2018年1月13日 (土)

宮岡蓮二 著『APARTMENT――                   木造モルタルアパート 夢のゆくえ』(ワイズ出版・17.8.15)

 わたしは、著者と同世代(二歳年長で、上京は二年ほど早い68年)だから、“木造モルタルアパート”とは、実際に暮らし続けた空間であり、懐かしい場所でもある。最初の場所は、“木造モルタルアパート”というような上等なものではなく、玄関を開けると長い土間が続いてあり、突き当りは共同トイレ(もちろん水洗なんかではない)で、左側に小さな洗面所があり、右側が四畳半の部屋が五つ並んでいるだけの木造長屋であった。それでも、住人たちの不思議な矜持があって勝手に“野人舎”と名付け、玄関に木の看板を掛けていた。そこに三年半ほど住んだ後、“二人暮らし”を始めるため別の場所へ引っ越したが、そこは一階建てて、共通の玄関を入ると廊下があり、履物を脱いで上がり、突き当りの六畳間に小さな台所があるだけの部屋が、“新居”であった。もちろん、洗面所とトイレは共同、風呂は、銭湯だ。窓を開けると、隣に二階立てのアパートがあり、夏など下の階の一室が見え、家族五人が暮らしているのが見えた。なぜか、貧しいとか、もう少し広い部屋に住みたいとは、あまり思わなかったのだ。六畳でも充分の広さを感じたし、それが、自分たちの現在なのだと考える以外なかったからだといっていい。
 著者は、最初の場所を次のように述べている。
 「六畳一間に半間の流しと押入れ、それが東京でのわたしの最初の住まいであった。しかし、それをアパートと呼んでよいのかどうか、いまでは疑問である。なにしろ一軒家(大家一家は一階で暮らしていた)の二階に、たった二部屋の貸室しかなかったのである。/当時、同じ練馬やその周辺の友人たちの住まいは(略)内廊下の左右に部屋が並ぶアパートがほとんどだった。」
 いま、思い返してみれば、「内廊下の左右に部屋があるアパート」をわたし(たち)は、羨望の目で見ていた。なんとなく、プライバシーが確保されているように見えたからだ。わたしの記憶に間違いなければ、そのようなアパートの方が賃料は高かったはずだ。
 著者の“木造モルタルアパート”をめぐる写真撮影の旅(といっても、東京都二十三区のうち江戸川区、千代田区、品川区、渋谷区、目黒区を除いた十八区が旅の場所であるが)は、二十年にも及ぶ。膨大な数の写真を本書に精選して収録する作業でも大変なことだったろうと推察する。訳知り顔に収録されている“木造モルタルアパート”の写真に対して、なにかを言及することは憚れるのだが、幾つかの印象深い建物に触れてみたい。
 台東区台東のアパート(一六一頁)の真正面から撮った一枚は、一階と二階の窓が違う構造になっていて、不思議な感じを湛えている。しかし、前方は駐車場で五台の車が並んで停まっている。もう一枚は、アパートに近寄って仰角で撮っている。建物の下方に、「最大料金駐車後24時間2200円」と書かれた看板が掛けられていて、写真は、アパートの背後にあるマンション風の建物とビルを捉えている。駐車場と新しい高い建物に挟まれている二階建てのアパートは、長い年月が威厳のような風合いをもって漂わせているとわたしには、思われた。
 世田谷区若林(二一六~七頁)の、二階建てアパートの外階段を撮った写真七点は、様々なヴァリエーションを見るものに感じさせる。二階へ上る、二階から下りる、住人たちは、どんな思いで、毎日、アパートの階段を上り下りするのだろうか、ふと、そんなふうに想像したくなるアパートたちの佇まいだ。北区西ヶ原(二七四頁)の一枚、窓の廂の上に白黒模様の猫が佇んでいる姿を捉えている。集中、唯一、“生きもの”が登場する貴重な一枚だ。なぜ、この一枚にだけ猫が写っているのか、著者の思いを問いたい気がするのだが、それよりも、わたしには、窓の廂が、猫が佇むことができるだけの空間であったことに驚いたといえる。
 わたしも、実は、近所を散策しながら古いアパートを見つけては、なんとなく懐かしい気分に浸ったものだ。確かに、ここ十年ほどは、その佇まいを見つけることが困難になってきている。トイレが共同で、風呂もないアパートに若い人たちが住みたいとは思わないことを誰も責めることはできない。著者はそんなアパートを撮り続ける思いを次のように述べていく。
 「一九五四年に始まった『集団就職』は地方から東京へ多くの若者を運んだ。かれらのほとんどは、大きな企業であればその寮、個人営業の店などではそこの家族と同居する。まだ幼いといっていいかれらが、あかの他人と生活を共にするのはつらいことだったに違いない。かれらが夢見たのは、故郷へ帰ることをのぞけば、一人で生活していくこと、ではなかっただろうか。その憧れの対象が、いま朽ち果てようとしている、この木造モルタルアパートではなかっただろうか。」
 記憶というものは、なにか契機となるべき像がなければ失われていくものかもしれない。だからといって、過ぎ去ったことに拘泥することが、負の方位だと、わたしは思わない。なぜなら、記憶というものは、たんに過去のことを包有することではなく、現在を絶えず、共振させていくものなのだと思っているからだ。そういう確信を、わたしは本書から受け取ったといっておきたい。

(『図書新聞』18.1.20号)

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2017年12月23日 (土)

松本亮 著『金子光晴の唄が聞こえる――金子光晴の人と詩への、永久なる愛惜の想いをこめ』(めこん刊・17.7.10)

 わたしは、金子光晴を生前、何度か見ている。当時、吉祥寺に住んでいて、駅北口のサンロードと名付けられた商店街の入り口あたりで、褞袍のようなものを羽織り一人で佇んでいたのだ。なにをしていたのだろうかとは思ったが、金子光晴なら不思議ではないと、何の根拠もなしに思ったものだった。それから、しばらくして、吉祥寺駅のホームで、旧知の秋山清と偶然会い、これから金子の通夜に行くのだと告げられた時、驚きよりも、なぜか、褞袍姿で佇んでいた金子の像が想起され、死の予兆とともに彷徨していたのかもしれないと、思ったものだった。本書の巻末に「松本亮の優しさ」の一文を記している暮尾淳がその時、秋山に随伴していたことを、秋山が亡くなって十数年後に聞くことになる。わたしにとって、金子をめぐるささやかな縁である。
 わたしが金子光晴に関心を抱いたのは、入り口としては邪道なのかもしれないが、秋山清とともに戦時下、抵抗詩とも反戦詩ともいわれる詩篇を紡いだ詩人としてだった。特に、詩集『落下傘』に収められている「寂しさの歌」は、わたしに金子への共感を強く喚起するものになったといえる。周知のようにそれは、「国家はすべての冷酷な怪物のうち、もっとも冷酷なものとおもはれる(略)」というニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の一節が引かれた後、次のように始まる。
 「どっからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。/夕ぐれに咲き出たやうな、あの女の肌からか。/あのおもざしからか。うしろ影からか。/糸のようにほそぼそしたこころからか。/そのこころをいざなふ/いかにもはかなげな風物からか。」
 本書の著者は、「金子はついに社会主義者、共産主義者、またアナーキストでもなかった、要するにニヒルな一個のリベラリストで終始したといえる」と述べているが、確かに、そうかもしれないが、「寂しさのやつ」という詩語に込めた金子の思念を考えてみれば、貧困に陥ることはなかったとはいえ、出自に由来する孤独感のようなものを生涯にわたって払拭できなかったのではないかと思わないわけにはいかない。奔放な妻・三千代に翻弄されながらも、関係を切断することなく、晩年は、宿痾のリューマチの「病勢がしだいにすすみ足腰の立たぬ状態になって」いた三千代の「排便を手伝ったり風呂をつかうのを可能なかぎり身をもって世話」をしたという。
一方では、二十九歳も年少の大河内令子(本書では、R子と記されている)との悲惨な関係を切断させることもできないまま、続けていく。
 著者は、詩篇の中で、「柔さ弱さに触れるとき、私たちは逆に金子の無類の強靭さを感得することができる」と述べている。あるいは、三千代とアナーキスト詩人・土方定一(戦後は美術評論家として、全国美術館会議会長などを務めた)との関係に苦悶する金子を次のように捉えていく著者の視線は、わたしが感受した金子の孤独感のようなものを閉塞させていくのではなく、屹立させていくかのように喚起してくれるといっていい。
 「私には土方を下敷きにして三千代をみつめ、さらには金子にとって女とは何であったのかを見据えることで、金子の全貌が明瞭に浮かんでくると思われる。それは戦争でも、国家でも、ましてや貧乏でも流浪でもない。三千代の存在こそ、金子にとって悠久の水の流れ、血、またたゆたう海以外の何ものでもなかったのだ。その基底を読みとることから、逆に金子における戦争、国家、また流浪の命題が立ちあがってくるものと思われるのである。」
 土方の薫陶を得、R子と金子の間を仲介する著者だからこそ、金子夫妻の愛の有り様、そして金子の表現者としての基層を捉えることができるのだ。暮尾淳は、「松本のまなざしは優しい」「松本にしか書けない」と述べているが、読み終えて確かにそうだと思った。評伝のようでもあり、金子光晴論のようでもあるが、むしろ金子光晴と森三千代の関係性を鮮鋭に描像する物語として、著者は、わたしたちに見せてくれたといいたくなる。
 著者・松本亮は一九二七年生れ、五一年、「金子光晴を訪ね、同氏没年(一九七五年)まで親交をつづける」。二〇一七年三月九日、死去。著者本人の「書きかけのあとがき」には、次のように記されている。
 「『金子光晴の唄が聞こえる』は、雑誌『新潮』の一九八三年(略)四月号に、三五〇枚一挙掲載ということで発表された。その後まもなく単行本化されるはずのところ、事情により、そのまま三十数年が経過した。(略)マッちゃんと金子の呼ぶ声が聞こえる。考えてみれば、私がもう金子大兄より一〇年も余分に生きているということで、なにか忘れてやしませんかというわけである。そんなことで一寸慌ててこの本がやがて遅まきの初版本として世に現れることになった。他意はない。」
 暮尾によれば、著者の妻は二月に亡くなったという。本書は、もうひとつの夫婦の愛の有り様を投射させているのかもしれない。

(『図書新聞』18.1.1号)

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2017年11月18日 (土)

村岡到 編『ロシア革命の再審と社会主義』           (ロゴス刊・17.7.7)

 ロシア革命(十月革命)から一〇〇年経ったことになる。わたし自身は、一〇〇年という節目に、それほどの感慨はない。そもそも、折からの対抗と抵抗の渦動の中にいた十代の後半、革命以前のロシアに関心を抱いていたからだ。ナロードニキとはなにか、あるいは、社会革命党のテロルとは何だったのかということが、わたし自身の思念を確認するかのようにロシア的なる場所へ想を馳せていったといえる。だから、わたし自身のロシア革命への見立ては、革命後の内戦(最近、亀山郁夫が、そのように記していたので援用する)で、埴谷雄高に倣っていえば、「やつは敵である。敵を殺せ」(「政治のなかの死」)という論理のもと、レーニンそしてスターリン(もちろん、トロツキーも加担しているが)主導で、反対派(アナキスト派他)を徹底的に弾圧し、革命後の理想社会への道筋を遮断し、共産党独裁政権国家へと強固に推し進めていったということになる。
 だが、革命後、七十四年、ソ連邦が崩壊(一九九一年十二月)、その時、欧米や、わが列島国家も含めて、社会主義イデオロギーが破産し、民主主義が勝利したと喧伝していった時、民主主義は統治システムのことを意味しないにもかかわらず(資本主義=民主主義ではない、逆も同様だ)、世界各地を植民地化し自国の覇権力を誇示してきた国家群が、民主主義というレトリックで社会主義理念を断罪する資格はないと、わたしは、憤怒の思いを抑えることが出来なかった。さらに、東欧諸国が民主化されたといういい方は、その後の民族対立の激化を望見するだけの欧米諸国の欺瞞的喧伝でしかない。
 さて、本書は、下斗米伸夫「ロシア革命と宗教――古儀式派の存在」、岡田進「十月革命一〇〇年とロシア農民の運命」、森岡真史「販売競争から獲得をめぐる闘争へ」、佐藤和之「ソ連邦崩壊後の労働組合運動――モルドバのサンディカリズム」、村岡到「社会主義実現の困難性」の諸論稿を中心にして、村岡の著書『ソ連邦の崩壊と社会主義』への書評群と村岡による下斗米の著書『ソビエト連邦史 一九一七~一九九二』の書評で構成している。ここでは、五つの論稿に触れていくことにする。
 特に下斗米の論稿は、ロシアの、あるいはロシア革命の深い暗部を照射して、刺激的だった。モスクワ・クレムリンにある「レーニン廟を見て宗教性を感じた」という下斗米は、「『無神論』体制とはどう絡むのか」という問題意識を持ちながら、「古儀式派」の様態を切開していく。「帝政ロシアの正教での異端派」が古儀式派ということになるのだが、「もともと帝政以前のモスクワを中心とする古い正教徒で」、「『モスクワを第三のローマ』と信じ」ていたとして次のように述べる。
 「(略)二〇世紀以前をふくめ、無神論者レーニンの宣伝とは異なって、ロシア革命には強力な宗教的要素があった。そしてそこで古儀式派の役割が大きかった。(略)その後の混乱的な革命情勢の中でも、この潮流はレーニン共産党の中核、特に反対派だけでなく、スターリンを支えたモロトフのような体制派にも、存続し続けたのである。」
 スターリン死後、フルシチョフ体制でも、どうにか生き延びていったモロトフが古儀式派だったということだけでも、ロシアという迷宮を思わないわけにはいかない。
 エリツィンの農業改革を「スターリンの強制的集団化をそのまま裏返した、いわば強制的『脱集団化』と言うべきものであった」と述べていく岡田進の論稿、需要者(買い手)と供給者(売り手)の関係を軸に社会主義経済を分析していく森岡真史の論稿、「旧ソ連諸国の労働運動は、スターリン主義の記憶から、社会主義への否定感とEU志向が根強い。その結果、経済主義的な現場闘争に偏重したサンディカリズムや、政労資の強調・協議に偏重したコーポラティズムへ陥る傾向がある」と述べる佐藤和之の論稿は、それぞれ、わたしには教えられるものが多くあった。
 編者の村岡は、ロシア革命の初源に胚胎していた社会主義の理念を現在という場所へ再生すべく切実に問う論稿である。わたしなら、音をあげてしまうようなことを丹念に解きほぐしながら、新たな地平へと社会主義という理念を再構築する方途を提示していく。
 「ソ連邦などの崩壊は、『社会主義の敗北』ではなく、社会主義を目指す努力が失敗したことを意味している。(略)人類は、社会主義への道を、それまでの経験に学び、活かしながら、歩一歩と試行錯誤を重ねながら切り開くほかはない。『本格的な』道などはなく、いばらの困苦の道しかないのである。」
 このように述べていく村岡論稿が、わたしの関心を最も惹いていくのは、後半部の「付節 〈土着社会主義〉の大切さ」で論及されていることだ。「歴史の進歩はすなわち『西欧化』『近代化』することだと思い込」み、「外国からのいわば輸入理論を過度に偏重する傾向」があるとしながら、「未来への新たな展望を模索しながら、同時に土着の文化にも深い理解を備えること」だとしていく。わたしは、わが列島と大陸ロシアは〈アジア〉という大きな時空間で繋がっていると考えている。レーニン=スターリンの革命の破綻は、ロシアにおける〈アジア性(土着性、農業性)〉からの離脱を志向し、急速な西欧化(近代化、工業化)へと向かっていったからだと考えている。このことは、明治近代天皇制以後、現在まで、わたしたちが置かれた情況と同じ様態を示しているといっていいはずだ。

(『図書新聞』17.11.25号)

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2017年9月 2日 (土)

南椌椌・著『雲知桃天使千体像』(七月堂刊・17.7.7)

 本書は、絵本作家、詩人、俳人の著者が、二〇一六年から一七年にかけて、テラコッタで作った「雲知桃天使千体像」の作品集である。「雲知桃天使」というのは、「頭に雲知(うんち)を載せた童子」のことで、「うんち=雲知=雲を知るという当て字は童子の手柄でしょうか」と著者は「あとがき」のなかで述べている。確かに、雲知像の顔(表情)は、童子といってもいいのだが、わたしなら、もう少し別様にいいたい気がする。
 わたしは、雲知桃天使像を、「南椌椌個展/雲知桃天使千体像」(一七年三月二七日~四月八日)の時、初めて、実際に手にとってみたことになる。十センチにも満たない小さな雲知桃天使像は、意外にも重く感じたことで、雲という浮遊感のような存在というよりは、土の感覚、つまり、乾いた土俗的な感性というでもいうべきものが、伝わってきて、小さな生命体のように、わたしには思われたといっていい。そして、あるかないか不分明な眼や鼻、口が、見るものに対し、小さな波動を放つかのように、何かを語っていると感じられてくるのだ。わたしは、なにも神秘的なことや宗教的なことを述べたいわけではない。小さな雲知桃天使像が、ここにいま在るということによって見るものと通交をかたちづくって、いいようのない関係性を醸成していくのだといいだけなのである。
 雲知桃天使像から、わたしが感じられるものは、結局、作者・南椌椌の繊細なる手の膂力によって表出されたものであることを考えてみれば、なにも不思議なことではないことに気づくことになる。
 雲知桃天使像の撮影場所は、青梅、多摩川、練馬関町、千葉館山、そして、ソウル、済州島と横断していく。それは、著者のなかに、半島と列島を繋いでいくという強い思いがあるからだといいたくなる。にもかかわらず、雲知桃天使像はどの場所であっても、その佇まいは不変だから、むしろ背景は、像によって喚起され、何処も、わたしにはなにか、同じように郷愁感のようなものを胚胎していると思わせてくれる。
 ところで、本書は雲知桃天使像千体の作品(写真によって活写されているもう一つの作品というべきかもしれない)集であるとともに、著者の詩・俳句作品集でもある。「古く新しく書いた句や詩などはどれも雲知桃天使をイメージしたわけではありませんが、詩画集のような体裁は初めから考えて」いたから、そのようなかたちになったと著者が述べているように、言葉による像が、雲知桃天使像の有様をさらに際立たせているといっていい。
 「百済仏きもちひとつと木瓜の花」「膝抱え笑う惚ける芽吹くまで」「詩人の死穴より出づる熊ん蜂」「天体や踊り子の吐く枇杷の種」「水蜜桃を頬張りながら/少年は笑いながら去っていった」「ソウルの『雨の日珈琲店』には/まだ行ったことがない」
 「画像と言葉とが補いあいながら、あるばあいに拮抗したり、矛盾したりして展開される物語性」(『マス・イメージ論』)というものを切開するために、「語相」という概念を提示したのは吉本隆明だったが、いま、わたしもまた、雲知桃天使像、千体の画像に著者の詩(俳句)の言葉が重ねられる時、そこにはまぎれもなく「語相」というものが立ち上ってくることを感知する。
 そうして、語相の行く立ては、著者の優しい視線を伴って、「天国と地獄 二〇一一年冬の清水昶」と題された詩作品を現出させていく。詩人・清水昶が亡くなったのは、二〇一一年五月(享年七〇)だった。冬ということは、死後の清水昶と作者の対話であり、それは、まぎれもなく深淵なる鎮魂の言葉群でもある。
 「なあ南さんよ/地獄ってどこにあると思う?/地獄ですか/あの横断歩道あたりじゃないですか//清水昶は横断歩道を渡るのが怖くて/信号が青くなっても見送ってしまうことがある/(略)/じゃあ天国はどこだい?//天国ですか/そう、ここのベンチじゃないかな//清水昶は天気がよければ/毎日三時間をこのベンチで過ごす/(略)/南さんよ、みんな死んでゆくよ/なんでなんだ?/人生茫々だ、例外なく死んでゆく/(略)/清水昶は比類なきボクの詩人/でも実のところはわからない/きのうは自分のことマザー・テレサだって言ってた//きょうもこれから天国を訪ねようと思う」
 清水昶の詩世界に魅せられたわたしにとって、著者・南椌椌の比類なき優しさを、この詩篇から感じないわけにはいかない。もとより、その優しさが雲知桃天使像を千体、作り上げたのだと思う。

※寫眞:添田康平

(『図書新聞』17.9.9号)

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2017年8月11日 (金)

月犬句集『鳥獸蟲魚幻譜抄』を読む

 著者の第一句集である。文庫サイズで表紙、裏表紙を含め20頁、作品数は、六十一。だが、作品世界は濃密である。

  蝶群れて激しく水を吸ふ白晝

 巻頭の一句である。わたしにとって、偶然にも、二年前、リアル句会で接した作品である。五句提出されたなかで、「棒立ちの神と私と酔芙蓉」とともに、わたしは選んだ。俳句の実作をしないわたしが句会に参加するという大胆なことをしたのは、ひとえに、著者の強い勧めによる。
 この時の句会報に、わたしは以下のような文章を記した。

 言葉(言語)というものには、自己表出と指示表出という二つの位相があるとして、自己表出を突き詰めていけば、「沈黙にいちばん近いところの言語」(『第二の敗戦期』)になると、吉本は後年、語っている。言葉(言語)というものが、リアルなコミュニケーション・ツールであるという拘束性から放たれて、沈黙のコミュニケーションへ至るということを考えてみた時、俳句作品が通交する場所は、まさしくそういうことなのではないかといいたくなる。つまり、言葉が本来の意味を超え出ていく時、作り手と読み手の間に不思議な沈黙のコミュニケーションがかたちづくられていくことになるのだ。「棒立ち」が「酔芙蓉」へと展開されていく情景や、「蝶」の「群れ」から、「白晝」へと連結されていく時、ここでの超え出ていく言葉たちは、まさに、そういうことを、わたしに喚起してくれる。                         (『夜河』No.02---2015.10)

 ここで述べたことを、幾らか補足したい欲求がいま、わたしに起きている。俳句の実作者と作品のモチーフとの間にもまた、沈黙のコミュニケーションへ至る往還の場所があるのではないだろうかと。モチーフが実景か想起したものかに関係なく、作者自身が俳句という表現のなかに、自分自身を投射して沈黙の共同性をかたちづくることで、作品というものを屹立させていく。月犬作品に接して、わたしが、感受することは、それに尽きるような気がする。
 「激しく水を吸ふ」のは、作品のモチーフとしては、“群れた蝶”なのだが、実は、“自分自身の有様”を描出しているのだといいたい。“白晝、群れた蝶が激しく水を吸ふ”というイメージは、作者自身が、“激しく水を吸ふ”ことへコミュニケートしていくことの動態というべきではないのか。なによりも、強調していいたいのは、“飲む”のではなく、“吸ふ”ということにある。だから、“激しく水を吸ふ”ことは、“有様”であるとともに、“このようにしか生きられない”という〈表象〉なのだ。

  遠くから砲聲聞こえ蝶の午后
  手にすれば若き蝗の濡れてをり
  象連れてゆく七月の海岸へ
  夜の鳥霧動きたる河口かな

 月犬俳句が、わたしを刺激してやまないのは、絶えず喚起する詩語があるからだ。“砲聲”と“蝶の午后”、“若き蝗”と“濡れて”、“象連れて”と“七月の海岸”、“夜の鳥”と“河口”というように、詩語を連結させながら多様なイメージを喚起する、これらの作品は、わたしをいうなれば言葉以前、つまり未生の世界へと誘っていくかのようだ。戦争や争闘といった情況のなかでの“砲聲”を、“蝶”を媒介することによって、無化していくと見做してもいいのだが、わたしは、少し反転させて読み解いてみたい。“蝶”は、作者自身(あるいは、投射された作者像)であり、“砲聲”は、様々に重層化する人の大声であり、雑音のような言葉の暗喩と捉えるならば、“午后”という“場所”は、それを遠ざけていく〈時間性〉として描出されていくことになる。

 手にすれば若き蝗の濡れてをりの“濡れた蝗”に視線を馳せる作者自身の抒情的感性に、わたしなら、率直に感応する。

 象連れてゆく七月の海岸へを初出時に見たとき、“大往生した井の頭の動物園の象なのか。ならば、海岸ではなく、ほんとうは彼岸なのかもしれない”と解したのだが、時間が経過すると、“象”は、様々な生命ある存在の象徴として見做すことを可能にしている。“連れてゆく”場所が、“七月の海岸”であることによって、詩情性が横断していく。

 “河口”という詩語は、直ぐに重信の作品を想起させるが、夜の鳥霧動きたる河口かなでは、“夜の鳥”という有様によって、俯瞰視線を持つ鮮烈な作品として、わたしは感受した。

 これらの作品は、すべて初出時になんらかの応答をしたものだ。
以下、幾つか作品を引いてみる。

  もうすでに壱個の死なる夏の蝶
  魂の柔らかきところに靑蜥蜴
  海渡る宣教師の夢の鯨よ
  壱本の杭を離れぬ冬鷗
  鱶裂かる遠い港の夜更けかな

 
 句集名から分かるように、全作品、“生命あるもの”を織り込んでいる。だからといって、著者は、生命賛歌のようなことはしない。むしろ、生きていくことの苦渋感のようなものを胚胎させていく。 

  白鳥や未來といふは仄暗し

 最後の作品は、そのことを最も象徴している。わたしのなかで、“白鳥”は、アンビバレンツな存在である。けっして、なにかを仮託したくなるような存在ではない。確かに、“白鳥”と“未來”は連結しやすいこととして想起できるかもしれないが、反転させてみれば、そこは、“仄暗”い場所を表出するものとして、描像できるのだ。だから、迷わず、“暗ければ渾べて良し”といいたい。


※夜窓社・刊、2017.7.20発行(非売品)。但し、正式な書名は、“魚”の“脚”が、“大”である。

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2017年7月29日 (土)

渡辺雅哉 著『改革と革命と反革命のアンダルシア――「アフリカ風の憎しみ」、または大土地所有制下の階級闘争』(皓星社刊・17.2.28)

 いまから八十年以上前、1936年から39年にかけて、スペインで生起したファシズムへ抗した闘い(およそ六十万人の「スペイン人の生命が失われた」といわれている)というものがあった。わたし(たち)は、1970年前後、折からの情況との対峙のなかで、ひとつの理念が敗北の構造へと向かっていく予兆というものを、当時から遡って三十数年前のスペインという場所へ、共感を抱きながら、見通していたといっていい。なぜなら、その頃、市民戦争、内戦、革命といった多様な視線で捉えられてきたスペインの情況を、わたし(たち)は、短期間とはいえアナキストたちが主導した、世界史的に唯一の革命だったという意味で、スペイン革命と見做していたからだ。しかし、わたし自身は、ただ都合よく、自分の理念の方に引き寄せていたに過ぎないことを、間もなく知ることになる。当たり前のことではあるが、国家の有様というものを、ひとつの普遍概念(共同幻想)として見通すことはできるとしても、しかし、個別的、地域的な国家性(共同性)というものを捨象してはならないということを認識するようになっていた。
 本書は、スペイン革命を形成した根源、つまり、スペインにおいて醸成された初源のアナキズムというものを照射した画期的なスペイン内戦(あるいは革命)前史に関する論考集である。それは、同時に、そもそもアナキズムとは何かということを問うことでもあるし、やや手垢に塗れた言葉かもしれないが、民衆のエートスを切開していくことでもあるのだ。だから著者の視線は、いわゆる「都市エリート」が集まるカタルーニャ(バルセローナ)やマドリードといった場所を反照させるうえでも、必然的に南スペインつまりアンダルシアへと向けられていくことになる。
 「19・20世紀の南スペインの『膨大な数の農民大衆』をあえて『アンダルシアの民』と呼ぶことにしたい。」「本書の最も大きな狙いは、特にFRE(引用者註・スペイン地方連盟)に端を発する『純粋』アナキズムの水脈に着目しつつ、『アフリカ風の憎しみ』を刻印された19世紀以来のアンダルシアの階級感情が第2共和制期を通じてさらに悪化し、ついには1936年7月の破局へと雪崩れ込む過程を描くことにある。」
 アンダルシアは、大土地所有制度の下、「農業エリートと『民』とを引き裂く階級憎悪」というものが、潜在していた。著者は、それを「アフリカ風の憎しみ」と象徴化している。そして、「膨大な数の農民大衆」の、ほとんどが「日雇い農」であったと述べていくのだ。
 本書のなかで、著者が「1868年の9月革命の余燼がくすぶるスペインに、イタリア人のジュゼッペ・ファネリによりもたらされたミハイル・バクーニンのアナキズムの理念は、カタルーニャと並ぶ――また、ときにはカタルーニャをも凌駕するほどに――大きな支持基盤をアンダルシア、ことにグアダルキビール川の中下流域に見出す」と述べているように、わたしが、スペインのアナキズムに関心を抱いた契機として、アナキズム思想の最高の体現者であるミハイル・バクーニンの影響を知ったからだった。「『純粋』アナキズムの水脈」と著者が捉えるのは、そういう意味が含まれているのだ。
 だから、著者の論及を援用して述べるならば、「日雇い農」として在り続けた「アンダルシアの民」の「革命的な集合心性」には、そもそも「土着の社会主義」、「村落アナキズム」が胚胎していて、それが、バクーニン思想に喚起された「純粋」アナキズム理念として表出していったといえる。
 そして、改革と革命への渦動のなか、アナルコサンディカリズム、リベルテール共産主義といった思想が「アナーキー」をめぐる隘路のなかに入り、様々な軋轢が生起したことによって、「純粋」アナキズムが後退、変容を強いられていったことを、「1936年7月の破局」へ連結させながら、著者は、壮大な物語を紡いでいったのだと、わたしには思われる。
 そもそも、わたしは、リベルテールと共産主義、アナキズムとサンディカリズムを繋ぐ契機を、スペインに限らず、どの場所においても疑問を抱いていた。極端な比喩をいえば、アナキズムとマルクス主義を折衷するようなものだと考えられるからだ。
 「アルフォンソ・ニエベスの議論は、(略)革命を『アナーキー』のなかで実現される『物質とモラルの両面における人類の再生(略)』の事業と規定する。(略)そこで、『アナーキー』へと至る途上に『浄化(略)のための一時期』が設定される。ニエベスの理解では、この時期こそが『経済的な解放』、言い換えればリベルテール共産主義の段階に他ならない。」
 ロシア革命後の過度期国家論に通底する「リベルテール共産主義」の措定の仕方だといっていい。「人類の再生」という空無な概念は、置いておくとしても、「経済的な解放」ほど、怪しげないい方はないのだ。
 「ファン・ガリェーゴ・クレスポとマウロ・バハティエラ・モラーンを通じて、FAI(引用者註・イベリア・アナキスト連盟)はアナキズムとサンディカリズムとの関係をめぐる議論を持ち出した。(略)ガリェーゴ・クレスポにとって、資本主義に対する闘争の『武器』としてのサンディカリズムを培い、導くのがアナキズムの精神に他ならない。従って、(略)資本主義が消滅すれば、サンディカリズムはその存在の必要性を失い、サンディカリズムは『理想』、つまりアナキズムの精神のもとに『自動的に』吸収される。」
 論者は違うが、ここで述べられていることは、サンディカリズムもまた、リベルテール共産主義と同じような位置づけになるといえるはずだ。
 「リベルテール共産主義の実現は、すべての住民の集まり(略)がそのまま『自由な自治体』へと転化する農村においていっそう容易なものと考えられていた。」
 ロシア革命が、やがて、ナロードニキの感性を簒奪して民衆のエートスとはかけ離れた方位へと向かっていたように、「土着の社会主義」、「村落アナキズム」こそが、「アナーキー」の源泉であったことをスペインのアナルコサンディカリストたちは、置き去りにしていったために、悲痛な終焉を招来させてしまったのだと、本書を読み終えて、わたしが真っ先に感じたことだ。

(『図書新聞』17.8.5号)

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2017年6月20日 (火)

白島真・著『詩集 死水晶』を読む。

 本詩集は、著者にとって第一詩集ということになるが、1974年から1995年までに発表された作品(ただし、76年から84年の間に八年間の空白期がある)と、さらに二十一年という時間を経て、2016年に書き下ろされた詩作品によって構成された詩集であるから、わたしは、あえて、“詩集成”といい方をしたいと思っている。
四十数年間という時間の横断のなかで詩人が紡ぎ出した詩作品の集成は、年齢的にいえば、二十四歳から六十六歳までになるわけだが、初期と現在における二作品を象徴的に取り出しながら、『詩集 死水晶』の世界へと近接してみたいと思う。

   生きたままの花の化石になりたい
   という少女がいて
   街は、霞のようにかすかに
   かそけく 輝いているのだった
    (略)
   セカイは思惟と思いに分断された

     浮遊してくる白茶けたちちははの記憶
     抒情はいつだって孤独だ           (「花の化石」2016.7)


   溢れる海の思想(おもい)を
   透いた生命の鼓動にのせて
   ぼくはきみに語りたい
    (略)
   いま冷たい祈りのように
   ぼくの内側から崩れていく海がある    
                           (「ぼくの内側から崩れていく海」1974.8)

  「少女」という詩語から、真っ先に浮かべる詩篇がある。吉本隆明の「少女」(56年)である。しかし、いまから、六十年前の、しかも吉本、三十代の詩篇の中の「少女」を、安易に繋げるのが、わたしの本意ではない。センシティブな吉本の「少女」に比べて、白島真の現在における「少女」は、必ずしも、感傷的な、あるいは抒情的な存在として描像されているわけではないからだ。しかし、そこには、共通の様態を見通すことができるはずだと、わたしには思われる。白島にしても、吉本にしても、「少女」という暗喩に、自分自身の有様を投射しているといっていいはずだ。
  「生きたまま」であることと、「化石」とは、アンビバレンツな表出である。それは、「思惟と思いに分断された」、「セカイ」へと通底していくことになるのだが、同時に四十二年という時間の遡及によって、「溢れる海の思想(おもい)」を透徹していることだと、わたしには思われる。
 そしてまた、父と母の記憶を「白茶けた」ものとしながら、孤独な抒情を噛みしめている現在は、「ぼくの内側から崩れていく海」が重ねられているといっていいのではないか。そのような場所に、詩人・白島真の詩の言葉は時間と空間を鮮鋭に横断させ、わたし(たち)に、回収されずに沈潜した感性の織のようなものを示しているといいたい気がする。思想を「おもい」と表象させる白島にあって、そもそも沈黙期や空白期というものは、ありえないのだ。それらは、時間を横断させながら繋がっていくものだからだ。

   影のように覗きこむ者がいる
   死水晶のきらめき に憑りつかれた
   もうひとつのわたしのかげ

   わたしが捨てた影のため
  涙はその落ちる位置をしらない
  盃はいつも 毒のように吞みほされている    (「死水晶」75.4)

  「死水晶」とは、鮮烈な詩語だと思う。死への鎮魂が込められていたとしても、わたしには、想起しえない言葉だ。「水晶の死」といういい方を誰かがしていたように記憶するが、そもそも、「水晶」に対するわたしの感受のし方が、極めて皮相なものでしかないから、「死」を冠せられる時、「水晶」が、あたかも“水際立ってくる”ように感じられたといっていい。だが、この詩作品が、わたしの心奥へと刻んで入ってくるのは、「もうひとつのわたしのかげ」、つまり「わたしが捨てた影」という暗喩があるからだ。影は死に憑りつかれているとして、やがて、必ず、自分にもやって来る「死」というものは、誰かの「死」を介在させることでしか、感受しえないことによって、哀しみが増幅させられていくからだ。

    (ああ きらびやかな予感の死水晶!)


   光の裏側には
   だれも知らない
   青白い湧水があって・・・・・         (「発寒通信「界川遊行」Ⅱ」90.3)

 だからこそ、十五年後に紡ぎだされた詩作品には、「きらびやかな予感の死水晶」として、自らの有様を投射できるのだといっていい。わたしは、この「きらびやかな予感」という詩語に共感する。

   ああ、瞳が
   瞳が死に向かって光ってしまうよ
   やさしさに崩れていく月夜の晩に
   生まれたばかりの胎児がのそり
   のそりと動いているよ
   そして見えない海のざわめきが
   幾重にも尾をひいて
   枝垂れる俺の内側を
   そんなにもいちずに噛み砕いていくのだよ    (「澱む月夜」74)

  わたしが、集成中、最も感応した詩作品の最後の一連を引いてみた。「瞳(め)」、「月夜」、「胎児」、「海」、そして「死」が、「俺の内側」に貼りついて澱んでいる。本詩集成の詩人は、「詩を書くことは私にとって救済であり、自らのタナトスへの憧憬を断ち切る手段でもあった」「この詩集は私のこれまでの生の全記録とも言える」(「あとがき」)と述べている。澱みは、澱みのまま、人は、どうしようもなく、貼りついたままにしておくのかもしれない。だが、白島真にあっては、生きていくことと、「死」への傾斜は、同時的に時間を重ねていったことなのだ。「詩を書くこと」は、「救済」であったとしても、紡ぎ出す詩世界は、「思惟と思いに分断され」、「抒情はいつだって孤独」であり、「ぼくの内側から崩れていく海があ」り、「海のざわめき」は見えないと、絶えず語られていく。恐らく、いまも、そうに違いない。
 
 本書の巻末に付された福島泰樹による、熱い解説「復活の歌」に誘われながら、詩人・白島真という「物語」を、もう一度、辿る時、わたしには、この詩人が、かつて見ていたであろう情況的なる風景を、どこかで同じように見ていたかもしれないと、感ずるようになった。そのことの、根拠や理由を、いまここでは語らないでおこうと思う。少なくとも、わたしなりの白島真の詩世界から喚起されたことを記したことで、とりあえずは止めておきたい。


※七月堂刊・17.3.7[A5判・176P・本体2000円]

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2017年5月27日 (土)

山本哲士 著『吉本隆明と『共同幻想論』』             (晶文社刊・16.12.25)

 吉本隆明の『共同幻想論』(68年12月刊)をリアルタイムで接したものにとっては、その衝撃の大きさは計り知れないものがあったといっておきたい。七十年前後の抵抗と対抗の渦動のなかに身を置きながら、この国の擬制的な有様を根柢的に〝撃つ〟手立てを見つけられずに彷徨っていた時、「現在さまざまな形で国家論の試みがなされている。この試みもそのなかのひとつとかんがえられていいわけである。ただ、ほかの論者たちとちがって、わたしは国家を国家そのものとして扱おうとしなかった。共同幻想のひとつの態様としてのみ国家は扱われている」「わたしは地面に土台をつくり建物をたてようとしているのである。このちがいは決定的なものであると信じている」という吉本の論述から、わたし自身の立ち位置を確信し得たと思ったのだ。それから、五十年近い時間を経て、その時の感受の有様をわたし自身の思考の初源として、いまだに抱き続けてきたと、なんの衒いもなく、断言できる。
 吉本隆明の膨大な仕事とその思想体系を、現在を見据えながら更新させて、今後どのように自分たちの内奥へと深化させていくことができるかということが、吉本思想から影響を受けてきたものにとっての課題だと、吉本逝去後、わたしは考えてきたつもりだ。本書は、そういう意味において、ひとつの指針を与える画期的な試みだといえる。長年、吉本へのインタビューや対話によって肉声からの思想と表現されてきた思想の間隙を透徹してきた著者だからこそ可能なことだといっていいはずだし、それ故、逝去後、数多く刊行されてきた吉本論とは明快に一線を画している。
 著者は、「普遍的な根源思想へ迫るのが、吉本思想のあり方」だとしながら、本書の論旨を、次のように述べていく。
 「『共同幻想論』を理論生産し『共同幻想国家論』として、国家論との架橋をなす地平をひらきながら、同時に『対幻想と近代家族』との関係を理論生産し、『個人主体と自己幻想』との関係を把捉していき、『高度資本主義』の歴史的現存性へせまります。(略)さらに、幻想と権力関係との関係を解析していきます。(略)それは、〈いま〉〈ここ〉での自分自身をとりまく世界・環界を、自らにはっきりとさせていくことに関わります。」(1章 幻想本質論へ)
 かつて、わたしは、農本的無政府主義者・権藤成卿が展開していく〈社稷〉概念を、「政治的国家と社会的国家を二重の屋根のようにかんがえた」(「自立の思想的拠点」)ものだと捉えていく吉本に逡巡したことがあった。それは、「社会的国家」という概念に困惑したのだ。「社会」を包括していくものとして「国家」はあるのではないか、あるいは、「国家」と「社会」は、その共同性において別位相として考えるべきではないかと思ったからだ。本書の著者は、わたしの逡巡を遥かに超脱して、次のように述べていく。
 「最初のころ、共同幻想論を形成していくうえで、吉本さんは『国家の共同性あるいは社会の共同性』という言い方をよくしていました。ここを、まず識別して、『国家的共同幻想』と『社会的共同幻想』として識別し、『社会幻想』なる概念を構築していかねばなりません。(略)『社会幻想』とは『社会がある』と想定・設定されている幻想です。社会機関や社会制度の具体ではありません。『社会』は想像的に表出されたものです。つまり、国家へ象徴統御されえていないものが、現実界へ実際にこぼれだしている、それを想像的なものとして代理編成して、さらに実定化さえしてしまっているものです。」「共同幻想を国家論へと飛躍させるには、『社会』への統治制を歴史的存在として考慮にいれないと不可能です。」(3章 共同幻想/対幻想/個人幻想の関係構造)
 著者は、明確に、「国家」位相と「社会」位相を識別させながら、吉本の「共同幻想」概念を拡張させて、「理論生産」していく。そして、吉本の「高度資本主義社会」論を補完していくようにして、「高度資本主義社会というのは、国家空間以上に社会空間を拡大かつ緻密化して構造化することによって国家維持をはかっている世界です。つまり統治しすぎないことによって統治効果を十分に発揮しえている国家・社会で」(10章 高度資本主義における共同幻想)あると展開させていく。
 このようにして、著者は、「社会空間の社会幻想」を基軸にして、「共同幻想を国家論」へと架橋させ、「〈場所共同幻想〉に立脚した転換をなすこと」を内在させる「場所革命」という考え方を提起していく。
 「地域ならざる場所環境の実際に立ち、その地域性を時間化して世界史の歴史的段階の歴史性へ転化していくことにおいて、わたしは設定しています。近代国家の生成過程の統合化で蹴落とされ剥奪されてきた地域性の普遍性への転化、それが〈場所〉という意味です。地域革命ではありません。『中央―地域・地方』の関係構造を転移することです。」(終章 幻想ブラチックとパワー関係:国家論と権力関係論の地平―批判意志から可能意志へ―)
 この論述から、わたしを喚起させるのは、次のようなイメージである。
「〈いま〉〈ここ〉での自分自身をとりまく世界・環界を、自らにはっきりとさせていくこと」を胚胎させながら、現在的空間を通底して、吉本が、『共同幻想論』以降、しばしば提起していた「国家を開いていく」ことへ繋げていくことである。

(『図書新聞』17.6.3号)

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2017年5月20日 (土)

河出書房新社編『高橋和巳 世界とたたかった文学』        (河出書房新社刊・17.2.28)

 わたしは、高橋和巳の文学、そしてそこに胚胎する思想に、青春期(高校一年生時の冬、刊行されて三ヶ月後の『憂鬱なる党派』を、一学年上の先輩に薦められて読んだのが、始まりだった)、大きな影響を受けただけでなく、自分自身の思考の原基をかたちづくる契機になったと思っている。以後、五十年以上にわたり、折に触れ、作品や評論等を繰り返し読み直している。作品でいえば、『邪宗門』、『憂鬱なる党派』、『悲の器』、『散華』、『堕落』、『日本の悪霊』であり、評論なら「暗殺の哲学」、さらには、本書で高橋和巳アンソロジーの巻頭に配置した「非暴力直接行動について」である。わたしにとって、高橋和巳の文学と思想は、いまだに、〈現在性〉としてある。
 本書の開巻の「高橋和巳、その人と時代」と題した文章で、「高橋和巳は一九六〇年代から七〇年代はじめにかけてのある時期、最も読まれた作家でした」「かつてあまりに多く読まれた反動と、そのあとの消費社会への流れは高橋和巳を忘れさせようとしたかのようです。しかしこの時代はもう一度、高橋和巳を呼んでいるように思われます。この誠実で、深く人間を見つめた文学者の作品はこれからこそ読まれなくてはならないはずです」と書かれているのだが、わたしには、幾らか留保したい感慨がある。最後の「誠実で、深く人間を見つめた文学者の作品」という結びには、もちろん異論はないし、まったく同意できる見方だ。しかし、「多く読まれた反動」ではなく、七十年前後の対抗と抵抗の渦動のなかで、高橋和巳の作品は、本人の心身の消耗とともに、皮相に消費されていってしまったのだと、わたしは、捉えている。卑近な例を挙げてみる。71年5月、わたしは、所属していた(といっても、活動からは、やや離れていたのだが)、大学新聞に、後輩に頼まれ、長めの高橋和巳の追悼文を書いた。後輩は、〝情況〟的な記事を差し置いて、一面全体を使い掲載した。その時の周りの反応は、実に冷ややかなものであった。高橋和巳の苦闘なる死は、ある意味、〝情況〟的なるものへと還元され沈められたのだと、わたしは思っている。
 河出文庫新装版『憂鬱なる党派 上』(16年7月刊)の帯文に、小池真理子が、「四十六年前。私は『憂鬱なる党派』を手にした男友達と、西日の射すバス停で何台もバスをやり過ごしながら高橋和巳の話をしていた」と記していた。わたしより数年年少の小池もまた、高校生の時、高橋和巳の真摯で誠実なる表現に喚起されたことがわかる。闘争や情況的なものとは、別に、そういう時期に高橋和巳は、感受される存在であったことを、わたしは強調しておきたいのだ。
 本書は、旧稿(三島由紀夫との対談、秋山駿によるインタビュー、埴谷雄高、大江健三郎らの追悼稿)のものも含めて、新たに書き下ろされた高橋和巳をめぐる論稿(杉田俊介、安藤礼二、友常勉、島田裕巳他)と対談、そして、高橋和巳の評論・エッセイを五編収録し、現在から見て、「世界とたたかった文学」を俯瞰できる構成となっている。二編ほど引いてみたい。
 「(略)私が挙げている幾人かの代表者のうち、自己の精神のアナキズムへの傾斜を自覚していったのは高橋和巳ひとりであるが、さて、全共闘運動にかかわった彼は、そのとき、ひとつの極度な困難に直面せねばならなかったのである。」(埴谷雄高「破局への参加」)
 「(略)『邪宗門』は、高橋和巳という作家の個性、さらにはモデルとなった出口なおと出口王仁三郎という『対』でありながらも一なる存在であるという宗教者たちの個性が渾然一体となり、それ以前にも以降にもなかったような、稀有な作品として完成されたのだと思います。列島一〇〇年の歴史を問いながら、未来にひらかれた作品になったのだと思います。」(安藤礼二「『邪宗門』の革命」)
 さて、陣野俊史と小林坩堝との対談「いま、高橋和巳を読むために」は、本書の白眉といっていい。1990年生まれの小林は、かつて「高校一年生になるまえの春休みです。河出書房から出ていた文庫版の『悲の器』を」(山羊タダシとの対談「高橋和巳の現在」―『幻燈 10号』09年11月)読んだのが、初めての高橋和巳との邂逅だったと語っていた。陣野の、「若い人がわりとすんなり入れたんですか」と小林に問い掛けているが、むしろ〝若い〟時期だからこそ、高橋和巳の〝誠実さ〟に共感できるのだ。小林の発言を引いてみる。
 「私がいちばんに挙げるとしたら『憂鬱なる党派』です。高橋和巳の文学はだいたい敗北というか、滅するというところに終局がありますけども、(略)主人公がほとんど餓死みたいな死に方をする。出版したかった原稿が主人公の西村の死後に子どもたちに紙飛行機にされて飛ばされて、それが地面に落ちてという場面があって。(略)私は、これは一つの希望なのかなと思ったんですね。(略)西村が死んでなお残った希望なのかなと考えたんですよね。誰にも手渡されない最後の希望。そこに共感可能性があるのだと。『邪宗門』の場合、餓死した一団にまつわる伝承めいた語りで終るわけですけど、それにも少し近いところがあって、何もかもが潰えたかのような、でもそれも希望なんじゃないかという気がします。強烈な敗北シーンではあるのだけれど、高橋和巳は希望を託したかったんじゃないかなと。無惨な美というか。そこに『精神のリレー』をみることも出来ると思うんです。」
 わたしは、この小林の捉え方は高橋和巳の世界を真っ芯で照射しているといってみたい。
 「すべて権力には、それに触れられれば逆上するにいたる『逆鱗』というものが存在する。」「個々の人間存在は、あるというだけではまだ価値ではないが、すべてが価値可能体である。」(高橋和巳「非暴力直接行動について」)
 これらの言葉は、〝世界とたたかう〟ための矜持でもある。

(『図書新聞』17.5.27号)

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2017年3月11日 (土)

青木孝平 著『「他者」の倫理学―レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む』( 社会評論社刊・16.9.10)

 「他者」という概念は、それ自体として存立できないものだ。つまり、「自己」というものを措定して、初めて、「他者」ということが表象してくるといえるからだ。しかし、本書の著者が思考する「他者」は、「自己」の反照か鏡像のように在ると、わたしは受けとめたことになる。もちろん、著者にあっては、「他者」とは、「自己」を対象化もしくは相対化するものと措定しているのだが。
 「レヴィナス、親鸞と宇野弘蔵という思想の出所も思考の形成過程もまったく異なるものをクロスオーバーさせることで、形而上学的観念論と弁証法的唯物論との障壁をいったん解体し、自我を根源的に相対化しうる『他者』を主体とする思想、すなわち語の厳密な意味での倫理的思考へと向かうことをめざしている。」(「まえがき」)
 ここで著者が明言していることは、「自我を根源的に相対化しうる『他者』を主体とする思想」を構築していく方途として、レヴィナス、親鸞、宇野弘蔵という一見クロスしない思想表現を横断させていこうという試みになるわけだが、「他者」という様相を鏡像のように見做していけば、それぞれのなかで微妙な差異を見せていることに、わたしの関心は引き寄せられていくのだ。その差異の位相を、わたしなりに共感性を滲ませながら述べていくことができれば、本書の深部へと幾らかでも近づくことがでるのではないかと思っている。本書の構成と違い、宇野、レヴィナス、親鸞という順に触れていく。
 著者は、「マルクスが人間主義的立場から資本主義を解明し批判しようとしたのに対して、宇野弘蔵のそれは、全く逆に、ひとまず資本の立場に主語を置いて、徹底的に『人間』を対象化し批判する方法論を貫こうとしたもの」だから、「人間(自己)に対してあらかじめ外的に存在する『他なるもの』を主体とする論理だったというべきである」と述べているのだが、確かに、資本制社会を構成するのは、「市民社会」という人間集団である以上、「人間」を対象化していくことは当然のことだと思う。そのように対象化していく視線が、「『他なるもの』を主体とする論理」となるのかどうか、幾らか逡巡しないわけにはいかない。
 レヴィナスについては、「顔」という概念を軸に「他者」へと敷衍させていく。「私の内にある『他』の観念をはみ出しつつ『他者』が現前する仕方、このし方のことをわれわれは顔と呼ぶ」というレヴィナスの言説を引きながら、著者は次のように述べていく。
 「(略)レヴィナスは、私と顔、それゆえ自己と他者を、鋭角的な非対称性によって切断する。そして自己を超える他者の崇高さ、尊厳さ、無限性を強調する。彼は、(略)無限に超越していく者として他者の『顔』を渇望した。むろん、こうした絶対的他者の肯定は、哲学ではなく宗教学としての『神学』にすぎないのではないかという疑問もありえよう。しかし、レヴィナスにとって、神は現前することない『絶対的不在者』であり、彼の追求したものは、どこまでも自己に対する他者の倫理的関係であった。」
 これはあきらかに、レヴィナスの他者(顔)は、宇野思想から、やや距離を置き、親鸞の「他力思想」により近接していくかのようだ。著者は、当然のことなのだが、仏教史、あるいは、仏教思想という位置づけのなかで、親鸞を捉えていくわけだが、宇野経済学ではなく、宇野思想として著者が見做したように、わたしは、思想家としての親鸞、あるいは親鸞思想という視角で捉えてみたいのだ。
 「(略)親鸞は、称名念仏の行を、衆生の側からする能動的な行(能行)としてではなく、どこまでも諸仏の、さらには阿弥陀仏の側からの大行としてのみ読み替えて捉えることになった。(略)親鸞の『他力』は絶対他者としての仏による無限の能動的救済を指すことばであり、これに、凡夫としての『自己』の、いっさい選択の余地のない徹底的に受動的な信心が対置されることになる。」
 称名念仏を一生懸命唱える、あるいは、俗的にいえば修業して悟りを開くといったことは、能動的信心ということになる。しかし、まったく逆のベクトルで信の構造を切開して見せたのが親鸞であった。著者の論及を援用していくならば、「自己があれこれ心配して手段を講じなくても、阿弥陀仏の側からひとりでに救いの手が差しのべられ」、その「背後に、一切衆生を救おうという弥陀の本願がある」ということになるのだ。そして、「もしかするとそれは、信仰そのものの放棄と紙一重の心境であり、いわゆる『非智』ないし『無知』の思想であったかもしれない」と付言していく、著者の親鸞思想の描出は、同意できる。そうであれば、信というものを徹底的に突き詰めて、やがて解体させていくかのような位相を表出する親鸞における「他者」の倫理思想は、屹立していると、いっていいのではないだろうか。

(『図書新聞』17.3.18号)

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«中田豊一、和田信明 共著                     『ムラの未来・ヒトの未来―化石燃料文明の彼方へ』      (竹林館刊・16.11.1)