2020年8月22日 (土)

杉本真維子 著『三日間の石』(響文社刊・20.6.25)

 本書は、「図書新聞」紙上で十年以上に渡って断続的に連載している「裏百年まち」から三五篇、「群像」、「現代詩手帖」各誌に発表した二篇、未発表が一篇で構成している。著者は三冊の詩集(『点火期』、『袖口の動物』、『裾花』)を出しているが、詩集以外の単著は本書が初めてである。
 「裏百年まち」で著者が紡ぎ出す文章に、わたしが接してきて感受したことは、物語のような世界を言葉たちが交感しているということだった。それは、エッセイといったカテゴリーには収まり切れないことを意味する。もちろん、小説ではないし詩作品でもないが、著者が詩人であることを手放さずに言葉を紡いでいるからだといっていいと思う。あらためて、本書に接して、そのことをさらに強く感じたことになる。
 「鳩も私も、窪地の底に溜まった、闇の塊の一つなのかもしれない。誰かに幽霊とまちがえられながら、夜の墓地を歩く。寺の門前には数ヶ月間変わらず、同じ格言がライトアップされている――「これからが これまでを 決める」。時間が逆さに流れ、ぐるりと一筆書きにされた過去と、未来のあいだに、自分がいる、と思った。ひりひりと、これから、が出来ていく。」(「幽霊坂」)
 過去と現在の自分、そして未来はどんな繋がりがあるのかと、わたしもまた考えたことがある。二十代前半期の頃だった。そこで、「過去こそ未来」(内村剛介)という言葉に出会い納得したことを、「ひりひりと、これから、が出来ていく」という言辞によって思い起こしたことになる。
 「あと一週間かもしれない。そういわれた祖母に対し、いまは「なにも書くことがない」という感慨を保っている。これが揺らいで、うすくなにかがひらいてきて、そこからしるが出て、詩になったらもうおしまいなのだ。つぎに、わたしに詩に書かれるような祖母が、わたしの近くで、息をしているはずはないのだ。」(「反逆の日」)
 詩を、ここまで、つまり祖母の有様と繋ぎながら述べていく詩人を、わたしは知らない。賢治が姉の死を詠んだように、詩人は身近な死を引き寄せるものだと思っていたから、杉本真維子の心象は、むしろ親近感をわたしに抱かせる。そして、心象はさらに深度を深めていく。
 「かつて、肉親の死とはどういうものだろうと、想像することのおそろしさに負けていたころ、私の父は、こういうものだ、と教えるようにとつぜん死んだ。死によって私は生まれた、と思うほど、世界は一変し、経験はゼロにもどった。自分はまだ何も知らなかった、という言葉が何度も口からこぼれた。」(「石を投げて呼ばない」)
 「死によって私は生まれた」といい切る詩人の言葉に、応答できずただ立ち止まって、その言葉を反芻する自分を確認することになる。なぜ著者は、父の死をこのように捉えてしまうのだろうか。
しかし、三十九歳で亡くなった友人のことを、「私が持っている言葉のイメージを、そのまま温かく、受け取ってくれていたなんて」(「オバQ線」)と語る視線もある。また、小学校時代の担任を追慕する著者は穏やかだ。クラスの紹介文を担任の先生は「不思議な国の五組」と記したという。
 「先生は若くして亡くなってしまったが、私に残してくれたものの圧倒的な重量感は、そのまま先生の存在感となって留まり、今も自室の壁には、先生が卒業式に贈ってくれた文字版画がひかっている。(略)今も楽しければ踊ります。並ばされたりなんかしません。自由の意味を考えていきます。いつも本気を出します。詩を作っています。」(「不思議な国の五組」)
 著者のイノセントな決意表明がいい。「いつも本気を出します。詩を作っています」は、確かに真摯だけれど、肩に力が入っているわけでなく、自然に言葉は発語していくものだということを滲ませているからいいのだ。
 「(略)今年の夏は、生まれて初めて花火を美しいと思えなかった。(略)夕暮れ、新盆の準備をしながら、そんなことを思いだしていた。茄子と胡瓜に割り箸をさして、死者になった父の乗り物をこしらえる。これがうま、これがうし。門提灯を開き、玄関につるす。松の割り木を用意し、迎え火を焚く。(略)それから、呼吸を整え、正座して、経を唱える。なんとなく、外出ははばかられたので、翌日から三日間は、家に籠ることにする。待つこと、迎えることが自分の仕事だから、窓を開け放ち、灯りを絶やさぬように、家の番人に徹する。(略)最終日、送り火の時間を迎えるころには、私は窓際に置かれた石であった。」(「三日間の石」)
 父を送る新盆の様相を、このように物語っていく著者の立ち位置は浮遊感を湛えているが、「この世に帰ってきたのは、私なのではないか。闇のなかでちろちろと揺らめく火を追って、夢中で走ってきたのは、私なのではないか」と問い掛けていくことで、それは明快なかたちをつくっていくことになることが分かってくる。
 わたしなら、「三日間の石」という物語を受けて、次のように述べてみたい。
人と人との関係性を絶えず往還することこそが、生と死の間を照射していくことになるのだといいたいと思う。

(『図書新聞』20.8.29号)

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2020年8月 1日 (土)

石井正己 著『現代に共鳴する昔話 異類婚・教科書・アジア』(三弥井書店刊・20.1.10)

 著者は柳田国男の世界をわたしたちの世代が考えてきた受容の仕方とは、幾らか角度を広げ、多層なかたちで捉えていくことを、これまで指向してきたといっていい。例えば、わたしなら、柳田の『遠野物語』を、吉本隆明の『共同幻想論』に倣って共同体の禁忌の物語として解読していくということを課してきたといっていいが、そのことは、もう少し拡張して捉えることで、〈現在〉という時空を見据えることもできると思っていたからだ。
 「思えば、柳田国男研究を進めてきたのは民俗学者ではありません。民俗学者はアカデミズムの確立に向けて、民俗学を科学にするのと差し替えに、柳田を仰ぎながらも個性をはぎ取ってしまったように見えます。民俗学者が進めようとしなかった研究を全面的に受け止めたのは、吉本隆明や橋川文三、後藤総一郎といった思想史の人々でした。柳田国男は思想家として評価されたのです。そうした刺激は歴史学や人類学、社会学、国文学、教育学など幅広い分野に及びました。」(「柳田国男とグローカル研究」)
 六十年代後半から七十年代にかけて、吉本、橋川、後藤に導かれるようにして柳田の〈思想〉に触れていったのは確かだが、わたしには、菅江真澄への近接感が柳田の民俗学的方位と交錯していったという僥倖があった。 
著者は重ねて述べていく。
 「例えば、現代社会が抱えている親殺しや子殺し、孤独死、そして大震災からの復興を考えるときに、『遠野物語』は大きな示唆を与えてくれます。柳田国男の思考は今も決して滅びていないと断言することができます。」(「同前」)
 そして、本書の書名にもある「昔話」という言葉をめぐる問題がある。柳田は「昔話」ということに拘泥していた。
 「木下順二は、太平洋戦争の深い反省から、次々と民話劇を発表して民衆運動を進めました。民話劇は社会が直面する現実の課題と向き合うことを使命感とし、民衆の話そのままではなく、新たな命を吹き込まなければ意味がないと考えました。柳田国男は新しい時代の思想を盛り込もうとする「民話」という言葉に対して、最晩年まで不快感を隠しませんでしたが、それほど社会的な影響が大きかったのです。そうした民話劇の象徴とも言える作品が「夕鶴」であり、ぶどうの会によって長く上演されました。」(「異類婚姻譚の系譜」)
 わたしたちは、ともすれば、「昔話」も「民話」も古くから語り継がれた物語というイメージを抱くかもしれない。もちろん、そういう一面もあるとは思うが、木下順二の「夕鶴」が、「民話」から想を得たとしても、それは新たな創作作品というべきである。「夕鶴」が、大きな影響力を持って、異類婚姻譚の「鶴の恩返し」と一体化されて「民話」として拡張され流布されていくことに危機感を柳田が抱いたのは当然というべきかもしれない。
 わたしは、「夕鶴」を観ていないし観たいと思ったことは一度もないが、民衆運動といういい方で語られるものが、実は民衆の存在を希薄にしていくことになることを知っているつもりだ。
 『遠野物語』が、共同体、つまり共同性に孕んでいる問題を照らし出しながら、そこで生活している人々の心性を露わにしていくことに衝迫性を持っているといっていい。だから、著者の視線は次のようなかたちで柳田の苦闘を称揚していくことができるのだ。
 「重要なのは、「心の繋がり」や「精神生活の帰趨」を見つけ出そうとする点です。柳田にとっての昔話というのはそれ自体に魅力があるというより、日本人の「心」や「精神生活」を知るための素材であると考えていたように思います。柳田が昔話にあれほどの情熱を注いだのは、自分の方法を鍛え上げるための最も重要な場所だったからにちがいありません。」(「昔話研究の未来をどう考えるか」)
 著者に誘われて、柳田国男の鮮鋭な〈像〉がかたちづくられていくことに、わたしは、素直に共感したいと思う。

【付記】
 著者は、本書の最後で次の様に述べている。
 「今から二〇〇年ほど前に東北地方を歩いて、民俗を記録し、絵画に残した菅江真澄という人がいます。(略)菅江真澄の絵画の中には、今も残っている民俗もあれば、消えていった民俗もあります。先月(引用者註・一四年一〇月)、秋田県立博物館で行った講演では、「菅江真澄の残したものを世界記憶遺産に出してはどうか」と提案しました。(略)秋田県の若い人の関心が薄くなっている菅江真澄の価値を、世界的に意味づけることができるからです。」(「無形文化遺産と日本」)
 一八年九月に、秋田県立博物館で菅江真澄の没後百九十年記念展があり、その図録は、「菅江真澄、記憶のかたち」と題されていた。「記憶のかたち」は、著者が提案したことを継承したのかもしれない。ところで、ちくま文語版『柳田國男全集』(全32巻)のカバー表紙絵は、すべて菅江真澄の「民俗図絵」から採っている。

(『図書新聞』20.8.8号)

 

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2020年7月23日 (木)

梶井純さんとの時間

 梶井純さんと初めてお会いしたのは、一九七一年頃だったから、四十八年という長い時間を横断してきたことになる。しかし、その間、途切れずに会っていたわけではない。空白期も度々あった。最後の頃は、アナキスト詩人・秋山清さんを偲ぶ、「コスモス忌」で年に一度、会っていたことになる。わたしは、偲ぶ会といったかたちの集まりに定期的に参加することは忌避してきた。大勢で集まって偲ぶことより、その人の仕事・業績を亡くなった後で、自分なりに何度も振り返っていく作業を課していくことの方が切実なことだと思っていたからだ。だが、二〇〇四年に『秋山清著作集』(ぱる出版)の刊行を提起したことで、版元の社主O氏から、編集作業をするにあたってどうしても紹介したい人がいるから参加して欲しいといわれ、同年十一月二七日、会場に行った。誰も知っている人がいないと思っていたら、梶井純さんがひとりでいたので、直ぐ隣に座りいろいろ話し込んでしまった。O氏が慌てたようにやってきて、すぐに詩人の暮尾淳さんを紹介された。暮尾さんも今年一月に亡くなられた。
 梶井さんは、最後の数年間、歩行に不安があるということで奥さんのサトノさんと一緒に参加されたが、雨の日は欠席だった。一昨年は、天候は良かったが参加されなかったから、気掛かりではあったがこちらから連絡することはしなかった。突然の訃報は、三宅政吉さんからメールで受けとった。二年以上、梶井さんと会話していなかったのに、沈黙したままの梶井さんの顔に接したことが辛かった。
 梶井さんの名は、『漫画主義』という雑誌に執筆者として名前があったことで知ったことになる。もちろん、『ガロ』誌上の広告でのことだ。同時に、権藤晋(高野慎三)、菊地浅次郎(山根貞男)、そして石子順造だ。六八年の冬、年長の友人夫妻宅(アパートの一室だが)で、山根ご夫妻、石子さんと鍋を食べながら、会ったことがある。石子さんと山根さんの二人の言葉の応答に圧倒された記憶だけが残っている。石子さんとお会いしたのは、その一度きりである。
 わたしは、つげ義春さんをいち早く評価したことは、知っていたが、『漫画主義』から、直接的には影響を受けていない。それは、たんに購読してなかったことを意味するのだが。創刊号(六七年三月)は「つげ義春特集」だ。以下、梶井さんの論稿を七〇年まで追ってみる。第二号(同年六月)では「石森章太郎ノート」、第三号(同年一〇月)は「戦記マンガの精神構造」、第五号(六八年七月)には、「児童文化統一戦線への一視点」、第六号(六九年三月)には「「戦記マンガ」批判の思想を撃つ」、第七号(六九年八月)には「回帰または浸蝕輪廻への出撃―永島慎二論」と「ジョージ秋山・人の悲しさ、夢、人間嫌い」、そして第八号(七〇年九月)は「子どものマンガの退廃とその構造」となる。ところで、第七号と第八号には秋山清さんが寄稿している。
 「戦記マンガ」を巡っての論稿は、その後の梶井さんの大きな仕事、つまり、『執れ、膺懲の銃とペン 戦時下マンガ史ノート』(ワイズ出版、九九年)へと結実していくものだといえる。わたしは、考えてみたら梶井さんとどんな話しをしたのかはあまり覚えていない。映画や漫画をめぐって話したとは思うけれど、例えば、『漫画主義』で取り上げた石森章太郎、永島慎二、ジョージ秋山という作家たちについては、わたし自身の関心があまりなかったこともあり、話した記憶はない。覚えているのは、やはり骨董についてだったと思う。わたしが骨董に深い関心を持っていたわけではなく、ただテレビ番組「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京・九四年四月~)を見て楽しむといった程度のレベルである。
 『幻燈 創刊号』(北冬書房、九八年)に梶井さんは、「ビンスキー・ノート」という論稿を寄せている。目次を見て、〝ビンスキー〟とは誰のことなのだろうと思った。ビンスキーは、「ビンスキ」のことだった。いまでは、「ビンスキ(貧乏数奇)」はかなり高い認知度になっているようだが、当時は、わたしのような反応が普通だったと思う。
 「【ビンスキ】貧乏数奇。金のあるなしに関係なく、くだらないモノばかり買う行為や人を指すことばではない。//前世紀の遺物のような感じもする「数奇者」ということばは、そうとうにうさんくさい響きをともなっている。(略)古美術が好きで古物買いを長くやっていても、大方の人にとってはいずれ瓦礫か石くれか、というようなものを購う程度の散財では「数奇者」も「趣味人」もあてはまらない。もちろん、ただの瓦礫か石くれにたいするフェティシズムが高じているわけでもない。/あらためて考えてみるまでもなく、私の骨董には金をかけていないという顕著な特徴がある。(略)いってみればプロレタリアート骨董であるしかない私の守備位置からすると、カワラやセトカケの魅力は果てしない。一番に安いことだ。そして、ほんの少しの想像力があれば、残欠であってもモノの「実力」を賞美するのにそれほど不足はしない。(略)外見とはいささか異なる、タフな骨董業者である中島誠之助にして、愛玩してやまないモノの一つに中国均窯の破片があることを示しておかないのは公平を欠くというものだろう。(略)均窯残欠の美しさをこそ賞美できることとは、彼がその残欠に並々ならぬ美を見ていることを意味する。プロかアマかを問わずに「目」を信頼できるとはそういうことなのだ。」
 梶井さんの骨董観が濃密に凝縮された文章だと思う。さらにいえば、見事な思考の有様を指し示している。つまり、「カワラやセトカケの魅力は果てしない。一番に安いことだ。そして、ほんの少しの想像力があれば、残欠であってもモノの「実力」を賞美するのにそれほど不足はしない」といい切る箇所がいい。絵画や古美術品の評価を市場価値(価格)で判断されるのが、業者と蒐集家の間では了解事項だ。だがほんらいは、個々の表現価値が前提とされるべきである。率直にいえば、「カワラやセトカケ」に表現価値はあっても、市場価値がないから多くの蒐集家には見向きもされない。「開運!なんでも鑑定団」を人気番組に押し上げた功労者である中島誠之助を梶井さんは鑑定価格が高すぎるとわたしに語ってくれた。それには様々な思惑あることも教えてくれたし、「ビンスキー・ノート」のなかでも厳しく中島批判をしているが、最後に、共感を示すところは梶井さんらしい優しさかと思う。
 わたしが、梶井さんと共著者として参加した『山野記』(北冬書房、八九年)のことは、忘れられない。しかも、編者はつげ義春さんだ。何度かみんなで打合せをしたのもいい思い出になっているが、梶井さんの「古董旅日記」のなかに、わたしが撮った(もしかしたら妻が撮ったかもしれない)、近江八幡の「家並」と「掘割」の写真が使われたのは共作したような思いになってうれしかった。わたしたちが、近江八幡へ行ったのは、安土城跡とともに高野さんから勧められたからだ。
梶井さんの「古董旅日記」は次のように始まる。
 「もう二七年前のことになる。秋の近江路を歩いた。/晩秋の気配がただよう小高い丘の上から、近江八幡の町並み見下ろしていた。冷えびえとした大気は、まぎれもなく秋の終わりを告げはじめていた。眼下に広がるほとんどの稲田から、モミを焼く白い煙がまっすぐに立ち昇っていた。/学生生活も終りに近く、まだ就職先は決まっていなかった。前途に希望があふれているとはいえなかったが、焦っているわけでもなかった。大阪市内でおこなわれるK社の入社試験を前に、先方もちの旅費で近江路を歩いてみようと思い立った。(略)いまでこそ近江八幡は、たぶんマイナーな、たいしたとりえもない観光地か、京阪神のベッドタウンに変貌しているのだろうが、当時の近江八幡はわるくなかった。(略)普通の小さな地方都市のふんいきで、なおかつ古い城下町らしい家並みが残る町だった。(略)いかにも観光客にこびるように整序された剥製のような町並とはちがって、なんにもなくてもやっぱり生活しているんですよ、といったおもむきのある風景は、思いがけなく新鮮なものだった。」
 梶井さんが訪れてから、二十五年以上後に訪れたわたしたちも、梶井さんの近江八幡の印象をほとんど訂正することはなかった。近江八幡にまつわる戦前期からの物語を類推していけばいい。もちろん、背景の物語を意識しなくても、「なんにもなくてもやっぱり生活している」という風景は、その町が送ってきた時間の累積が無意識の共同性として表出していることだといっていいと思う。
 だから、梶井さんの「カワラやセトカケ」へ注ぐ視線、二七年前に近江八幡の町並みへ注ぐ視線は、ひとつの普遍性を持って、わたしに問いかけてくるような気がする。 
 かつてあったこと、モノが、表出し続けないことはないのだ。表出し続けてきたこと、モノが、わたしたちがどう感受するかということが、ある種の精神のリレーとして繋がっていくんだよと、梶井さんは語りかけているのだと思う。

 

(『貸本マンガ史研究』第2期06号・20.7.23)

 

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2020年7月 1日 (水)

映画『半世界』、溢れる関係の物語

 監督・脚本の阪本順治にとって、「世界」という言葉は、覇権主義国家の為政者たちの使うものとなっているという考えがある。だから「半世界」は、〝もう一つの〟、あるいは〝別の〟、〝ほかの〟世界ということを込めているのだ。直截にいえば、「反(もしくは叛)世界」がいいかもしれない。作品の後半で、父親の仕事を自分の意志で継いでいる炭焼き職人の高村紘(稲垣吾郎)が、自衛官を辞め、妻子とも別れて八年ぶりに帰郷した沖山瑛介(長谷川博己)に向かって、「こっちも世界なんだよ」と言い放つ場面がある。
 これは、それ以前に、「おまえらは、世間しか知らない、……世界を知らない」と瑛介にいわれたことに対するものだった。瑛介のいう世界とは何を意味するのか。それは、海外派兵にまつわる世界のことである。彼らにはイラクと南スーダンから帰還後、五十六人もの自死という現実が、その世界には含まれている。もう一人、父親が経営している中古車販売を姉とともに手伝っている岩井光彦(渋川清彦)を含めた三人は小中学校が一緒という幼なじみの友人で、まもなく四十歳という年齢だ。
 作品は阪本の言(「映画芸術」四六六号)に添っていえば、〝土着の共同性(関係性)〟を照射していくことになる。もちろん、〝土着〟といっても、ひとつの象徴性を含ませているのだが、紘の仕事からいえば、わたしなら柳田國男の『山の人生』を想起したくなる。そこには孤独できつい手仕事のような様態がある。紘は、瑛介を喚起する気持ちで自分の仕事を手伝わせる。やがて、少しずつ慰藉されていく瑛介の心性が伝わってくる。「世間しか知らない、……世界を知らない」と言ってしまったことをどこかで押し込めておきたいとするかのように、表情も緩やかになっていく。しかし、ある日、光彦の販売店で客とトラブルになっているところに、紘と瑛介が乗っていた車が通りかかる。瑛介は急にそのなかに入って客と殴り合いになる。瑛介が〈狂気〉を表出した場面だ。瑛介の世界がついに破砕したのだ。それは瑛介の知っていた世界は世界ではなかったことになる。
 この作品では、もうひとつの世界も描かれる。紘と妻・初乃(池脇千鶴)と中学生の息子・明(杉田雷麟)の家族という世界だ。しかし、穏和で親和性に満ちた家族とは違う、危うい関係性が織りなしていくのだが、初乃の存在がこの映画では大きな有様として描かれていることに、わたしは阪本順治の物語力を感受した。
 物語は三カ月という短い時間性が横断している。しかし、紘の炭焼き小屋での突然死によって溢れる三人の関係性は閉じることになる。
 瑛介は、紘の死をかみしめるように「こっちも世界」かと呟く。
 息子の明は、一人で炭焼き小屋にやってくる。ランチボックスとグローブを持ってきている。小屋に吊り下げているサンドバックめがけてパンチを激しく撃っていく。
 もうひとつの「半世界」が始まる。

(月刊情報紙「アナキズム」第四号―20.7.1)

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2020年6月27日 (土)

大野光明 小杉亮子 松井隆志・編               『社会運動史研究 2「1968」を編みなおす』             (新曜社刊・20.4.20)

 本書は、昨年の二月に創刊された『社会運動史研究』の第二集である。編者たちは、巻頭で次のように述べていく。
 「一九六八年は世界同時多発的に社会運動の高揚が見られた年であり、日本でも、大学闘争やベトナム反戦運動をはじめとして、社会運動史にとって重要だと思われる出来事がさまざまに起こった。当時のグローバルな現象は、「1968」と象徴的に呼ばれる。(略)「1968」の言葉が指し示そうとする出来事は、確かに歴史的・社会的に重要である。しかし、いささか粗雑な「1968」のイメージは、その重要性を理解するためにこそ、いったんほどいてみるべきだ。運動史のディティールに立ち返って再検証し、これまでのイメージや理論を書き換えていくことが、一九六八年から半世紀以上が経過した今だからこそ、必要だと私たちは考えた。」
 確かに、パリ五月革命と呼ばれた運動の中心にいたダニエル・コーン=バンディはアナキストだった。全共闘運動が広く生起していったのは党派が主導していった部分もかなりあるが、ノンセクト学生の多くが参加したことによって、可能となったことを忘れてはならない。運動論的な視線だけでは、必ずしもすべてを捉えていくことができないのは、自明のことである。
 嶋田美子の「矛盾の枠、逆説の華――名づけようのない一九六〇年代史をめざして」は、通例の運動史的視線ではみえにくくなる思想や文化、芸術といった側面を丹念に辿っている。そのうえで、六〇年から七〇年という流れをさらにそれ以後までを透徹しているといってもいい。
 嶋田は、「現代思潮社・美学校」(六九年二月創設)の研究を通して、その前史ともいうべきことに視線を射し入れていく。六〇年安保闘争時にかたちづくられた「六月行動委員会」(吉本隆明や埴谷雄高他、美術関係の人たちが多くいたことを強調しておきたい)、その後の「後方の会」、「犯罪者同盟」そして、六二年の「自立学校」、六五年の日韓闘争時の「東京行動戦線」、六七年の一〇・八より一年前に決起した「ベトナム反戦直接行動委員会」などを照射していく。
 「笹本雅敬はその後、早稲田の学生らとベトナム反戦直接行動委員会を組織し、六七年(引用者註・嶋田の記述は間違いである。正しくは六六年である)にはベトナム反戦の直接行動として当時ベトナム向けに自動小銃を製作していた田無の日本特殊金属工業を襲撃しました。」
 このべ反委の闘いに未成年だった斎藤和が参加している。彼は、後に「東アジア反日武装戦線による日本企業爆破事件」にかかわり、七五年、逮捕時に自死した。
 最後に、嶋田は次のように結んでいく。
 「六〇年代を通底し、1968年の全共闘運動に影響を与えたのは、一握りのイデオローグや大きな政党政治の動きではなく、これらの小集団や個人による、これまでの枠を超える自由への希求、「名づけようのない人間になるための」数々の試みではなかったのではないでしょうか。(略)個々の断片が積み重なり、つながり、鳥瞰図からは見ることのできない時代のうねりを作り、地下水脈となって現在に続いているのです。」
 かつて絓秀美は、一連の六八年革命論のなかで、七〇年の華青闘による七・七集会を高く評価していたが、同時期に望見していたわたしには、まったく首肯できない見方だった。そもそも、六八年を「革命」として捉えること自体、荒唐無稽といっていい。
 山本崇記は、「運動的想像力のために――1968言説批判と〈総括〉のゆくえ」のなかで、絓の華青闘への評価の言説を一蹴する。
 「第一に、切断の思想の典型であるという点である。そして、第二に、セクト(新左翼)主義的な歴史観であるということである。(略)マイノリティが「7・7を契機として、一挙に歴史の「主体」として浮上してきた」ということは考えにくいことであり、それまで「不可視だった存在」でもなかった。」
 「切断の思想」とは、「運動的想像力を喚起しない」歴史的時間を切断した論理ということになるわけだが、それは、やがて破綻していくしかない。例示するまでもないが、小熊英二の『1968』も、まさしく「切断の思想」といっていい。
 『東大闘争の語り』(二〇一八年)を著した小杉亮子は「〝1968〟の学生運動を学びほぐす――東大闘争論の検討」と題して、「二〇〇八年前後から、(略)一八年前後までに、当事者や研究者によって刊行された東大闘争論」を取り上げて論及していく。そして、『東大闘争の語り』のなかでも提示した「予示的政治」について述べていく。
 「予示的政治とは、遠い理想や目標を設定せず、運動のなかの実践や仲間との関係性のつくりかたによって望ましい社会像を予め示そうとする運動原理である。この予示的政治への志向性は、ノンセクト・ラディカルを中心とする東大全共闘派の学生たちが、新旧左翼政党・党派の運動原理である「戦略的政治」を批判し、それとは異なる運動を追求したことから形成された。」
 運動というものは、主導者がいて、共感していく人たちが連動していくことではない。そこにひとつの関係性、つまり開かれた共同性を形成していくことが切実なことなのだ。
 本書の特集は、他に、阿部小涼「拒否する女のテクストを過剰に読むこと」、山本義隆「闘争を記憶し記録するということ」、古賀暹「『情況』前夜」(聞き手・松井隆志)がある。特集のみに触れただけだが、一号に比べてさらに重厚な一冊になったことだけは、強調しておきたいと思う。
 三号は、来年の七月刊行予定である。

(『図書新聞』20.7.4号)

 

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2020年6月13日 (土)

雨宮処凛 編著                            『ロスジェネのすべて――格差、貧困、「戦争論」』          (あけび書房刊・20.2.20)

 〝ロスジェネ〟、つまりロストジェネレーションとは、日本において、バブル経済崩壊後の就職氷河期世代のことを指し示し、七四年から八四年生まれをカテゴライズして総称している。わたしが、もっとも印象深く感じたのは、フリーターという言葉が、かつての旧左翼が好んで使用した労働者と等価な、あるいはそれ以上に拡張した意味で使われ、フリーター労組が結成されたのは、〇四年だった。〇五年から、メーデーの時期に、「自由と生存のメーデー」を始めていく。わたしは四七年から四九年に生まれたベビーブーマー世代(堺屋某が命名したダンカイと一括りするような捉え方に異議を持っているから、わたしは使用しない)の最終年生まれだが、なにか隔絶した時間の流れを思わないわけにはいかなかった。なぜならわたしたちの世代は、多様性があった。わたし自身も含めて積極的に就職しようとしなかった(あるいは、様々な事由で就職できなかったといいかえてもいい)人たちが多くいたから、就職氷河期ということに悲惨さよりなにか空しさのような思いを抱いたといっていい。
 それでも、当時わたしは、本書の編著者、雨宮処凛や対話者の一人、松本哉が様々なかたちで発信したことを鮮烈な印象を持っている。その時から、十五年以上の時間が経過した。
 本書での雨宮処凛(七五年生まれ)との対話者は、倉橋耕平(八二年生まれ、立命館大非常勤講師)、貴戸理恵(七八年生まれ、関学大准教授)、木下光生(七三年生まれ、奈良大教授)、そして松本哉(七四年生まれ、「素人の乱5号店」店主)だ。
 雨宮は、かつて右翼団体に入った後、そこから離脱し、現在を堪えず見通す立ち位置を持続させている。
「私が23歳の頃、小林よしのり氏の『(略)戦争論』(略)が出版された。/『戦争論』は、多くのロスジェネにとって「初めての政治体験」となった。そうして『戦争論』以前から小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言』(略)の熱心な読者だった私は、その時、右翼団体に入っていた。/ロスジェネは、もしかしたら「右傾化第一世代」ではないだろうか。」
 さらにいえば、若い世代の右傾化を象徴する言葉としてネットウヨ(ネット右翼。もちろん若い世代だけではなく、たんにネットにはまってしまった、わたしと同世代の人たちもいるだろう)があるが、そのことも、ロスジェネとリンクしていくといっていいはずだ。倉橋は次のように注目すべき発言をしている。
 「日本(=祖国)を考えること自体に自己啓発性があり、自分に喝を入れる作用もすごくある。それは、日本という国家と自己を同一化させるアイデンティティへの志向がそうさせるものだと思います。実際に90年代は、自己啓発本がブームになり始めた時期でした。」
自分と国家は絶対同一化しないと考え続けてきたわたしにとってみれば、愕然とする事態を倉橋は切開している。
 「難しいけど、一つ言えるのは、自分の中だけの問題にしないで、関係性のなかに問題を開いていってほしい。脳内で暴走しないで、実際に付き合うなかで生身の相手に触れてみてほしい。」(貴戸)、「(註・雨宮のどうしたら「自己責任」論を超えられるかという問いに対して)講演会とかで、歴史をふまえたうえで、日本社会これからどうするの?みたいな話を最後にするわけです。で、どうしても「自己責任」が大好きで、なおかつ社会を壊したくないなら、もう江戸時代に戻るしかないぞ、と言っています。」(木下)
 貴戸が述べる「関係性のなかに問題を開いてい」くということは、凄く切実なことだ。これは、「自己責任」論にも通底していく。〇四、五年頃、フリーターの孤独死(自死)を知って言葉が出なった。「貧しいのも、不安定なのも、正社員になれないのも結婚できないのも将来の見通しが立たないのもすべて自己責任。おそらく、ロスジェネはその価値観をもっとも内面化している世代だ」と雨宮は述べている。そんな皮相な自己責任という幻想は拭い払うべきだと声高に叫んでも、自死していく若い人たちには、残念ながら届かないのだ。
 「ちゃんとして生きるのは無理ですよね。うちらの世代というのは、成功してる人もいるし、困っている人もいる。あるいは本当に勝手なことをやって、金はないけどすごい自由にやっている人もいるし、いろいろいると思うんです。(略)今更ね、そんな真面目に生きようなんて考えたって意味ない。(略)適当に勝手にやって、ざまあみろって最後に言って死ぬのを目指したらいいと思うんですよね。ざまあみろって言える生き方を、皆ですれば。」(松本)
 松本は一見苛烈に述べているようだが、関係性を開きながら生きていくことをシンプルに言っているのだと思う。自分を責めて関係性を閉じていくことは、暗渠に入っていくことになるからだ。暗渠は国家や国家に準じた社会が作り上げた幻想でしかない。そういう幻想は解体すべきだと言っても、残念ながら、彼ら彼女らにはなかなか届かないかもしれないが、本書をぜひ読んで欲しいと思う。

(「図書新聞」20.6.20号)

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2020年6月 1日 (月)

吉本隆明との〈通交〉をめぐって

 詩人の清水昶は、かつて「青年期につよい影響を受けたひとに出会うのは、いまでもわたしには怖い気がする。埴谷雄高、吉本隆明、谷川雁、この三人には、わたしは会いたくなかった。(略)『鮎川信夫著作集』完結記念講演会で大それたことに司会などをやったとき吉本さんが講演した。そのときわたしはボーッとあがってしまった。吉本さんとはひとことも口を利かなかった」(『詩人の肖像』八一年刊)と述べていたことがある。わたしは、昶さんより、ひと回り後の世代だから、谷川雁からは、ほとんど影響を受けていないので、埴谷、吉本となる。埴谷さんには十代後半に初めてお会いし、その後、友人とインタビューをした。吉本さんの講演は何度も聞きに行っているし、学生時代、講演録を起こしたこともあるが、直接会って話したいと思ったことは一度もなかった。昶さんのように、「怖い」ということではなく、著作世界に接し続けるだけで充分であり、そのことに共感性を抱き続けることでいいと思っていたからだ。
 八三年頃に、吉本さんの長女で漫画家のハルノ宵子(多子)さんと親しくなり(いまでも、交流は続いている)、どうしても、多子さんに伝えなければならない用件があり、電話をして、もし吉本さんが出たらどうしようと思いながら、ダイヤルを回したところ、お母さんの和子さんが出て、ほっとしたことを思い出す。
 その後、〇五年に『秋山清著作集』(ぱる出版)の編集にかかわることになり、吉本さんに推薦文をお願いすることになった。万事休すである。電話をかけ、多子さんに取りついでいただき、初めて、声を交わす。終わってみれば、著作世界だけでと固執していたことは、けっして声高に言うべきことではなく、粛々と関係性は開いていくべきだと思うようになった。わたしの妻が、俳句を通して和子さんと手紙のやり取りをしていたこともあり、その年の吉本家の忘年会と、翌年の花見の会から二人で参加することになった。
 九六年夏、吉本さんは水難事故に遭った。奇跡的な回復後、精力的に執筆活動を続けた。わたしがお会いしたころは、足腰が大分弱くなったころではあったが、変わらず、いろいろな話ができたのは、貴重な体験をしたといま思っている。
 『秋山清著作集』[全十一巻・別巻一]が完結し、「現代詩手帖」で特集を組むことになり、巻頭に吉本さんへのインタビューを掲載することを発案し、吉本さんに快く引き受けていただいた。〇七年六月五日のことである。自宅に伺い、わたし一人で吉本さんと五時間ほど話したと思う。二人だけで会っていたことに、特に緊張することもなく、中程からは、本題から離れて様々な話題を横断するかたちで談笑したといえる。もちろん、掲載するのは、詩の雑誌なので全部を収録できなかったが、なかでも、わたしにとって深い印象を抱いた吉本さんの発言を紹介したいと思う。
 「詩のほうで二十代、三十代の人たちの作品を読むと、なんかこれから後のことを考えたりすることが、お年寄りと同じで、億劫で億劫でしょうがないという感じなんですね。(略)それなら、いい詩を書くために踏ん張ったという作品を出してくれればいいですが、そういうものもないんですね。(略)詩を考えるみたいなところで、難しいことしか言えないなら、それはそれでいいから、詩らしくしてくれと思うんですが、そういうものもない。」(「現代詩手帖」〇七年一〇月号)
 これは、詩の世界のことだけではなく、若い世代の混迷様態を切開しているといっていいと思う。
 その後、〇八年五、六月に春秋社の仕事で、『第二の敗戦期』という本を進めて、吉本さんに起こした原稿を提示したが留保されてしまった。その頃、なぜか数多くの留保された本があったようで、吉本さん逝去後、次々と刊行された。多子さんは、父が引き受けたものはすべて刊行するという判断をされて、わたし(たち)の『第二の敗戦期』は、一二年一〇月に刊行した。
 「気心の知れた友達同士で同人誌を作るみたいな感覚を持ち、三人以上いればしっかりした集団ですので、そこでいろいろなことをやってみる。つまり、ここだけはすこし自由・平等なんだという、三人ぐらいでそういうものを作っていく、ということがたくさんできていけばいいと思っています。」(『第二の敗戦期』)
 吉本さんの優しい視線は普遍性を有しているのだ。

(「トンボ 10号」20.6.15)

 

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2020年5月23日 (土)

ドナルド・キーン 著                           『新潮選書 日本文学を読む・日本の面影』           (新潮社刊・20.2.24)

 ドナルド・キーンは七〇年前後に、三島由紀夫を評価するアメリカ人研究者として、その名を意識したのが、最初だったと思う。だが、わたしは三島に耽溺するほど愛読することはなかったから、キーンについても、それほど近接してこなかったといっていい。それでも、日本国籍を取得して最後の場所としてわが列島に居を構えた時は、素直に驚嘆した。そして一九年二月、九十六年の時間を閉じたわけだが、日本人以上に、〈日本的〉なるものを愛惜してやまなかった心性は、鮮鋭なものだったと、思わないわけにはいかない。
 「日本人には「ぼかし」の趣味がある。はっきりしたものより、ちょっとあいまいなものを面白がります。はっきりしたものならば意味は一つしかありません。しかし、ぼかした意味や、二つの意味にとれるような文章には、より深みがあり、より楽しみがある。」「戦争がはじまっても作家活動をやめませんでした。おそらく太平洋戦争中の四年間にもっともいい作品を書いた作家は太宰治だったでしょう。」「三島さん(引用者註・三島由紀夫)は、太宰の文学は嫌いだ、自己憐憫の文学だと何度も私に言っていました。三島さんの立場はそうでしたが、もし彼が意識的に太宰とは別の文学を目指していなかったとすれば、太宰文学と同じようなものを書いただろうと思います。」(「日本の面影」)
 「日本の面影」は、一九九二年、NHK教育テレビ「人間大学」での十三回分の講座テキストである。単行本、著作集いずれにも未収録である。最初の引用箇所は、「『徒然草』の世界――日本人の美意識」からだが、「「ぼかし」の趣味」といういい方が、文学的ではないところがいい。キーンは、文学的な視線を向けていながらも、そこに日本人像のようなイメージを潜在させているといえるような気がする。「ぼかし」は表現論としては優れたものなのかもしれないが、資質や感性といった位相をイメージすれば、「あいまい」といった負の様相を湛えてしまうからだ。さらにいえば、後段の箇所(「日本文学の特質」)で、「日本文学は〝余情の文学〟だ」と述べていくことに、それは通底していくといっていいはずだ。
 「近代の文学3――太宰と三島」から二カ所、採った。太宰治と三島由紀夫を並立させるところがいい。どちらも自死した作家といえるかもしれないが、キーンはそういうところに拘泥してはいない。三島と親しかったキーンならではの捉え方だと思う。
 集中、次のような箇所に惹かれる。「戦争中、谷崎先生は軍部に全く協力しませんでした」、「荷風は戦争には全く非協力的でした。あれほど戦争に協力しなかった日本人はほかにいなかったと思います」と述べていくキーンは、太平洋戦争開戦時、海軍の日本語学校に入学する。日本軍の書類の翻訳や、捕虜収容所の捕虜の尋問にかかわる。さらに戦地にも向かう。日本軍撤退後のアリューシャン列島のアッツ島(アナキスト詩人、秋山清の詩「白い花」によって、わたしは知った)とキスカ島、そして最後は沖縄だ。
 「日本文学を読む」は、四十九人の作家論と「現代の俳句」の項目を含む文学史的視線からの論集である。一九七一年から七七年まで雑誌「波」に連載されたものを纏めたものだ。敢えて、大岡昇平をめぐる論述を見てみたい。一九四五年三月、キーンはレイテ島の日本兵俘虜収容所へ向かった。ジープの運転手が「あいつらは仕合せだ。フィリピンのゲリラに捕まった日本兵はなかなか収容所まで着かないんだ」と言ったことに対して、キーンは次のように述べていく。
 「「仕合せだ」という気配は何処にもなかったが、私は生が死よりましだと単純に信じていたので、運転手の言葉に頷いた。俘虜の一人が大岡昇平であったことを何年か後で知った時、感無量だったが、その時は、柵の中に立っている兵士に特別の関心を示さなかった。(略)大岡の『俘虜記』を読んだ時、その頃のことが目の前に浮かんで来た。そして外国人である私は、現在の若い日本人よりも当時の大岡の心境を理解できるのではないかと思った。(略)私は人間のさまざまの醜態の中で戦争ほど嫌なものはないと信じ、心から反戦主義者であるつもりだが、戦争の体験を忘れようとはしない。(略)私が大岡の文学を読む時、戦争の犠牲者同士として感情移入できると思う。」
 このキーンの言葉は、日本人以上に、〈日本的〉なるものへ心情を仮託できることと通底していくと、わたしならいいたくなる。キーンが十八歳の時に、『源氏物語』と出会って、〈日本的〉なるものへと傾注していくが、まもなく、日米開戦となる。「大岡の文学を読む時、戦争の犠牲者同士として感情移入できる」からこそ、日本文学を通観する膂力を培っていったのかもしれないし、わたしたちが未知に思う様相に対して、共感しうる豊饒な感性を絶えず湧きたたせることができたからだといえるかもしれない。
あらためて、ドナルド・キーンの世界の広大さを思わないわけにはいかない。

(『図書新聞』20.5.30号)

 

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2020年5月16日 (土)

つげ義春 著『つげ義春日記』                  (講談社文芸文庫、講談社刊・20.3.10)

 『つげ義春日記』は、「小説現代」誌上で、一九八三年三月号から十二月号まで断続連載(七五年十一月から八〇年九月までの日記)の後、同年十二月、講談社から刊行された。刊行当時から三十七年近い時間が経過したことになる。しかし、「沼」や、「西部田村事件」、「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」、「夢の散歩」、「窓の手」、「別離」といった多くのつげ作品は、いまだに、〈現在性〉を有していると、わたしは捉えているから、久しぶりに装いを新たにした『つげ義春日記』(ただし、本文に訂正をした箇所がある)を眼前にして、近接な、リアルなこととして、わたしの中では奔出している。なぜなら刊行後どれぐらいの時間性が経過したかの記憶は薄れているが、突然、つげ自身の判断で絶版にしたからだ。さらに、わたしの友人・石川淳志監督が映画化を試みたが、絶版によって叶わなかったということが、強く印象に残り続けてきたという、もうひとつの時間性を持っている。
 つげ義春にとって、先行する日記に「夢日記」がある。周知のように、島尾敏雄の夢作品を契機にしているといってもいい。しかし、『つげ義春日記』は、通例、見られる日記文学のカテゴリーに入るとしても、つげ義春の表現者としての独特の視線があることを前提にして読み進めていかなければならない。始まりは、昭和五十(一九七五)年十一月一日。同月十八日深夜、正助、誕生。NHKで「紅い花」がドラマ化される。文庫版作品集(小学館、講談社、二見書房)が次々と刊行され、増刷を重ねる。しかし、妻のマキが、昭和五十二年八月、子宮癌の手術。この時期は大きなうねりのようなことが、続くわけだが、日記は書き手の個的心性の表出である以上、書き出された言語の集積は、時には変容しながら形成されていくことになる。意識的か無意識的かということではなく、つげの表現者としての資質が、そういう世界性をかたちづくっていくのだということを強調しておきたい。
 「今日も正助のうなり声で熟睡できず、子供のために生活のすべてを混乱させられるようで憎悪を覚える。そのことをマキに云うと泣き出した。」「夜「紅い花」放映。(略)出来栄えには失望。新しい技法も陳腐に思える。原作には無い戦時中の空襲場面を挿入したのは反戦思想を示し、専門家筋への受けを考慮したとの由。私の作品に反戦思想とは表現の次元がまるで違う。」「マンガで生活できなくなった忠男のことを想うと胸が傷む。忠男のマンガを評価しないマンガ界に激しい怒りを覚える。」「雨の中を、正助を抱いて三人で飯野病院まで出かけた。結果はやはり癌だった。診察室から出てくるなり、マキはその場にしゃがみ込んで泣いた。私は少し離れ正助を抱いて窓の外を通る電車を眺めていた。」「夜、入浴中、石子順造さん死亡の連絡があった。マキが電話を聞いた(享年四十八歳)。予期していたことでもあるのでとくに感慨はない。実感もない。それより一年間も病人に付添い献身的な看護を続けた石子夫人の努力には感動せずにはいられない。」「今度神経症となったのは、風邪で寝ているときいろいろな現実的な心配ごとを考え過ぎ、それが発端であったが、根源はこの漠とした(存在の不安)が原因だったのではないだろうか。」「夜、床に就いてからひどい孤独感に襲われた。深い深い、たとえようもない孤独感だ。(略)なんといったらよいのだろう。生の孤独感とでもいうのだろうか。」
 「あとがき」で、「好んで読むのは「私小説」」であり、「日記や年譜も熱心に読む」と、つげは述べている。本書は、日記ではあるが、確かに、ひとつの「私小説」というかたちの表現といってもいい。子どものうなり声に憎悪を覚えると妻に云う。妻は泣き出す。妻は自分が癌だと分かったから泣くというよりは、夫や息子のことを思えば、「しゃがみ込んで泣」くしかないのだ。私小説というものは、例えば、島尾敏雄の『死の棘』を想起してみる。つげ的に述べれば、「主観」を拡張して物語化したものだといえる。では、そもそも「主観」とは、どれほど強固なものだろうか。わたしは、「主観」や「私」という有様は絶えまなく揺れ動くものだといいたい気がする。そもそも、「主観」や「私」は、確たるものではないのだ。そのことを、誰よりも知っているからこそ、つげ義春や島尾敏雄が表出する物語は、わたし(たち)の深奥へと刻み込まれていくことになるのだ。
 だから、『つげ義春日記』が放つ「世界」は、「生の孤独感」を慰藉するために、わたし(たち)は、生きていくのだということを鮮鋭に語っているといっていいはずだ。

 【付記】わたしが、つげ義春さんと初めてお会いしたのは、本書にも記述されている昭和五十三(一九七八)年十二月二十三日の北冬書房忘年会の席上だった。秋山清さんや鈴木清順さんたちが参加。わたしは遅れて参加したのだと思う。後方に座ったら目の前がつげさんだった。「自分は酒も呑めず、緊張して物も食べられず、話もできなかった。知識人の前に出ると畏縮してコチコチになる」と本書には書かれている。つげさんが、「知識人」という時、ある種の無意識のアイロニーが含まれていると思う。どういう話をしたか、もう覚えていないが、図々しくサインをお願いしたら、快く引き受けてくれた。しかし、色紙のようなものは持ってはおらず、失礼とは思ったが、手帳の白紙の部分を切って渡し、書いてもらった。
 「眠い! つげ義春」
 つげさんは四十一歳、わたしが二十九歳の時だ。

(「図書新聞」20.5.23号)


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2020年4月 1日 (水)

映画『ジョーカー』が放出する〈暗渠〉

 ホアキン・フェニックスの快演が、〈ジョーカー〉という〝バットマン〟シリーズの悪役を、下層民衆のたぎる力を象徴する存在として屹立させた。そして、監督・脚本のトッド・フィリッピスの多彩な映像力によって深い物語性を湛えた作品が提示されていくといってもいい。病弱な母(実は遺児を養子にした関係)の面倒をみながら、コメディアンを目指す青年アーサー・フレックの苦闘の時間を追っていく物語は、疎外され、最底辺の生活を強いられながらも、やがて憤怒の様を纏っていくことになる。映画『ジョーカー』は、社会を安直に包摂していく国家という〈暗渠〉を、わたしたちに指し示しているといえる。
 ゴッサムシティが、頽廃化していく現況を打破するために市長選挙に立候補するウエイン産業のトップ、トーマス・ウエインは、下層民衆を徹底的に蔑んでいく。アーサーは、地下鉄の車内で女性に理不尽な絡みをする証券マン三人を、仕事仲間に手渡された拳銃で殺す。証券マンはウエイン産業の一員だった。ウエインが犯人をピエロと罵ったことによって、下層民衆はピエロの仮面を被って抗議行動を生起させていく。
 テレビの人気番組「マレー・フランクリン・ショー」に呼ばれたアーサーは、そこでジョーカーと名乗り、証券マンたちの殺人を告白する。
 「僕にはもう失うものはない/傷つける者もいない」「僕の人生はまさに喜劇だ」「自分を偽るのは疲れた/喜劇なんて主観さ」「この社会だってそうだ/善悪を主観で決めてる」「僕が歩道で死んでも踏みつけるだろ/誰も僕に気がつかない/だがあの三人はウエインが悲しんでくれた」「誰も他人のことを気にかけない/こう思うだけさ〝黙っていい子にしてろ〟〝狼にはなれない〟」
 独白しながらマレーを銃で殺す。
 街中でさらに、ピエロの仮面を被った群衆が決起している。ピエロの男にウエイン夫妻が殺される。一人残された少年のブルース・ウエインが、後のバットマンとなるわけだが、この物語との連続性があるわけではない。そこが、この映画を特異にしているところだ。フランクリン殺しで逮捕されたジョーカーを乗せたパトカーが路上を走っていく。そこにトラックが追突する。運転していたのはピエロの仮面を被っていたものたちだ。彼らは、ジョーカーを引きずり出して車の上に横たえる。やがて蜂起した群衆の前で立ち上がりゆっくりと踊り始めるジョーカー。そこで終景かと思ったが、一転、ジョーカーの笑う顔のアップ。カウンセラーと会話するジョーカーの手には手錠。その後、ジョーカーは廊下を真っすぐ、光り輝くような窓の方へ歩いて行く。突き当たりの横の廊下を人が左右に走っていき。物語は閉じていく。
 長い石段を登り降りし、石段の途中で踊ったりするアーサー、街中を懸命に走るが、不思議な可笑し味を漂わせるアーサー。映画『ジョーカー』の救いは、もしかしたらそういうところにあるのかもしれない。

(月刊情報紙「アナキズム」創刊号―20.4.1)

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«岡本勝人 著                                   『詩的水平線―萩原朔太郎から小林秀雄と西脇順三郎』    (響文社刊・19.9.10)