッセイ四篇とともに、小説作品が二作品収載されている。
 精選した三篇の作品の中で、『COMICばく』に発表した「鬼来迎の夏」は、何度読んでも深い感慨を抱いてしまう。「家庭の主婦的恋愛」よりは、わたしなら、「鬼来迎の夏」に末永史の世界が凝縮されているといいたい気がする。
 二篇の小説作品を読んで、あらためて末永史は傑出した物語作家だったと確信したことになる。ここでいう物語とは、たんにストーリー展開のことを意味しているのではない。劇画作品にもいえることだが、登場人物たちの台詞、つまり、〈語り〉が重層化されていくことによって物語をかたちづくっていくことに、末永の表現者としての卓抜さがあるといいたいのだ。
 「北風と結婚」(15年12月)は、意表を突く物語の始まりだ。二十代後半になった佑実が、年末、帰省して母親に、「暮れ正月のたんびに、いちいち帰省しなくたっていいのよ。今年は、義母様の手前もあるから、実家に帰るのはひかえるわとか、そんなことばでも言ってみてごらんよ。どんなにうれしいか」と切り出される。佑実は、「結婚と親孝行が同意語だったとはなんて奇妙な発見だろう」と考え、やがて二人の男性との間で揺れ動きながら、結婚という選択をしていくわけだが、母娘像といい、登場する二人の男性像といい、不思議な雰囲気を醸し出す末永史の筆致は、「小説家になるべくここ五年間ワープロをいじっていた」(「あとがき」)という熱情が凝縮されたものだと捉えてみたい。
 本書の書名にもなっている「猫を抱くアイドルスター」(17年5月)は、わたしのように登場人物を知っているものにとって、実写映像をともなったドキュメンタリーのようであり、物語の後半に至って急展開していくことに象徴されるように幻想譚のようでもある。
 「(略)ニャオ、ニャオと遠くで猫が啼いている。(略)大先生はあたりをはばかるように、語尾をひそめた。/ニャオ、ニャオ、ニャオという啼き声が近づいてきて、猫が大先生の膝に乗った。やさしい声で、/『おっ、来たか』とつぶやくと大先生は猫を触った。」
 猫が出てくる場面はここだけである。表題の「アイドルスター」とは、当麻先輩が「敬愛する評論家の大先生」のことであり、吉本隆明を像として活写している。当麻先輩は、味岡修(三上治)をモデルにしていて、他に作家の諏訪文兼は、中上健次だ。物語は、当麻先輩の死を予兆しながら、「私」こと「でか子」が、三十年前に当麻先輩から頼まれて、大先生と先輩の対談に立ち合い、そのときの音源(カセットテープ)を再現しながら猫を抱くアイドルスターを描いていく。大先生と当麻先輩の語り口は、まさしく吉本と三上の実際の語り口を彷彿とさせる。しかし、リアルでありながらも、どこかユーモラスな響きを醸し出させるのは作者の視線の鮮鋭さだ。憲法九条をめぐる語り、フーコーの死に際し語る大先生の声は、難解そうでじつは簡潔明瞭であるように読めてしまうのは、わたしの身びいきか。諏訪文兼の死、大先生の死、そして当麻先輩(念のために記しておけば三上治は健在だ)の死を記した後、「私」が脳腫瘍になる。そして、次の一行で、物語を閉じている。
 「しかしあきれることにそれから何年も私は死ななかった。」
 末永史が紡ぎだす物語は、作品が遺されてある限り、終わりはない。

(『図書新聞』19.2.9号)

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2019年1月26日 (土)

高野慎三 著『東京儚夢ぼうむ 銅板建築を訪ねて』     (論創社刊・18.9.10)

 わたしは、著者のように銅板建築にたいし関心を持って眺めてきたわけではないが、それでも東京で暮らして五十年になるから、帝都時代の名残とはいえ、なにか郷愁のようなものを誘う佇まいであることに惹かれてきたのは、確かだった。
 「震災以後、『帝都復興』の名のもとに大がかりな区画整理が行われ、次々と新築の家が並びはじめた。しかし当初は、バラック仕立てや平屋の家が少なくなかったようである。(略)一九三〇年前後になると、暮らしに活気がもどってきたのか、銅板張りの建物が出現するようになる。」(「まえがき」)
 そして、「耐火や耐久を兼ね備えた」ものとして、「銅板張りの木造二階建て」の民家や商店が、「銅の価格が下落気味であった」ため一気に、東京で広がっていったと著者は述べている。
 アメリカの空爆による戦禍から奇跡的に免れたものや高度成長期にも耐え抜いて、いまだ、「戦後の風景」を表象するかのように存在する銅板建築の様相を、著者は旅するように活写した写真集が本書である。
 地域としては、千代田区神田界隈、台東区、中央区、品川区である。巻頭に配置された神田界隈の家々は、民家や寿司屋、雀荘、洋品店、糸や裏地・ボタンを売る店、軽食・喫茶の店、青果店などが写し出されていく。なかでも、三階建てのものは、「錆びて緑青色に変色」しているにもかかわらず、かえって長い時間を湛えてきた雰囲気をもって、重厚さを醸し出しているといっていい。
 台東区東上野に佇む、“居酒屋アイリス”の看板を掲げた、三棟続きの銅板建築の隣にビルが建っているという不思議なコントラストの構図の写真[44~45P]は、銅板建築の現在を象徴させているように思う。築地や北品川の緑青色も見事に映えているが、わたしは本書の中では、台東区の鳥越の〝おかず横丁〟の家並み[66~75P]がいいと感受した。
鳥越について、著者は次のように記している。
 「鳥越神社に近い『おかず横丁』を訪ねたのは、そう古いことではない。一五、六年前のことである。(略)鳥越神社は、下谷神社から歩いてそう遠くない距離なのだが、都電が廃止になってからはなんとも不便な土地となった。(略)幅広い蔵前通りに並行した北側に狭い『おかず横丁』がある。いくつもの商店が軒を並べていたが、人通りは少なかった。それでも肉屋、魚屋、惣菜屋が並び、下町情緒がのぞいた。(略)それよりも目を見張ったのは銅板建築の存在である。緑青色に錆びた姿を好まないのか、上から赤や青のペンキが塗られた建物もある。(略)『おかず横丁』の裏には零細工場が並ぶ。印刷業、製本業、箔押し業、製箱業、合紙業、ボタン製造業、穴かがり業、革抜き業、数え上げたらきりがないほど多くの業種が固まって存在する。多くは二階建てである。どこも敷地は十数坪から二〇坪前後だろうか。家族だけで営む家内工業の町だ。」(「私的回想」)
 現在は、あきらかに「家族だけで営む家内工業の町」ということを、直ぐに想起するのは困難になってきているとはいえ、暮らしの様態は、多様なものであると考えてみれば、家は住宅という機能だけのものではない。かつてといっても、何十年も前のことになるが、変貌する大都市に比べたら、まだ地方都市の方が、古い家並みや商店街があったわけだが、いまは、地方都市の方がはるかに時間の進捗は早くなっているように思う。古い建物にはほとんど生活感なく、大げさにいえば廃墟のようになっている。東京だからこそ高層ビル群とおかず横丁のような家並み、町並みが併存できるといえるのかもしれない。もちろん、そうした風景が永遠不変に続くとは思えないとしても。
 かつて、林静一画集『儚夢』(幻燈社刊、1971年)という本があった。そして、林静一の世界に共振するように、あがた森魚の「乙女の儚夢」(72年)という歌があった。この二つの“儚夢”は“ロマン”と読ませている。当然、本書の書名も“ロマン”と読ませると思ったのだが、著者は、敢えてといっていいのかわからないが、“ぼうむ”としている。文字通り読めば、“はかないゆめ”となるわけだが、“ろまん(ロマン)”も“はかないゆめ”も、ただ、過去の時間への郷愁というものが色濃くあって、現在に対する視線をどこかに留保するように感じられるといえる気がする。だからかもしれない、著者が“ぼうむ”としたのは、そこに、強い意志をもって現在の風景と暮らしという世界を透徹しようと思考したのだと、わたしなら思う。

(『図書新聞』19.2.2号)

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2019年1月12日 (土)

藤井貞和 著『非戦へ 物語平和論』               (編集室 水平線刊・18.11.9)

 『湾岸戦争論』(河出書房刊・一九九四年)から二十四年、著者は、〈戦争の起源〉、〈戦争の本性〉から抽出される「未完の戦争学」を指向して、本書をあらたに提示している。詩人であり、物語文学者であるからこそ、〈起源〉や〈本性〉を切開して、〝非戦〟へとその視線を放射させていこうとしているのだ。3.11以後に書かれた文章群、講演と、書き下ろし論稿「戦争から憲法へ」を中心にして構成している本書だが、9.11アメリカ同時多発テロ直後に書かれた回文詩と、清水昶、佐々木幹郎、倉橋健一らと編集・発行していた伝説の詩誌『白鯨 詩と思想』四号(74年刊)に掲載した「近代と詩と――主題小考」を再収録していることにも注視すべきだ(なお、本書には刺激的な解説文として元『現代詩手帖』編集長・桑原茂夫の「『戦争』のこと」が付されている)。特に四十年以上前の論稿のなかに、著者が現在、思考をめぐらす起点があることに、わたしは、驚嘆せざるをえない。
 「戦争は地域や住み分けの差別からも、民族や宗教の差別からも、生産手段や階級の差別からも引き起こされる、それらの差別の根底に、そもそも好戦的な残虐性がよこたわっており、しかもそれが人類をみずからきたえ、ほとんど他の動物を寄せつけないほどの本能と頭脳とを育ててきたのだとしたら、これほど現代の『平和主義者』を絶望させる事態がほかにあろうか。」(「近代と詩と――主題小考」)
 そうなのだ、人類史の、あるいは生態史的な視線から考えても、動物たちの環界を弱肉強食の様態として、差異化したところで、人間の、人類の〈本性〉を考えた時、人間(人類)は、動物以後ではなく、動物以前の争闘本能を強固に潜在化した存在だといいたくなる。なぜなら、動物にはないとする〈知〉というものは、行為を正当化する偽善的な様相を逃れがたくあるといえるからだ。〈戦争〉と〈平和〉を対置したロシアの文豪がいたが、わたしには、欺瞞に満ちた対置でしかないと思っていた。さらにいえば、反戦平和というロジックもそうだ。反戦と平和が安易に連結してしまうのはレトリック以外のなにものでもないからだ。それは、かつて、〝原爆を許すまじ〟というスローガンに象徴されるといっていい。だからこそ、三十歳前半の著者が発した、「『平和主義者』を絶望させる事態」という捉え方に、わたしは同意したいのだ。〈反戦〉には、表出する〈戦争〉に対しての対抗視線しかなく、残念ながら、〈絶望的〉な起源や本性を見通す膂力がないのだ。
 だが、物語文学者としての著者は、記紀神話や物語世界から、絶望的な起源や本性を照射していく。それが、「学」となるかは、わたしには関心がないが、「学」ではなく、ひとつの切実な考え方であるとするならば、わたしもまた、そのことに随伴したいと思う。
 以下、本書における中心的な論稿の一部を、任意に例示してみる。
 「縄文から弥生への劃期は大陸から水田耕作を携えたひとびとの流入であり、戦争がそこに伴ったことは確実だと思われる。銅鐸が最初から銅鐸のかたちで大陸から移入されるはずはない。必ずや農耕具であるほかに、剣、矛、槍先などのかたち、武器として大量に日本列島にもたらされた。集落は要塞化し、戦士の埋葬を見ることになる。」「戦争には確かに広範囲の移動という一面がある。たとい国内であろうと(内戦である)、部族間抗争(と言っていなければ氏族間抗争)とのみ見るのでは不足であるという、〈国家の火〉を前提とする理由であり(平家にしろ、源氏にしろ、国政を担当しなければならないということでもある)、ここに戦争の定義が胚胎する。」「『戦争の放棄』は不戦の一環であり、諸他国の憲法にもありえてよいが、『戦力不保持』『交戦権の否認』は『戦争の放棄』を超える徹底であり、日本国憲法に見られる特徴として知られる。この特徴はパリ不戦条約と日本国憲法とのあいだのかなり大きな相違点であって、前者を不戦とするならば、後者を(略)〝非戦〟という語をここにおいて用意することは至当だろう。」(「戦争から憲法へ」)
 古代社会における人間の多様な意識の集合性(共同幻想)が、親和性へと傾くのか、ひたすら争闘によって共同体を拡張していくのかということは、強引に類推していけば、現在における西アジアや、民族宗教対立の争闘へと、それらはリンクしていくような気がしてならない。
 物語とは、過去だけではなく、現在にも未来にも潜在していくことだと思う。誰にでもある日々の暮らしを切実に考えていくことこそ物語であって、非戦とは、そういう物語を表わすひとつの言葉なのだと、わたしは、本書から喚起されたといっておきたい。

(『図書新聞』19.1.19号)

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2018年12月 1日 (土)

正津 勉 著『ザ・ワンダラー 濡草鞋者 牧水』            (アーツアンドクラフツ刊・18.9.10)

 わたしたちが若山牧水(一八八五~一九二八年)について、まず想起することは、『みなかみ紀行』に象徴される旅する歌人ということになる。書名の“ザ・ワンダラー”を帯文には、“歩く徒”という言葉をあてている。ワンダラーには、歩き回る人、さまよう人、 放浪者といった意味があるようだが、わたしなら漂泊する歌人といいたい気がする。もちろん、歌人、俳人で漂泊者といえば、すぐに西行や芭蕉ということになるが、もう一人、かつてといっても、四十年以上前、著者と旅したつげ義春が親近性を抱いた井上井月をあげてみれば、漂泊することの深層は際立ってくるはずだ。
 没後、九十年という節目で牧水に関する評伝を著した詩人である著者は、近年、路通、碧悟桐、普羅といった俳人や山にかかわる表現者たちをめぐる著作を刊行している。いま、牧水の評伝(と括るには、もっと豊饒なものを含んでいるが)を著わすのは、必然的なことのように思われる。
 本書がこれまでの牧水像をさらに深遠な様相へと誘っているのは、「濡草鞋者(ぬれわらじもの)」という描像にあるといっていい。牧水の生家は、宮崎県坪谷村(現・日向市)にあり、そこは「山と山の間に挟まれた細長い峡谷」(牧水「坪谷村」)であったためか、「山師、流浪者、出稼者、多くは余り香しからぬ人たちが入れ替り立ち替りやって来」(牧水「おもひでの記」)て、それらの人々を「濡草鞋をぬいだ群」(「同前」)と述べている。著者は、若山繁を若山牧水としてかたちづくっていった初源を、「濡草鞋をぬいだ群」と「母」と故郷の「峡谷」に視線を射し入れながら本稿を進めていく。
 「『牧水』は、いただいたその筆名にあるように、ことに『母』と『水』とに愛された児であった」と著者は、述べる。牧水は、年の離れた三人の姉の後、母・マキ、三十七歳の時に生まれた長男であったから、母の愛は大きく深かったのだ。牧は、母の名のマキから採ったことを牧水自ら記している。「牧水の生誕と幼時をめぐって、母性と自然への親和」ということを見とおす著者の牧水像は、表現者の像としては、それほど特異なものではないかもしれないが、そこに、濡草鞋の徒から、濡草鞋者像を紡ぎ出していくところに、本書が深い位相を持つ所以となるのだ。
 「濡草鞋三代目・牧水。いわずもがなそれは祖父と父から受けた影響はすくなくはないのである。」「旅と、酒と。牧水は、もとよりこの二つに身をあずけるような血に生まれついてきた。旅については、濡草鞋であれば、説明用無しだろう。酒となると、これも母マキの愛酒ぶりにおよんだ。」
 旅と酒だけであれば、取り立てて、わたしたちの視線が向いていくことはない。そこにすぐれた詩歌の表現者として屹立しているから、長い間、牧水は親しまれてきたといっていい。本書とほぼ同時期に歌人の俵万智が『牧水の恋』という著書を刊行しているが、本書でも、最初の熱愛の相手、園田小夜子と、妻となる歌人、太田喜志子に触れている。著者は、「小夜子が激しい海の女であれば、喜志子は穏やかな山の娘であると、いっていい」と述べていく。小夜子との五年余りの関係のなかで、二人で「安房根本に十日余り滞在」した時間を切り取って描出しているが、青木繁の「海の幸」という作品に繋げて記していくことに、わたしは、不思議な感慨を抱いたことを述べておきたい。濡草鞋者というのは、関係性を惹き寄せていく存在なのだと思ったからだ。それは、もう一人、啄木との親和なる関係もそうなのだといえる。わたし自身、十代後半、なんども深く感受した啄木の「はてしなき議論の後」と題した詩篇が牧水の主宰誌「創作」に発表されたものであったことをうかつにも、失念していたのだ。
「牧水は、いわずもがな啄木とちがって、あくまでも牧水でしかない。(略)であればいうところの社会とは距離感ありとされがちだ。だがそこは欄外者たる濡草鞋なのである。」
 さて、『みなかみ紀行』の世界である。わたしは、三十年近く前、友人の車で擬似みなかみ紀行をしたことがある。その時、ただただ、徒歩で行くことの困難さが理解できて、現代という有様に後ろめたい思いをしたことを思い出す。
「牧水が歩いた行程。信州上田に発して上州を横断して下野の日光に至る、いまその道は『日本ロマンチック街道』と呼ばれている。なんたる恥知らずな命名なろうか。しかもこれがなんとも『みなかみ紀行』を参考にしたルートだという。(略)いったいわたしらのこの一世紀余のめったやたらな景観破壊といったらなんなのだか。牧水が歩いたのは、ロマンチック街道なんかではない、いまだ斧を知らない、あくまでも山道でしかありえない。」「牧水は、それにしてもなぜこんなにも源を冀(こいねが)ってやまないのであろう。ほかでもない、渓の児、だからである。みなかみを探ることは、それこそ幼い日の坪谷の溪を歩くこと、ふるさとを辿ること。それはそしてまた母の温かい胎に帰ることであった。」
 著者の憤怒と、牧水に対する優しいまなざしを、わたしは、本書を読み終えて直截に受け取れたことを僥倖としたいと思う。

(『図書新聞』18.12.8号)

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2018年10月 1日 (月)

映画『菊とギロチン』・考

 わたしにとってギロチン社とは、中濱鐡ではなく古田大次郎であった。六十年代後半の対抗的運動の中で、ともすれば情念が直截に奔出する時、既知の理念に仮託することの疑義を払拭できないでいた自分自身の感性が、『死の懺悔』や、啄木の詩篇「ココアのひと匙」へと傾斜していったからだ。中島貞夫監督の『日本暗殺秘録』(69年・東映)で、オムニバスの一篇として古田大次郎(高橋長英)の小坂事件に焦点をあて、『死の懺悔』のモノローグとともに描像していく〈風景〉の秀逸さに共感したことも大きかったかもしれない。山田勇男監督の『シュトルム・ウント・ドランクッ』(14年)では、旧知の廣川毅が演じた。そして、『菊とギロチン』では新人俳優・寛一郎である。
 「恋愛だけではなく、人との距離の取り方などは自分と少し通ずる部分があるのではないかと思うと、日常の古田が少し垣間見えて来るような感覚を覚えました。」(廣川毅「古田大次郎を演じみて、幾つか思うこと」―『アナキズム 17号』13年11月)
 「大次郎の葛藤は、役者一年目の僕自身の葛藤と重なっているところが多かったので、自分に寄せつつ、悩みながら、感情を出し切って演じた部分が多かったです。」(寛一郎、東出昌大との対談「一瞬の三時間半を僕らは活きた」―『映画芸術 464号』18年夏)
 わたしは、二つの作品を対比しようとしているわけではない。また、二人のどちらが古田像に近いのかといったことをいいたいのでもない。「人との距離の取り方などは自分と少し通ずる部分がある」、「大次郎の葛藤は、役者一年目の僕自身の葛藤と重な」るといったことは、関東大震災、そして大杉栄、朝鮮人虐殺後の閉塞的な時代情況のなか、自らの思念を表出することの困難さを抱える古田大次郎の有様を、時間と空間を変容させて、3.11以後へ視線を射し入れてみるならば、息苦しさを抱えるわたしたちの有様に通底していることを意味している。
 映画『菊とギロチン』というタイトルは、確かに菊は天皇の、ギロチンは、ギロチン社つまりアナキストたちのメタファーだとしても、菊の花が好きだという古田大次郎が花菊(木竜麻生)という女相撲の力士に対して共感と恋情を抱き、〈対なる関係性〉をかたちづくろうとしたことの表象だといっていいはずだ。もちろん、もう一つの〈対なる関係性〉、つまり、十勝川(韓英恵)と中濱鐡(東出昌大)の有様も照応させて捉えてもいい。
 中濱と古田が住む舟屋の前には砂浜の海岸が続いている。そこで、「鳥追い女や願人坊主、被災民たち」、そして女相撲の力士たちはもちろん、花菊や十勝川とともに、中濱も古田も一緒に、太鼓や三味線の音に乗って踊っているシーンがある。恐らく、この映画を観た多くの人に強い印象を与えた場面だと思う。そこで、中濱が十勝川に向かって話す。
 「俺の夢はな、満州に行って自分たちだけの国を作る。そこじゃ何もかも平等で。(略)共存共栄の理想郷だ。」
 十勝川は、ただ笑いながら「ホントにできるのかい、そんな国」と応答する。太宰治に「冬の花火」(46年)という戯曲がある。その中でヒロインに「ねえ、アナーキーってどんな事なの?あたしは、それは、支那の桃源郷みたいなものを作ってみる事ぢゃないかと思ふの」と語らせている。瀬々敬久と相澤虎之助の思いは、敗戦後の暗澹たる情況のなかで書かれた「冬の花火」のヒロインに繋がっていくものだ。この海岸での踊る場面で、中濱と十勝川にフォーカスしながら、「中濱鐡と十勝川」というテロップが入る。後段、三治と勝虎が逃避行しようする場面にも「三治と勝虎」というテロップが入る。そして、古田が、花菊を連れ戻しに来た夫・定生を爆弾で脅し花菊を諦めさせる場面。古田と別れたくない花菊が古田に抱きつき口づけをする。そこで、大きく「菊とギロチン」のテロップ。菊は女相撲の力士・花菊であり、ギロチンは心優しきテロリスト・古田大次郎なのだ。
 〈個と個の関係性〉から、〈未知なる共同性〉へとかたちづくることができるだろうかと、いまあらためてわたしは考えている。

(『アナキズム文献センター通信』第44号-18.10.1)

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2018年9月 1日 (土)

栗原康 著『菊とギロチン――やるならいましかねえ、いつだっていましかねえ』(タバブックス刊・18..7.11)

 女相撲と大正期のアナキスト集団・ギロチン社を重層化させた映画『菊とギロチン』(監督・瀬々敬久、脚本・相澤虎之助、瀬々敬久、現在上映中)のノベライズ本である。わたしは、これまで、ノベライズ本なるものを読んだことがない。つまり、オリジナル脚本の映画作品なら、確認する意味で後に、活字化された脚本(映画誌や『シナリオ』誌に掲載されもの)は読むことはあっても、わざわざノベライズ本を読む必要はないからだ。当たり前のことだが原作本と映画化された作品は必ずしもイコールではない。そもそも活字による表現と映像表現は位相が違う以上、別々の作品だと見做す方がいいのだ。脚本は何稿か改稿するので、最終稿ではない限り、実際の作品とかなりの違うものとはいえ、原作とは違い、それほど大きな異同はないといえる。
 著者は、一年前に脚本を入手し、そこからノベライズ本を書き始めたようだ。その間、映像化作品をたぶん観ていると思うが、映画ではナレーションや文字で説明している部分を援用しながらも、著者の熱い思いや思考の先をかなり苛烈に凝縮させて、もう一つの『菊とギロチン』という鮮烈な作品を現出させたといっていいと思う。
 本書は、脚本で記された話し言葉を太文字にして引用し、ト書きにあたる部分は膨らませて、著者が紡ぎだす物語とアナーキーへと向かう思考を発露させていく。例えば、次のように。
 「(略)日本はシベリア出兵。革命のどさくさにまぎれて、ロシアを侵略しにいったのだ。戦争はどれもムダだとおもうが、そんななかでもマジでムダな戦争である。しかも、このとき国内じゃコメがたりなくて米価が高騰し、みんなメシが食えねえよってさわいでいた。そんなときに、シベリアに兵糧をおくっていたわけだ。そりぁ、民衆は大激怒。ふざけんなっていって、一〇〇〇万人規模の大暴動がまきおこった。(略)警官隊もけちらして、交番という交番をなぎたおし、百貨店という百貨店のショーウィンドウをたたきわった。いいね!一九一八年、米騒動だ。」
ギロチン社が結成される場面はこうだ。
 「一瞬できまった。オレたちの手で、ヒロヒトをギロチンにかけてやろう。菊の御紋をギロチンにかけてやれ。(略)この日から、中浜たちはギロチン社を名のるようになった。あっ、ギロチン社っていっても、ガッチガチの組織じゃないよ。宣言文もなけりゃ、綱領もない。とちゅうでやめたくなったら、いつやめたっていい。いざやるときにやりたいやつらでやっちまおう。そういうあつまりだ。(略)いくぜ、兄弟!菊とギロチン」
『菊とギロチン』という物語をかたちづくっていく大きなモチーフは、女相撲の力士たち、なかでも花菊と十勝川の存在だ。女相撲の歴史は古いが、興行的に成立したのは江戸時代中期以降のことのようだ。明治期になって石山兵四郎一座が全国を興行するようになり、女相撲は昭和三八年まで続いたという。物語の玉岩興行は女力士十二名の一座だ。花菊こと、ともよは、姉の死によって後添えとなった先は貧しい農家で、しかも暴力をふるう亭主だった。家出し、「おら、つよぐなりでえ!」といって頼ったところが、玉岩興行だった。十勝川ことたまえは、「朝鮮の忠清北道ってとこでうまれた」のだが、貧しい農家ゆえ、「一六歳のときにくちべらしのために」遊郭へ売られた。「どうせ日本人にヒデエ目にあわされるなら」と日本へ渡ってきたのだ。関東大震災後の最中で起きた朝鮮人虐殺の蛮行。たまえも逃げた先が女相撲だった。
 十勝川と中浜哲、花菊と古田大次郎というふたつ対なる関係性が、女相撲とギロチン社を連結し、閉塞する社会へ必死に対抗しながら生きていくことの切実さを描像していく。終景近く、ともよの夫が一座に現われ、ともよを連れて帰ろうするのを古田は必死になって止めようとする。
「花菊が好きだーぁ‼好きなおんな一人たすけられなくって、なにが革命だァ――ッ‼」「花菊はだれのもんでもねぇ・・・、花菊は、花菊だァ!」
 古田は自分が持っていた爆裂弾をともよの夫に投げつける。大怪我をしたともよの夫に向かって、ともよを諦めるなら医者に連れて行くといって、花菊を断念することを迫る。
 「そうだ。爆弾をつかって、ひとを殺すことがつよさじゃない。人間が爆弾みたいになることが、ホントのつよさなんだ。だれにも制御できない力。女だからああしろだの、妻だからこうしろだの、そんなことをいってくるやつらをパンパンーンッてふっとばして、自分の生きかたを自分でつかみとることがつよさなんだ。(略)女力士、花菊。なめんじゃねえ!/そんな古田の意図がつたわったのか、花菊が泣きじゃくっている。きっと、古田が死を決意してなにかをやろうとしているってのもわかっちまったんだろう。」
 「菊とギロチン」は、天皇とアナキストたちが対峙するメタファーなのかもしれないが、わたしには、瀬々版『菊とギロチン』も、栗原版『菊とギロチン』も、菊は、花菊のことであり、ギロチンは古田大次郎のことだと思う。この対なる関係性は、本書の巻末に書き下ろされた瀬々敬久の「小説・その後の菊とギロチン」でさらに深化させている。
 わたしは、かつて、著者の『大杉栄伝 永遠のアナキズム』の巻頭に配置された大杉の米騒動論を苛烈に論及した「蜂起の思想」から大いなる喚起を受けたものだったが、本書もまた、著者の真摯なる言葉の表出に胸打たれたといっておきたい。

(『図書新聞』18.9.8号)

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2018年8月10日 (金)

長濱治 著『写真集 創造する魂―沖縄ギラギラ琉球キラキラ100+2』(ワイズ出版刊・18.6.23)

 一九七二年五月、長濱治は写真集『暑く長い夜の島』(芳賀書店)を刊行している。数カ月前に生起した連赤事件の衝撃が消えずにいたわたしにとって、この写真集は、残念ながら未見である。七二年五月といえば、四五年、沖縄上陸戦を開始した米軍を主体とする連合国軍に対して日本帝国軍の無謀な抗戦によって二十万人近い戦死者(住民犠牲者は九万人以上)を出した沖縄戦以後、アメリカ国家の統治下にあった沖縄と周辺の諸島が、いわゆる施政権返還によって日本国へ復帰した時であった。しかし、周知のように、復帰とはいえ、現在でも米軍が駐留を続け、地位協定によって統治下と変わらない、米軍が沖縄住民より遥かに優越な立場にある状態が依然、持続されているのだ。
 『暑く長い夜の島』刊行前後のことを、本書の巻頭で著者は手書き文字で次のように記している。
 「(略)返還前の四年余り、私は沖縄行脚を繰り返した。ベトナム戦争只中の沖縄は最前線基地として異様な活気に満ちていた。(略)沖縄復帰日、私は初の写真展『オキナワはアメリカ』を開催、同時に写真集『暑く長い夜の島』を出版する。(略)復帰後も私は度々沖縄に足を運んでいる。概ね仕事旅ではあったが、私の眼に映る沖縄は、半世紀昔と差程変わりがない。(略)アメリカの従属から未だ脱し得ない“負の日本”の貌が重なる。」
 写真家・長濱治の名前は、サブ・カルチャー誌などのグラビア写真で知っていた。四十六年後に二冊目の沖縄をモチーフにした写真集を刊行した著者の思いに、わたしの関心は注がれていくことになる。
  「沖縄の若き創造表現者を撮りたいと思い始めたのは五年前から」だったという。学生時代からの友人で、「沖縄美術界のアウトロー」で、「沖縄現代アートの礎を築いた」真喜志勉の「手を借り、四十数名を撮り終えた一年後、二〇一五年二月半ば」、彼の訃報が届く。本書は、「生きることが表現だ、その先に創造はある」とする「若き表現者」を讃えた写真集であるとともに、真喜志勉へ捧げる書であるといえる。
 本書の扉の後に「天国の酔人/TOM・MAXへ」と献辞した右頁にガスマスクを付けた男(たぶん真喜志勉)の写真を配置。そして直筆の言葉書きが四頁、真喜志勉の顔、続いて染色家・真喜志民子の穏やかな顔、以下、百人の多様多彩な創造表現者たちの顔が映し出されていく。肩書は、実に様々で出色だ。任意に引いてみれば、「兼業造形アーティスト」、「宮古島ジュニアオーケストラ」、「琉球舞踏家、写真史研究所研究員」、「現代美術家、子供絵画教師」、「HSTI骨格調整所『月の庭』所長」、「調理師」、「闘牛カメラマン」、「石彫家」、「沖縄民謡アーティスト」、「菓子企画・広報」、「音楽家[むぎ(猫)]」、「元ミス宮古、三線奏者」、「彫刻家」、「『Bar天井桟敷』オーナー」、「泡盛杜氏」、「空手女子全国チャンピオン」、「三線職人」、「養豚農家」、「宮古の海人」、「紅型作家」、「コーヒー豆焙煎士」、「琉球史芸人」、「主婦」、「ぬちまーす工場長」、「農家民宿経営者」、「琉球舞踏家」、「沖縄民謡歌者」、「郷土玩具制作卸小売業」、「ペーパージュエリー・デザイナー」、「畑人ミュージシャン」、「廃品回生業者」、「虫使い」、「焼鳥職人、養鶏家」、「カスタムメイド・ジーンズ縫子」、「農家」、「筆文字アーティスト」、「漆喰シーサー職人」、「田芋生産者」などである。著者の映像フォーカスは、「表現の奥底に、深く根を張る“琉球魂”の健在」を漂わせている百二人の像を真っ芯で捉えている。何頁かで、米軍基地周辺の写真や街中を闊歩している米軍兵(黒人がやや多い)、オスプレイらしき飛行物体が飛んでいる沖縄の空の写真を挟んでいるが、抗議行動やデモの写真はない。しかし、本書のやや後半部に、「戰歿/沖繩縣知事島田叡/沖繩縣職員/慰霊塔」と記された碑を映し出している。四五年一月、官選最後の知事として沖縄に赴任してきたヤマトンチューの島田叡と県職員四五三名の沖縄戦で亡くなったことへ慰霊碑である。数カ月とはいえ、渾身の思いでウチナンチューを助けたことへの敬慕から、五一年に建立されたものだ。この碑もまた、琉球魂によって創造されたものだといっていいと思う。そして、それは、ウチナンチューとヤマトンチューが深遠に繋がっていることの象徴であり、琉球・沖縄の「現在」は、まぎれもなく、わが列島の「現在」であることを示しているといえるのだ。

(『図書新聞』18.8.18号)

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2018年7月20日 (金)

「映画」をめぐる共同性の場所                 ――新宿昭和館、文芸坐終夜上映他

 いま、思い返してみると、わたしにとって、映画館とは、「映画」を観に行く場所であるというよりも、なにか不思議な感覚を共有する場所であったといってもいい。スクリーンに映し出される「映画」という物語に喚起されて観客(わたし)たちは、ひとつの共同性をかたちづくるかのように、そこでは、もうひとつの物語を生成させていくといえば、いいだろうか。といっても、大それたことが起きるわけではない。つまり、観客(わたし)たちが、スクリーンに向かって騒然と応答することを述べているに過ぎないからだ。
 そのことを、描出していく前に、わたしが、最も数多くの「映画」を観ていた時期と作品について触れていくべきかもしれない。時間性でいえば一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけて、年齢としては、十代後半から二十代前半が、「映画」というものを親近なるものとして感受していた頃になる。
 情況的なことと、年齢的なことが、重層化していくことによって、「映画」は、もちろんのこと、感受するあらゆるモノ、コトが、わたし自身の立ち位置のようのものを決定づける契機になったのは、いうまでもない。振り返ってみるならば、モノの見方や感じ方は、その時期から、あまり変わっていないように思う時がある(要するに、たいして成長しないまま、年齢だけは重ねてきてしまったということになる)。だから当時、感動して観た映画を、いまだに、DVDで繰り返して観ては、同じ場面で感性を刺激されているのだ。例えば、加藤泰の『遊俠一匹 沓掛時次郎』(66年)や、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』(日本公開・59年)は、映画館、VHS、DVDを含めて、何十回となく観ている。
 レンタルビデオ店が活況を呈するようになった頃、「映画」は、映画館で観るものだと公言する人たちが多くいたが、わたしは、すこし違う思いを抱いていた。観たい封切作品が、だんだん少なくなってきたこともあり、映画館へ行って、高い料金を払ってまで観たいと思わなくなっていたからだ。それに、「映画」を、映画館でしか観ることができなかった時代に比べたら、自分たちの部屋が、もうひとつの小さな映画館(思い起こせば、しばしば通った、新宿にあった蠍座という映画館は、試写室と変わらない小さな画面であったから、大きなスクリーンを有しているのが映画館だと、わたしは考えていない)になるわけだから、それ自体、凄いことだと素直に思えたといってもいい。
 当時、わたしが、熱狂的に観ていたのは日本映画で、東映任俠映画(再上映された股旅映画も含む)と一部の日活作品、そしてピンク映画の作品群が中心だった。監督を特化していえは、加藤泰、鈴木清順であり、さらに若松孝二ということになる。もちろん、外国映画作品も観ないわけではなかった。ワイダを別格にすれば、ゴダールやヴィスコンティ、パゾリーニ、フェリーニ、アントニオーニ、トリュフォーといった監督たちの作品もそれなりに観ている。それでも、加藤泰やマキノ雅弘、山下耕作、石井輝男、中島貞夫、鈴木則文以外の監督作品(深作欣二の作品は、やや遅れて七二、三年頃から観るようになった。さらに、日活ロマンポルノの監督たち藤田敏八や、神代辰巳、田中登、加藤彰、曽根中生を挙げてもいい)で、決して傑作とはいえない東映任俠映画であっても、ゴダール作品よりは、素直に感応できたといっていい。
 加藤泰が、任俠映画について次のように語っている。わたしが、なぜ、加藤泰映画に、東映任俠映画に魅せられていったのかという事由のようなことを、直截に提示されているので引いてみたい。

  「任俠映画の世界については、今度皆さんに見ていただいたのは『遊俠一匹 沓掛時次郎』(一九六六)と『緋牡丹博徒 花札勝負』(一九六九)の二つなんですが、『遊俠一匹』のほうは日本がまだ徳川政権で治められていた時代、(略)『花札勝負』は明治のころで、徳川政権と代わった薩長政府が日本を治めていた時代です。どちらの時代も日本は法治国家で、法律で安全な暮らしなり何なりをちゃんと守ることを約束された国でした。ところが、何かがあって普通の社会からはじき出されちゃったとか、やむにやまれぬことで犯罪をおかして、(略)国が定めた法律のもとで安全に暮らす普通の社会がいやだと、そこからはじき出された人間たち、アウトローの世界がある。(略)ところがどっこい、アウトローの世界に逃げ込みますと、そっちの掟があるんですね。/そのアウトローの世界というのは、完全な男社会です。(略)男も女も全部、男でなければいけない。(略)親分の言うことはいっさい聞かなければならない世界です。その中でもし恋愛してごらんなさい。アウトローの世界では恋愛は成り立ちません。(略)恋愛しますね。男は女を愛しくてたまらなくなります。子どもも生まれます。そのとき、(略)親分から『お前死ね』と言われても、これは死ねなくなります。その世界の掟が守れなくなるんです。ですから恋愛は成り立たない。ところが、(略)掟では許されない恋愛、男と女のいちばん美しい瞬間にどうしても突入してしまう。掟にそむいて、そこへ突入した男も女も苦しんだり悩んだり、それにぶつかってじたばたする。そのとき、いちばん美しい顔をします。僕はそう信じる。いちばんいい姿をしてくれます。僕はそう信じる。その瞬間をなんとか見つけて、画にしてみたのが『遊俠一匹』であり、そして『花札勝負』である。」(「人間がいちばん美しい瞬間」―『加藤泰、映画を語る』)

 加藤泰は、アウトローの世界を通しての「男―女」という〈対〉なる関係性に拘泥することを、ここでは鮮明に述べているわけだが、わたし(たち)は、「アウトローの世界」を、たんに任俠的な共同体の枠組みだけで、物語を見ていたわけではない。共同体を、もう少し拡張させて、現実の社会や世界を想起しながら、そこでの統治性と拘束性を通した禁忌の象徴として捉えていたといっていい。
 わたしが、東映任俠映画を初めて映画館で見たのは、国分寺東映(封切館ではなく、二番館だった)での『俠客列伝』(監督・マキノ雅弘、68年)だった。上京して初めて住んだ場所が国分寺であり、いままた、巡り巡って国分寺に住んでいるが、当時、二軒あった映画館はもちろん、いまはない。上京後、欠かさず購読する紙誌は、高校時代から手にしていた漫画誌「ガロ」を別にすれば、「試行」(吉本隆明・個人発行誌)と「映画芸術」(編集長・小川徹)、週刊発行の書評紙「日本読書新聞」(以下「読書新聞」と記す)だった。「読書新聞」の最終面には、映画評や演劇評が掲載されていて、たまたま独文学者の片岡啓治(一年後、個人的に親しくなる)の『俠客列伝』評を読んで、個と共同体をめぐる軋轢や葛藤という視線で論及していることに鮮烈さを感じ、偶然にも国分寺東映で、上映されていたので、すぐさま観に行ったことを覚えている(翌年、『花札勝負』もここで観ている)。わたしは、映画を観て感動して泣いてしまうという経験をそれまでしたことがなかったが、不覚にも、初めてみた東映任俠映画で泣いてしまったのである。客は、五、六人しかいなかったし、暗い場所だから、恥ずかしがる必要なかったとしても、やや、衝撃感を覚えたといってもいい。年齢を重ねると涙もろくなるものだというが、そんなことはない、若くても、泣くときはあるということだ。住んでいた長屋のようなアパート(みんなは、勝手に野人舎と称していた)の住人で、わたしより一、二歳年長の友人は、任俠映画を観て、つい泣いてしまうと、その頃よく話してくれていたから、内心、ほっとしたものだった(もちろん、恥ずかしくて、わたしもそうだと相槌をうたなかったのはいうまでもない)。
 ただ、いま思うと、どうして、『俠客列伝』なんだという感慨は残っている。その後、二度ほど、見直す機会があったが、どの場面で涙したのか、まったくわからなかったからだ。
 ただし、わたしは、『遊俠一匹 沓掛時次郎』や山下耕作の『関の彌太っぺ』(63年)を何度見ても、いまだに同じ場面で涙していることを告白しておきたい。
 池袋・文芸坐と新宿・昭和館という映画館は、わたしにとって、最も切実なる共同性の場所だったと断言できる。ほんとうは、この二つの映画館に特化して述べていくことが、わたしの「映画」をめぐる物語ということになるのだろうが、残念ながら、記憶は時間とともに希薄になり、詳細に語るべき残滓を集積することができなかったといっていい。ひとまずは、ひとつのテクストから二つの映画館について引いてみたいと思う。

  「昭和館(開館時定員570)は昭和七年(一九三二)一二月二二日に松竹・パラマウント作品を上映するSPチェーン封切館として開館した。(略)戦時中の昭和一九年(一九四四)四月、(略)空襲対策で(略)取り壊された。再建は昭和二六年(一九五一)で、(略)始めは洋画を上映していたが新東宝の封切館となり、(略)昭和三七年(一九六二)頃(略)から任俠物と喜劇の組み合わせ番組になり、次第に任俠映画が主体となった。(略)昭和館はこの界隈の空気に馴染むように存在していた。(略)任俠映画ファンに混じって、その日の仕事がなかったと思われる労働者らしき人たちが映画を観ずに座席で寝ていた。客層にも場所柄があらわれており、女性の単独客などは見たことがなかった。(略)平成一四年(二〇〇二)四月三〇日、建物老朽化により地下劇場と共に閉館となった。」(青木圭一郎『昭和の東京 映画は名画座』)

 昭和館で、どんな作品(東映任俠映画であることは間違いないが)を観たのかは、もう覚えていない。後に触れる文芸坐のオールナイト五本立ての作品群で観ていたもの以外ということになると思うのだが。ちなみに、地下劇場は1956年に開館したという。わたしが、知っている頃は、成人映画専門の上映館だったが、成人映画以外の作品を二回ほど地下劇場で観た記憶はあるが、自信はない。もしかしたら、文芸地下と記憶が混同しているかもしれない。
 「昭和館はこの界隈の空気に馴染むように存在していた」のは確かだ。わたしにとって、昭和館近くの飲食店が並ぶ路地の飲み屋に度々通っていたし、喫茶店名は忘れたが、片岡啓治氏と初めて会った時に指定された喫茶店が気に入り、頻繁に通っていたものだ。要するに、わたしは、昭和館の界隈が、新宿の中でも特に気にいっていたことになる。だから、歌舞伎町やゴールデン街は、銀座と同じ様に、遥か遠い場所であったといえる。
 「任俠映画ファンに混じって、その日の仕事がなかったと思われる労働者らしき人たちが映画を観ずに座席で寝ていた。客層にも場所柄があらわれており、女性の単独客などは見たことがなかった」という記述に対して、昔なら、感情的になり徹底的に批判の言葉を投げつけていたかもしれない。
 だが、わたしとは、同年の記述者に向けて、憤ってみたところで、自分自身が空しくなるだけだ。当時の、文芸坐のオールナイト五本立て上映の際も、満員席のほとんどが、学生たちや、けっしてスーツが似あうような人たちではなかったし、任俠映画や股旅映画の時は、女性客をほとんど見かけなかったといっていい。同世代で、任俠映画や成人映画を観るのは、映画好きの中では少数派だったといえるからだ。日本映画なら東宝や松竹の封切作品で、後は、洋画ファンが圧倒的に多かったといっていい。
 もう少し、踏み込んでいうならば、いまになって、回顧的に全共闘世代に支持された任俠映画といういい方があるが、それは、正しくはない。「全共闘世代」という世代の括り方が間違っているからだ(団塊といういい方にも、わたしは首肯しない。出生数が多い世代ということでいいと思うのだが)。全共闘を学生運動や対抗的な渦動のなかに身を置いていることの象徴として述べるならば、同世代でそのようなかたちで関わっていた者たちは、おそらく、一割にも満たないはずだ。そして、誤解のないようにいえば、任俠映画ファンがすべて、対抗・抵抗的な渦動の中に身を置いていたわけでは、もちろんない。運動に関わるだけの熱意はない、真面目に勉強し、単位を取って卒業して、それなりの会社に就職するといったイメージを抱くことができないといった学生たちの方が、多くを占めていたかもしれないからだ。やるせない感性を任俠映画の世界の中で慰藉されていくことは、わたしにはわかる。「その日の仕事がなかったと思われる労働者らしき人」たちと、わたしは形容して述べることに同意したくはないが、その「労働者らしき人」たちだって、任俠映画の世界に慰安を求めていたのだと、わたしには思われる。

 日々を慰安が吹き荒れて
 帰ってゆける場所がない
 日々の慰安が吹きぬけて
 死んでしまうに早すぎる
 もう笑おう、もう笑ってしまおう
 昨日の夢は冗談だったんだと
       (吉田拓郎「祭りのあと」)

 結局、けっしてハッピーエンドではない任俠映画に慰藉や慰安を求めても、ただ「吹きぬけて」しまうだけなのだ。わたしは、その頃、その時、どんな感性をもって、映画を観るために映画館へ出かけていったのかと思う時がある。わたしもまた、慰藉されたり、慰安を求めていたのだろうかと、振り返ってみるが、加藤泰のいい方に倣っていえば、「掟にそむいて、そこへ突入した男も女も苦しんだり悩んだり、それにぶつかってじたばたする。そのとき、いちばん美しい顔をします。僕はそう信じる。いちばんいい姿をしてくれます。僕はそう信じる」ということの地平を確認することにあったのではないかと、いまなら、いい切れるような気がする。そして、「掟」とは、いうなれば「共同幻想」であるといった捉え方を可能にしていると考えていたといっていい。

  「人生坐(引用者註・昭和四三年七月、閉館)の系列館として地下の文芸地下劇場は昭和三〇年(一九五五)の一二月二七日に既にオープンしていたが、地上にある文芸坐はやや遅れて翌昭和三一年(一九五六)の三月二〇日に開館した。(略)観客は常連が多く、タイトルに贔屓の出演者名が表れたり劇中に登場すると、拍手や『ヨォーシ』と言う学生集会のような声が掛った。(略)平成九年(一九九七)三月六日、建物の老朽化により閉館となった。(略)跡地に(略)新しいビルが建築された。(略)三階には平成一二年(二〇〇〇)一二月一二日に新文芸坐(266席)がオープンした。」(『同前』)

 わたしは、なぜか新文芸坐には、一度も行ったことがない。文芸坐での映画的熱気を記憶のなかに、残存させていたいからといえば、聞こえはいいかもしれないが、単に、池袋まで出かけていく気分が、なかなか湧いてこないからだ。
 文芸坐の土曜日終夜上映(五本立て興行)が、いつから始まったのか、前著によれば、1968年5月の石井輝男監督作品『網走番外地』シリーズの第一作から第五作までのオールナイト興行だったという。以後、『日本俠客伝』シリーズや『昭和残俠伝』シリーズなどが上映され、「毎回大入りとな」ったが、「地元の東映系の映画館からの反対によって昭和四六年(一九七一)二月までで終了した」という。ただし、「昭和四七年(一九七二)頃から日活映画のオールナイト上映が始まっ」たと記している。
 わたしは、69年から70年にかけて、もしかしたら71年も含めて行ったのかもしれないが、はっきりしたことはいえない。ただ、『番外地』や『残俠伝』シリーズを観に行ったことは、覚えているし、『鈴木清順大会』、『大島渚大会』(『日本の夜と霧』と『日本春歌考』だけを観たいために行ったから、他の三本の時は、ほとんど寝ていたと思う)、加藤泰作品を観たいために『中村錦之助大会』などに行っている(〝大会〟と称していなかったかもしれないが、わたしたちは勝手にそう捉えていた。『錦之助大会』とは別に『加藤泰大会』もあったと思うが記憶は曖昧だ)。
 ところで、「観客は常連が多く、タイトルに贔屓の出演者名が表れたり劇中に登場すると、拍手や『ヨォーシ』と言う学生集会のような声が掛った」と記されているが、わたしが観ていた時とは、かなり違う印象があるから、もう少し詳細に述べてみたい。まず、「観客に常連が多い」から、画面に向かって拍手したり声を掛けたのではないと思う。ほとんど、自然発生的に湧き上がってくるといった感じといえばいいだろうか、タイトルが出ると、まず歓声と拍手、そしてスタッフ・キャストのクレジットが始まり、高倉健や藤純子という文字が表れると、当然、大きな拍手が起こる。だが、特に加藤泰や鈴木清順の時は、タイトルクレジットの最後に監督名があらわれるとさらに大きな拍手が起きて、感動的であった。
 誰もが、初めはそうだったのかもしれない。あるひとつの映画作品を観たいと思う契機は、物語に惹かれたり、好感する俳優が出演しているからということが多いに違いない。わたしは、映画に対して、監督主義あるいは作家主義的に作品を追いかけていくということを、この時期に感得したといっていい。だから、監督名がクレジットされた時、大きな拍手と歓声(鈴木清順の時は、「セイジュン」と声が掛る)が湧き上がることに、わたしは感嘆することになるのだ。
 もちろん、タイトルクレジット時だけに応答があるわけではない。映画という物語との往還のなかで、観客たちは、たえず共同性をかたちづくっていくのだ。
 例えば、『昭和残俠伝 血染の唐獅子』(監督・マキノ雅弘、67年)では、殴り込みを決意した高倉健を藤純子が泣きながら止める場面にたいして、観客席からいっせいに、「めそめそするな」と声が飛ぶ。殴り込みに行って、高倉健が、「死んで貰うぜ」という台詞が出ると、「ヨォーシ」や「異議なし」の声がかけられる。
鈴木清順の『けんかえれじい』(66年)では、タクアン(片岡光雄)がステッキで桜の樹を叩くと、はらはらと桜の花が散る場面に、「セイジュン!」と声が放たれる。あるいは、終映の“終”や“完”の文字が表れると、いっせいに拍手が鳴り響くのだ。
 歌舞伎というものを、わたしは観劇したことはないが、芝居の中で役者の通称名が客席から発せられるようだが、むろん、当時の文芸坐や昭和館の観客たちは、誰も歌舞伎を観劇したことはないと、いい切っていいと思う。例え清順映画に、歌舞伎的様式美があったとしてもだ。
 わたしたち観客の応答は、街頭での示威行動や“学生集会”のなかで発せられる応答とは、似て非なるものだ。情況的なるものの同時性はあったとしても、「映画」をめぐる共同性の発露は、あくまでも、「映画」という物語から喚起されたものだからだ。そして、これだけは、強調しておきたいことだが、観客それぞれは、映画を見終え、劇場を出ていけば、ふたたび、会いまみえることもなく離散していくことになるとしても、共同性をかたちづくったことの事実は不変だといえる。それは、いわゆる反抗と対抗の渦動の時代だったからこそ、映画になにがしかの思いを仮託していたための応答だったからだといいたい。

(『塵風 第7号』18.7.15)

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2018年6月 9日 (土)

矢崎秀行 著『つげ義春 「ねじ式」のヒミツ』          ( 響文社刊・18.1.15)

 一九六八年という〈場所〉から、五十年という〈時間〉を刻んだことになる。十年刻みでメモリアルな想いを込めることに、わたしの感性は動かないし、わたしにとって、六七年も六九年も同じ様に地続きな時間としてあるから、六八年だけを特化して捉え返すということはしたくないと思っている。つまり、全国的な学園闘争が惹起したことや新宿を中心とした国際反戦デー闘争、あるいは三億事件を、六八年を象徴するものとして見做すことはしないということをいいたいだけなのだ。後年、〈六八年革命〉などという大仰な捉え方をすることに、わたしは明確に否といいたい。わたしにとって、最も大きな事件は、吉本隆明の『共同幻想論』(十一月下旬刊)を読んだことだ。もうひとつ、付け加えるなら、つげ義春の『ねじ式』(『ガロ』六月増刊号)が発表されたことになるのだが、つげ作品から受けた衝撃度としては、高校生の時にリアルタイムで読んだ『沼』(『同前』六六年二月号)の方が大きかったし、『ねじ式』の直ぐ後に発表された『ゲンセンカン主人』(『同前』七月号)も『ねじ式』と同等の評価をされるべき作品だと思っている。
 本書の著者は、わたしより七歳ほど年少で、「『ねじ式』を初めて読んだのは19歳の時、1975年」だったという。七五年といえば、作品集『夢の散歩』(北冬書房)が刊行された時ということになる。わたしが本書に対して率直に感受できたのは、『ねじ式』をテクストとして、著者の思考の根拠を全篇にわたって透徹させていると思ったからだ。『ねじ式』論であるとともに、著者による思想論であるということに、わたしの心性は大いに刺激されたといっていい。
 もちろん、『ねじ式』の解読、つまり、〈ヒミツ〉の解析は、十人の読者がいれば、十通りのアプローチがあって当然だと思うし、どれが正解などというのは、まったく埒外にあるといっていい。著者の視線を、わたしなりに収斂させて述べるならば、〈死生観〉への真摯な論及ということになる。
 「『ねじ式』の冒頭のコマ絵は、死と重苦しい敗戦・占領の雰囲気に満ちている。それでは全面的にマイナスのイメージに覆われているかというと必ずしもそうではないと思われる。それはページの下半分に『海』が描かれているからである。あたかも海の彼方から到来してくるように主人公が、つまりつげ自身がこの漫画に登場してくるからである。戦火に傷ついた《マレビト》のように痛めた左腕を押さえて彼が到来してくるからである。」「『ねじ式』の本筋は、《日本人の死生観の変容》であり、(略)《その死生観の劣化》である。(略)お手軽な死生観(生き方死に方)に、彼は本気で強い違和感を底流では表明している。」
 このように述べていく著者の鮮鋭な『ねじ式』論に敬意を表しながらも、一九六八年時、十八歳(誕生月は十一月)で、『ねじ式』に接した立場から、少しだけ異和を述べておきたい。わたしもまた、冒頭の飛行機にベトナム戦争の〈影〉を見たのは確かだが、だからといって著者が「つげ義春にもこうした米国のアジアのベトナム戦争軍事介入に対する《義憤》があり、それに基づく反米感情があったと感じる。それがこの1968年に創作された『ねじ式』にも底流に流れていると強く感じる」と述べていくことには首肯できないといっておきたい。表現者つげ義春にとって《義憤》や「反米感情」は、最も遠い感性だと思うからだ。だからこそ、『ねじ式』という作品に普遍性があるのだ。著者が、作品から反戦、反米といったことを感受することは否定しない。だが、作者がどういう意図を持って表現したかは、別問題であり、作者の感性の深層まで切開していかなくても、作品論は成立するものだといえるはずだ。
 スパナ男は、木村伊兵衛が撮ったアイヌの教育者・言語学者の知里高央を引用したものだという論及から、アイヌの「他界と現世を往還する」死生観に着目していくのは見事だと思う。そして、次のように導いていく著者の論旨は、あらたな『ねじ式』論の達成を象徴しているといっていい。
 「生死が連続する循環的な死生観、私たち日本人の本来の死生観においては死と生は通路でつながっており、再生の回路が確固としてあるという意味なのである。そこを《ニライ・カナイ》と呼ぼうが、《根の国》《常世の国》、あるいは《アフンルパルの他界》と呼ぼうが、どう呼んでもいいと思うが、私たち日本人の魂の根源の国は、再生のない死穢の黄泉の国ではなく、命の再生がある点が最大の特徴の聖所だということである。つげはそうした意味で『それほど死をおそれることもなかったんだな』と言っている。」
 わたしもまた、つげ義春という表現者の作品には、絶えず、「死」というものの陰影が潜在していると見做してきた。『ねじ式』は、確かに死と生が往還する物語と捉えることを可能にしていると思う。それは死を救済することによって、生を根源化して表出することを意味するからだ。

(『図書新聞』18.6.16号)

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2018年4月21日 (土)

吉本隆明 著『吉本隆明質疑応答集 ③ 人間・農業』          (論創社刊・18.2.25)

  『質疑応答集』の本巻は、「『受け身』の精神病理について」、「異常の分散――母の物語」、「言葉以前の心について」、「自己とは何か」など〈人間の心身〉をめぐってなされた講演後の質疑応答をⅠ、Ⅱ章に配置し、安藤昌益についての講演も含む〈農業〉をめぐる講演後の質疑応答をⅢ章として、編まれている。
 時として、当日の講演をさらに深化させていくかのような言葉を発しながら、吉本の、どのような質問にたいしても、真摯に切実に応答する姿勢は、本巻でも、貫かれている。
 例えば、「『生きること』と『死ぬこと』」(八〇年六月)の講演後では、当時、六十三歳の男性の質問者が、「『生きること』と『死ぬこと』というような抽象的なことではなく、政治的なことで」質問があると述べ、「今の憲法にたいして全然批判的ではない。実績は評価している」としながらも、「今の憲法を立派にするためには、軌道修正する必要がある」と思うが、「どう思っておられますか」と聞く。吉本は、こう答えていく。
 「あなたと僕とでは、『新憲法は立派じゃない』と思ってるところがちがうと思うんです。たとえば、『天皇は国民統合の象徴である』というところがあるでしょう。僕はああいうところが立派じゃないと思うんです。(略)とにかく僕は、そこでは不満をもっている。(略)とにかく、そこがガンだと思っています。」
 わたしの記憶のなかでは、吉本が明快に第一条の象徴天皇条項に触れた記述に接したことがなかったから、即座にこの発言に惹かれたといっていい。第九条に込められた理念を積極的に評価する吉本にたいし、同意するとともに、やや逡巡してきたわたしにとって、ようやく共感できる位相に出会ったことになる。この国の〈憲法〉が、九条の前に、一条(「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であってこの地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」)から八条まで天皇条項が配置されることに、わたしは、まったく首肯できないでいたからだ。「主権の存する日本国民の総意に基づく」と記述されるわけだが、いったい、いつどこで、国民の総意がかたちづくられたのかといえるからだ。不満だ、ガンだという、吉本の裁断は極めて先鋭だと強調しておきたい。
 もうひとつ、わたしが本巻に収められている質疑応答のなかで、特に視線を注ぐことになったのは江戸中期の思想家・安藤昌益をめぐるものだ。
 「(略)日本の思想家は近世ならたいてい儒教の影響を受けています。安藤昌益だけはそういう影響を身につけてはいますが全部排除するというか否定するというか、そういうことを徹底してやっている人です。何はともあれ安藤昌益のいちばん根本的な思想は何かというと、『直耕』という概念です。」(講演「安藤昌益の『直耕』について」九八年九月―『吉本隆明〈未収録〉講演集〈3〉』) 
 そして、その講演で昌益の思想をシモーヌ・ヴェイユや親鸞へと敷衍していくのは、吉本らしいといえる。だが昌益を最初に発掘したのは、E・H・ノーマンだと述べているのだが、狩野亨吉という漱石の友人だったことだけでも知っていて欲しかった。質疑応答のほうでは、「直耕」という概念を『母型論』のなかの重要なモチーフとなった贈与へと連関づけていることに、わたしは重視したことを記しておきたい。
 さて、ここからは、『質疑応答集』の校訂と解説を担当している詩人・批評家の築山登美夫氏が論述している「『劇(ドラマ)』としての人間」と題した本巻の解説に触れたい。静謐な文体から滲み出てくるのは、解説文という枠を超えた鮮烈な吉本論である。なぜなら、徹底して吉本の有様に、築山氏自らの心性を注ぐように言葉を紡ぎ出しているからだ。
 講演「農村の終焉――〈高度〉資本主義の課題」(八七年十一月)の後の質疑応答では、国鉄の分割・民営化に反対して労働運動を指向していくとする質問者にたいして、「それはちがう」と激しく応答する吉本を捉えて、「口調はしだいに急き込んで、激流のようにとどまることを知らなくなり、たぶん途中からは質問者を含めた会場を凍らせるようだったのではないでしょうか」と記していく。そして、次のように述べて、この文章を閉じていく。
 「この応答の場面では、最後にいたって吉本さんの口調は我に返ったかのようにやわらかくなり、質問者へのいたわりを見せます。考え方の相違とはべつに、彼もまた無名の民衆の一人として、時代の波に翻弄されながら自分の運命をつくって行くほかない。そのことに例外はないのであって自分もまたそうしてきたのだ。そのかなしみが吉本さんを襲ったのだと、私には思われるのですが。」
        ※
 築山登美夫氏は、わたしの親しい友人である。彼からは、かなり前の段階で『質疑応答集』の企画を聞いていた。そして渾身の思いをかけていたことは、校訂作業に入ってからの彼の言葉のひとつひとつから伝わってきていたといっていい。だが、昨年末、彼は急逝した。突然の訃報に、わたしは、いまだに哀しい寂しいという言葉が直截に出てこない状態が続いている。彼の不在を確信したくない自分がいるからだ。
 彼の〈死〉によって、『吉本隆明質疑応答集』の四巻以降の刊行は、暫くの延期となっている。

(『図書新聞』18.4.28号)

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